ターフを去ったあの娘達   作:テルミ(ざわテル)

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逃げて差す。トリックスターと呼ばれたウマ娘、セイウンスカイ。
彼女がターフを去った少し後のお話。


空は青く澄んでいた

トリックスター

 そんな異名で呼ばれるウマ娘が居た。

 序盤から先頭を突き進むシンプルな作戦、所謂「逃げ」を得意とする彼女であるけれど、

 彼女の戦略はソレとは似て非なるものだと囁かれている。

 サイレンススズカ、彼女のように圧倒的なレースを見せてくれるのか。いいや、そうじゃない。

 ミホノブルボン、彼女のように鍛え上げた力でねじ伏せるレースを見せてくれるのか。いいや、そうじゃない。

 逃げて溜め、逃げて差す。

 手を伸ばせば届きそうな距離にある背中。思わず伸ばす手は空を切る。それはまるで雲のように掴みどころがなく、気づけば風と共にゴールを駆け抜ける。

 ターフからも姿を消した彼女、その雲は今、どんな風に乗っているのだろう。

 

  *                *                *

 

「釣れないなぁ」

「まぁまぁトレーナーさん、こういうのは気長に待つものなんですよ」

 

 釣りって、そういうものなんですよ。急くトレーナーの横で楽しそうに笑う彼女はかつての担当ウマ娘、セイウンスカイだった。

 良く晴れた空の下、聞こえてくるのは川のせせらぎと木々の衣擦れ。それらも頷くよう彼女の言葉に同意する。

 そういうものなのか。

 俺は釣り糸を上流に垂らし、流れに身を任せる浮きをただただ見つめることにした。

 いつか彼女の踏んだ芝のような緑に腰かけながら。

 ――お暇でしたら、釣りにでも行きませんか?

 茹だるように暑い夏を越え、一抹の哀愁に葉が彩られる秋を迎えた頃、唐突に携帯を揺らしたのはかつての担当ウマ娘、セイウンスカイからの連絡だった。

 ターフを去った今、彼女は釣りに没頭しているらしい。海でも川でも場所を選ばず、好きなところで好きなだけ釣り糸を垂らして、引退生活を謳歌しているのだとか。

 

「それにしても、どうして急に俺と釣りなんか……」

「だってトレーナーさん、今の時期暇でしょ?」

 

 木々の隙間から差し込む陽光、照らされた水面に映る葉のような髪を揺らしながら笑う彼女は、いつも通りといった様子だった。

 暇……かどうかは置いておくとして、確かに釣りに付き会えないくらいに忙殺されているわけでもない。それに、かつての担当ウマ娘からの誘いであったら、暇は無理やりにでも作ると思う。

 ――セイウンスカイからの連絡だったら、なおさらだ。

 引退してから長い間関わっていなかった彼女からの連絡は正直、どう返したら良いものだと悩んでしまったことは秘密にしておきたい。

 自分と会ってしまったらまた、思い出してしまうのではないか、傷に塩を塗ってしまうのではないか、そんな不安が雲のように覆いかぶさっていたからだ。

 皐月賞・菊花賞。二冠ウマ娘セイウンスカイのその後は、決して煌びやかなものでは無かった。

 

「嘘ですよ、嘘。ちょっとトレーナーさんと昔話でもしようと思って」

 

 人の嘘を見抜く自身なんてない。自負するトレーナーはその言葉すらも、嘘なのか本当なのか見定めることができなくて、ただただ流れに身を任せる浮きを見つめることしかできなかった。

 

「私、引退したのも何もかもさ、別にレースに飽きちゃったわけではないんですよ」

「……そうか」

 

 飽きた。その言葉で思い出すのはかつて彼女が呟いた『つまんない』

 それには諦観にもよく似た感情が込められていて、けれど同時に諦めきれないなにかが込められているようでもあった。

 本当にレースがつまらなくなったわけではない。その諦観の矛先は、彼女自身。

 1手先、意表を突いた戦略で勝ち進んでいった『彼女』とは対照的に、

 正面からぶつかって来る『あの娘』たち。

 レースを重ねるたびに強くなるあの子たちはいつの間にか1歩どころではなく、数歩も先に行っていて、

 いつの間にかその背中すらも見えなくなってしまった。

 小手先のテクニックではそれはもう覆せないくらいに遠く、越えられない壁があり、彼女自身が感じた『私の行き止まり』の果てに出た言葉が『つまんない』

 彼女は、彼女のできるすべてをやってきた。だから今度は、俺がスカイのために尽くして、背中を押してあげる番なんだ。今の彼女なら、その先に進めると信じて、走った。

 

「どんなに作戦を練ってみても、みんなすり抜けてくんだもん。練り甲斐があったなぁ」

 

 天皇賞(秋)

 全力を出し切ってもなお敗北を喫したレースの後、彼女の脚は大きな怪我を負ってしまった。命に別状があるわけではないけれど、それはウマ娘をひとりの少女に変えてしまえるほどのもの。

 それが蝕むのは身体だけではなく、心もまた同様であったと思う。自分がどうなってしまっても、学園も友達も変わらない。変わってしまった私、けれど変わらない毎日、日常のまま過ぎて行く日々は過ぎて行くだけで、戻ることはもうないのだから。

 それでも、やはり彼女に最後のレースを"走らせ"たかった。

 

「あれ? トレーナーさんもしかして、セイちゃんアレ、思い出しちゃった?」

 

