誰かが言った。
芦毛のウマ娘は走らない。
人々は口々にこう、言った。
芦毛のウマ娘は走らない。
"神話"のごとく伝えられてきたその言説は二人によって、二度の激突によって"迷信"と化す。
その"白き稲妻"と"葦毛の怪物"は語らない。けれど、5分。それだけあれば歴史なんて塗り替えられる。その脚が語っているようだった。
彼女らの前に常識は通用しない。一蹴。まさにその言葉が正しいだろう。
稲妻が去りし後も、怪物は走り続けた。
全てを吹き飛ばし、真っ直ぐに我が道を征くその姿。
あの日あの時あの場所で、間違いなく我々はその"怪物"に魅せられた。
その怪物の名は、オグリキャップ。
去りし怪物はその伝説を残し、帰郷の道を歩む。
笠松の空は今、どんな色をしているのだろう。
* * *
「あれ……トレーナー、私の替えのパジャマを知らないか?」
「……いや、オグリ以外に知る人なんて居ないだろ」
「どうせ、この間買いに行って袋のまんまやろ。ウチと買いに行ったこと忘れたんか? 」
「そうだ……思い出したぞ! タマはやっぱり物知りだな」
「褒めてもなんもでぇへんよ」
年を越し、穏やかな空気が漂う日本の中でもこのトレーナー室、正確に言うとオグリキャップの周りだけは忙しなく時間が過ぎていた。
アレがない、コレがない。大きなキャリーバッグを広げながら悩むオグリに突っ込むタマモクロス。その光景を見るたびに思わず、笑みが零れてしまう。
主要なG1も終わり、春の到来を待つ学園はいつにもなく静かで、どこか冷たいような気がしてならない。その代わりにここだけが少し、暖かいようにも思えた。
「にしても、こんな様子でホンマにひとりで帰れるん?」
「タマ、私でも流石にそれくらいのことは出来るぞ」
「まぁ、せやな。学園から寮までの道すら迷うオグリンはもうおらん――」
「4日分の食料は確保済みだ」
「アカンやん! なぁ、オグリンのトレーナー、ホンマにひとりで笠松まで行かせるんか?」
「……あぁ」
一抹の不安と寂しさを抱えながら、小さく頷いた。
オグリキャップは明日、地元笠松に旅立ってしまう。その事実は出発前日になった今でも実感は湧かず、まるで夢の中にいるようなふわふわとした、浮足立つような感覚が深雪のように降り積もってばかりいた。
「これからの人生はオグリ、キミひとりで決めるものだから、ね」
2週間前、中山レース場で行われた暮れのレース・有馬記念を最後にオグリはターフから身を引いた。
誰よりも愛されて、誰よりも期待された彼女が走る姿に、誰もが夢を見た。けれどそれは永遠に続くわけではない。何事にも始まりがあれば終わりがある。
32回のレース、駆けた41100メートル、燃えた41分16秒。彼女はやりきったんだ。それは彼女自身と、一番近くに居た俺が、一番知っている。
夢から覚める時が来ただけだ。彼女はターフを去り、また別の道を歩む時が来た。ただそれだけだ。
笠松に帰ることを決めたのはオグリとトレーナーである、俺。彼女には本気で自身の今後を考えてほしかったからだ。
そして、それを考えるのはここじゃない。一緒に考えるのは俺じゃない。彼女が生まれ、彼女を一番愛した人々の居る笠松。そこじゃなきゃダメなんだ。
「トレーナー。まだ私はこれからのことなんて少しも想像がつかなくて……少し不安だ」
俯きがちに俺を見る。それはオグリが本当に不安であるときの癖だ。ウマ娘でなくても、将来という先の見えないものが怖いのは俺でもわかる。彼女は今、少女と大人の狭間で生きている子なんだ。かつて"怪物"なんて言われた彼女も今は透明で、何者でもない。
「不安だからこそ、だよ」
どれだけ強くても、足が速くても逃れられないものはある。何者になるのかは彼女自身が決めなければいけないんだ。
「せやで。オグリン、別にトレーナーはイジワルしてるわけやないんや。誰よりも大切にしてくれてるから、考えてるからこそなんや」
一足先に引退していたタマモクロス。大人の階段を先に上がった彼女だからこそ、かけられた言葉なのかもしれない。
いつにもなく優しい声色で話すタマモクロスの背中は不思議と、この時はオグリよりも大きく見えた。
「さ、続きや続き。歯ブラシ、ある。モバイルバッテリー、ある。それと……なんやオグリン、アルバムなんて持ってくん?」
