ファーストレディー   作:山田甲八

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七 カクテル

 十月中旬の朝、いつものように目を覚まし、寝室を抜けて階下のダイニングに顔を出すと、マコちゃんがもう起きていて、朝ご飯を食べていた。いつもと違うのは既に部屋着ではなく、お化粧もバッチリだったということだ。朝ご飯が終わり次第、出かけるようだ。昨日の夜、僕が帰宅したときには既にこの早寝早起き娘は眠っていたので今日、出かけることは聞かされていない。

「あっ、おはよう。お兄ちゃん!」

 妹は僕に気が付くと元気にあいさつした。

「おはよう。今日は早いんだね。どっか出かけるの?」

「うん。お仕事。ドラマのロケがあるの。」

 そう言われればそんなこと言われていたような気もする。

「そう。久し振りだね。」

「まあ、随分と穴開けちゃったからね。少しずつ再開するよ。」

 妹はそう言いながらコーヒーカップを取り、卓上のコーヒーメーカーからコーヒーをそそぐと対面に座った僕の目の前に置いた。

「今日は遅くなるの?」

「さあ。撮影は行き当たりばったりだからなんとも言えないけど、そんなに遅くはならないと思う。実はね、今日はハルナちゃんが来るの。」

「撮影を見に来るの?」

「違う違う。ここのおうちにだよ。」

「ここに来るの?」

「だってハルナちゃんはここの合鍵だって持ってるんだし、出入り自由じゃない。」

「まあ、そうだけど。」

「相変わらずスケジュール把握してないんだね。柏崎じゃ熱い口づけを交わした仲なのに。」

「……」

 僕はそれには答えず、コーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜ、ごくりと飲んだ。

「ねえ、お兄ちゃん?」

「ん?」

「お兄ちゃんはハルナちゃんのことどう思ってるの?」

「どうって。」

「嫌いじゃないでしょ?」

「嫌いだったら秘書なんかにしないよ。」

「じゃあ、好き?」

「……好きかと聞かれれば好きだよ。」

「じゃあ、なんで結婚しないの?」

 僕はため息をついた。天真爛漫な妹は僕の感情などお構いなしだ。

「好きかと聞かれれば好きだよ。でも、今すぐ結婚したいほど好きというわけじゃない。」

 僕はやや怒った口調で言った。

「そう…。でも女をそんなに待たせるもんじゃないと思うよ。」

「どうしたんだよ、朝から急に。」

 僕がそう言うとマコちゃんは「ほらっ」と言って読んでいた新聞の下半分を僕に見せた。新聞には週刊誌の広告が載っていて「次期ファーストレディー大予想!本命真子、対抗春菜、単穴聡美…そして大穴はあの人…」という見出しが躍っていた。それを見て僕はため息をついた。

「だからさ。早く結論を出してあげた方がいいんじゃないかなって思って。」

「マスコミは面白おかしく書いてるだけだよ。」

「まあ、本命は、本当はハルナちゃんなんだろうけどね。なんてったって熱いキスを交わしてるんですから。あーあ、こんなことなら画像撮っとけばよかったなあ。残念。でも、このことはまだ誰にも言ってないからね。これはあたしの切り札だから。」

