迷宮クズたわけ   作:ちんこ良い肉

39 / 42
本編終わってかなり長い事経っているのに読んでいただけてる事に感謝を
孤児と聖女とチンカスとは今日、明日、明後日投稿します
掲示板は今日か明日書き直します


孤児と聖女とチンカスと1/5 【不死者VSゾディアック】

 チンカスは死んだ魚のような目で、向かいの家の物干し竿を眺め続けていた。さっき、場違いに小綺麗な若い女が干していった下着だ。左手には底をつきかけた酒の瓶が握られ、右手には火のついた煙草が挟まれている。ひっくり返した木箱に背中を丸めて腰掛け、白昼堂々、世の中の役に立たない三つのことを同時にこなすその姿は、ある意味で完成されていた。俺が横から何度話しかけても顔すら向けようとせず、鼻腔から気怠そうに紫煙を吐き出すだけだ。

 

 

 

「だからさ、スヒリア様のことだよ。お前、あの人と知り合いなんだろ。俺たちみたいなクズに薬とか持ってきてくれる、あの教会の……」

 

 

 

 “うるせーぞウシノスケ。知ってるっつってんだろ。あの馬鹿がどうしたってんだよ”

 

 

 

「馬鹿って言うな。聖女様だぞ。あの人がいなかったら、うちの連中、とっくに何人野垂れ死にしてたと思ってんだ」

 

 

 

 “聖女ぉ? あいつが? ”

 

 

 

 ようやくこいつが俺の方を向いた。驚いたというよりは、腐りきった芋を間違えて咀嚼してしまった時のような、ひどく渋面を作っていた。それを見た俺の腹の奥で、じわじわと苛立ちが湧き上がる。こいつだって、たまに気まぐれで飯を持ってきてくれたりするし、何から何まで全く役に立たないわけじゃない。だが、人間にはどうしようもない格というものがある。泥水のような酒をあおりながら女の下着を品定めしているチンカスと、慈愛に満ちたスヒリア様を同列に並べること自体が、天に対する冒涜のように思えた。

 

 

 

 “お前の言うそれ、俺の知ってるあの僧侶と同じ生き物か? この前なんてな、道端のうんこ踏んづけて、そのまま『うんこさんはどっかに行ってね、ぷくーっ』て、両頬を思いっきり膨らませながらうんこ相手にガチで激怒してた奴だぞ”

 

 

 

「嘘つけ。あの人がそんなふざけた喋り方するわけねえだろ」

 

 

 

 “俺だってそんなもん聞きたくもねえんだよ。で、うんこに怒ったところで靴底から剥がれねえだろって突っ込んだら、『盗賊さんはうんこさんの味方なんですか』って逆ギレしてきやがった。あの妖怪は、いったい誰と何を争って生きてんだ? ”

 

 

 

 煙草の灰が、ポロリとこいつの汚れた膝に落ちた。チンカスは面倒くさそうにそれを払い落とすと、まだ納得がいかない顔をしている俺を一瞥し、大事そうに抱えていた酒の瓶を地面に置いた。どうやら、本腰を入れてスヒリア様の悪口を叩くつもりらしい。いい年をした大人のくせに、こういう下らないことにだけは異常なほどの真剣さを見せるのだ。

 

 

 

 “その上あいつ、一人で手遊びしてて俺の馬小屋を全焼させたことすらあんだぞ。スヒニーだか何だか、よく分からん名前までつけてやがった。何をどうこじらせたら、一人遊びから馬小屋全焼に発展すんだよ。あいつが泣きついて建て直してもらうまでの間、俺がどこで寝てたと思ってんだ。焼け跡に穴掘って、土竜みたいに丸まって寝てたんだぞ”

 

 

 

「お前、さっきから一体何の話をしてんだよ」

 

 

 

 “こっちが聞きてえわ。その上、やっと再建した馬小屋に、懲りもせずにあの薄っぺらい体を隙間にねじ込んで入り込んできて、俺の菓子を食い荒らすんだ。ちゃんと戸締まりしてんのに入ってくんだぞ。あんなもん、もはや害獣じゃねえか”

