栗毛の超特急。
そう呼ばれるウマ娘が居た。
誰かが言った。お前には無理だと。
誰かが言った。才能の無駄遣いだと。
人々は無責任にもそんな言説を固めて彼女に押し付ける。
そんな迷信たちは所詮、憶測の域を出ない。
彼女に言わせてみれば、それがなんなのだ。
"夢"への到達のためには手段を選ばずにただただ鍛えられた身体には、いつしか信念という名の鎧が身についた。
鍛え抜かれた鋼の肉体は才能の壁を越え、迷信を迷信足らしめた。
その栗毛の名は、ミホノブルボン。
ターフを去り眠りにつく彼女は今、どんな"夢"を見ているのだろう。
* * *
眠い目を擦りながら、いつもより少し早くお布団から出て、窓を開けてみる。あちらにもこちらにもはねる髪、他の娘よりもちょこっとだけ長い耳を揺らす風は、鼻を少し赤くした。
「クリスマスはもう過ぎちゃってるけど、赤鼻のトナカイさんみたいだね」
空はあまり見たことのない色をしていた。少し赤みがかった薄い水色。早朝の空は、そんな色をしているんだね。
簡単に身支度を済ませながら昨日、机の上に置かれた私宛てのお手紙に目を通す。寸分違わない精度で3等分に折られた1枚の便箋に書かれたたった1行。お休みの日でも早く起きた理由は、それだった。
――すこし、お話がしたいです。よろしければ一緒に朝ごはん。食べませんか。 ミホノブルボン
まるでパソコンで書かれたような綺麗……ううん、精巧な文字に、私は期待と不安を覚えてしまう。
ブルボンさんは昨年末のクラシック三冠レースの締めくくり、菊花賞。それを最後に、引退した。
8戦7勝。眩しいくらいに輝くその成績にシニア期での走りももちろん、期待されていた。そんな中での引退には世間も私も、驚きを隠すことは出来なかった。
それだけの決断をしたブルボンさんも、ブルボンさんのお兄さまも同じくらい……ううん、それ以上に大きな"何か"を抱えていたことも知っていたから、ふたりの前ではずっと笑顔でいることにしていた。
その"何か"を言い表す言葉を私はまだ持っていない。悔しい気持ちも悲しい気持ちも感謝の気持ちもそこには混ざっているようで、けれどそのどれでもないようにも思えてしまう。
誰よりも速く、誰よりも強くあろうとしたブルボンさんは雨の日も風の日も、ずっとずっと一生懸命にトレーニングをしていた。それはつい最近、三冠ウマ娘という夢が破れてからはより一層、周りが心配になってしまうくらいに。
その心配がただの心配で終わってくれたら、どれだけよかったんだろう。時々布団の中で、そんな夢を見ることもある。
度重なる脚のケガはブルボンさんの心も身体も徐々に蝕み続けて、その結果として"引退"という決断をさせてしまった。スポーツにケガはつきものではあるけれど、それをブルボンさんに襲わせた神様には時々、呪ってしまいたい。なんて考えてしまう。
だから余計に、その"お話"からは不安を覚えてしまう。
ブルボンさんは今、どんな気持ちなんだろう。何度も読んだ手紙に再び、目を向ける。
文字の大きさ、濃さ、とめ、はね、はらい。人の手で書かれた文字には大小あるけれど、無意識の内に載せられた感情が表に出る。はずだけれど、その精巧な文字からはブルボンさんの気持ちを読み取ることは出来なかった。
「おはなしって……なんなんだろう」
わざわざお手紙でのお誘いなんて、今までに1度もなかった。
ブルボンさんからお手紙をもらったことはもちろん、嬉しい。お話がしたい。朝ごはんに誘ってくれたことも、すごく嬉しい。
だけど――
「ライスはみんなを……ううん」
言いかけた言葉は飲み込んで、手紙は机の中にそっとしまい込んで、鍵をかける。
不安だからこそ、怖いからこそ、踏み出してみる。私はもう、みんなを不幸にする悪い子なんかじゃないんだから。
それに――
「こういう時こそ、傍にあげるべきなんだよ。ライス」
一呼吸おいて、部屋を出る。
「がんばれライス。がんばるぞー。おー!」
誰も居ない廊下に、私の声だけが響いていた。
* * *
