僕はもう、人生というものが自分の思い通りにならないものであることを十分理解しているつもりである。だからもう何にも抵抗しないし、あるべき因果関係の進行を素直に受け止めるようにしている。しかし、それにしても今、僕が置かれているシチュエーションは決して愉快なものではない。みんな僕を材料に遊んでいる。そんな気がしているので遊ばれている僕としてはつまらないのだ。
昨日の夜といい、今朝の一撃といい、愉快でないことが続いたので僕はどんよりとした気持ちで官邸スタッフの作ったシナリオをこなした。明日で臨時国会も閉会日だが、いかんせん臨時代理内閣なので盛り上がりには欠けたままで、最初から延長は予定されていない。夜も八時くらいには帰宅する。僕はどんよりした気持ちのまま玄関を開けると見慣れない女性物の靴が置かれていて、お客さんが来ているようだ。誰だろうと思っているとリビングからマコちゃんが現れた。
「おかえりなさ~い。押しかけ女房が来てるよ。」
やや寂しげな表情でマコちゃんがそう言うと、リビングのドアから友美ちゃんが顔を出し、「お邪魔してま~す」とニッコリ笑って言ったので僕は引きつった。
「ご飯にする?友美ちゃんが色々持ってきてくれてるけど。」
マコちゃんはそう言ったが、友美ちゃんはコートを持ってリビングから玄関まで来て、僕の前に立ち、一礼した。
「昨日はご馳走様でした。昨日の今日ではお邪魔じゃないかなって思ったんですけど、来ちゃいました。マコちゃんも歓迎してくれたし。でも、今日はもう帰ります。」
友美ちゃんはそう言うと、「じゃあ、また来るね。今日はありがとう」とマコちゃんに一言言い、僕にもう一度、一礼して外に出て行った。
「そこまで送るよ。」
マコちゃんはつっかけを履いて友美ちゃんの後を追った。疲れがどっと出た僕はそのままリビングに行き、ソファに座った。テーブルの上には彼女たちの食べ残した残骸がそのまま放置してある。
しばらくすると玄関から「ただいま~」という声がして、マコちゃんがリビングのドアを開けた。ムッとした表情だ。僕はそんなマコちゃんを睨み付けた。温和な僕にしては怖かったと思う。
「マコちゃん!昨日言ったばかりなのにまだ分から……」
「あたしは何も悪くない!悪いのはお兄ちゃんだよ。お兄ちゃんが優柔不断だからこんなことになるんでしょ。」
僕の言葉をさえぎってマコちゃんが叫んだ。いつになく強い調子だ。
「マコちゃん。僕の今の立場を理解してくれないのかなあ?」
「理解って理解できるか、できないかじゃなくて理解したいか、したくないかだと思うの。あたしは今、お兄ちゃんのことを理解したくない。」
いつもはもっと素直なはずのマコちゃんが感情丸出しで強く出る。
「どうしたんだよ?何かあったの?」
「あったよ。」
マコちゃんは静かにそう言うとそのままリビングに入り、ソファにドカッと座り、テーブルの上の飲みかけのコーヒーを一啜りした。
「何?」
僕は不機嫌に聞いた。
「今日、朝、お兄ちゃんが出かけてしばらくしてからおじいちゃんが来たの。」
「権蔵先生が?」
「そう。」
「……なんか言われたの?」
「『啓一君とのことはどうなってるんだ?二人で、ここで暮らしているけど、中途半端じゃないのか』って。だから、あたしは『お兄ちゃんのことは大好きだけど、あたしにはファーストレディーなんて無理だ』って言った。」
「それで?」
「そしたら、お兄ちゃんと恵里香ちゃんをくっつけたいってことを言われた。恵里香ちゃんのおじいちゃんからそう言われてるって。だからあたしにも協力しろって。」
「そうだったんだ。」
「おじいちゃん色々言ってたよ。『白石家と斎藤家が結びつけばもはや無敵だ』って、『豊臣と徳川の連合みたいだ』って、そんなことも言ってた。」
「そうか。」