「切り札って言っても僕は意識を失っていたんだし、僕を脅すのには使えないと思うけど。」

「何言ってんの。あたしがお兄ちゃんを脅すわけないでしょ。…それより分からないのはもう一人の大穴っていう人。聡美ちゃんまでは分かるけど、まだ誰か候補者がいるの?」

 マコちゃんは相変わらずの天真爛漫ぶりで言った。

「まあ、心当たりはなくはないけど。」

「へ~、お兄ちゃん案外遊んでるんだ?」

「そういう意味じゃないよ。マスコミが取り上げそうな人ってことだよ。」

「ふ~ん。で、誰?」

「恵里香ちゃんだよ。」

「ああ、斎藤元総理のお孫さんね。」

「そう。」

「恵里香ちゃん、今、アメリカだよね?」

「SNSとかでつながってないの?僕はすっかりご無沙汰だけど。」

「あたしもすっかりご無沙汰だなあ。でもどうして恵里香ちゃんの名前が出てくるの?随分、意外というか急なんだけど。」

「マコちゃんも聞いてると思うけど、斎藤先生が恵里香ちゃんと僕をくっつけようとしてるんだって。官房副長官に留まってるのもそれが理由みたいだよ。」

「そうだそうだ。柏崎に行くとき、永田さんがそんなこと言ってたね。そっか~、お兄ちゃんと恵里香ちゃんの間に子供が産まれれば総理大臣の子どもにしてひ孫になるわけだ。スーパーサラブレッドだね。で、お兄ちゃんの気持ちはどうなの?」

「そりゃ、いい気持ちの訳ないじゃないか。事故があってからまだ半年くらいしか経ってないのに。僕の気持ちだって整理されてるわけじゃない。」

「なるほどね。でも、まあ、お兄ちゃんが決めることではあるけど、あたしは恵里香ちゃんと結婚するのは反対だな。」

「……どして?」

「えっ?実は、本命は恵里香ちゃんなの?」

「違うよ。…その~、マコちゃんは恵里香ちゃんとは同じ事務所なんだし、仲いいのかなって思ってたから、僕はともかくマコちゃんが彼女を拒否するのが意外なだけだよ。」

 恵里香ちゃんはどうしても芸能人になりたいと言ってマコちゃんの事務所に無理やり入ったことがある。結局、芸能活動はまったくしなかったのだが、事務所を辞めたという話は聞いていないからまだ事務所には所属しているはずで、日本タレント名鑑にも載っているはずだ。

「もちろん恵里香ちゃんのことは大好きだよ。かわいいし、いい子だよね。でも恵里香ちゃんとだとキャラがかぶっちゃうのよ。」

「キャラがかぶる?」

「そう。お兄ちゃんと結婚するってことはあたしにとってお姉ちゃんになるってことでしょ?あたしは永遠の妹キャラ。恵里香ちゃんは一人っ子のくせにあたしに輪をかけた妹キャラ。妹になるならともかく、お姉ちゃんとは呼びたくないなあ。」

「……」

「でも、お兄ちゃんがどうしても恵里香ちゃんがいいっていうなら実力で阻止しようとは思わないけど。恵里香ちゃんは一回りくらい下かな。」

「まあ、チャコと高校入れ違いだったから、チャコと僕は九歳離れているし、ちょうど、一回りくらいかなあ。」

「じゃあ、ちょうどいいかもね。お兄ちゃんロリみたいだし。」

「ロリって、僕が?」

「だって、現役の女子高生を妊娠させたんでしょ?その過去は消せないよ。」

 それを聞いて僕はもう一度大きくため息をついた。確かにチャコが第一子を身ごもった時、チャコは高校三年生だったけれども、チャコと僕は既に正式な夫婦だったわけだし、ロリ呼ばわりされるいわれはないはずだ。僕は話題を変えた。

「ところでハルナは何しに来るの?」

「ああ。チームの同窓会があって、今回はあたしの代が幹事やることになったの。その打合せだよ。今日の夜、ハルナちゃんと友美ちゃんもここに来るよ。三人そろうのはホント、久し振りだね。」

 「チーム」、正式には「チームスタジオL」はマコちゃんがかつて所属したスーパーアイドルグループであり、マコちゃんとハルナ、そして友美ちゃんこと越後屋友美は同じオーディションで合格した同期の桜だ。