「あぁ。これは私とトレーナーとタマと、みんなとの思い出だ。食べ物とこれだけは絶対、持っていく」
懐かしみながら開いたページ。そこには中央で初めてのレースの様子や、タマモクロスと初めて激突した天皇賞(秋)の写真や学園祭での大食い競争の様子まで、さまざまなものがあった。
あの時と比べて少しだけ伸びた背、たくましくなった脚、それでも変わらない彼女の笑顔。変わるものから変わらないものまで、たくさんの思い出が詰め込まれている。
「ん、これいつの写真や?」
タマモが最初のページに差し込まれていた写真を手にし、凝視する。"01/10 笠松レース場にて"裏に書かれたその文字でその写真が、俺とオグリの"始まり"であることを教えてくれた。
ただの写真なのにどうして、それからは微かに思い出を運ぶような、土の匂いがした。
「それは、トレーナーがトレーナーになってくれた日に取った写真だ……懐かしいなぁ」
「ほな、ウチが知らないわけや。――そういやウチ、オグリンとトレーナーがいつ知り合ったのか知らんな」
「トレーナーから誘ってくれたんだ、中央に来ないか。って」
続けて語るオグリを横目に少し、思い出に浸ることにしてみた。
写真は少し色褪せているけれど、あの日あの時、あの場所でのことは今でも頭の中では鮮明に映し出せる。
暮れた夕日、コースの土、穢れを知らぬようなその葦毛、誰よりも輝いて見えた彼女。
他を寄せ付けず、影すら置き去りにして走るその姿。あの日、その走りに俺は夢を見た。
俺もなにかを置き去りにして、気付けば声を掛けていたあの光景が懐かしい。多分、そうでもしなければ追いつけなかったのだろう、我が道を進み続ける彼女に。
一度は断られたこともあった。それでも足しげく通った。そして彼女は来た、来てくれた。
その時の自分の行動が正しかったのかどうかは、今でもわからない。
「それでトレーナーが……トレーナー?」
「ん? あ、あぁ、なんでもない」
「体調でも崩したか? お腹でも空いたか?」
「ちょっと寂しくなっただけ。オグリじゃあるまいし、少なくとも空腹ではないよ」
顔だけ笑ってそう、返してみる。
今までとは比べ物にならないくらいの強豪揃いな中央に来たオグリ、そこでは勝利もあれば敗北もあった。背負う夢も際限なく大きくなって、彼女を呑みこまんとしていた。
もしもあのまま笠松で暮らしていたら辛酸なんて舐める必要もなかった、抱えきれないほどの夢も背負う必要もなかった。幸せに暮らせていたんじゃないか。引退した今でも、いや、今だからこそ考えてしまう。
「せや、そういや替えのパジャマ部屋におきっぱやろ、ウチ持ってくるわ」
「タマ、整理したら戻るから――」
「そんなこと言って、帰ったら忘れるやろ。その間にもっと確認しとき」
立ち上がり、そそくさとトレーナー室を出るタマモは去り際、俺を見ていたような気がした。歯を見せて、小さく笑いながら去るその背中はこう語りかけているような気がした。
――腹割って話せるのも、今の内やで?
遠ざかる足音はひとつ、ふたつと、まるで何かのカウントダウンを始めているように弾み、やがて消えていく。
「オグリ」
それが完全に聞こえなくなった時、今もなお輝く彼女を見つめながら、口を開く。
「トレーナー? やはり体調が優れないのか?」
心配そうに見つめる彼女に首を横に振る。あちらにもこちらにも尻尾を揺らしながら彼女もまた、俺をじっと見つめていた。
「オグリはその……笠松に居たままのオグリと、今の中央に来てくれたオグリ、どっちが幸せだったと思う?」
数秒ばかりの沈黙が続く。さらに尻尾を揺らしながら考え込み、唸る彼女は俯きがちにして呟く。
「わから、ないな。私は、笠松に残ったままの私を知らないから」
いつも真っ直ぐな彼女のその回答もまた、本心そのままなんだろう。誰もわかるはずのない問題。俺にとっては必要な質問で、けれど彼女にとっては必要のない質問なのかもしれない。
「すまない。やっぱり忘れ――」
「それでも私は、ここに来てよかったと思う。ここに来たからこそ出会えた友達、ライバル? が居た。その出会いは私にとって宝物なんだ」
数えきれなくらいの出会いを彼女はここでしてきたと思う。時にはしのぎを削るライバル、時にはともに支え合うライバル。今の彼女を形成しているのは彼女だけじゃない。その様々な出会いがあったからだろう。
