気付けば彼女は、そこに居た。
気付けば彼女は、どこかに行っていた。
どこにでも居て、どこにも居ない。
そんなウマ娘が居た。
残した足跡は決して小さいものではないけれど、時を駆け風化したそれを
誰が覚えているだろうか。
記憶に残るウマ娘。ただそれだけを願っている彼女は今どこで、どんな足跡を残しているのだろう。
そしてそれは、どこへ向かっているのだろう。
見つけてほしい。覚えていてほしい。どうか、その足跡が波に攫われてしまうその前に。
その足跡の名は、アストンマーチャン。
* * *
悪夢、一般的にそう呼ばれるものを最近は見るようになった気がする。
それはあまりにも漠然としていて、いつも隣に居てくれた"何か"が私の手からすり抜けて、気づいた時にはそれはもうどこにも居なくて、暗闇の中でただひとり私だけが立ちすくんでいるような、そんな、夢。
一般的に呼ばれる悪夢とは少し違うのかもしれない。結果だけ言ってしまえばそれは何かを"失くした"だけの夢。うなされるようなものでもなければ、夜が嫌いになるようなものでもない。
けれど実際私は、ソレに縛られ、苛まれ、夜を嫌うようになった。
目を閉じれば広がる闇、それから逃げるように手元の携帯で動画サイトを巡回してしまうのが最近の私だ。
何でも良い、光がありさえすればそれで良くて、おすすめに表示される動画をただただ見つめるだけで夜を明かしていた。
――バッテリー、異常なし。マイク機能も大丈夫。ぶいぶい、ですね。
聞き覚えのある声が聞こえる。それはとても懐かしくて、暖かくて、けれどその正体は良く分からない。
ウェーブがかったセミロングの茶髪、後ろにまとめたポニーテールを揺らす彼女の顔が大きく映る。
「マー……ちゃん?」
その声の主を私は、知っていた。かつての担当ウマ娘の姿に思わず、目を見開く。
二人三脚でターフを駆け抜けたその記憶はもう薄ら雲がかかっていて、季節が何周も廻った今、色褪せたソレは再び色を、取り戻そうとしているみたいだ。
「こんにちは。マーちゃんこと、アストンマーチャンです。……覚えていてくださいね?」
彼女を模した小さな人形に手を振らせながら、笑顔で語り掛けるマーチャンに不思議と、頬を伝う何かが零れ落ちた。
それがどうしてかはわからない。熱いくらいに暖かいソレが滴るたび、色あせた写真は色を取り戻していくみたいに広がり、広がり、雲散する。
なにか、忘れてはいけないものを忘れてしまっていた気がする。そんな気がしていた。それは彼女のことなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。なぜそれを忘れてしまっていたのかもわからない。
けれどその"忘れてしまっていた"事実にどうしても、胸を締め付けられているような気がしてならない。
痛くて痛くて、愛おしい。
「今日はマーちゃん、すごいお知らせを持ってきたのです。ドヤッ」
言葉ひとつひとつに胸が締め付けられるような、けれど同時に抱きしめてくれるような感覚を覚える。わたしはここにいるよ。そう教えてくれるような気がしてならない。
「オフ会っ! オフ会ですっ! マーちゃんは、マーちゃんを見てくれる人と、お話してみたくなってしまったのです。場所はですね――」
もう一度会いたい。何をするわけでもないけれどもう一度、もう一度だけ。逃してしまうと彼女とはもう、会えない気がしてしまったから。
「インテリマーちゃんは応募フォームなるものも作ってみました。来てくれる人は概要欄のリンクから、気軽に応募してみてくださいね」
明日は幸いの休日。やることはもう、決まっていた。
* * *
「鶴見ー、鶴見―」
停車のアナウンスを聞いて電車を降り、ホームに出る。あちらでもこちらでも広がる喧騒は私の心を無邪気に撫でまわしているようで少し、むず痒い。
電車の往来に呼応して流れを変える私たちはまるで、波のようだった。流れに乗り、流されるままに身を委ね。やがてそれぞれは人の海に紛れてその姿を消していく。私もまた流されるままに流れながら改札を出る。
その波の中でただひとつ、留まり続ける影があった。見覚えのある人形を抱えながら立ち、深紅の縁、その眼鏡から覗く視線はあちらにもこちらにも向いていた。
はやる気持ちを抑え一呼吸、さて、どう声を掛けたものか……
久しぶり?
間違ってはいないだろうけれど、どこか違和感を覚えてしまう。確かに私はマーちゃんのトレーナーではあったけれど、今は違うのだから。
初めまして?