「でもあたしは『協力はできない』って言った。誰とは言わなかったけど、『お兄ちゃんにはもっとふさわしい人がいるから』って言った。おじいちゃん、『それは誰だ?』って言うから、友美ちゃんの名前を出したかったけど、昨日、さんざん口止めされたから『おじいちゃんも知ってる元スーパーモデルだよ』って言ってごまかした。そしたらおじいちゃん『ああ、鈴木君か』って言ってそれ以上は突っ込まなかった。嘘はついてないよね。ホントのことも言ってないけど。」
「うん。」
「今日、友美ちゃんが来たのはホントにたまたま。おじいちゃんのこととは関係ない。遊びに来たいってメールが昼前に来たんで、お兄ちゃんには昨日の夜、色々言われたけど、お招きした。お兄ちゃんは怒るかもしれないと思ったけど、それでもいいと思った。」
「どうして?あれほど言ったのに。」
僕はさらに語気を荒げた。妹は少しシュンとなった。
「…あたしとお兄ちゃん、二人でこんなにガチで言い合うの初めてだよね。お兄ちゃんはいっつも優しかったから。いつもあたしの我ままを聞いてくれたから。」
「…そうかもしれないね。」
「今だから言うけど、あたし、お兄ちゃんのこと殺したいと思ってたことがあるの。」
「はあ?」
「中三の時。チャコちゃんが結婚するって聞いて、チャコちゃんがあたしを残してどっか遠いところに行っちゃうって思って。チャコちゃんを誰かに取られたくはなかったから。ずっと二人で生きてきたから。」
「……そうだったんだ。」
「でも、予想に反してお兄ちゃんはとっても優しかった。あたしにも。昔、まだ結婚してすぐの頃、あたしがここのおうちでインフルエンザにかかったの覚えてる?」
「ああ、忘れるわけないよ。チャコがマコちゃんの期末試験を代わりに受けに行ったんだもん。」
「あの時、お兄ちゃんはあたしのこと一生懸命看病してくれた。誰かに優しくしてもらうのってホントにあの時が初めてだったの。お父さんも、お母さんだってあんなに優しくはしてくれなかった。いっつもいっつもお店が忙しいって言って。実際、そうだったんだけどね。あの時、お兄ちゃんがとっても優しくしてくれて、それでチャコちゃんがお兄ちゃんを選んだ理由も分かった。それからお兄ちゃんはあたしの夢もかなえてくれた。スーパーアイドルになれたのもお兄ちゃんのお蔭。」
「それはたまたまだと思うよ。」
「恵里香ちゃんのことは好きだよ。でもお兄ちゃんを欲しがってるのは恵里香ちゃんじゃない。もちろんお兄ちゃんは優しいし、恵里香ちゃんはお兄ちゃんと結婚してもいいと思うんだろうけど、本当にお兄ちゃんを欲しがってるのは恵里香ちゃんのおじいちゃん。そんな人にお兄ちゃんを取られたくはない。なんか、中三の時の、チャコちゃんが結婚するって聞いた時の気持ちと、今の気持ちは似てる気がする。あの時もおじいちゃんが動いてたし。」
それを聞いて僕はマコちゃんが少しかわいそうになった。僕には恵里香ちゃんと一緒になる気はないし、権蔵先生はそれ以上だ。権蔵先生に口止めされていなかったら本当のことをしゃべっているだろう。
「僕がどういう状況になろうとマコちゃんが僕の妹でなくなることはないよ。」
「でも、どこか遠いところに行ってしまう気がする。おじいちゃんにもそう言われた。『総理大臣になったら公邸に住むことになるから』って。だから、あたしはお兄ちゃんが恵里香ちゃんと一緒になるのは絶対に反対。もちろんあたしはファーストレディーなんかなれっこない。だからあたしはおじいちゃんがお兄ちゃんと恵里香ちゃんをくっつけようとしているように、お兄ちゃんと友美ちゃんをくっつけたいの。これは絶対に譲れないから。お兄ちゃんと仲が悪くなってもいい。……今日はもう寝る。あしたは遅く起きるから、朝ご飯はお兄ちゃんが勝手に作って食べて行ってね。」
マコちゃんはそう言うと席を立ち、リビングから出て行った。