記録開始:1月27日(土)早朝。天候:晴れ。学園内カフェテリアにて。
「マスターが最近、冷たいのです」
「えっ……?マスターさんって、ブルボンさんのお兄さまのことだよね?」
「はい。原因は解析済みですが、思い当たる節が多すぎるのです」
ライスさんの耳はいつもより垂れていて、心なしかいつもより小さく見えてしまう。そんな顔をさせるために送った手紙でも、作った機会でもないけれど、そうなってしまうことも予測はできていた。
それでも、それでもこの話はライスさんにしか相談することのできないことで、頼らざるを得なかった。
バッドステータス『不調』を確認。いくら大切なことでも、やはりライスさんのそんな顔をさせてしまいたくはありません。『後悔』と断定。
「えと……まずはさ、ブルボンさんはどうして、ブルボンさんのお兄さまが冷たくなったって思ったの?」
やはり疑問を持つのはそこからなんだろう。ここのところライスさんとは会っていなかったから、知らないということももちろんあるだろう。けれど、一番はマスターの人柄を知っているからこそ、信じられていないのかもしれない。
アーカイブを検索。先日のマスターとの会話を復元……参照エラー発生。記録時に溢れた『悲しい』による感情のメモリ不足が原因と断定。断片的な記録を再生。
「俺のことは忘れろ。もう来るな。と、言われてしまいました」
なぜでしょう。記録された言葉をただただ再生しているだけなのに、どうしても胸が締め付けられているように、痛い。やはり私はもう、必要とされていないのでしょうか。
『クラシック三冠』。私はその夢のためにこの学園に来て、その夢のために今まで生きてきた。マスターはそんな夢のために、私のためにいつも厳しい言葉を掛けてくれた。支えてくれた。傍に居てくれていた。
その夢が破れるだけでなく、私自身も走ることを辞めてしまった今、マスターが傍に居る理由は確かに、もうないのかもしれません。
「それって、本当にブルボンさんが嫌いになっちゃって言った言葉なのかな。たしかに、ブルボンさんのお兄さまは勘違いされやすい人なのかもしれないけど。そんなことも思ったり、言ったりする人じゃ、ないよね」
「えぇ、私もそう思います。ですが、だからこそ、マスターから出たあの言葉の意味を知ることがとても、怖いのです」
マスターの真意は不明。それを探ることで得られる結果の良し悪しも、不明。現状維持が最適と判断。現状維持が最適と……判断。
「お兄さまとはそれからお話は……してないの」
「えぇ、脚が、動かないのです。トレーナー室の近くまでは行けるのですが、扉を開ければそこにマスターは居るはずなのですが、動いてくれないのです」
バッドステータス『恐怖』を確認。ライスさんはいつになく真剣な面持ちで、私にも聞こえないくらいに小さな声で何かを呟いていると突然、冷めきってしまったコーヒーを一気に飲み干して、立ち上がる。
「じゃあさ、今からトレーナー室、行ってみようよ」
「ですが……」
「ううん、大丈夫だよ。今日はラ、ライスも一緒だよ」
小さな両手を目の前に差し出すライスさんの前で私は、どれくらい静止していたのかはわからない。
震える脚、冷え切った両手、触れるライスさんから伝わる温もりがそれをゆっくりと融かすようにして、徐々に、徐々に動き始める。
カフェテリアからトレーナー室までの距離、おおよそ200メートル。
手を繋いでもらいながら歩いたその道のりは、今まで走ったどのコースよりも、長いように思えた。
トレーナー室の扉を軽くたたき、返事も聞かずに扉を開ける。
――もう来るな。
マスターの指示を無視してでも踏み入れた先の未来は、どんなことがあっても全て記録しよう。それが想像した悲しい結末であっても目に、焼き付けよう。
ふたりで駆け抜けた1年と少し。どんな結末でもそれを、なかったことにしたくなかったから。
記録開始:1月27日(土)朝。天候:晴れ。トレーナー室にて。
* * *
仕事も何もないけれど土曜日に学園へ来てしまったのは、1年とすこしで染みついてしまった土曜日のルーティンのせいなのかもしれない。