これはもっと違うだろう。ただ、リスナーとしての私と動画投稿者のマーちゃんという関係性の上では確かに間違ってはいない、こんなところに来て脚は動かず、立ち止まってしまう。
「おや? おやおや?」
そもそも会いに行くこと自体、本当に正しいことだったのか? 会いたくない。マーちゃんもそんなことは思っていないだろうけど、わからない。
「もしかしなくてもマーちゃんのトレーナーさん、じゃないですか? マーちゃんに、会いに来てくれたのですか?」
かける言葉も気持ちの準備も、必要はなかったみたい。あちらから投げかけられた言葉に思わず口元が緩む。トレーナーさん。季節がどれだけ巡っても、少なくとも彼女はずっと私のことを覚えていてくれたんだ。それだけで込み上げてくるものがある。
「うん、久しぶり……だね。会いに来たよ、マーちゃん。少し――大きくなったね」
「ふふっ、マーちゃんは万年成長期。なのです。ドヤッ」
合わせて小さなマーちゃん人形の両手も広げる彼女に思わず、笑みが零れる。もう少しで私を追い越してしまいそうな背に少し、寂しさを感じながら。
親心。それは近いようで遠くて、けれどこの気持ちに名前を付けるのであればそれしか思い浮かばなくて、とりあえずそう名付けることにした。
「トレーナーさんはどこか行きたいところとか、ありますか?」
「うぅん? 私が決めていいの? 他の人だって来るんでしょう?」
「あの応募フォームに書いてくれたのはひとりだけだったのです。それがトレーナーさんだったのは、さすがのマーちゃんにも予想できませんでした」
「それは……私もかも」
私だけ。その事実は悲しいようで、少し嬉しかった。もしかしたら私は悪い子なのかもしれない。けれど、"良い子"になろうとは微塵も、思えなかった。
「私はマーちゃんが居てくれたら、どこだって嬉しいよ」
困らせてしまう回答かもしれないけれど、それは紛れもない私の本心。ムムム……と小さな指でああでもないこうでもない、そう言いながら振り回しているとやがてソレは改札を指さし、止まった。
「じゃあ、今日はマーちゃんとお出かけ、です。この電車がどこまで連れて行ってくれるのか、試してみませんか?」
「うん、いいよ」
宛もなく流れに身を任せ、また私たちは流される。私たちを呑む波はいったい、どこに連れて行ってくれるのだろう。
* * *
車内は休日であるのにも関わらず人影が無く、私と彼女、ふたりだけの世界が広がっていた。
車窓に広がるのはどこまでも続きそうな湾岸で、どこまでも深く、青より青い海が広がっていた。
ふたりで腰かけた席、肩に伝わる暖かい熱はたしかに今、彼女が隣に居てくれる証明そのものだった。
「それにしても、どうやってマーちゃんチャンネルを見つけてくれたのでしょう。 嬉しいけど少し、不思議なのです」
「偶然、かな。たまたまマーちゃんの動画を見つけたの」
彼女が驚くのも無理はないと思う。再生数も登録者数もそう多いわけではない。それでも見つけることができたのは不思議な巡り合わせ、そんなものなんだと思う。
「やさしい神さまの思し召しかもしれないですね。ぶいぶいっ、です」
「そうだね。ぶいぶいっ、だね。ふふっ」
ふたりの笑みだけが社内に響く、それはあちらにもこちらにも反響してやがて、私の胸の中に染み入る。
窓から見える景色は変わらずの海、変わらない景色は私を時間が止まっているような感覚に陥れる。願わくはこんな時間がずっとずっと、永久に続いてほしい。そんなことを思わせた。
「マーちゃんはどうして急に動画投稿なんて始めたの?」
「それはですね、マーちゃんは、マーちゃんのことをいろんな人に覚えてほしいと思ったからです」
いつかの日に、同じ言葉を聞いたような気がした。丁度、車窓から覗く青と同じ色の空が広がっていたような気がする。
人もウマ娘もいずれ、終わりを迎える。それは私もマーちゃんも例外ない、それは明日からも知れないし、ずっと先の未来かもしれない。
それは私にとってはあまりにも悲しいこと、けれど彼女は"悲しいことではない"、そう言い切ったことを覚えている。
仕方のないこと。彼女の言葉を借りるとすれば、全て"海へ行ってしまう"から。
それ以上に悲しいことは"忘れられること"。そう続けていた気がする。彼女にとって重要なのは"跡"、それは彼女が居なくなってしまっても消えず、残り続ける存在の証明。それを未だ彼女は、求めているのかもしれない。