次の日、僕が目覚めてダイニングに顔を出しても、いつもは早起きして朝ご飯を作っているはずの妹の姿はなかった。仕方なく、僕は一人でコーヒーを入れ、新聞を取りに行き、新聞を読んだ。今日は国会も会期末だが、重要案件はなく、政治ニュースも閑散としている。前回の総選挙からまだ二年しか経過しておらず、選挙が近づいている気配もない。永田町にも緊張感がない。
永田秘書官が迎えに来てもマコちゃんは起きてくることはなく、僕は一人でパトカーの先導する黒塗りに乗った。いつもは見送るマコちゃんがいない状況だけで、鼻のいい秘書官は何かを嗅ぎ取ったようだった。
「今日はいよいよ国会も最終日ですね。どうもお疲れ様でした。永田さんのお蔭でどうにかこうにか今日を迎えられましたよ。」
僕は永田氏をねぎらった。
「私よりも臨時代理の方がお疲れのようですが。」
「確かに疲れてはいますが仕事というよりもむしろプライベートなことですよ。色々と問題を抱えているのは事実です。しかしそれは僕、個人の問題ですから僕が解決していかないと。」
「そうですか。ところでプライベートというと私も実は問題を抱えてしまいました。」
「永田さんもですか?」
「実は北海道の父親の体調が良くないのです。見舞いに来いと言われているのですが、なにせ国会開会中でしたのでとてもそんな状況ではなく。」
「それは僕の方も配慮が足りず申し訳ありませんでした。おっしゃっていただければなんとかしましたのに。もちろん永田さんがいなくなってしまうと大幅な戦力ダウンは避けられませんけど、なんとかなりますからどうぞお気になさらないでください。」
「ありがとうございます。では、午前中で国会も閉会しますから、朝一でハルナちゃんを呼んでおいて、昼に引継ぎをして、北海道に帰省させていただきます。」
そんな会話をしているうちに官邸に到着し、静かに臨時国会は閉会した。
「失礼します。」
そう言ってハルナが執務室に入ってきたのは昼過ぎだった。僕はソファを勧め、ハルナはもう一度「失礼します」と言って僕の対面に座った。
「また急に上京させてすまないね。どうしても永田さんを帰省させたかったんで。その後、お子さんは大丈夫かな?」
「全然、大丈夫です。……それで、永田さんには先生がプライベートなことで大変お悩みのようだから話を聞くようにと言われているんですが。」
「はあ?」
「自分では解決できないけど、私なら解決できるんじゃないかと言ってました。帰省するのは私を引っ張り出すための口実だったようですよ。本当に北海道には向かわれましたけど。」
「そうだったんだ。……永田さん、さすがだね。」
「友美のことですよね?」
「そうだね。」
「私も先生と友美のことは分からないことが多くて、一度、じっくりお話しさせていただかないといけないと思っていました。友美のことは私にも責任があると思います。先生と二人になる状況を作り出してしまったんですから。」
「別にハルナには責任はないと思うけど。」
「友美は『先生に優しくしてもらった』って言ってましたけど、それは本当なんですか?私には信じられないんですけど。まあ、こういうのは失礼ですけど、先生は本当に堅い方でいらっしゃいますから。薬でも飲まされたんですか?友美だったらそれくらいのことやりかねませんけど。でもあの夜、先生とツーショットになることはいくら友美でも予想できないはずですからそこまで準備してないと思うんですけど。」
「まあ、結論から先に言うと、友美ちゃんとは何もなかったよ。ハルナにそれらしいことを言ったのはハルナをからかおうと思っただけだったんだって。そしたらハルナがマジギレしたんで逆ギレしちゃったんだって。」
「でも、友美、先生の隣のベッドで、下着姿で寝てましたよ。」
「お酒を飲まされたんだよ。そしたら不意に意識が遠くなって、朝起きたら自分のベッドで寝てて、隣には友美ちゃんが寝てた。」
「何飲んだんですか?」
「友美ちゃんオリジナルのカクテルだよ。口当たりは良かったけど、後から考えたらとてつもなく強い酒だった。トモミ・スペシャルとか言ってた。」