ひとつだけのマグカップ。ひとつだけのコート、ひとりだけの、空間。トレーナーとしての生活の『一部』にもなっていた彼女の、ミホノブルボンの居ない生活に慣れるまではまだ、時間がかかりそうだ。
彼女を避け続けて1週間。あれでよかったのか。これでよかったんだ。そんな葛藤に苛まれるだけの時間をただただ過ごしていた。
「あれでいい、あれでいいんだ……」
淹れたてのコーヒーを一気に流し込む。ただ、その熱をもってしても、冷え切った心を融かすには至ることはなかった。
静寂に包まれるトレーナー室にノックの音が1回、2回、響く。
「どうぞ」
今は担当しているウマ娘も居ないのだからおそらく、新人のトレーナーか同僚あたりだろう。それならいっそ、そいつに話してしまおうか。少しだけでも楽になるかもしれない。それが一時の気休めでもなんでも良い。
「失礼します、マ、マスター」
「ブルボンさんのお兄さま、いま、大丈夫かな? 朝早くにごめんね」
思わず目を見開いてしまう。彼女がここに来ていたのは『いつものこと』だったと言うのに。あれだけ突き放してしまったというのに、どうして。
近づかなくても、ブルボンの手が震えているのが良く見える。大丈夫、大丈夫だよ。そう囁くライスシャワーの声を聴くたび、ブルボンは喉を震わせ、俺に声を掛ける。
「マ、マスター」
「……来るなって言ったよな」
「す、すみません……で、ですがっ、その……」
背を向けて、立ち上がる。瞳を潤ませながらも進む彼女を直視することを今の俺は出来ず、薄水色の空にただただ視線を向けることにした。
「マ、マスター」
「俺はもう、お前のマスターでもトレーナーでもない」
「っ!」
「お、お兄さま!」
廊下を駆ける音が聞こえる。それはだんだん遠ざかり、やがて消えていく。開いたままの扉から吹き込む1月の風は俺の首筋を突き刺して、忘れられない冷たさを刻んでいく。
「お兄さま、ライスはブルボンさん聞いただけだからよくわからないけど…… どうしてそんなことを言っちゃうの?ううん、言えちゃうの? お兄さまはブルボンさんのこと、嫌いになっちゃったの?」
「そんなことはっ……!」
思わず振り返り、否定する。いつもブルボンの傍に居て、同じ目線で走り続けていた彼女もまた、瞳を潤ませながらに問いかける。
彼女になら話しても良いかもしれない。誰よりも傍に居たあの娘だからこそ、話すべきなのかもしれない。
ソファーに掛け手招きすると、彼女もまた身を震わせながら、長い時間をかけて腰を掛ける。
「ライスから見た率直な感想が聞きたい。走ることを辞めたブルボンはこれから、どうなっていくと思う」
返答はない。口を開けたまま固まってしまったライスの姿そのものが、答えなんだろうと思う。
「わからないよな。俺もわからない。おそらくブルボン自身も、わからないんだと思う」
「でもそれは多分、ブルボンさんだけじゃなくて他の娘もそうだと思うよ?」
「そう言われたらそうかもしれないな。ただ、走ること以外でブルボンのしたいことって、なんだ? ライスは確か、絵本を読むのが好きだったよな。それだったら走ることを辞めた後でも、絵本を作ってみるとか、人生の次のステップを考えることは出来ると思うが、アイツは……」
走ること、勝つこと、夢を叶えること。それだけを胸に駆け抜けてきた。その愚直さに惚れて過ごした1年間。俺はあの娘に、走ることしか教えられなかった。マスター、マスター。そう言って付いてきてくれるあの娘に俺は、一番大切なことを教えることができなかった。
「速く走れる方法を教えた。レースに勝つ方法を教えた。逆に言うと、それしか教えられなかったんだよ、俺は。これからの生き方を教える。考える。そんな一番大切なことを教えられなかった」
トレーナーの仕事、それは担当ウマ娘それぞれの持つ夢へのサポートをするものだと考えていた。あくまでゴールはその夢を叶えるまで。
その先は? 無責任に夢を追わせて、彼女たちのその先は一体どうなる?