それでも疑問符は残る。
「阪神ジェベナイルフィリーズ2着、スプリンターズステークス1着。マーちゃんが残した"跡"はもう、あるんだよ?」
G1。最高峰のレースで彼女は一度の制覇と一度の入線をしている。それは間違いなく誇れることで、刻まれたその"記録"は足跡となって永遠に残り続けている。その結果がすでに彼女の、アストンマーチャンの居た証明になるのではないだろうか。
「確かに、鮮やかに駆け抜けたマーちゃんは見事、その記録を残しました。こんなウマ娘が居たという証明はできました。けれどマーちゃん、気づいたのです。知ってしまったのです」
いつになく真剣な瞳が私を覗く、眼鏡のレンズを通して映る私は、どんな顔をしているのだろう。
「たしかにマーちゃんは大健闘しました。"記録"としてわたしは刻まれました」
「……けれど、"記録"はやはりただの"記録"でしかないのです。そこにあるだけで、"語り継ぐ"ことは決してしてくれません。トレーナーさん。マーちゃんの記録が埋もれてしまってもわたしのことを、覚えていてくれますか?」
覚えていてくれますか? それに頷くことはできなかった。嘘でも首を振ることはできた。けれど、そうしたことで実際"忘れない"ことなんてできるとは思わなかったから。
忘れられないこと、忘れたくないこと、そんなものは数えきれないくらいある。昔の私にもきっとそんなものがあったはず。けれどそれは記憶の波に攫われて、いずれ海に還る。"何を忘れた"かすら、忘れてしまうのだから。
「だからこそ、残し続けるのです」
その言葉はあまりにも、重かった。残し続ける、いや、残し続けなければいけない。風化した"記録"も"記憶"も、いずれ埋もれてしまうから。
同時に、電車が止まる。終点・海芝浦駅。無機質なアナウンスとともに彼女は立つ。見渡す限りに広がる海、そこへ向かうマーちゃんの手を思わず握り、抱き寄せる。強く、強く、その香りも、熱も何もかも、忘れないように。
「トレーナー……さん?」
虚を突かれたように固まる彼女をよそに私は抱きしめる。いずれ"海へ行く"。全てを受け入れている"強い"彼女と比べて私はどうしようもなく"弱い"から、今は、今だけは、こうして居たかった。
「"海"なんかに行かないで、マーちゃん。ずっとここに、ここに居て」
「それは……ちょっと難しいかもしれないです。どんなに愛されても、マーちゃんだっていずれ"海"に行きます。それは止められないのです。でも、そうですね……少なくとも、それは今日ではありません。マーちゃんは確かに今、ここに居ます。だから、その瞳に映していてください――」
続く言葉は間違いなく、彼女の中では矛盾したものだった。けれど同時に、それが本心であり願いであることは、伝わる熱がそう、教えてくれたのだ。
――ずっとずっと、忘れないでくださいね。
* * *
一面に広がる向日葵畑は現実感をわたしから奪い、広義での意味で"ここ"がどこであるのかを隠しているみたい。それはわからなくても良いのかもしれない。鈍色のコンクリートに腰を下ろし、リュックを下ろし、潜ませていたカメラと三脚を立ててみる。
「バッテリー、大丈夫。マイクも大丈夫」
出発前に確認はしていたから、問題はなかった。
最後に確認するのは、見つめるレンズさんが映してくれるわたし。
「マーチャンも……大丈夫。完璧ですね。ぶいぶいっ」
照り付ける太陽に思わず、汗を流す。それが頬を伝うたびにわたしはまだ、"ここ"に居るということを実感させられる。
嬉しいことでも悲しいことでもない。けれど少なくとも……トレーナーさんは喜んでくれるでしょう。そんなことを考えながら今日も録画ボタンを押す。
いつも通りの決まった挨拶、いつも通りの笑顔で、いつも通りにわたしは、アストンマーチャンというわたしを遺す。
見てくれる人はどれくらいいるのだろう。それはわからない。ただ、あの人だけはわたしを見てくれて、待っててくれて、覚えていてくれるんだろうな。保証も根拠も何もなくても漠然と、そう思えるようになった。
動画の締めくくり、最後の言葉はいつも"ソレ"。何回も口にしたその言葉は紛れもなく、わたしの本心。
それは今日も、来るであろう明日も明後日も変わらない。
「ありがとうございます」
――わたしを、アストンマーチャンを見つけてくれて。