「トモミ・スペシャルを飲んだんですか?どれくらい飲んだんですか?」
「知ってるの?コップ三分の二くらいだけど。」
「そんなに飲んだんですか?それじゃやられますよ。トモミ・スペシャルは、口当たりはいいけどウオッカベースのとてつもなく強いカクテルです。なんと言っても友美が男を落とすために独自に開発したカクテルなんですから。それを聞いて大体わかりました。先生は本当に寝てしまわれて友美とは何もなかったんですね。」
「まあ、意識を失っていたからなんとも言えないけど、起きた時にはワイシャツもズボンもネクタイもそのままだったしね。」
「一か月後くらいに友美とご飯食べてますよね?」
「ああ、新聞にも載ってたし、それは知ってるよね。僕が頼みもしないのにマコちゃんがセットしたんだ。それで、友美ちゃんとは少し話をしている。」
「何か言ってましたか?」
「ファーストレディーに立候補したいって言ってたよ。僕にその気がないならチャコみたいに押しかけ女房するって。」
「それで、先生のお気持ちはどうなんですか?」
「僕の気持ちって?」
「先生の友美に対する気持ちですよ。友美のことどう思ってるんですか?」
「どうって、いい子だとは思うけど。」
「先生は優しい方ですからオブラートに包んで話そうとされますけど、本当は友美のことはそんなに好きじゃないんじゃないんですか?」
「それは……」
「大酒のみだし、男癖も悪しい、色気があり過ぎるし。チャコちゃんにも一度言われたことがあるんです。随分前の話ですけど。友美は美人ではあるけど先生のタイプではないって。」
「そうかもね。」
「マコちゃんはどんな感じです?」
「友美ちゃんと僕をくっつけようとしてるよ。」
「あの日、マコちゃんと会ったんですけど、友美のこと誤解しているようでした。それで取り敢えず口止めだけはしておきました。」
「その話はマコちゃんに聞いてる。それで、恵里香ちゃんの話は聞いてるよね?」
「ええ。斎藤副長官サイドが先生と恵里香ちゃんをくっつけようとしていて、白石最高顧問もそれを応援しているということですよね?」
「それで、マコちゃんは僕が斎藤先生のものになってしまうと思っていて、なんとしてでも友美ちゃんと僕をくっつけたいんだって。まあ、マコちゃんとは今、冷戦状態だよ。」
「そうでしたか。…まあ、友美は芸能界屈指の釣り師ですから、釣りに出るのはやむを得ないんですけど、まさか先生を釣りに行くとは思っていませんでした。友美もまさか先生とツーショットになるとは思わなかったでしょうから千載一遇のチャンスと踏んだんでしょう。」
「僕はどうすればいいのかな?友美ちゃんと何もなかったとしてもあの夜、彼女が僕の隣のベッドで寝ていたのは事実なんだから。」
「本当に申し訳ないです。親友としてお詫びします。」
「まあ、友美ちゃんが一方的に悪いわけじゃないけどね。」
「どういうことです?」
「友美ちゃん、ハルナに嫉妬してたって言ってた。」
「嫉妬……ですか?」
「そりゃそうだよ。オーディションの時は彼女が一位でハルナは二位だったよね?」
「はい。」
「でも蓋を開けたらハルナはあっという間にアイドルの頂点に登りつめてさ。」
「……そうですね。」
「友美ちゃん、ハルナは親友だから成功はうれしかったけど妬ましくもあったって言ってたよ。僕もハルナ一本で友美ちゃんの面倒までは見られなかったからなあ。」
「……そうですか。……分かりました。先生、僭越ですけど、友美のことは私に任せてもらってもいいですか?」
「任せるって、どうするの?」
「二人で話し合ってみます。私にも責任があるみたいですし。それに……やはり友美は一緒に歩いてきた親友ですから仲直りしておきたいんです。」
「うん。」
「友美は確かに大酒のみで、男癖が悪くて、色気があり過ぎますけど、欠点はそのくらいで本当はまじめな努力家で、尊敬している面もあるんです。外見がチャラチャラしているので中々理解してもらえないんですけど。」