「ああ、そうなんだ。」

「まあ、あたしが落ち込んでるということでみんな気を使ってくれてて、それでこういう場を作ってくれたとも言えるけどね。」

「それでマコちゃんも幹事なの?」

「まあ、仲良し三人がそろえばあたしの気も紛れるかなっていう配慮だよ。それに、チームの同窓会は毎年恒例なんだけど、今年は野島音楽事務所の創立三十周年なんだって。」

「ああ、そうなんだ。」

 野島音楽事務所は、古くは裕ちゃんが所属していた芸能プロダクションであり、ハルナもこの事務所の出身だ。社長の野島真一氏は「チーム」の総監督を務めたプロデューサーで僕が学生の頃からの付き合いだ。

「それで、野島先生としては同窓会と創立三十周年記念パーティーを合体してやりたいみたいで、今年の同窓会は盛大になるみたいだよ。まあ、あたしは野島事務所の所属じゃないから創立三十周年記念パーティーの方はゲストになるんだろうけど。」

「そっか。野島さんもご無沙汰だなあ。」

「で、これはハルナちゃんから聞いた話なんだけど、野島先生、お兄ちゃんをゲストとしてぜひ、呼びたいみたいだよ。古い友人としてね。でもお兄ちゃん雲の上の人になっちゃったからなあ。」

「雲の上ねえ。」

「そりゃそうでしょ?あたしもまさかこうなるとは思ってなかったもん。…それでお兄ちゃんは今日も遅いのかな?」

「まあ、早くはないね。その新聞にも書いてあると思うけど、アメリカの副大統領が来日するんだ。その対応があるから下手すると公邸にお泊りになるよ。」

「そっか~。じゃあ、お兄ちゃんが帰ってくる頃には打合せは終わっちゃってるかもしれないね。ハルナちゃんと会えるといいけど。日帰りするみたいだし。」

「そう。」

「『ここにお泊りすれば?』って言ったんだけど、子持ちはそうもいかないみたい。」

 バツイチのハルナはシングルマザーで一人息子を保育園に預けながら僕の公設秘書として地元柏崎を担当している。元々は公設第二秘書だったが、僕が官房長官になり、公設第一秘書だった永田氏が秘書官に昇格したので今は公設第一秘書に昇格している。上京する時は実家のご両親に一人息子をお願いしているようだ。

「ハルナはともかく、友美ちゃんにはあいさつしておきたいなあ。事故の時、マコちゃんの傍にいてくれたんでしょ?ハルナからそう聞いてるけど。」

「うん、そうだけど?」

「そのお礼をまだ言ってないからね。」

 僕がそう言うと「ピンポーン」と玄関のインターフォンが鳴り、モニターに女性の姿が映し出された。マネージャーさんが到着したようだ。マコちゃんはインターフォンに出ることもなく、「じゃあ、あたしは行ってきます。お兄ちゃん、申し訳ないけど後片付けよろしくね~」と妹モードで言うと、ハンドバッグを手に取り、ダイニングから出て行った。

 

 僕の臨時代理内閣がスタートしてから既に一か月が経過している。総理不在のまま臨時国会は当初の予定よりも一か月前倒しでスタートし、今日まで順調に来ている。総理は倒れてから一週間後に意識を取り戻したもののとても復帰できる状況ではなく、それでも内閣総辞職はせず、今日まで僕の臨時代理内閣が続いている。

 もちろんこんな政治事象は前代未聞である。永田町にはしばらく「内閣総辞職すべきだ!」という意見が漂ったものの、「臨時代理内閣でしばらくいいんじゃないか?」という意見が次第に強くなり、結局、この臨時国会は臨時代理内閣で行くということが与野党共通の認識となっていった。なんと言っても政治はカネ。僕が「総辞職を迫るなら内閣不信任案で」と強硬に主張し、「不信任案成立の場合には衆議院を解散する」と言ったため、「総辞職」の空気は一気に萎んだ。前回の選挙からまだ二年しかたっておらず、みんな懐事情が厳しいのだ。それともう一つ、現在は与野党伯仲に近く、野党としては現有議席でできるだけ延命したいという気持ちもあったようだ。結局、総辞職するか否かは政権与党内部の力学だけに左右されることとなり、そのまま臨時国会が開会し、ズルズルと今日まで来ている。