 

 

 

「どうせお前が自分で食って、酔っ払って忘れてるだけだろ。お前、いつも酒臭いしな」

 

 

 

 俺には、こいつの心理が手にとるように分かった。これは単なる嫉妬だ。スヒリア様はスラムの誰からも慕われ、後光が差しているように見られている。一方のこいつは、俺たちみたいな底辺の連中からすら「チンカス」と呼ばれて蔑まれている。それが面白くないから、腹いせにありもしない奇行をでっち上げて、聖女様の評判を地に落とそうと必死になっているのだろう。卑しい奴の考えることはいつだって浅ましく、分かりやすい。実際、俺がその図星を指してやると、チンカスは心底嫌そうな、酸っぱいものを噛み潰したような顔をした。

 

 

 

 “あのな、お前、今度俺の代わりに一日あいつの面倒見てみろよ。鼻くそを額にくっつけてやっただけで、『私のと違って、盗賊さんの鼻くそがフローラルな香りするのずるい!』って嫉妬に狂って咆哮しだす女だぞ。あいつの行動、しっかり観察すれば九割はロジックで動いてるのが分かるが、残りの一割を理解しようとすると、深淵を覗き込んで正気度をゴリゴリに削り取られてるような気分になるんだよ”

 

 

 

「だから、人のおでこに鼻くそつけんなよ。ていうか作り話も大概にしろ」

 

 

 

 “人ぉ!? ……いや、そういやあいつも一応人間だったわ。たまに脱皮とか冬眠とかしやがるから、すっかり忘れてたわ。うんこがこびりついた棒切れを『エクスカリバーさん』って呼んで、涎垂らしながら見つめてニッコニコでぶんぶん振り回した挙句、自分の目に突き刺さって『私の千里先を見通す宝石の様なおめめがああああああああああああああ!!』とか絶叫してた奴にも、人権ってモンはあるんだな”

 

 

 

 そんな人間がこの世に存在していいはずがない。仮にそんな狂人がいたとしても、俺の知っている、あの神聖で清らかなスヒリア様とは絶対に結びつかない。俺が毅然とした態度でそう言い切ると、チンカスはひどく疲れたように眉間を深く揉み込んだ。「朝起きる時にもな、『可愛いスヒリアちゃんが目覚めるよ! 全世界に祝福されておっきするよ!』って叫んで起きるんだぞ」と、さらに嘘を重ねてくる。よくもまあ、これだけ次から次へと馬鹿馬鹿しい作り話を即座に思いつけるものだ。ある意味で才能かもしれない。

 

 

 

「聖女様にまともに相手してもらえないからって、俺にまでそんな与太話を吹き込むなよ。あの人が怒んねえからって、あんまり調子に乗りすぎると天罰が下るぞ」

 

 

 

 “……俺からすれば、むしろ何で、お前らの前ではあんな完璧な常識人のふりができてんだ、あいつは”

 

 

 

 チンカスは本気で世界のバグに直面したような、理解不能だという顔で煤けた空を見上げた。俺が反論しようと口を開くより先に、そいつの視線がふと、隣の家の入り口付近へと滑った。そこには、俺が面倒を見ている妹分の一人が座っていた。あいつはスヒリア様に直々に縫ってもらった小さな袋を膝の上に大事そうに乗せて、ほつれた糸を細い指で愛おしそうにいじっていた。チンカスはしばらくその光景を無言で眺めていたが、やがて急に声のトーンを落として違う話を始めた。

 

 

 

 “そういや、あいつさ。七歳になるまで、自分からは何一つしなかったらしいんだよな。誰かに飯を食わせてもらって、着替えさせてもらって、話しかけられてもろくに反応すら見せねえで。……あの、歩く騒音発生元みたいな奴がだぞ。お前、信じられるか? ”

 

 

 

「……突然何だよ。誰の話だ」

 

 

 

 “あの僧侶の話だよ。金髪の兄貴やら家族やらが、毎日毎日頭を撫でて、根気よく世話して、何度も話しかけて、それでようやく動き出したんだとさ。侍の奴から聞いたんだ。あいつ、妹の話になると急に長えからな”