確かに簿記一級合格はそのことを裏書きしている。
「……分かった。どだい、僕に解決できる問題でもなさそうだしね。」
「一週間くらいお休みいただいてもいいですか?」
「ああ。永田さんが帰ってきたらね。ごめんね。僕の本当に個人的なことなのに。」
「いいえ。先生には本当にお世話になるばっかりでしたから、できることはなんでもさせていただきます。」
ハルナがそう言うと執務室のドアがノックされ、内閣官房の男性職員が顔を出し、「失礼します。鈴木さん、ちょっとよろしいですか?」と言ってハルナのことを呼んだ。ハルナは「ちょっと、失礼します」と言って席を外し、執務室の外で二言三言話すタイミングがあって再びハルナが執務室に入ってきた。
「失礼します。先生、総理が先生に面会されたいそうです。すぐにセントラル病院に移動していただきたいのですが。」
「総理が。なんだろう?」
僕はそう言って腰を上げた。
四十分くらいの時間が流れ、ハルナと僕はセントラル病院の特別室前に到着した。ドアの前にはいかにも一流の仕立屋が手縫いで仕立てたでしょうと思われる立派なスーツを着こなしたボンボンの野党第一党党首と安い吊るしにしか見えないよれよれのスーツを着てコウモリのように痩せこけた、それでいて眼光だけはとてつもなく鋭い最左翼政党の党首が総理秘書官と一緒に並んで立ち、僕の到着を待っていた。
「どうも遅くなりました。…お二人は?」
「我々も呼び出されたんですよ。これから臨時代理に大切な話をするのだけれども、我々にも立ち会って欲しいと。」
僕が並んで立たされている野党の重鎮に声をかけると眼光の鋭いコウモリがそう言った。
「では、皆さん、よろしくお願い致します。」
総理の女性秘書官がそう言い、特別室をノックしてあけ、まずは自らが入りドアを支え、手の平を返して僕たちに入室を促し、僕、ボンボン、コウモリ、ハルナの順で入室した。総理はベッドの上で上半身だけを起こし、窓の外を見つめている。最後に会った時よりもかなり老け込んでしまったように見えた。
「お呼びになられたと聞いてやってきました。」
総理が黙ったままだったので僕の方から声をかけた。そんな僕に総理は軽く一礼した。
「お二人に来ていただいたのはこれから私が臨時代理にお話しすることの証人になっていただきたいからです。よろしいでしょうか?」
二人の党首は顔を合わせてうなずき、「ええ、構いませんよ」とコウモリが言った。
「白石臨時代理。」
総理が僕を呼ぶ。かなり弱々しい声だ。
「はい。」
「衆議院を解散します。すぐに持ち回り閣議を開いてください。」
「はっ…はい。」
突然のことではあったが受け止めた。
「……総理。失礼ですが解散の大義名分をお聞かせいただけますか?」
しばらくの沈黙の後、コウモリが言った。
「大義名分は新しい総理大臣を国民の手で選ぶということです。次の総選挙の投開票が行われる日、私は恐らくもうこの世にはいないでしょう。新しいリーダーは密室などではなく、国民自らの手で選んでほしいんです。」
「……分かりました。今日はお呼びくださりありがとうございました。」
コウモリは静かに言った。
「お忙しいところどうもありがとうございました。それではせっかく来ていただいたところ申し訳ないのですが、臨時代理と少しお話がしたいので他の皆さんは席を外していただいてもよろしいでしょうか?」
総理がそう言い、女性秘書官が他の三人を促すと、ボンボン、コウモリ、そしてハルナは特別室から出て行った。残された僕は改めて総理と向き合った。女性秘書官が僕の背中を見つめていることが窓のガラスに反射していた。席を勧められることもなかったが、総理にはそんな余裕ももはや残されていないのだろう。
「白石臨時代理。」
「はい。」
「今までどうもありがとうございました。あなたと一緒に政治ができて本当に良かったです。解散は私からあなたへのせめてもの贈り物だと思ってください。」