 総理大臣臨時代理の職務はハッキリ言って官房長官のそれよりも楽ではあった。お膳立ては周りが全部してくれるし、いかんせん臨時代理内閣なので突っ込んだ政策的意思決定は最初から期待されていない。形式的な政務を淡々とこなすのが主で、この日も来日したアメリカ副大統領を接待するため、外務省の作成したシナリオに従い、内閣総理大臣臨時代理を演じればそれで良かった。この日、最後の仕事であるアメリカ副大統領との晩餐会が終わると僕は一度、官邸に戻り、第一礼装から普通のスーツに着替えて、午後十一時頃、碑文谷の自宅に帰宅した。

「ただいま~」

 僕は玄関を開け、そう言ったがいつものマコちゃんの返事がない。「まだ帰ってないのかな?」とも思ったのだが、奥の方に人の気配はするし、玄関には見慣れない女性用の靴もある。そのうち、ダイニングの扉が開き、スラリとしたモデル体型のシルエットが現れた。モデル体型はそのまま軽い足取りで僕の前までくるとニッコリ笑って「お帰りなさい。どうもお疲れ様でした。お邪魔しています」と言った。

「友美ちゃん!…こんばんは。……後の二人は?」

「色々事情があって今は私一人です。私が言うのも変ですけど、どうぞ。」

 友美ちゃんはそう言って僕をダイニングへとエスコートし、さらに「どうぞ」と言って着席を勧めた。僕はそのまま椅子に座った。テーブルの上にはオードブルが乗っかっている。これからパーティーでもするようだ。

「何かお飲みになりますか?」

「ああ、そうだね。」

 友美ちゃんはキッチンに回り何か飲み物を準備するようだ。

「ビールとかがいいですか?」

「いや、マコちゃんから聞いてるかもしれないけど、僕は、あんまり酒は飲まないんだよ。それでなくても今は内閣総理大臣臨時代理だし、何か緊急事態が発生した時にシラフでないと困るからね。冷蔵庫の中にもビールはないと思うけど。」

「今日はハルナが飲む用に沢山冷やしてありますよ。それに今日はもういいじゃないですか。こんな時間なんだし。私、実は今日、ずっと一人で、ここでお留守番してたんですよ。なんか、はやらない飲み屋さんにようやくお客さんが来た気分です。じゃあとっておきのカクテルを作りますね。」

 友美ちゃんはそう言って何か液体の入った瓶を取り出した。シェーカーを持ってきていてかなり本格的だ。

 友美ちゃんこと越後屋友美は十年ほど前に絶大的な人気を誇ったアイドルグループ「チーム」の元メンバーでマコちゃんやハルナの同期生だ。同じオーディションで一緒に合格したのだ。チームが解散してからもテレビや雑誌で時々見かけるから今でも芸能界でそれなりに活躍はしているのだろう。この碑文谷の僕の家で何度か顔を合わせたこともある。でも二人きりになるのは案外初めてかもしれない。友美ちゃんはハルナと同様、モデル出身で、背が高く、スタイルはバッチリだ。いつもマコちゃんの相手をしているせいか、とても大人っぽく見える。

 カクテルが完成したようで、二つのグラスをお盆に載せ、テーブルまで運んできた。そしてテーブルの上にコースターを敷き、僕の目の前と自分の前グラスを置き、ハルナと同じ、金色に近い茶髪のサラサラストレートは僕の対面に座った。きっと縮毛矯正をしているのだろう。

