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剣を抜いた男が、不意に背後を振り返った。誰もいない虚空へ剣を振るったかと思えば、今度は狂ったように自分の腕を払い始める。隣では別の男が胸を押さえてうずくまり、詠唱中だった魔術師でさえ喉をかきむしって喘いでいた。
チンカスはまだ、指一本触れていない。
虫でも服に入り込んだのかと思ったが、俺の目には何も見えない。それなのに、男たちは必死で何かを追い払うように腕や腹を掻きむしっている。誰かが剣を取り落とし、その甲高い音だけで悲鳴が上がった。さっきまで下品に笑っていた顔が、どれも土気色に染まっている。
「やめろ……見るな。俺の中を見るな……!」
「キューブ様、こいつ、何を……」
「自害しろ」
怯え切っていた男が、自分の胸へ躊躇なく剣を突き立てた。別の奴も地面の刃を拾い上げ、喉元へ押し当てる。すぐ目の前に、殺そうとしていたチンカスがいるというのに。
俺は声も出せず、奴らが次々と自ら命を絶っていくのをただ見ているしかなかった。
キューブの側近らしき十人はまだ倒れず、盾持ちの男が魔術師を庇うように前へ出た。その左右から二人が回り込み、正面からは小柄な男が飛び出してくる。手には短いナイフ。チンカスは避ける素振りすら見せない。鈍い音とともに、刃は深々と首へ食い込んだ。
今度こそ死んだ。そう思った。確かに首を斬り裂き、振り切るところまでこの目で見たのだ。
だが、宙を舞ったのは斬った男の頭だった。
首筋が真横に裂け、ナイフを握ったままの胴体を残して頭部だけが転がり落ちる。チンカスは両手をだらりと下げたまま、落ちてくる頭に一瞥もくれない。
斬撃の衝撃を体内で循環させ、相手にそのまま叩き返したのだと、後になって教わった。だが、その時の俺に理解できたのは、切断されたはずのチンカスの首に傷一つないという異常な事実だけだった。
見間違えかと考えを巡らせる暇などない。
チンカスが一歩、踏み込んだ。たったそれだけで、十メートル先の魔術師の眼前に立っていた。黒い短剣が一閃し、首が飛ぶ。間に入ろうとした盾持ちの男も、構えた腕ごと切り落とされる。二つの体が地面に崩れ落ちるより早く、あいつは次の獲物へ向かっていた。
「え、ちょっ、待──」
「ぎゃああッ! 腕ッ、俺の腕がッ!」
「下がれ! こいつ、こいつは──」
片腕を押さえて絶叫する男の喉を裂き、横合いから突進してきた大男の胸を、手のひらで無造作に押す。ただそれだけで巨漢は崩れ落ち、二度と動かなくなった。左右から襲いかかった二人も剣を空振りし、次の瞬間には首を落とされている。何人で囲もうが、足止めすらできない。
剣が迫ればわずかに身を躱し、槍の突きはその脇をすり抜ける。どれも必殺の間合いに見えるのに決して当たらず、仕掛けた側から血を噴いて倒れていく。逃げようと背を向けた相手には、またあの一歩で十メートルの距離を消し飛ばした。
俺の目には、チンカスが死そのものから愛されているようにしか見えなかった。
死が、こいつだけを避けて通っていく。そんな馬鹿げたことがあるはずないのに、そうとしか表現できない。すぐそばで首が飛び、血の雨が降ろうとも、あいつはいつも裏路地を歩いている時と何一つ変わらなかった。
「やめっ、やめてくれえッ!」
「キューブ様あッ! 助けてッ、助け──」
「悪かった! 俺はもう、改心す──」