有馬記念で勝ちたい。ティアラ3冠を目指したい。クラシック3冠を目指したい。ウマ娘が持つ夢の大半はレースに関することだ。それは3年、たった3年という短い期間の中で、終わる。あるウマ娘は勝利の美酒に酔いしれた。あるウマ娘は辛酸を飲んだ。形はどうあれ、終わるんだ。
20にも満たない歳でその夢は終わる。けれど、人生はまだ続く。むしろここからの方が長い。夢に向かって走り終えたあの娘たちは、これからどう生きていくのか。どう生きていきたいのか。
ブルボンはこの先、どう生きていきたいのだろう。俺にはわからないし、おそらく、彼女にもわからない。誰も答えなんてものは持っていないんだろう。
「お兄さまはやっぱり、優しんだね。そうだよね。お兄さまがいきなりブルボンさんのことを嫌いになんかならないし、なったとしてもあんなこと、できないよね」
こわばっていた顔はいつの間にか和らいでいて、ホッと一息、安堵をその顔に浮かべながら彼女は、ライスシャワーは続ける。
「だからこそ、そんなお兄さまだからこそライス、今からすこしつよい言葉を使うよ」
ライスの口から予告された強い言葉、それに身構えながら続けてくれと言い、彼女からの言葉を待った。
「お兄さまがブルボンさんのことをそこまで思っているなら、なおさら向き合って、もっとお話しして伝えなきゃ。今のお兄さまの態度だと、ブルボンさんをただ傷つけているだけなんだよ?」
「そうか……なぁ、ライス。俺はブルボンに、どう話せば良いと思う」
「思っていることをそのまま伝えるだけでいいんだよ。ほら、お兄さまって寡黙でかっこいいーって思うけど、誤解されることも多いと思うの。だから、そういう時は思っていること全部、本当に全部伝えるの。それだけでいいとライスは思うよ」
――やっぱり、どんなこともハッピーエンドが1番だよ。
微笑む彼女はブルボンだけでなく、俺とブルボン。ふたりにとっての良き理解者だったのかもしれない。
「ちょっと出てくる。ありがとう、ライス」
「うん、ブルボンさんのお兄さま、ふぁいとだよ。おー!」
かけてくれた彼女の言葉、背中を押してくれた彼女の小さな手、それに押されて俺はトレーナー室を跡にする。
ブルボンが今、どこに居るかなんてことはわからない。
それでも俺は走り続ける。
その先にある、ハッピーエンドを目指して。
* * *
数日後。
カフェテリアで見かけたブルボンさんは少し、おかしくなってしまったのかもしれない。
口を開けたままどこか上の空で、空も見えないのに天井をただただ見つめながら、他の娘の視線なんて気にせずただ茫然とひとり、椅子に腰かけていた。
お、お兄さまとまた何か……!?