「どうもお疲れ様でした。ではかんぱ~い。」

 友美ちゃんがそう言ったので僕は慌ててグラスを持ち上げ、友美ちゃんのグラスに合わせた。一口飲んだ。カクテルは甘口で、口当たりが良くレモンスカッシュのようだった。

「それで、あの二人はどうしたの?」

「それが、先生。聞いてくださいよ。ひどい話なんですから。最初はお昼の新幹線で上京してくるハルナを上野駅まで迎えに行って、色々買い物して、タクシーでここのおうちまで来たんですね。久し振りに三人で集まるからパーティーみたいなことやろうってことになってたもんですから。それで準備してたんですけど、四時頃かな、ハルナの携帯に保育園とお母さんから続けて連絡があって、栄一郎君がジャングルジムから落ちて骨折しちゃったっていうんですよ。」

「ああ、ハルナのお子さんね。」

「はい。それで、東京来るときはいつもお子ちゃまは実家のお母さんに預けてくるんですけど、骨折じゃあ、入院、手術になるだろうし自分が行かなきゃダメだろうっていうことになって、急遽、とんぼ返りしたんです。チームの同窓会はマコちゃんと私に任せるって言って。それからずっとマコちゃんを待ってたんですけど、なかなか帰って来なくて。私が帰ろうにも鍵もないし。そしたら八時頃、マコちゃんから電話があって、『撮影が長引いてて、泊りになるから、今日はパス』って。『鍵がなくて帰るに帰れない』って言ったんですけど、『もうすぐお兄ちゃん、帰ってくるから』って言われて。」

「そうだったんだ。それはごめんね。もっと早く気付けば秘書に対応させたのに。マコちゃんも気が利かないなあ。それと、遅くなったけど、事故の時はありがとう。マコちゃんの傍にいてくれて。」

「いいえ。お役に立てたかどうか。」

「そのお礼を言わなきゃってずっと思ってたんだけど、中々言えなくて。」

「いいですよ。お礼なんて。先生の方がずっと大変だったんでしょうから。……私、初めてですよね。こんな風に先生と二人でお話しするのって。」

「ああ、そうかもしれないね。今までは必ずマコちゃんはいただろうから。このカクテル美味しいね。オリジナルなの?」

「ええ。名付けてトモミ・スペシャルです。」

「口当たりがいいね。飲みやすい。」

「先生はどちらかというと甘党だと思いましたので甘めに作ってみました。私、結構、オリジナルのカクテル作ったりするの好きなんです。私がお酒大好きなのはご存知ですよね?」

「それは身に染みて知ってるよ。」

「はい?」

「僕が初めての外遊でチャコと一緒に中国に行ったとき、マコちゃんとハルナと三人でここでどんちゃん騒ぎしてたの覚えてる?八年くらい前の話かな。」

「ああ、そんなこともありましたね。」

「あの時は三人がリビングで寝ちゃっててさ、中国から帰国したばかりのチャコと秘書の永田さんと僕で三人を二階の寝室に運んだんだよ。その時、友美ちゃんからひどいアルコール臭がしたのは今でも覚えてる。」

 僕がそう言った次の瞬間、僕の意識が急に遠のき始めた。カクテルの口当たりがいいのはその通りだったが何かものすごく強い酒がベースとして使われている。しかしそれに気付いたのは遅かったようだ。友美ちゃんが何か言っているようではあったが、既にそれを捉えることはできなかった。

 

 僕はぐっすりと眠っているようだった。朝の陽ざしが瞳孔を刺激したようで僕は目を覚ました。それから僕は自分がワイシャツにネクタイ姿であることに気付き、昨夜の出来事を少し回想した。確か友美ちゃんがいて、何かお酒のようなものを飲まされたことを思い出した。それから不意に隣のベッドに目をやり、僕は驚愕した。誰か寝ているのだ。それが友美ちゃんであることは一瞬で分かった。金色に近い茶髪の後頭部をこちらに向けているだけならまだ良かったのだが、布団から若干、肩の肌が見えていた。

 どうしたらいいのか分からずしばらく呆然としていると玄関のインターフォンが鳴ったので、僕は慌てて階下に移動し、インターフォンの受話器を取った。モニターには永田秘書官が映っている。