武器を投げ捨て、地に這いつくばって命乞いする男。チンカスはそいつを蹴り飛ばすでも嬲るでもなく、通りすがりに首を刎ねた。あれだけ散々コケにされていたのだから、せめて何か言い返してやると思っていたのに、言葉の終わりを待つことすらしなかった。泣き叫ぶ奴にも、額を地面に擦りつける奴にも、ただ事務的に刃を振るう。
指輪の男が仲間の背中を突き飛ばし、囮にして逃げようとした。だが、その仲間が目の前で物言わぬ肉塊に変わると、とうとう足を止め、両手を高く上げた。昨日、俺の頭を鷲掴みにしたその手が、今は哀れなほど震えている。太い二つの指輪もそのままだった。
「ガキには何もしてねえ! 頭に触っただけだろ、なあ! 頼む、俺だけは──」
その先はなかった。
チンカスが横を通り抜けるのと同時に男は崩れ落ちた。さらに向こうでは、最後の一人が広場の出口へ逃げ込もうとしている。三十メートルは離れていた。チンカスがそちらへ向かって軽く手を振ると、男の背中が縦に裂け、前へのめり込むように倒れて動かなくなった。
キューブは、剣を抜いた立ち位置から一歩も動けず、呆然と立ち尽くしていた。部下が殺されるたびに顔を引きつらせ、何か叫ぼうと口を開くが、声にならない。助けを求められても剣すら構えられず、最後の一人が絶命して、ようやくチンカスへ向き直った。
四十人近い部下が全滅するまで、およそ十秒。
その中にはレベル十以上の猛者が十人もいたという。領主が大金を積むほどの上澄み連中が、泣いて逃げ惑う暇すら与えられず、瞬きする間に肉の山に変えられた。
後で逃げようが泣こうが絶対に殺す。
チンカスが最初に放った言葉は、ただの脅しではなかった。手を出せば本当にそうするという、絶対の宣告。ディンクの爺さんも、アーサー様も、嘘などついていなかったのだ。大陸最優の冒険者にして、黄金の剣の二番手。俺が一度でいいから会ってみたいと焦がれた【不死者】は、あの薄汚い馬小屋に住むクズだった。
昔、一国を滅ぼした【虐殺機構】というゴーレムの伝承を聞いたことがある。悲鳴にも命乞いにも一切反応せず、標的が死ぬまで機械的に殺戮を繰り返すという代物だ。
今のオーエンはまさにそれだった。ただ、あいつは奇妙な顔をしていた。口元をわずかに歪め、怒っているのか、それとも忌々しく思っているのか分からない表情で、血溜まりを歩いてくる。少なくとも、殺戮に酔いしれている顔ではなかった。
近づいてくるオーエンを前にして、キューブがようやく剣を正眼に構えた。黒い短剣を受け流し、すぐさま斬り返そうとするが、その時にはすでに横へ回り込まれている。しかし、首元へ迫った凶刃を弾き返したのは、眩い銀色の光だった。
浅く残った傷まで消えていくのを見て、キューブの口元に笑みが戻る。
キューブは首の傷が消えたのを確かめると、また笑った。忍者の首はねを防ぎ、回避できない魔術で殺す。だから【君主】は、【
キューブの剣に白き光が宿る。スヒリア様も使う【退魔の剣】。相手を過剰回復させ、内側から破裂させる即死技だと聞いている。あれを喰らえば、傷を治す間もなく死ぬ。
踏み込んだ足が石畳を粉砕し、剣尖がオーエンの顔面すれすれを薙いだ。空を切った斬撃は十数メートル先の井戸を真っ二つにし、廃屋の壁ごと抉り飛ばす。キューブは上体を反らして躱した相手へ刺突を繰り出し、それも避けられると、剣を振りかぶりながら魔術の詠唱を始めた。
白魔術系統第七位階【雷霆魔術】。
極太の稲妻がオーエンを直撃した。物置の奥にまで轟音が響き、目が潰れそうな閃光の中、あいつの全身を駆け巡る雷撃が見えた。肩口の布が焼け焦げ、脇腹の皮膚が弾け飛ぶ。
だが、足は止まらない。
己を焼く光の奔流の中を、そのままキューブへ向かって突進した。
