東方史上最強の弟子 レンイチ   作:浜栲なだめ

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第二十六話「不穏」

 妖怪の山に蓮一と刃空が潜入してから二日が過ぎた。

 昨日に蓮一達の居場所を突き止めた椛も結局河童の作った機械に為す術なく、ただフィールドが解除されるのを待つばかりの厳戒態勢を続けるしかなく、今の所蓮一の修行環境は整っていた。

 そして、昨日まで進展を見せなかった修行にも、三日目にしてようなく変化の兆しが表れ始めていた。

 

「はッ! はッ!」

「おっと!?」

 

 文の上段蹴りから逆方向に回転しての回し蹴りの連撃。いままでの蓮一ならば急な転換に付いて行けずにふっとばされていた所だが、蓮一は辛うじて十字受けで回し蹴りを受け止めていた。

 蓮一の僅かながらの成長に、思わず文は攻撃の手を止める。

 横で二人の組手の様子を見ていた刃空も目を見開き、蓮一に拍手を送った。

 

「おお、やったね、蓮ちゃん。ようやく制空圏を張れるようになったみたいね」

「もうちょっと時間の掛かるものかと思ったけど……どうしたのよ? 昨日とはえらい違いじゃない?」

「そうか、これが、俺の制空圏」

 

 蓮一は己の周りを覆う球状をした空間を見据えて呟く。

 今までは見えていなかった自分の間合い。それが今蓮一にははっきりと認識できていた。

 昨日出会ったクラマという名の妖怪の助言のせいか、蓮一の視点は現在、広く大きな視野を、自分を含めた空間を見つめているようになっていた。

 

「ふむ、鷹の目(ホーク・アイ)、ね」

「ホーク・アイ? 何それ?」

「鷹のような鋭い視力、と言う意味ね。今の蓮ちゃんの視野には文や周りの木々だけでなく、わいちゃんや自分をも入れている。さながら上から見たようなずば抜けた空間把握能力を会得しているという事ね」

「成程、それで制空圏を認識できるようになったって事ね?」

 

 通常、視野には入らない真後ろでさえも、今の蓮一はホーク・アイによってある程度認識できている。

 今まで目だけに頼ってきた蓮一がようやくその段階を超えた。先に開展を求め、後に緊湊に至る。

 開展の段階にあった蓮一が、ようやく緊湊の位置へと踏み出した瞬間だった。

 

「ま、これでようやく次の段階に移れるね、ほれ」

「え……なんです? 師父の持ってるその二本の巨大な丸太は……?」

 

 持ち手の部分が荒く削られて、布が巻かれているその二本の丸太をそれぞれ両手に構え、刃空は蓮一の前に立ちはだかった。

 蓮一は汗を流しながら恐る恐るその丸太で一体何をする気なのか尋ねる。

 

「避けるね、蓮ちゃん」

「い、いや、そんなの一発貰ったらもう五体満足ではいられないというか……」

「ついでに、文、蓮ちゃんの後ろから石でも投げるね。制空圏が張れてもそれに反応できないんじゃ話にならないね」

「わかったわ、大きさはこんなもんでいいかしら?」

「いやいや、あんなのでも意外と当たったら痛いですよ? まぁ、それでも丸太よりマシか……」

「スピードはこんなもんかしら?」

 

 文が、軽くスナップを利かせて小石を木に向かって投げつける。

 空を切り裂き、まるで弾丸かなにかのようなスピードで蓮一の耳元を小石が掠め、その先にあった木の幹に大きく穴を空け、貫いた。

 木の倒れる音が聞こえると同時に蓮一の顔から血の気が引いた。

 

「ちょっと!? 小石で木が倒れましたよ!? あんな威力の小石喰らったら痛いじゃすまないんですけど!?」

「わいちゃんの丸太に比べれば全然威力はないねッ!」

「何張り合ってんですか!? 余計悪いわ! 修行で人死にを出すつもりかあんたらッ!?」

 

 その後、蓮一の必死の抗議により、二人ともあくまで命に関わらないレベルで加減する事を義務付けられた。

 それからしばらくして。

 