「おはようございます。お迎えに上がりました。」

 永田秘書官がいつものように朝のあいさつをした。

「ああ、永田さん、おはようございます。申し訳ありません。昨夜、少しお酒を飲んでしまいまして、今起きたところなのです。少し待ってもらってもよろしいでしょうか?」

 僕はインターフォンにそう叫び、永田氏の返事も待たず、寝室に戻った。ベッドの友美ちゃんが動く気配はない。僕はそのままそっと扉を閉め、隣の部屋で新しいワイシャツ、ネクタイ、スーツに着替え、髭を剃ってから永田秘書官が待つ黒塗りに飛び乗った。黒塗りはすぐにパトカーの先導で動き始めた。

「珍しいですね。おうちで飲まれるなんて。」

 永田氏がボソッと言った。確かに迎えに来た秘書を待たせるのは僕の政治歴で初めてかもしれない。

「ええ。客人が来ていたものですから。」

「真子さんの同期の方ですね。」

「ご存知でしたか?」

「はい。でもハルナちゃんはお子さんの体調が悪くて途中で帰ったと聞いています。」

 永田秘書官が事務的に言った。この有能な秘書は昨夜、この家に友美ちゃんと僕しかいなかったことにはまだ気付いてはいないようだ。あるいは気付いていて気付かない振りをしているだけなのかもしれない。それからすぐに永田氏が今日のスケジュールの話をし始めたので友美ちゃんのことはしばらく僕の記憶から遠のいた。

 

 しかし、それでも何かの拍子に僕の隣のベッドで友美ちゃんが寝ている光景が甦り、その日は結局、仕事にあまり身が入らなかった。永田秘書官からも何度も注意を受け、周囲にも心配をかけた。実際に調子は悪かったので、夜は文化人との夕食会が入っていたが、調子が悪いと言って官房副長官に代役を頼み、僕は国会開会中にしては珍しく、早目の帰宅をした。

 玄関のドアを開けるとまた友美ちゃんが立っているかもしれないと少しドキドキしたが、奥の方から「おかえりなさ~い」といういつもの妹の声がしたので少しホッとした。僕の前に現れたマコちゃんはなぜかニタニタしていた。

「おに~ちゃん!」

「マコちゃん!どうしたの?何かあったの?」

 僕が朝、出かけるときには友美ちゃんがまだこの家の中にいた。今、マコちゃんがいるということは今日、友美ちゃんと会っているかもしれず、何か話したのかもしれない。今朝の状況が状況だっただけに僕はドキドキした。

「何はともあれまずはお帰りなさい。コーヒーでも飲む?」

 マコちゃんはそう言うとそのまま僕をダイニングに案内し、ダイニングチェアに座らせた。それからキッチンの方に回るとコーヒーを注いで僕の目の前に置き、僕の対面に座って両手で頬杖をついてみせた。

「おに~ちゃん。」

 マコちゃんは相変わらずニタニタしている。

「どうしたんだよ。なんかいつもと違うけど。」

「あたし、聞いちゃった~。」

「聞いたって、何を?」

「次のファーストレディーになる人。……あたし、び~っくりしちゃった。・・・お兄ちゃんは絶対にハルナちゃんだと思ってたけど。……友美ちゃんだったんだね。こんなに近くにいたのに全然気が付かなかったよ。上手く騙したね。」

 マコちゃんがうれしそうに言った。

「友美ちゃんに……会ったの?」

「ううん。友美ちゃんには会ってない。今日、お昼過ぎかな、帰ってきたらハルナちゃんがいて、ハルナちゃんから。」

「ええっ!ハルナ?ハルナはお子さんの骨折で柏崎に帰ったんじゃなかったの?」

 ハルナとは意外な人物だ。今朝、僕が家を出てから友美ちゃんと入れ替わったのだろうか。

「あたしもそう聞いてたんだけど、お子ちゃまの骨折は保育園と実家のお母さんの早とちりが重なっただけだったんだって。ジャングルジムから落ちて怪我をしたのはその通りだけど、打撲だけで、今日は元気に保育園に行ったんだって。それで今朝、朝一の新幹線でまた上京してきたんだって。」