「トレーナーは、笠松レース場の近くに山があることを覚えてるか?」
「ん? あ、あぁ。覚えてるよ」
俯く顔を次第に上げ、その視線が俺を捕えるようになる。
レース場近辺に山、というよりかは小高い丘のようなものがあったのは覚えている。けれどどうして、今そんなことを話すのかは見当がつかなかった。
「小さい頃はあの山から見えた街の景色が、世界の全てだって思っていたんだ」
――けれど、そんなことはなかった。
井の中の蛙、大海を知らず。そんなことわざを思い出す。
「だがなんとなくその……世界が広くなった気がするんだ」
大海に繰り出した彼女は間違いなく世界の広さを知り、自分の中の世界も広げられたと思う。それは間違いなく、ここに来なければ広げることは出来なかっただろう。
「勝って嬉しい時もあれば、負けて悔しい時もあった。心も脚も痛くてたまらない時もあった。だが今振り返るとその全てがその……愛おしく思えるんだ」
傷すらも愛おしい。アルバムを撫でながら語る彼女はやはり――
「強いな、オグリは」
彼女の言葉ひとつひとつに救われているような気がする。中央に来てよかった。そう言ってくれただけで許されたような感覚に襲われる。だからこそ言わなければいけない。溢れるこの気持ちは伝えなければいけない。
「オグリ。俺についてきてくれて、ありがとう」
「トレーナー。私をここに連れてきてくれて、ありがとう」
重なるふたつの言葉に思わず笑みを零す。彼女も同じく零したソレはしっかりと瞳に焼き付けて、心のアルバムにそっとしまうことにした。
この写真は何年経ってもきっと、色褪せることはないだろう。
「替えのパジャマ、持ってきたで! ついでにこれも持ってきたで」
「タコ焼き……機?」
タイミングを見計らったように入るタマモクロスもまた、笑顔だった。古いタコ焼き機と一緒に持ってきたレジ袋の中にはタコ、イカ、エビ、様々な食材が入っていた。
「朝から荷物整理してたら腹も減るやろ、お疲れさん。てなとこで、昼ごはんにもでしよや」
「タマ……!」
瞳を輝かせながらレジ袋を奪ってしまいそうな彼女を思わず止める。そのまま食べてしまいたいくらいに空腹だったんだろう。食に関しても"怪物"な彼女ならなおさらだ。
最後くらい目一杯笑って過ごそうや。
耳元で囁く彼女に俺もまた、ここに来たからこそ出会えた"宝物"の存在に気づかされたような気がした。
「だがタマ……イカを入れたらそれはタコ焼きなのか……?」
「細かいことはどうでもええって! 美味ければなんでもええがな」
「タマモの言う通りだな。この時期なら調理室も空いてそうだしな」
「せや、早速いくで!」
「タコ焼き……タコ焼き……?」
オグリもまた閉じたアルバムを鞄の奥底にしまい、部屋を後にする。
三つの足音だけが廊下に響く、それを聞くたび彼女も俺もまた、大きな一歩を踏み出せたような気がする。
未来への不安も今だけは、姿を消してくれているようだった。
* * *
駅にはトレーナーとタマが見送りに来てくれた。やはり私がしっかり帰れるかが心配だったらしい。そんなに私は危なっかしいのだろうか。
到着のベルが鳴る。その音を聞くとなぜだか少し寂しい気持ちが胸に積もるような気がする。けれど私は進み続けるんだ。背中を押してくれたトレーナーが居た、学園のみんなが居た、そして笠松には待ってくれているみんなが居る。
「きぃつけてな、オグリン」
「元気でね」
「タマ、トレーナー。本当にありがとう。……すまない。今はこの言葉しか見つからない」
笠松はたしかに、私にとっての故郷だ。けれどどうして、今は中央も私にとっては故郷であって、家のようにも感じられる。だからこそ少し、寂しいのかもしれない。
到着した新幹線へ一歩、踏み入れる。
発車のベルが鳴る。扉が閉まるその前に、心を追い越して震わせた喉でふたりに告げる。
「タマ、トレーナー」
次々と溢れる想いを込めたその言葉に2人の瞳が潤む。くしゃっとした笑顔の花を咲かすふたり伝う涙はなぜか、綺麗。そう思えてしまった。その輝きは先の見えない未来をそっと、照らしてくれているようだった。
その涙を私は、一生忘れることはないだろう。
大好きで大切でかけがえのないみんなに告げた言葉をまた、ひとり呟いてみる。
タマ、トレーナー。
「――行ってきます」