「――あーあ、だからしっかり避けなさいって言ったね」

「いや、だって……攻撃範囲広すぎて……対処のしようが……」

「なんか丸太から必死に逃げる相手の後ろから小石投げて追撃って弱いもの苛めしてるみたいで気が引けるわ」

「そう思うんだったらお前は当てる場所を選べ。なんで全部、頸動脈狙いなんだ……執拗に意識を奪おうとするんじゃあないッ……!」

 

 うつ伏せで地面に倒れ伏しながら、力の限り声を上げる。

 修業開始一分足らずで一撃目を喰らい、それ以降十回繰り返したが、石は避けられないわ、丸太は怖いわでほとんど修行というよりはただ追いかけ回されているだけに終わってしまった。

 

「あの、蓮一さん、水いります?」

「ああ、すまん、にとり……」

「キャア! 手が、手が触れた!」

 

 にとりが水筒を持って来てくれたが、受け渡しの際に互いの手が触れて動転した彼女は水筒内の水を全て蓮一にぶちまけてしまった。

 

「にとり……お前は、そろそろ俺に、慣れろ……」

「あっ! 蓮一さん!? ちょっと、蓮一さーん!?」

 

 最後の力を振り絞ってそれだけ言い残し、蓮一は意識を失った。

 

 

『あいつに少しでも手を出してみろ……』

『ひ、ひいっ! た、助け……!』

『お前を、どんな手を使ってでも――――』

 

――――絶対に殺してやるッ!

 

「――うわあああああああっ! はぁ、はぁ……ゆ、夢か……」

 

 里の中心区画、壱番エリア。

 そこに並び立つ貴族の屋敷の一つ、豊金家の屋敷で、その主人たる豊金はベッドから跳ね起きた。

 ベッドから起き上がった豊金の顔は酷く青ざめ、身体中を嫌な汗がべったりとへばりつき、動機も荒い。

 今一度、さっきまでの事が夢であったのを再確認し、心から安堵の溜息を吐くと、舌打ちをしながら彼はローブを脱ぎ捨て、私服へと着替える。

 

「全く、なんて朝だ。よりによって、あ、あいつの夢を見るなんて……」

 

 夢の内容を思い出し、豊金は震えた。

 

「自警団の奴らがスラムに攻撃を開始するまでまだ四日もある。議会ではああ言ってはいたが、霧雨のクソジジイの事だ。きっと辻秋に手荒な真似はするな、などと手温いことを言っているかもわからない。そうなっては困る。奴には、拳鬼には死んで貰わねば困るのだ……」

 

 豊金の起床を察知したのか、ノックと共にメイドが紅茶を運んで部屋に入って来た。

 紅茶の爽やかな香りが部屋中を包み込み、さっきまで落ち着きのなかった豊金も幾分か冷静になっていく。

 メイドに下がるように言ってから紅茶をカップに注いで一口啜る。

 口の中を暖かな紅茶が流れ込み、乾いていた喉を潤していく。

 

「ふぅ……とにかく、だ。保険は用意しなければ」

 

 そう言って、含みのある笑みを豊金が浮かべた所で今度はノックと共に燕尾服を着た男の姿が現れる。

 それが自分の執事である事を確認すると、豊金は何の用か尋ねる。

 

「ご主人様、例のお客様がお見えになりました」

「ほぅ、随分早かったじゃないか。よし、丁重に食堂に通してやれ、朝食も二人分だ」

「かしこまりました」

 

 口数少なくそう一礼すると、執事は部屋を出て行く。

 豊金も食堂まで行こうと身だしなみを整えようと姿見の前に立つ。

 そして、思わず驚きの声を上げてしまった。

 

「おっと、いつの間に……こんなにはしたなく口角が吊り上っているじゃないか」

 

 姿見の中に映る豊金の表情は(いや)らしく残酷な笑みを浮かべていた。

 

「――失礼、客人をお待たせして申し訳ない」

 

