朝になっても、チンカスは戻らなかった。管理人にスヒリア様へ知らせに行きたいと言うと、もう人をやったからお前は待てと、玄関の前で止められた。俺は頷いたが、昼の鐘が近づくにつれ、昨日の男が聖女様の名前を出したことばかり考えていた。あの人がいつものように集会所へ来たら、俺たちの代わりに捕まるのかもしれない。使いの人はもう会えたのかと聞いても、爺さんには、まだ戻っていないとしか言ってもらえなかった。
弟分たちは、腹いっぱい食って、柔らかい寝床で遊んでいた。俺がいなくても、今は飯にも寝る場所にも困らない。だったら、いつもの道を知っている俺が走った方が早いと思った。誰かがあの人に会えたという返事を待つより、自分が見つけて知らせたかった。
爺さんが妹分の着替えを手伝っている間に、俺は裏の洗い場へ入った。明かり取りの窓から庭へ下り、高い塀の下を回ると、水を流すための隙間に外の光が見えた。腹を擦りながらそこを抜け、通りへ出てから服についた泥を払った。使いの人が戻ったら、俺はもう知らせに行ったと聞いて驚くかもしれないと、その時は思っていた。
広場には見慣れない連中が集まっていた。昨日の男たちよりずっと数が多く、四十人はいたと思う。露店は片づけられ、普段なら昼寝をしている爺さんたちも姿を消していた。誰も出てこない家の前に、チンカスが一人で立っていた。
俺は呼びかけようとして、そいつがこっちを見ていることに気づいた。まだ路地から顔を出しただけなのに、チンカスはまっすぐ俺を見て、ものすごく嫌な顔をした。自分の背後にある石造りの物置を顎で示し、俺がそちらへ走る間だけ、広場の男たちとの間へ体を入れた。俺を迎える方へ顔を向けても、連中には背中を見せなかった。
“何で出てきた、馬鹿”
「あいつらが、あの人の名前まで出したから……お前一人でどうすんだよ。アーサー様とか、誰か呼んだ方が」
“他の六人は。一緒に連れてきてねえな”
「爺さんといる。俺だけだよ」
チンカスは俺の襟をつかんで、物置の中へ押し込んだ。窓を塞ぐ厚い鉄板があり、奥の床板には、地下へ下りるための取っ手がついていた。そいつは床の取っ手を指して、戸が壊れたらそっちへ逃げろと言った。俺が頷くまで待ってから戸を引き、広場へ戻っていった。
戸は閉まったが、板の割れたところから広場が見えた。向こうの先頭には、銀色の鎧を着た大男がいた。鎧の縁からのぞく白い襟まできちんと整えられていて、昨日俺の頭をつかんだ男が、その後ろで妙に背筋を伸ばしていた。チンカスは物置から数歩離れ、そいつらと向き合った。
誰かが、キューブ様、と呼んだ。一代目盗王、【ゾディアック】キューブ・メタリカムは、返事の代わりに小さく手を上げた。そのままチンカスを頭から足元まで眺め、人のよさそうな笑みを浮かべた。俺は板から少し顔を離したが、声ははっきり聞こえた。
「初めまして。君がオーエンだね。チェインのところにいた子だと聞いて、一度会ってみたかったんだ。私はキューブ。あの子から、名前くらいは聞いているかな」
太い声だったが、大きくはなかった。人から紹介された相手へ挨拶するような調子で、そいつはチンカスに話しかけていた。こいつらは初めて会ったのだと、俺にも分かった。チンカスは何も持たない手を下げたまま、男を見ていた。
“剣を抜くな。魔術も唱えるな。手を出さずに今帰るなら生かしてやる。どっちかやった奴は、その後で逃げようが泣こうが絶対に殺す。分かったら帰れ”
後ろの連中が笑った。小柄な男が腰の刃物を指で弾き、その隣では、長い袖から出た手が杖の握りを確かめていた。昨日の指輪の男まで笑っていたが、そいつだけは前にいる連中の顔を見てから声を出していた。チンカスは、誰に笑われても同じ顔をしていた。
「聞いたか。生かしてやるんだとよ。海を渡ってきた甲斐があったじゃねえか」
「こっちはレベル十以上が十人もいるんだぜ。田舎の二番手様が、ずいぶん偉そうじゃねえか」
「あまり笑うものではないよ。彼は本気で言っている。せっかくここまで練習してきたのだから、最後まで聞いてあげようじゃないか」