 

 

 

 俺は、袋を握りしめている妹分の姿を見た。半年前、あいつは熱を出し、俺の腕の中で目を開ける力すら失っていた。あの時の軽さと冷たさを、俺は今でも鮮明に覚えている。だが今は、俺と目が合うと、「腹が減った」と訴えるような顔をして、生意気に口を動かしてくるまでに回復した。チンカスの下らない悪口を聞いている間は忘れることができていた、スラムの底這うようなドブの匂いや、骨の髄まで凍りつくような冬の寒さが、妹分の顔を見た途端に鮮烈な記憶としてフラッシュバックしてきた。

 

 

 

 あの日、俺は半狂乱になりながら病院へと向かって走っていた。死にかけの妹分を背中に縛り付けて走っていたが、腕の感覚はとうに消え失せ、膝はガクガクと震え、吹き出す汗と涙でまともに前を見ることもできなくなっていた。狭い路地を曲がったところで、不意に白い服を着た何者かに激しくぶつかった。もし相手がとっさに手を伸ばして受け止めてくれなければ、俺は妹分ごと硬い石畳へ無様に倒れ込んでいただろう。息も絶え絶えに顔を上げると、汚れ一つないプラチナブロンドの短い髪と、スラムには似つかわしくない純白の襟が目に飛び込んできた。

 

 

 

「まあ! 申し訳ありません。お怪我はありませんか。カドルト神の救済を」

 

 

 

 いつもなら、相手が誰であれ条件反射で地面に這いつくばって頭を下げていた。俺たちのようなゴミは道の端を歩くのが当然で、身なりのいい人間にぶつかってしまったら、どちらに非があろうと土下座して謝るしかない。逆らったところで得になることなど一つもなく、痛い目を見るだけだということくらい、嫌というほど思い知らされてきた。それでもその日だけは、背中から聞こえてくる妹分の消え入りそうな息の音を聞いていたら、どうしても口を閉じて服従することができなかった。

 

 

 

「偽善者が……っ! お前も、どうせ俺たちのこと心の底じゃ馬鹿にしてんだろ! スラムで腐ってる無能だ、生きてる価値もねえってな! 飯もねえのに祈れってか。祈ったらこいつの腹が膨れんのかよ。お前らの信仰する神様ってやつは、俺たちに何かしてくれたことでもあんのかよ!」

 

 

 

 血を吐くように叫んでしまってから、猛烈な後悔に襲われた。しまった、殺される。白い服の女は、無表情のまま俺の顔をじっと見つめていた。その底知れない視線を受けているうちに、恐怖で指先から急速に体温が奪われていくのを感じた。俺が衛兵に引き渡されて殴り殺されるだけならまだいい。だが、この妹分まで冷たい地面へ放り出されたら終わりだ。せめてこいつだけは落とさないようにと、背中の小さな体を必死に抱え直そうとした時、女の華奢な手が自らの財布へと伸びた。

 

 

 

「まずは、謝罪をさせてください。あなたにそこまでの不信を抱かせてしまったことは、私の罪でもあり、この教会の罪でもあります。このお金で、すぐに食べるものを買ってください。それから……その子を、私に診せていただけますか」

 

 

 

 震える俺の掌へ、硬貨が何枚も落ちてきた。俺がその数と重さを確かめるより早く、女は道端の泥汚れも気にせずに布を広げ、俺の背中から妹分の体を一緒に下ろしてくれた。何日も洗っていない不潔な服にも、高熱で口元についていた吐瀉物にも、彼女は微塵も嫌そうな顔をしなかった。小さな手首に細い指を添え、慣れた手つきで瞼の裏を確かめながら、女はさっき俺が吐き捨てた言葉に対して、静かに答え始めた。

 

 

 

「神があなたを救わなかった、というのは、あなたの仰る通りです。そもそもカドルト神というアレは、ただの偽神ですし。ロボ……げふん、ゴーレムの一種にすぎません。私たち、平然と偽神を信仰させているんですよね」