 しばらくして身だしなみを整え終えた豊金が食堂に下りると、既にその席には一人の男がナプキンを付けて椅子に腰かけていた。

 男は顔立ちからして幻想郷の大半を占める人種である日本人ではなく、所謂西洋系の顔立ちをしていた。

 高い鼻、ブラウンの髪、青い瞳。里ではまるで見ない顔立ちだ。

 その西洋人の男は豊金の声に反応すると、首だけを真横に動かしてそのまま頭を下げる。その所作が一切の無表情で、しかもまばたきもなしに行われるので非常に気味が悪い。

 豊金も、苦笑いを浮かべながら対面の席に着くと、メイドが即座に食事を運び、朝食が始まった。

 半熟のベーコンエッグと色鮮やかでみずみずしいサラダに良い焼き色の付いたトースト。貴族世帯でなければ滅多に見られる事のない西洋風の朝食だ。

 幻想郷にはまずパンなどという文化が浸透しきっていないので、貴族の中でも好んでパンを食べる者はあまりいない。

 そんな彼らを時代遅れな猿と嘲笑しながら半熟の目玉焼きをつつき、そこから溢れる黄身をたっぷりとつけて優越感に浸りながら黄金色に染まるトーストを頬張るのが豊金の一つの楽しみであった。

 文化一つとっても自分は他とは違う。先を行っている。そんな優越感がたまらなく豊金は好物であった。

 そんな悦に浸りながらトーストを食べていると、ふと向かいの西洋人の男が無表情にただじっと皿の上の朝食を見つめているだけである事に気付く。

 もしかしたら何か食事の文化が違うのかも知れない、何か気に障ってしまったのだろうか、と慌てて豊金は向かいの男に声を掛ける。

 

「お、お口には合いませんかな?」

「……いえ、そうではないのですがね」

 

 それまでまばたき一つせず、じっと置物か何かのように無表情に皿を見つめるばかりだった男が突然、その視線を目の前の豊金に向ける。

 そのあまりの異様さに、思わず豊金は後ろに下がるよう身を翻してしまう。

 

「何せ、『私達』はあまりこういった食事をしないものですので、珍しくてつい」

「そ、そうなのですか。はは、これはどうも失礼を……」

 

 冷や汗を垂らしながら、豊金はなんとか笑顔を向けるが、心臓の鼓動は全く収まる気配を見せない。

 

「それで、本題に移りましょう、豊金さん。時間は無限ではないのでしょう?」

「そ、そうですな。では改めて、以前も話した通り貴方にはある男を消して頂きたいのです」

「ほー、ほー。それで? それはどんな男なんです?」

 

 西洋人の男は背もたれに深く腰掛け、結局皿の上の食事には一切手をつけないまま抑揚のない無機質な声で話を進める。

 

「それが、厄介な男でして。スラム街で墓吐武頭という不良グループのリーダー役、武村という男なのですが……」

「人間、ですか」

「ええ、でも私はあいつの事を人間だとは思ってはいません。元々スラム街の奴らなんざ全員害虫ですが、奴はその中でも選りすぐりの害虫。最早除虫剤(人間)じゃ手に負えない」

「ほー、それで殺虫剤()、ですか?」

 

 そこで初めて今まで無表情を貫いていた西洋人の男の顔にこれ以上なく残忍な笑みが生まれた。

 

「まぁ、そういう事です。四日後に自警団のスラムへの総攻撃がある。そこに紛れて奴を人知れず抹殺してくださればいい」

「いいでしょう。それで、報酬についてですが」

「は、はい」

 

 正直、この件に関してあまり豊金は金を掛けたくはなかった。ただ害虫を駆除するのに資産を削るなど勿体ない。

 何故あんな害虫のために自分の資産を削らなければならないのか。内心ではその理不尽な怒りで一杯だった。

 しかし、男の要求は存外意外なものであった。

 

「別に金銭は求めません。ただ、この里での居住権が欲しいのです」

「は? 里に移り住みたいと? それなら役所にでも……」

「ええ、ですからその際、貴方が私の身分を融通して欲しいのです」

 