まだ雷を纏ったまま振るわれた短剣が、キューブの胸を叩く。刃は鎧に弾かれたように見えたのに、キューブはごぼりと血を吐いてよろめいた。鎧に穴は空いておらず、隙間から刃が入り込んだ形跡もない。奴は自分の胸元を見下ろしてから、血に染まった唇を動かした。
「……何をしたのかな」
答えはない。オーエンは無言のまま、再び短剣を振り上げる。キューブは剣で牽制しながら距離を取り、二度目の雷霆を詠唱し始めた。一撃目があれだけ入ったのだから、もう一度当てれば終わると思ったのだろう。
その詠唱の途中で、黒い短剣が異様な形へ変貌した。
細い無数の針と、内側へ反り返った鉤。到底、人を斬るための形ではない。見ているだけで胃の腑がねじ切れるような、苦痛を与えるためだけに作られた拷問具。それが先ほどと同じように、鎧の表面へ押し当てられた。
「あ゛ああああッ! 何だ、何をしやがったあッ!」
絶叫と共に詠唱が途切れた。キューブは剣を振るうことすら忘れ、激痛に身を仰け反らせた。広場に響き渡る悲鳴を上げ、腹を押さえて膝をつく。だが、オーエンの猛攻は止まらない。口から血と唾液を撒き散らしながら、キューブはどうにか短い呪文を紡いだ。俺も知っている、【快癒魔術】だ。
息さえあれば、どんな欠損や重傷でも一瞬で元通りになる魔術。スヒリア様に治療された瀕死の冒険者が、自分の足で帰っていくのを何度も見ている。キューブもまた、体内の傷と激痛をかき消し、立ち上がりざまに大剣を振り下ろした。
そこからは、瞬きすら許されない死闘だった。
一秒間に何度となく剣が交錯し、踏み込むたびに広場の石畳が弾け飛ぶ。キューブは快癒を絶え間なく挟みながら、頭を、腹を、そして退路すらも塞ぐように斬撃の嵐を放つ。その一撃でも掠れば、オーエンは死ぬはずだった。
基礎的な腕力と頑強さは歴然としている。一振りで石壁を粉砕し、内臓を何度切り刻まれても立ち上がるキューブ。対するオーエンは、最初の一撃で既に血だるまだ。速度すらも、わずかにキューブが勝っている。素人の俺にすら分かるほどの圧倒的な差。
それなのに、キューブの剣は全て虚空を斬っていた。
横薙ぎを放てば懐へ潜り込まれ、突きを放てば脇へ流される。振り抜いた剣を引き戻す頃には、すでに鎧越しに内臓を抉られている。キューブの方が速いはずなのに、オーエンは剣が届くより先に、その軌道から外れてみせた。何度繰り返しても同じだ。力や速度といった次元を超絶した、果てしない戦闘技術の格差がそこにあった。
「……くそっ 動けっ」
剣を振り上げようとしたキューブが、己の腕を睨みつけて怒鳴る。激痛で動かなくなった腕も、快癒を唱えれば即座に治る。だが、柄を握り直して相手へ向き直るその僅かな隙に、また致命の刃が突き立てられる。俺はそれを見つめながら、酒場で聞いた言葉を思い出していた。
「敵だと分かりしだい即座に目の前の敵を殺せ。仲間が惨殺死体になろうと目の前の敵を殺せ。拷問された程度の痛みで止まるな、目の前の敵を殺せ。0.0000000001秒でも手を止めれば全滅する」
酒場のホラ話か、せいぜい大げさな脅しだと思っていた。そんな真似ができる人間などいるはずがないと。
だが、オーエンは脇腹から血を滴らせながら、それを体現している。痛くないはずがないのに傷口に触れようともせず、キューブがどれほど悲鳴を上げようが、回復しようが、ただ目の前の敵を絶対に殺すための攻撃だけを繰り返している。
リルガミンの上位冒険者たちが見れば、今のキューブの戦い方を鼻で笑うだろう。仲間が殺されて十秒も硬直つき、痛みに驚いては手を止め、戦う前に長々と御託を並べる。あんな迷宮でそんな隙を晒せば、とうの昔に全滅しているはずだ。人殺しを稼業とする盗賊よりも、あんな魔境に潜り続ける冒険者の方が、殺意の純度という点ではよほど狂っている。