キューブがそう言うと、笑い声は小さくなった。取り巻きの一人が軽く頭を下げ、代わりにキューブだけが一歩前へ出たが、近くにいた十人はそれに合わせて立つ場所を変えていた。そいつらは笑っていても、チンカスから目を離さなかった。キューブはその真ん中で足を止め、穏やかに続きを話した。
レベル十ともなれば、この大陸では、普段活動している者が十人もいないという。領主が頭を下げて雇おうとし、魔物を倒して暮らしている冒険者たちまで、あれとは同じ人間だと思うなと言う。強い兵隊が一人増えるという話ではなく、その一人を味方にできるかどうかで、領主が大金を積むような相手だった。キューブは、その化け物を他大陸から十人も連れてきていたのだと、後で知った。その時の俺には、十人いるという言葉だけで、物置の戸がひどく薄く思えた。
「チェインに会いに来たんだ。今はチェイニーと名乗っているそうだね。身体まで替えて、すっかり見違える姿になったと聞いたよ。君たちと一緒に冒険をしているんだって? あの子が、自分の奴隷だった相手と仲良くしているなんて、ずいぶん面白いことになったものだね」
俺はチェイニーさんの顔を思い浮かべていた。薬包の文字が読めなくても、笑わずに教えてくれる人だった。昨日、会って確かめたくもないと思った奴と、今、キューブが口にした名前が、頭の中でうまくつながらなかった。身体を替えたら顔も変わるのだろうが、それで、あんなふうに子供へ笑いかけられるようになるのか。チンカスは人違いだとは言わず、俺は板の端を爪で押した。
「あの子が最初に逃げた時、一緒に逃げた子たちも連れ戻して、前に並べてあげたんだ。一人選びなさい、その子を殺せば残りは助けてあげる、とね。なかなか選べなかったから、時間が来たところで全員片づけた。あの子はひどく泣いていたけれど、次からはずっと決めるのが早くなった」
指輪の男が鼻で笑い、隣の男も、あの時は声が枯れるまで泣いていましたね、と頷いた。こいつらは、その場所にいたのだ。キューブは昔の教え子を褒めるように目を細め、チンカスが何か言うのを待った。返事がないと分かっても、少しも気を悪くした様子はなかった。
「君の時にも、同じことをしたそうじゃないか。一緒に逃げた子たちを並べて、一人選べば残りは助ける。君も選べなかったんだってね。それで、あの子は全員殺した」
「そっくりですねえ」
「よく覚えていたんだろうね。私に、やめてくれとあれほど頼んでいた子が、君には同じことを言った。誰かに教える時になると、昔教わったことが役に立つものだ」
さっきの話では泣いていた奴が、次の話では人を並べて殺していた。言うことまで同じで、泣いて頼む方だけが変わっていた。チンカスは否定しなかった。俺はあの人に文字を教わった時のことを、今は思い出したくなかった。
「あの子の噂を聞いて、本当に楽しかったよ。私を恨んでいるはずなのに、私にされたことを一つずつ、よその子でやり直していたんだね。私は君に指一本触れたことがない。今日まで、顔さえ知らなかった。それなのに、私があの子に仕込んだものが、ちゃんと君たちのところまで届いている。十年も付き合った甲斐があったというものだ」
キューブは、知らない場所で起きた人殺しを、自分の手柄のように喜んでいた。泣いて許しを求めていた奴が、よその子には同じことをしたのが嬉しいらしかった。チンカスはそれを黙って聞きながら、男の肩や、後ろに並んだ連中へ時々視線を動かしていた。
「君は冒険者としても、ずいぶん評判がいい。あの金髪の兄妹は、もっと強いのだろうけどね。だから自分たちには何もできないと思っているなら、少し困ったことになるよ」
キューブの口調には、少しも探りを入れるようなところがなかった。相手が何を答えるかも、最後にどうなるかも、もう分かっているように話していた。後ろの男たちも、自分がどこへ立つかは確かめていたが、勝てるかどうかを心配している様子はなかった。俺はそいつらの人数を数え直しかけて、途中でやめた。
「私が殺してきた冒険者にも、強い人は大勢いたよ。剣の勝負なら、私が負けたかもしれない相手もいた。けれど、家族を一人連れてくれば剣を置いてくれる人もいたし、仲間を一人借りれば、眠る場所も苦手な魔術も教えてもらえた。何も話さない人には、話せるようになるまで付き合えばいい。待ち伏せでも、寝込みでも、一人になったところを十人で囲んでもいいんだ。君たちが六人揃って、全員元気な時に、正面から戦ってあげる必要はないだろう?」