 成程と豊金は内心で得心した。

 要は男の存在を自分が裏でやり繰りしてでっちあげろ、という事だ。

 そういう事ならお安い御用だ。役所には自分の息のかかっている人間が何人か居るし、それなら金もほとんど減らない。

 豊金にとっては実質タダのようなものだ。

 

「わかりました。では、報酬はあなたの居住権という事で」

「ほー、ほー。それでは、また四日後に報告に参ります」

 

 豊金の快諾の言葉を聞くと、西洋人の男は即座に席を立ち、そのままろくな挨拶もなしに屋敷を出て行ってしまった。

 見送りまで出て行った執事が豊金の元に戻ってきて気味の悪そうな顔で主人に尋ねる。

 

「ご主人様、あの男、一体何者ですか? 出で立ちだけは貴族のようでしたが、あまりに不気味。まるで人間味を感じませんでした……」

「ああ、お前は知らない方が良い」

 

 豊金は執事にそれだけ言って下がらせ、メイドに残った食器を片づけるよう命じると、自分も朝食を終え、席を立った。

 そして、食堂の扉の前で振り向いて、下げられていく一切手の付けられていない皿を見て笑うと自分の部屋へと歩いて行きながら呟く。

 

「やっぱり、妖怪に人間の食事は口に合わないか」

 

 

「レベル3、終了ね。そろそろ夕飯の用意を始めるから今日はここまでね」

「は…………い」

 

 丸太棒を地面に突き刺して去っていく刃空に、蓮一は辛うじてその一言だけを絞り出した。

 制空圏の修行、その三段階目がようやく終了した。正直何度死線を彷徨いかけたか分からないが、その甲斐あってようやく制空圏がなんたるかを理解してきた。

 しかし、残り四日という短い時間で果たして習得できるのか。元より分かっている事ではあったが、未だ分からない。

 そもそも七日間で制空圏を会得しようという試み自体無茶だという事は分かっている。それでも、何とか自警団の攻撃が始まり、取り返しのつかない事になる前に、武村と戦わなければならない。

 戦って、彼の進もうとする道を正してやらねばならない。

 それは自警団の誰にもできない。一度拳を交わした自分でなければならない。そう蓮一は思っていた。

 だから、無理を承知でもこの修行を完遂し、武村を戦えるだけの力を手に入れなければならない。

 蓮一は鉛のように重たく感じる身体をその気力で動かす。

 が、その動きを制する文の姿が視界に入り込んできた。

 

「動かない方がいいわ。夕飯の準備位私と父さんでやっておくから、あなたは体力を温存しておきなさい」

「文……」

「しかし、頑丈ね。二、三十回は吹っ飛ばされてたけど。それに、よくこんなに一生懸命にやるわね。何か理由があるにせよ、大したものね」

「じゃあ、文は何で長い間武術をやってたんだ? 俺よりも入れ込んでるだろ?」

 

 文の話では軽く三百年は武術の修練に励んでいたとの事であった。

 なのに、文の蓮一にかける今の台詞には、武術に対して無関心が入り混じっているかのように聞こえる。

 文は地面に仰向けになっている蓮一を見ると、溜息を吐いて、口を開く。

 

「言ったでしょ? 単純に父さんの事を考えるのが嫌だったから暇つぶしにやってただけよ」

「以前、師父が言ってたんだ、武術をやる理由がなんであれ、それを長い事続けるのは並大抵の事じゃないって」

「……父さんが?」

 

 文が驚いた顔で蓮一を見る。

 

「武術っていうのは常に何かとの戦い。修行では自分と、実戦では相手との。武術をやり続けるって事はつまりは戦い続ける事だ。それは暇つぶしとか、興味本位とか軽い理由で出来る事じゃない。だから、武術っていうのは続けているだけでも立派なんだって」

「私は、そんな立派なんかじゃない……そんな大層な理由なんて、私にはない」

「……父親の事を考えたくなくて武術始めたって言ってたよな? それって、逆に父親の、射命丸刃空を意識していた事の裏返しなんじゃないか?」

「は?」

 