「贈り物?」
「次の選挙、今、このタイミングであなたが仕切れば与党は圧勝です。三分の二以上取れるかもしれません。そうすれば確実に長期政権でしょう。私のできなかったことよろしくお願い致します。」
総理はそう言うと横になり、秘書官が布団をかけ、秘書官が僕に深々と一礼した。総理はそのまま目を閉じ、眠りについたようだった。ギリギリのところで最後の力を振り絞ったのだろう。僕はそんな総理と秘書官をしばらく交互に見てからベッドに向かって深く一礼し、秘書官に軽く一礼して特別室を出た。ドアの外にはハルナが一人で待っていた。
「あの二人は?」
「選挙の準備に取り掛かると言ってそれぞれの党本部にお帰りになりました。臨時代理によろしくとおっしゃっていました。すぐにマスコミにも出ると思います。」
「そうか。総理には後のことをよろしくと言われたよ。」
「これからどうしますか?」
「取り敢えず永田さん、そして幹事長に報告だね。もっと早く決断してくれれば臨時国会中に解散できたんだろうけど、総理としてはできるだけ引き伸ばしたかったんだろうね。」
「総選挙はいつになりますか?」
「臨時国会はさっき、閉会しちゃったから来年の、通常国会の冒頭に解散ってことになるね。そうすると投開票は二月だね。」
「じゃあ、先生が初当選された時と同じような日程ですね?」
「そうなるかな。まあ、これから幹事会やら総務会やら最高顧問会議やらが開かれて日程調整に入るんだろうけど。とにかく、突然の解散には違いないから今まで平和だった永田町も久し振りにドタバタすることになるね。」
ハルナと並んで話しながらそこまで話すと正面玄関に到着し、ハルナと僕は再びパトカーの先導する黒塗りに乗り、今度は党本部を目指した。クルマの中ではハルナが既にテキパキとあちこちに電話をかけ、次の手配を始めていた。
それからその日は色々な会議が緊急に招集されたが、解散自体が寝耳に水の話だったのでどう対応したらいいのか結論が出ないものばかりで、集まっては散会の繰り返しだった。午後の定例記者会見は久し振りに僕が登場し、少し長引き、会見終了後もしばらく会議が招集されては散会するということを繰り返していた。そして午後六時頃に突然、総理の訃報が届き、ハルナと僕は再び病院に引き返して最後のお別れをすることになった。総理は本当に最後の力を振り絞って命を臨時国会閉会まで引き伸ばし、解散を宣言したのだ。持ち回り閣議は既に終了していて、衆議院解散は閣議決定している。解散が総理自らの判断だったことは野党の二人の党首が既に証言済みだ。
結局、解散、総選挙よりも葬儀の方が先だということになり、総選挙の日程決めは先送りになった。僕は名前だけ葬儀委員長ということになったがそれでも忙しく、碑文谷の自宅に着いたのは日付が変わる少し前だった。早寝早起きの妹は既に眠っていた。
次の日の朝、目を覚まし、階下に行くと既にダイニングの電気はついていて、マコちゃんが起きていることが分かった。ドアを開けるとマコちゃんがダイニングチェアに腰掛け、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。新聞一面トップには横に「高橋総理大臣死去」と最も大きな活字で書いてあり、縦に「白石臨時代理内閣総辞職」と書いてある。
「おはよう。」
僕の方から声をかけるとマコちゃんは面倒臭そうに顔を上げた。
「おはよ。今日も出かけるんでしょ?」
マコちゃんは相変わらず事務的で二人の冷戦はまだ続いているようだ。
「ああ。マコちゃん、もう知ってるだろうけど、解散が決まったり、総理が亡くなったりでしばらくとても忙しくなると思うよ。」
「そう。でも、総理大臣になったらもっと忙しくなるんだよね?」
「それはなんとも言えないよ。総理大臣になるかどうかだって分からないんだから。」
「ちょっと話があるんだけどいいかな?」