 

 

 

「……は?」

 

 

 

「あっ、声が大きかったですね。今のお話は、内緒ですので少し小さな声でした方がよかったです。そこの布も、こちらに取っていただけますか。ありがとうございます」

 

 

 

 俺は唖然としながらも、言われるがままに布を渡した。偽神だのゴーレムだの、何を言われているのか全く理解できなかったが、妹分の顔を丁寧に拭う彼女の手は決して止まらず、浅い息の音に耳を澄ませる時だけ、彼女の口が真一文字に結ばれた。処置に必要なものが足りないと分かると、通りかかった顔見知りの住人に頼み込んで教会の薬を取りに行かせた。祈るために俺の薄汚れた手を組ませようとは、ただの一度もしなかった。

 

 

 

「ただ、あなたに一つだけ訂正させてください。今を生きる生命に、無能なものなど絶対に存在しません。地獄のような過酷な生存競争をくぐり抜けて今日まで命を繋いできた生物は、例外なく有能なのです。もちろん、歴史の闇に消えて滅んだ種族が無能だったと言いたいわけではありません。しかし、今ここに立って息をしているあなたは、今を生きる全生命、最優良種の一角です。あなたたちが無能なはずがありません」

 

 

 

「俺、何もできねえよ……。こいつ一人の命すら、どうにもしてやれねえのに」

 

 

 

「ここまで、ご自分の足で背負って連れてきてくださったでしょう。それに、今は何もできなくたって、それは治療をやめて諦める理由にはなりません。まずは元気になって、それから一緒に考えましょう。あなたも、その子も」

 

 

 

 女は手際よく薬包を開きながら、無知な俺にもできる簡単な仕事を、一つずつ丁寧に教えてくれた。教わったとおりに震える手で妹分の頭を支えていると、手の中に微かに温かい息がかかった。それが数分前よりも少しだけ力強くなったような気がして、俺は祈るような気持ちで何度も妹分の口元を見た。女は俺の動きを急かさずにじっと待ってくれ、俺が安堵で顔を上げてから、再びゆっくりと続きを話し始めた。

 

 

 

「トレボー様も、教会で働いている私の同僚たちも、それぞれが己の信じる方法で大勢を救おうとはしています。あなたたちがこんなにも苦しんでいてもよいと、全員が冷酷に見捨てているわけではありません。ただ、現実に救われなかった側にいるあなたにこんな言い訳をしたところで、何の慰めにもなりませんよね。ですから、私は私にできることを、私のやり方でします」

 

 

 

 俺は、そんなのはその日だけの気まぐれだと思っていた。哀れなスラムのガキに金を渡し、自分が気が済むまでいいことをして自己満足に浸り、終わればきれいな服を着た連中ばかりがいる、暖かくて安全な場所へ帰っていくのだろうと。

 

 

 

 ところが翌日、女は約束通り薬と食べ物を両手に抱えて、真っ直ぐに俺たちのねぐらへとやって来た。その翌日には体を拭くための洗える布と石鹸を、その次には、子供の小さな手でも持ちやすいように特別に作られた木桶まで抱えて現れたのだ。

 

 

 

 彼女の名前がスヒリアだということを俺が覚えた頃には、俺たち以外の怪我人や病人たちも、こぞって彼女の世話になっていた。喧嘩で顔や手が原型をとどめないほど腫れ上がった者にも、化膿してひどい腐臭を放つ傷を抱えた者にも、彼女は一切の躊躇なくその白い手を伸ばした。周りの連中がうつるぞと怯えて叫べば、それがうつる病気かどうかを冷静に医学的見地から確かめ、必要な支度を整えてからすぐそばへ座り込んだ。俺たちと一緒になって得体の知れない病を怖がり、触らなくて済むための言い訳を探したことは、ただの一度もなかった。

 

 

 

「おい、アンタ。それ、本当に素手で触って大丈夫なのかよ。昨日、隣の通りで同じような症状の奴が血を吐いて死んだって聞いたぞ」

 

 

 