 文がこれ以上なくすっとんきょうな声を上げる。

 急に何を訳の分からない事を言うのだこいつは、と困惑の眼差しが向けられている。

 しかし、それに構わず蓮一は続ける。

 

「母親には忘れろって言われたけど、本当は気になっていた、それで父親に少しでも近づきたくて武術を始めた。違うか?」

「そんな訳ないでしょ? 何で顔も見た事のない父親を意識しなきゃならないのよ!?」

「そういうもんなんだよ、親っていうのは。顔を見た事がなくったって自分にとってはどしようもなく大きい存在なんだよ、家族は」

 

 蓮一は、今は亡き自分の両親を思い浮かべながら言った。

 最も蓮一がその存在の大きさに気付いたのは、全てを失ってしまった後であったが。

 

「それに、本当に師父の事が嫌いで武術も暇つぶしにやってる程度だったら。最初っから俺の事助けてくれないだろうし、あの哨戒天狗達相手じゃ助かってない」

「そ、それは……」

「文、お前の本心は――――」

「うるさいっ!」

「――!」

 

 突然目の前の文が怒鳴り声を上げて蓮一の次の言葉をかき消した。

 蓮一が驚いた表情で文を見つめると、彼女は立ち上がってどこかへ飛んで行ってしまった。

 呆然と小さくなっていく文の姿を見ている蓮一の肩に、いつの間にか後ろから刃空が手を置いていた。

 

「蓮ちゃん。心遣いは嬉しいけど、あんまりあの子を追い詰めないでやって欲しいね」

「でも、それじゃ、いつまでも師父は……」

「それでいいね。悪いのは文と天魔を置いて里から逃げたわいちゃんね。だから、今はそっとしておいて欲しいね」

 

 刃空の声は優しさとどこか寂しさの入り混じった声だった。

 彼のその思いつめた声で言われると、蓮一はそれ以上何も言えなかった。確かにこれは会ってたかが数日の、しかもあかの他人である蓮一が立ち入るような問題ではないのかもしれない。

 しかし、かと言って一度内情を知れば放っては置けない。何とか僅かに回復した体力を振り絞り、立ち上がると、文の消えて行った方角へ歩いて行く。

 

「……蓮ちゃん」

「差し出がましい事は百も承知の上です。でも、動くべき者が動かないのなら、他の誰かが動かなきゃいけないと思うんです」

 

 森へ歩いて行く蓮一の影が長く伸びていた。

 刃空は黙ってそれを見ている事しかできなかった。

 

「――――はぁ、思わず逃げてしまった」

 

 森の中、文は適当な木によりかかり、両足を抱きかかえて顔を埋め、先刻の蓮一の言葉を思い返していた。

 確かに父親の事を考えたくないから武術をやるという思考は父親への意識の裏返しなのかも知れない。しかし、文は認めたくはなかった。

 そもそも何故父親の事を考えたくないのか。その根本にはあの時の母の言葉がある。

 

『文、父親の事は忘れなさい』

 

 父はいない。だから父親の事を聞いたところで悲しくなるだけだ。母はそう言って私を抱きしめた。

 その時の母はそれまで見た母のどの姿よりも弱々しく儚かった。あんな母の姿を見たくはない。自分のせいで母がまたあのような姿を見せるのは嫌だ。だから、父親の事を考えぬようにしたのだ。

 

――母のために私は父を忘却に追いやろうとした。

 

「そして、それは私自身の意思だ……!」

 

 自分に言い聞かせるように私は何度も呪文のように同じ言葉を繰り返した。

 

「その言葉に文様はいますか?」

「え?」

 

 突然、すぐ近くから声が響き、うずめていた顔を上げる。

 しかし、周りに何かの姿は見当たらない。

 謎の声はさらに続ける。

 

「今の文様の言葉は文様自身の言葉ですか?」

「……その声はにとりね。また光学迷彩スーツとやらで隠れてるんでしょ? 早く姿現しなさいよ」

「いや、ちょっと恥ずかしいんでこのままで」

「何でよ!? そろそろ慣れなさいよ!」

 