「うん。」
マコちゃんは読んでいた新聞を畳み、腰かけ直した。僕はマコちゃんの対面に座ったが、いつものようにコーヒーは入れてくれない。
「昨日、お母さんから電話があったの。」
「幸子さん。」
「うん。それで冬休みはどうするのかって。」
「冬休み?」
「夏休みは柏崎で過ごしたでしょ?ユメちゃんも、絵子ちゃんも。年末年始も柏崎に行くのかってこと。二人は柏崎に行きたがってるんだって。」
「そっか。ユメのことなんて全然考えてないね。」
「まあ、仕事の忙しさが半端じゃないから仕方ないけどね。それで、年末年始もお兄ちゃんはこっちで仕事だよね。」
「ああ。分かってもらえると思うけど、その新聞に書いてある通りだよ。」
「じゃあ、冬休みに入ったらあたしが二人を柏崎に連れて行くでいいかな?」
「そうしてもらえるとありがたいや。」
「じゃあ、こうするね。二十四日の夜は、二人を呼んでここでクリスマスパーティーをやります。」
「クリスマスパーティー?」
「実家じゃ、お店が忙しくてパーティーなんてできないからね。あたしも子ども心に傷ついてたもんだよ。よそのおうちはいいなあって思って。うちにはサンタなんて来なかったから。だからお兄ちゃん、二十四日は早く帰ってきてね。何があってもね。」
「分かった。それくらいは我まま言うよ。」
「それでここでパーティーやって、その日はここにお泊りして、デラックスバスを一台チャーターするから、次の日、そのバスで学校に行って、終業式が終わったら、その足で直接柏崎に移動する。」
「三人を運ぶだけのためにバス一台をチャーターするんだ?」
「前にもそんなことやったじゃない。そっちの方が結局、安上がりだよ。じゃあ、決まりでいいね。」
「ああ。ユメのことお願いします。…それと、僕もマコちゃんに話があるんだけど。」
「何?」
「もう知ってると思うけど、衆議院が解散する。来年の通常国会の冒頭でね。まだ具体的な日にちは決まってないけど、一月二十日頃になる。それから衆議院議員選挙が告示されて、二月の下旬に総選挙になる。」
「うん。」
「それで、選挙の時は、僕は全国を遊説しないといけないから柏崎をマコちゃんに仕切って欲しいんだ。」
「あたしに?何言ってんの。あたしになんか無理だよ。柏崎にはハルナちゃんがいるでしょ?」
「ハルナは僕と一緒に全国を回る予定でいる。もっというと今度の選挙はハルナをキャンペーンガールにしようと思ってる。そしてキャンペーンソングは『天使の翼』。」
「『天使の翼』?」
「そう。どうせ僕の思い通りにはならないんだ。だったらせめてそれくらいは我ままを言わせてもらうよ。」
「あたしが柏崎行きを拒否ったらどうするの?」
「大丈夫だよ。マコちゃんは絶対に拒否らないから。」
「随分と上から目線なんだけど。どうしてそんなことが言えるの?」
「それは…マコちゃんがチャコだからだよ。」
「ちょっと、…言ってることが分からないんだけど。」
「マコちゃん、言ったよね?チャコは自分と一体になって、自分の中で生き続けるって。」
「……」
「だから、僕はマコちゃんにお願いするんじゃない。マコちゃんを通して、マコちゃんの中にいるチャコにお願いするんだ。チャコなら絶対にやってくれるよ。」
「……分かったよ。それで、あたしは何をすればいいの?」
「何もしなくていい。いてくれるだけでいいよ。白石の人間がいるだけで組織は結束できるから。ハルナはいないけど、現地の秘書さんは他にもいるし、権蔵先生の秘書さんや地方議員もいる。マコちゃんさえいてくれれば、みんなマコちゃんの下に結束するよ。」
「じゃあ、年末に柏崎に行ったら、選挙終わるまでこっちには帰ってこないね。どうせお兄ちゃんも全国遊説でここのおうちにはいないんだろうから。ユメちゃんと絵子ちゃんのお届けはハルナちゃんにでもお願いするから。」
マコちゃんはニコリともせずにそう言うと目の前のコーヒーをごくりと飲んだ。