「その方とは、根本的に病気が違います。こちらは触れただけで感染するようなものではありませんし、私の抵抗力なら全く問題ありません。心配してくださってありがとうございます。でも、念のためあなたは、この患者さんに触れた布を素手で触らないでくださいね」

 

 

 

 薬や必要な物資は、自分のバイト代を切り詰めて買っているのだと彼女は笑って言った。買うと高くつくものは自分で工夫して作り、徹夜でもしたのか、道具を抱え込んだまま路地裏で居眠りしているところを見つけたこともある。スラムで治療に来た連中から法外な治療費を巻き上げていた悪徳な男たちが、ある日を境にパタリと姿を消したのもちょうどその頃だった。後になって恐る恐る聞いてみたら、スヒリア様は少し顎に手を当てて考えてから、「ああ、あの人たちなら全員物理的にしばきました」と、日常の挨拶でもするような平然とした顔で答えたのだった。

 

 

 

「私個人の力では大したものは持ってこられなくて、本当にごめんなさい。手間くらいしかかけられませんが、どうかもう少しだけお待ちくださいね。奪われた魔除けさえ取り戻せれば、今よりずっとたくさんのことができますから」

 

 

 

「王様の、盗られたってやつか?」

 

 

 

「はい。持ち主の配下と認識した全対象に、人数の制限を一切無くして治癒と防壁と抵抗の魔法効果を与える、あの反則みたいな道具です。あれがあれば軍の出費も大幅に減らせますから、浮いた分の予算を確実にあなたたちの生活支援に回していただきます。必要なら、トレボー様を思いっきりはっ倒してでも、絶対に約束は守らせます」

 

 

 

 神に仕える身でありながら王様をはっ倒すと真顔で聞いて、俺は呆気にとられて周りを見た。彼女は既に妹分の前へしゃがみ込み、昨日より顔色がよくなった、と自分のことのように嬉しそうに微笑んでいた。妹分はまだ満足に立ち上がることもできなかったが、スヒリア様の細い指を力強くつかんで、絶対に離そうとしなかった。その小さな手を優しく少し揺らしてから、彼女は俺を見上げた。

 

 

 

「ウシノスケさん。この子は、あなたの本当の妹ですか」

 

 

 

「本当の妹じゃねえけど。まあ、行き場がないから俺が面倒見てる」

 

 

 

「それなら、どうかこの子の頭を、たくさん撫でてあげてくださいね。他の誰でもない、あなたにそうしてもらったら、この子はきっとすごく嬉しいと思いますから」

 

 

 

 そんなことで腹が膨れるわけでもないのに、いいのかと思ったが、俺は言われたとおりに手を伸ばした。妹分の髪は栄養失調で細くパサついていて、少し力を入れたらごっそり抜けてしまいそうだったので、壊れ物を扱うようにできるだけそっと撫でた。妹分は子猫のように目を細めて気持ちよさそうにし、スヒリア様はそれを見て花が咲くように笑った。俺はその眩しすぎる笑顔を真正面から見てしまって、もう完全に駄目だった。俺の中で、彼女は本物の聖女になったのだ。

 

 

 

 今でも、目を閉じればあの日の笑顔を鮮明に思い出すことができる。だから、隣で安煙草を吹かしているチンカスがどれだけ口汚く何を言おうとも、俺の中にあるスヒリア様への絶対的な信仰と敬愛は、一ミリたりとも揺らがなかった。チンカスは空になりかけた酒の瓶をカチャカチャと振り、俺が沈黙を守っているのをどう都合よく受け取ったのか、自分の言葉が刺さったのだと勘違いして満足そうに鼻を鳴らした。こいつが勝手に勝ち誇っている態度は無性に腹が立ったので、俺はもう一度、聖女様を馬鹿にするなと怒鳴りつけてやろうと息を吸い込んだ。

 

 

 

「盗賊さん。こちらにいらしたんですね」

 

 

 