 おそらく声の方向からして今にとりは目の前にでもいるのだろう。

 文は大きく息を吐いて渋々姿を消したままでの会話を了承した。

 

「それで、どういう意味? さっきの言葉は?」

「そのままです。『私自身の意思だ』って何度も呟いてましたけど、本当にそれは文様の意思なんでしょうか?」

「あんたまで蓮一と同じような事言うのね。そんなに父親を忘れようとしているのがおかしいの? 顔も見た事がない、育てられてもいない、思い出も何もない、ほとんどあかの他人よ? そんな父さんの事を忘れようとするのってそんなに不自然?」

「そ、そんな事は言ってないです。私はただ――――」

「言ってるも同然だって言ってんのよッ!」

「ひゅい!?」

 

 にとりが文の怒声に怯えきった悲鳴を上げる。

 光学迷彩のおかげでにとりの表情が見えないのが文の救いだった。今のにとりの表情を見れば、きっと自己嫌悪で立ち直れない気がした。

 文はわかっていた。どうして蓮一やにとりがこうして自分に言葉を掛けるのか。そこに悪意がない事も、自分のためを思って言っている事もわかっている。

 だが、それでも文は認めたくないのだ。

 

「確かに、私の記憶に父はいなかった。でも、その分母さんが私を愛してくれた! 自分の仕事よりも私の我が侭を優先してくれた! 自分の体調よりも私の体調を心配してくれた! 母さんはいつも私の事を考えてくれていた! それなのに――――」

 

 言葉が詰まった。いつの間にか目頭が熱くなり、視界が歪み、頬に冷たいものが流れた。

 

「――それなのに、これ以上のもの(父親)を望むなんて出来る訳ないじゃないッ!」

 

 静けさを保っていた森の中が、文のその叫びと共に風に揺られてざわめき始める。

 ここまで声を張り上げるのは久々だった。そのせいか、呼吸がうまくできず、動悸が治まらない。一種の興奮状態になっていた。

 

「――そうか、それがお前の本心か」

「――! 蓮一!?」

「あ、蓮一さん!?」

 

 文とにとりがほとんど同時に、木々の間から現れた蓮一の姿に驚愕の声を上げた。

 にとりに至っては驚愕の余りか、光学迷彩を解除してしまっている。

 

「やっと、お前の本心が聞けた気がする」

「…………」

 

 文はさっきとは一変して黙りこくってしまう。

 文自身、今の蓮一の言葉にどう返せばいいか分からなかったのだ。それに、文が何か返答を返さずとも、蓮一は次の言葉を続けた。

 

「文、じゃあお前自身はどうしたいんだ?」

「……え?」

「文は父親ともいたいのか? それとも今のままでいいのか?」

「だから……これ以上の事なんて」

「それは思いやりの言葉だ。 今は他の事は何も考えず、純粋に文はどうしたいのか、それを聞きたい」

「え……それは…………」

 

 長い沈黙が続いた。

 文の純粋な意思。蓮一が聞いているのはそれだ。しかし、それを口にしてしまうのは文にとって重大な裏切りに思えた。

 答えるべき答えは自分の中にある。それには文も気付いている。しかし、答えられない。

 この気持ちを口に軽々と出せるものなら今まで父親の事を忘れようと五百年以上も奔走する事などなかっただろう。

 だから、今更になって口に出す事など出来る筈がなかった。

 

「……まぁ、今無理して聞こうとも思わない。悪かった、俺みたいな他人が文の内情にしつこく首を突っ込んで」

「いや、別に気にして――――はいるけどね」

「本当に悪い。でも、文のその気持ちを口に出さないと、何も動かないと思うんだ。今すぐに答えを出せとは言えないけど、せめて手遅れになる前には――――」

 

 そう言葉を切って、蓮一は元来た道を辿っていった。

 その背中を追うようににとりも付いていく。

 文だけがそこから動かず、またしばらく顔を埋めて座り込んでいた。

 