 小さくうなずくことだけが、俺の返せる唯一の言葉だった。

 引退レース、天皇賞(春)

 降りしきる雨の中、皮肉にもかつて栄光を手にした京都レース場でのソレは、大敗と言っても過言ではなく、12着という着順はまさに、行き止まりそのものだった。

 

「にゃはは。まぁ、春の天皇賞は自分でもびっくりしちゃったからねぇ」

 

 俺とは対照的に笑う彼女の声は、熱さを忘れた喉元と似ているような気がする。"走らせ"てしまったことが正解だったのか、不正解だったのか、季節が廻った今でもそれは未だに、わからない。

 やはり会うべきではなかったのかもしれない。自分が居ることで、ひとりの少女となった彼女をまたウマ娘に引きずり込んで、降ろすことのできない積み荷を乗せてしまっているよう。

 罪にもよく似たそれを背負うのは、俺だけで良いのに。

 

「それでもね、後悔はひとつもないんですよ」

 

 思わず釣り竿を握る力が強くなる。ほんとですよ? ゆっくりと彼女に目を向けると加えてそう呟いた。

 

「やれることは全部一緒にやったじゃないですか。軽いトレーニングから戦略からレース選びまで、最善のことをやりきったじゃないですか」

「そうだな。スカイも俺も、やれることは全部やってきた、つもりだ」

「それで負けちゃったら仕方ないですって、確かに悔しかったですよ? それでも、私にとっては悔いのないレースで、節目のレースだったんです」

 

 その言葉を聞いて、わかったような気がする。レース後、涙を流しながら笑っていた彼女の真意を。あそこにいたのはトリックスターでもなく、正真正銘のセイウンスカイが居たことを。

 レースは勝つために出るものでもあるけれど、あれは彼女にとってそれ以外の意味も孕んでいたことに、今更気づくことができた。

 節目、まさにその言葉が一番近いのかもしれない。

 4年間という長くも短かったふたりの全てを出し切って、駆け抜ける最後のソレに結果なんて関係ない。やり切るということ自体に意味があって、それこそが一番大切なものだったのかもしれない。

 

「だから、トレーナーさんも気負わないでください。たまに嘘をつくセイちゃんでも、これだけは偽りのない本当なんですから」

「そんなことのために、俺のために、この場を作ってくれたのか?」

「『そんなこと』なんかじゃないですよ。確かに、トレーナーさんにとって私は『担当ウマ娘の中のひとり』なのかもしれないですけど、私にとっては『ただひとりのトレーナーさん』なんですから」

 

 ソレは俺の瞳を濡らし、滴り落ちるソレは、俺の罪を洗い流すには充分すぎる代物だった。

 滲む視界の中、輪郭だけ映る彼女は今、どんな顔をしているのだろうか。こんな惨めな姿を晒す俺を、笑ってくれているだろうか。

 腕で拭っても拭っても滴り落ちるそれは止まらない。救いの言葉をかけてくれた彼女はまだ、ぼやけたままだ。

 

「スカイっ……本当に、本当に、ありがとう」

「今は、この言葉しか見つからないんだ」

 

 頬に何かが触れる。それは零れる涙をそっと拭ってから、優しく背中を撫でてくれた。

 

「そんなの、お互い様じゃないですか」

 

  *                *                *

 

 涙も枯れて1時間、セイウンスカイと俺は近況であったり他愛のないものであったり、釣り糸を垂らしながら花を咲かせて楽しんでいた。

 

「再来月に新しい担当の娘が決まってて、それからは忙しくなるだろうなぁ」

「そうなんですね~、これからはトレーナーさんと釣りとかあんまりできなくなっちゃうかも?」

「スカイが誘ってくれたら行くさ、どんな時でもね」

 

 本当の意味で笑えるようになった俺はスカイにそう返してみるけれど、当の彼女はなぜか俺を見てくれない。どうしてなんだろうか。

 

「それはそれで……嬉しいけど」

「……スカイ?」

「え、餌切れちゃったから、ちょっと買ってきますね~」

 

 そそくさと立ち上がり歩き出してしまう彼女に俺も立ち上がる。

 

「あぁ、それなら俺が」

「う、うぅん! トレーナーさんはゆっくりしていてくれて大丈夫だから!」

 

 スカイらしくない焦った声で俺を制止したまま、どこかに行ってしまった。ちらりと見えた顔は少し、紅がかっていたような気がする。

 

「なっにが釣れるかっな~」

 

 ぎこちないスキップをしながら跡にする彼女。恥ずかしくなるまで、あと何歩かかるのだろう。

 

  *                *                *

 

 染まってしまった頬がどれくらいで戻ってくれるのかわからない私は、とりあえずそこら辺を少し歩くことにした。

 トレーナーさんにとって私は『担当ウマ娘の中のひとり』なのかもしれないですけど、私にとっては『ただひとりのトレーナーさん』なんだから。

 ポロっと出てしまった言葉が今になって私の全身をくすぐるように駆け巡る。もう恥ずかしいったらありゃしない。

 でも、それでも……

 

「トレーナーさんにとっても私が、ただひとりのウマ娘だったらいいなぁ……なんて」

 

 そんなことを思いながら、雲ひとつなく、どこまでも青く澄んでいる、いつか見た空をただただ見つめてみる。

 懐かしい空を見ていると思わず出てしまう言葉に自分でも笑ってしまった。でも、それが私の嘘偽りない本心。

 あぁ、本当に

 

「楽しかったなぁ」

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