己がどれほど痛もうが、仲間が死のうが、まず敵を確実に殺す。それができなかった者は生きて帰れない。オーエンたちは、そんな地獄の底から何度も帰還してきたのだ。キューブが痛みに顔を歪めるたび、黒い刃が確実に致命傷を刻んでいく。
やがて、キューブは剣を振り切ることすらできなくなった。
最初は外しながらも攻撃の形を保っていたのに、今は腕を上げた瞬間に斬られ、踏み込む前に膝を折らされる。剣の構えを変えようが、距離を取ろうが、オーエンの動きに一切の迷いはない。
剣を躱された後の次手、接近された際の退路。あいつは戦いの中で、キューブの思考と癖を完全に読み切ってしまったらしい。初めから一方的だった力関係が、今や何をしようとも先回りして叩き潰されるという絶望的な領域に達していた。
「ち 畜生ッ!! クソ化け物め殺してやるッ!!」
血走った両眼が、物置の中にいる俺を捉えた。
咄嗟に戸から離れようとしたが、キューブがこちらへ剣を向けるより早く、オーエンがその射線を塞ぐように割り込んだ。胸元の鎧を強打されたキューブは血を吐き、またしても地に膝をつく。俺を人質に取るどころか、よそ見をしたせいで余計な一撃を貰っただけだった。
快癒を唱えて立ち上がった時には、黒い武器は元の短剣へと姿を戻していた。それで胸を突かれると、キューブはまた血を吐き、剣を振るうことすらできずに快癒にすがる。反撃のための回復ではない。今ある傷を治さなければ、その瞬間に死んでしまうのだ。
治癒の直後、再び同じ深さまで肉を裂かれる。キューブは怒声も仲間の呼びかけも放棄し、ただうわ言のように快癒を唱え続けていた。剣先が石畳に触れても、それを持ち上げる力すら残っていない。生き延びるためには回復し続けるしかなく、その代償として無限の斬撃を浴び続ける。
俺は途中まで刃が振るわれた回数を数えていたが、いつしかそれすら諦めてしまった。オーエンは相手の回復など歯牙にもかけず、冷徹な表情で肉を削いでいく。
やがて、キューブが何度口を動かしても、回復の光が灯らなくなった。
同じ呪文を繰り返していた唇が止まり、キューブはゆっくりとオーエンを見上げた。待て、という掠れた声が聞こえた気がした。その懇願を終える前に短剣が鎧を叩き、そいつは剣を取り落として、顔から石畳へと倒れ伏した。
オーエンは伏した肉体にもう一度容赦なく刃を突き立て、転がった大剣を蹴り飛ばした。完全に絶命したことを確認して、初めて自身の脇腹へと手をやる。そこへ来てようやく、傷の痛みに気づいたように顔をしかめた。今まで一度も気にする素振りを見せなかったくせに、布を押し当てる時には、心底嫌そうに歯を食いしばっている。
止血を終えると、今度はキューブの死体から鎧を剥ぎ取り始めた。戦闘が終わったと安堵して戸を開けようとした俺を、片手で制止する。まだ出るな、という合図だ。
遺体を残せば、寺院に持ち込まれて蘇生される危険がある。この街では、人殺しの後にまでそんな面倒な後始末がつきまとうのだ。
オーエンはキューブの体を細かく解体し、他の死体と共に火を放った。頭部だけは切り離し、布で厳重に包んでいる。この街の寺院の規格では、首だけ持ち込まれても蘇生は不可能なのだという。俺は途中から目を背けていたが、物置の隙間から入り込む肉の焦げる匂いと、気味の悪い音だけは防ぎようがなかった。
「もう出ていいぞ。そこ、釘が出てるから引っかけんなよ」
ここまで読んでいただけて嬉しいです
本当に