 

 夜。人間の里、第伍エリア、スラム街奥地。

 光といえば月明かりと水商売をやっている店の仄暗い蝋燭の明かりのみ。それ以外の一切が闇に包まれたそこに二つの影があった。

 片方はボロボロの着物を羽織った如何にもスラムという風貌の男。もう一人はローブを纏い、フードで出来る限り顔を隠すようにしている人間。

 しかし、風が吹く度に僅かに垣間見える靴や鎧のようなものを見る限り、スラム街の人間ではない。

 それに、鎧を纏っている事からおおよそ戦闘を生業とする人間。

 

「やあ、今日は月が良く見える良い夜だね」

「…………」

 

 スラムの男が声を掛ける。月が良く見えるとはいったものの、今は月が雲間に隠れて良く見えない。

 フードからの返答は帰って来ない。男は困ったように笑いながら頭を掻く。自分の台詞にツッコミを入れて貰うために口に出したのだが、どうにもそういう事をやるタイプでもないらしい。

 男は話題を変えて、再度声を掛ける。

 

「君、見た所スラムの人間じゃないよね? 一般人が夜のスラム街に何の用事かな?」

「…………」

「全く強情だなぁ」

 

 自分の言葉に全く反応を見せないフードの人間にほとほと困ったように両手を上げて首を振る。

 しばらく沈黙状態が続いたかと思うと、雲間が晴れ、月が二人の姿を照らし出した。男の褐色で筋肉質な肌が照らし出されると共に、フードの中も同じように照らされ、その素顔が男の目に入る。

 

「ふ、なんだ、やっぱりお前か、小夜」

 

 男は驚嘆と納得の入り混じった声で一言そう呟く。フードの女も、もう隠す必要はないと被っていたフードとローブを外す。

 フード内に収まっていたらしい黒髪のポニーテールが跳ね、同時に彼女の身体の所々を覆う銀色の西洋甲冑が月明かりを受けて闇の中で輝いていた。

 それは自警団ジャンヌ隊に所属し、蓮一と共にスラム街での調査に随伴し、そして不良グループの頭である武村の実の妹、小夜の姿だった。

 

「久ぶりね、兄さん。いや、『拳鬼』武村」

「まさか、お前からここ(スラム)に帰って来るとは思わなかったじゃな~い」

「帰って来たんじゃない。私の場所はもうここじゃない」

「ふーん……ま、いいけどね。それで? 今日は一体ここに何しに来た? 僕はもう眠いから寝てしまいたいんだが?」

「何をしに来たのかは……兄さんが一番わかってるでしょ?」

 

 そう言って小夜は武村に向けてファイティングポーズを取る。

 それを見て武村は首を横に振って苦笑いを返す。

 

「おいおい、まさかここで()ろうって事かい? お前じゃ無理だよ、どうせもう少ししたら自警団が総力を挙げて僕達を潰しにくるんだろう? その時に来ればいいじゃな~い」

「そんな戦争が始まれば、きっと大勢人が傷つく。そんな事にはさせない、蓮一さんみたいな事には、もう二度とさせない!」

「やれやれ、困ったな。だからお前が僕を倒しに来たって? 小夜、見逃してやるから帰るんだ。お前、僕に今まで一発だって入れた事あったかい?」

「ッ! 私は昔とは、違うッ!」

 

 小夜はその言葉と共に武村へと果敢に飛びかかっていく。

 それに対し、武村は今まで浮かべていた笑みを消し、ゆっくりと拳を構えた。

 

「全く、物わかりの悪い妹を持つと、苦労するじゃな~い」

 

 瞬間、武村が今まで瞳に宿していた光が掻き消え、その目はまるでドブのような光差さぬ闇に包まれた。

 

「後悔するなよ、小夜?」

 

 瞬間、鉄と鉄がぶつかり合ったかのような轟音が周囲に響き渡ったかと思うと、それより後には何も聴こえない静寂が訪れた。

 月がまた雲間に隠れ、深い闇がスラムを覆った。

 

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