そばの男が、自分の首にある古い傷を指して笑った。そこに刃を当てた冒険者は、そいつが差し出した人質を受け取ろうとして、後ろから刺されたのだという。キューブは、あの人は最後までお嬢さんを放さなかったね、と頷いていた。昔の失敗を取り繕っているのではなく、うまくいった仕事の話をしていた。俺は物置の中にいて、自分が捕まったらチンカスまで剣を置かされるのかと考えた。
「チェインも、そういうことはよく覚えた。冒険者を何人も殺していたよ。腕の立つ相手でも、自分より弱い誰かのために手を止めてくれる。そこを見つけるのが上手かったんだ。今は君たちを大切にしているそうだから、いずれあの子にも手伝ってもらおう。ほかの子を助けるために一人だけ焼いてもらおうか。一度できれば、二度目は難しくない。最後に君たちが揃って、あの子をどんな顔で見るかも楽しみだ」
チェイニーさんが魔術を使うところは、何度も見ていた。それが俺たちへ向いたらどうなるのかを考えた時、キューブは、ちゃんと言われたとおりにすれば最後の一人は助けてあげるよ、と付け足した。さっきも一人選べば残りを助けると言って、全員殺した話をしていた。その約束を守るつもりがあるようには、俺にも聞こえなかった。
「あの兄妹には、日を改めて、ここの人たちから呼んでもらえばいい。家に火をつけてやれば、ああいう人は必ず助けに来るからね。逃げてきた人を何人か捕まえておいて、どちらを助けるか選んでもらおう。助けたい相手を抱えている時に、どれだけ剣を振れるか見せてもらいたいものだね」
俺は昨日まで寝ていた家の屋根を見た。乾いた板を重ねただけで、雨が降れば漏るくせに、火がつけばすぐ隣の家まで燃える。キューブはまだ先の予定を話していたが、その時にここで寝ている奴らには、知らせてさえやるつもりがないのだろう。物置を出て走っていきたくなったが、目の前の男たちが通してくれるはずもなかった。
「もちろん、君一人なら、ここで片づくけれどね。あの兄妹と違って、わざわざ仕掛けを用意するほどの相手でもない。チェインの奴隷だった子が強くなったと聞いて楽しみにしていたけれど、売女の股から放り出された糞便に、帰れと言われるとはね。君のお母さんにも聞かせてあげたいくらいだ」
チンカスの親指が、人差し指の付け根を押した。ほんの少し白くなった皮膚が見えて、俺は、その手を見続けていた。口元は動かなかったし、相手へ近づこうともしなかった。キューブの方は、返事を待つ間に、閉まった家の窓へ一度目をやった。
「だから、黄金の剣の皆さんも、私には皆殺せる。君が仲良くしている相手から順番に並べれば、今度はもう少し早く選べるかな。選ばされるのは二度目だろう。やり方は分かっているはずだね」
押しつけていた親指が離れた。手を握り直すのかと思ったが、チンカスは何もしないまま、足をほんの少しだけ置き換えた。顔はさっきと同じだった。だが、キューブが喋っている途中で、それまで時々していたまばたきが止まった。
「それで、昨日申し上げた子供たちは、いかがいたしましょう。隠した場所は、後でこいつに吐かせますか」
「そうだね。一緒に連れていこう。まだ誰のものでもないのなら、首輪をつけるところから教えればいい。ここの子たちは、言われたことを覚えるのが早そうだ」
「昨日の一番小さいのは、まだ満足に働けそうにもありませんでしたが」
「手足が揃っていれば、使い道はあるよ。せっかくここまで来たんだ。少しくらい持ち帰るものが増えても構わない」
指輪の男が、俺たちの家を顎で示した。キューブはチンカスの顔を見ながら答えていて、荷物が増えることより、そちらの返事を待っているようだった。チンカスの指先から、また力が抜けた。俺が見ている間に、その手は、最初に下着を眺めながら煙草を持っていた時より、ずっと楽そうな形になった。
キューブが小さく手を上げると、男たちの剣が鞘を離れた。杖を持つ連中は、前へ出た仲間の後ろで魔術を唱え始めた。キューブ自身も剣を抜いたが、それを下げたまま、部下たちの向こうを眺めていた。チンカスは誰が近づいてきても構えを変えず、小さく呟いた。
“領域展開”