 鈴を転がすようなその声で、俺は弾かれたように立ち上がった。ショートボブに切り揃えられたプラチナブロンドの髪が午後の陽光を受けてキラキラと輝いており、スヒリア様は俺と、奥に座る妹分へ向かって小さく優雅に手を振った。腕には薬の小瓶がたくさん入った籠を下げ、空いている方の手には何枚かの書類を持っている。チンカスだけが木箱に座ったまま、さっきまで自分がどれだけひどい悪口を並べ立てていたかも完全に忘れたような、間の抜けた顔で彼女を見上げた。

 

 

 

「明日のミーティングの件ですが、ボーパルバニーの群れに遭遇して被害者が出た場合の撤退方法について、事前にしっかりと確認しておきたいんです。搬送役を先に決めておいた方がよいと思いますので、お帰りの際にこちらへ目を通していただけますか」

 

 

 

 “ああ、そっちの段取りはもう書いてある。怪我人を担ぐ奴と、そいつがやられた時にすぐ代わる予備の奴までな。……ていうかお前さ、街に出る時はそういうキャラ作ってんの? ”

 

 

 

「ふふっ。盗賊さんったら、相変わらず冗談がお上手ですね」

 

 

 

 スヒリア様は悪戯っぽく笑うと、人差し指でチンカスの額を、トン、と軽く押した。押されたチンカスは鬱陶しそうに眉間に深い皺を寄せたが、彼女は全く気にする素振りも見せずお茶目に笑い、持っていた紙をそいつの汚れた膝の上へ置いた。それから俺たちの方に向き直り、これから中央の集会所で怪我人の治療を始めるので、具合の悪い人がいたら遠慮せずに連れてきてほしいと、いつも通りの優しい声で教えてくれた。俺が緊張しながら返事をしている間に、チンカスは気怠そうに紙へ目を落としていた。

 

 

 

 彼女の華奢な後ろ姿が路地の角を曲がって完全に見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くして見送った。少し強い風が吹いて、チンカスの膝に乗せられた紙がヒラヒラと飛びそうになったが、こいつは顔も上げずに反射的に手で押さえた。それからしばらくの間、二人の間に奇妙な沈黙が落ちた。やがてチンカスが、“なんなんあいつ。マジで意味分かんねえ”と忌々しそうに呟いた。

 

 

 

 俺だって、心底聞きたかった。額を指で押されたり、あんなに砕けた口調で話しかけられたりするような関係性に。だが、こいつに聞いたところで、絶対にまともな答えが返ってこないことだけは分かっている。

 

 

 

 額を押す時、スヒリア様は全くためらいを見せなかった。こいつがどれだけ無礼な態度をとっても絶対に本気で怒ることはないと、最初から完全に分かりきっているような、そんな親密な空気があった。俺にはいつだって分け隔てなく丁寧にしてくれるし、感謝もしている。だが、あんなふうに、気を許したように笑いかけてくれたことは一度もない。

 

 

 

 もしかして、あの二人、俺の知らないところでもう手くらい繋いだりしているのだろうか。そんな想像が不意に頭をよぎった瞬間、腹の底からドロドロとしたどうしようもない嫉妬と苛立ちが込み上げてきた。俺はやり場のない怒りに任せて、チンカスの足元に転がっていた空き瓶を、思い切りつま先で蹴り飛ばした。

 

 

 

 その時、俺たちはまだ知る由もなかった。

 

 

 

 一代目盗王、【ゾディアック】キューブ。

 

 

 

 のちに現れる二代目盗王、【最悪】チェイン・ペンドラゴンが台頭するまで、長きにわたり人類最悪の生命体と畏怖された厄災そのものが、静かに、そして確実に、この煤けた街の領域へと足を踏み入れていたということを。

 

 

 

 




https://syosetu.org/?mode=rating_input&nid=334377
更新期間に評価を入れていただけるとたくさんの読者様に読んでいただけるので入れていただけると嬉しいです
感想もめちゃくちゃ励みになってます
https://syosetu.org/?mode=review&nid=334377
から感想いただけるとめちゃくちゃ嬉しいです

オーエンの異名【不死者】にデッドエンドとルビを振るのはありか

  • 厨二病過ぎるが良い
  • 厨二病過ぎるからやめとけ
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。