「それで……ハルナが何か言ってたの?」

 僕がそう言うとマコちゃんは右手の人差し指を口元に持っていき、少し考える仕草を見せた。

「う~ん、そう言われるとハルナちゃんは何も言ってなかったなあ。でもなんとなく分かっちゃったの。ハルナちゃん、別に否定してなかったし。」

「なんの話したの?」

「一時頃かな。ケーキ買って帰ってきたらハルナちゃんがまだいてさ。久しぶりだったし、『ケーキ買ってきたから一緒に食べない?』って言って、このダイニングでおしゃべりしたの。色々、話をしてたんだけど、なんかの拍子にハルナちゃんが『先生と結婚しないの?』って聞いてきたの。それで『あたしはファーストレディーなんて無理だよ』って言って、『それよりハルナちゃんがお兄ちゃんと結婚すればいいじゃない』って言ったらハルナちゃん『私はバツイチ子持ちだから無理だ』って言って、それからしばらくしてハルナちゃんが『ねえ、マコちゃん。友美のことどう思う?』って聞いてきたの、『どうって、いい子だと思うけど』って言ってあたしなんでこのタイミングで友美ちゃんのことを振るのかなあって不思議に思ったんだけどそう言えば昨日、ここのおうちに電話したときに友美ちゃんが出たなあと思って。そうしたら色んな事実が重なりあってすべてが分かっちゃったってわけ。」

「昨日の電話?」

「うん。お兄ちゃんまだ帰ってなくて、ハルナちゃんもいなくて友美ちゃん一人だって言ってた。『鍵がなくて帰るに帰れない』って。でも今、思えば最初からそういうことだったんでしょ?」

「マコちゃん、待ってよ。それは誤解だよ。」

「いいよ、無理しないで。ハルナちゃんも最初は否定してたけど、最後はごまかせないと思ったのか、『このことは絶対に誰にも言わないでね』って言って否定はしなかった。『国家の最重要機密だ』って。」

「ハルナがそんなこと言ってたの?」

「うん。まあ、あたしおしゃべりだから仕方ないけど、でもあたしには嘘つかなくてもいいよ。あたし、うれしいからさ。・・・・・・実はね、結構、プレッシャーだったの。」

「プレッシャー?」

「うん。チャコちゃん、ああ書き残したでしょ?あたしがチャコちゃんの後継者みたいな。もちろんお兄ちゃんのことは大好きだからそれはそれでうれしかったけど、お兄ちゃんは総理大臣になるだろうし、あたしがファーストレディーにならなきゃいけないのかなあって。でもあたしじゃ絶対に役不足だよな~とか思ってたの。でも良かった。あたし、ハルナちゃんも大好きだけど、友美ちゃんも大好きだから。友美ちゃんがお姉ちゃんかあ~。友美ちゃんならモデルさんだし、ファーストレディーとしては映えるよね。」

「だからマコちゃん、それは誤解なんだよ。」

「いいよ、誤解でも。あたしは理解してるつもりだから。大丈夫だよ。絶対に誰にも言わないから。・・・・・・ねえ、お兄ちゃん。あたし、まだしばらくここのおうちにいさせてもらってもいいよね?」

「それは構わないけど。」

「あたし、友美ちゃんに小姑しちゃうんだ~。・・・・・・嘘。二人の幸せ、祈ってますよ。」

「マコちゃん。」

「ねえ、お兄ちゃん。総理大臣になっても、友美ちゃんと幸せになっても、これからもずっとマコちゃんのやさしいお兄ちゃんでいてね。」

 マコちゃんはニッコリ笑ってそう言った。その笑顔は僕が久し振りに見る、マコちゃんのホッとした笑顔だった。

 

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