「ブ、ブルボンさん、おはよう。となり、いいかな?」
「っラ、ライスさん。おはようございます」
引いてくれた椅子に腰かけてまた、彼女を見る。よく食べるブルボンさんの前にはなぜかたった1本の牛乳だけが置かれていて、それに手も付けず……ううん、付けられないのかな。お供え物みたいに置かれているそれはなかなかに奇妙な光景なのかもしれない。
「マ、マスターニ」
急に口を開くブルボンさん、そこに感情は無く、ただ事実を伝えるためだけのように言葉を発する。うん、うん。と、それを一言一句聞き逃さないように、そっと耳を寄せた。
「キュウコンサレマシタ」
なんだ、そっかぁキュウコンかぁ。ブルボンさんには悪いけど、心配して損しちゃったかなぁ。
…………
……
…
?
求婚?
「求婚!?」
ど、どうしてそうなっちゃったの!? う、ううん、もしかしたらそれがブルボンさんのお兄さまが本当に伝えたかったことなのかもしれないけど……そ、そんな話だったっけ!?
「あれは……間違いありません」
「ほ、本当かなぁ……ちなみに、他にはどんなことを言っていたの?」
「他、ですか……たしか――結婚。一目惚れだったな。その先まで見据えるべき。傍に居させてほしい。そのようなことを言っていました」
本当に求婚してるよ……! 言い逃れも他の解釈もできないよ……
徐々に頬を赤く染めながらもやはり視線は天井に向いていて、ブルボンさん自身も今この瞬間が夢か現かよくわかっていないような気がする。
私ももうよくわからなくなってきたよ……
「ごめんね、ブルボンさん。お兄さまとお話したときのことを最初から、最初から教えてくれる?」
「え、えぇ。わかりました。データ検索中……ヒット。1月27日(土)午後。天候:晴れ。校舎裏にて」
* * *
遡ること数日前。
「ブルボン!」
彼女を見つけるまで、俺はどれだけ走ったのだろう。学園内、グラウンド、秘密の特訓をした川べり。そして見つけられたのは人気のない校舎裏。大きく生えた木を背にして俯く彼女は、そこに居た。灯台下暗しというのは、こういうことを言うのだろう。
「マ、マスっ……いえ」
「ブルボン。俺の話を、聞いてくれないか」
マスター。その言葉を言いかけては留める彼女の弱弱しい表情を俺は、初めて見た。そんな顔をさせてしまった自分を今すぐにでも殴ってやりたい。けれどそんなことをしている余裕も今は無い。それよりも先にすることが、伝えることがあるのだから。
まずは……そうだな。前提としてこうだ。俺は決してブルボンのことを嫌いになったわけではないことを伝えよう。むしろ夢に向かって一心不乱に突き進むその走りが、ブルボンが大好きだ。それを伝えなければ。
「俺はお前のことが、好きだ」
「えっ」
俯いていた顔はようやくこちらを向いてくれた。そうか。やはり俺が嫌いになったとか、そういうことを考えていたんだろう。
「本当に、すまない。勘違いさせて悪かった。俺がもっとうまく話せていればよかったんだ……」
返答はない。口を開けたままの彼女にも、言いたいことはたくさんあるのだろう。だが、数秒待ってみても返答はない。そうか。俺の言葉を待ってくれているんだな。ありがとう、ブルボン。
「俺はお前に走ること、勝つことを教えてきたつもりだ。だが、言ってしまえば教えたのはそれだけだったな。これからの人生、どう歩んでいくか、何を選んでいくか。それを考える余裕も、考え方も教えられなかった。好きな人を見つけて、結婚してみたり。好きなことを見つけて、それを仕事にしてみたり」
あぁ、今になってこの間までの俺の行動すべてが恥ずかしく見えてきてしまう。ほんと、駄目だな。俺は。
「1年前のこと、覚えてるか? 初めてブルボン、お前と出会った時だ。お前の夢を聞いて、お前の走りを見て、ははっ。思えばアレは、一目惚れだったのかもしれないな」
俺はあの時、確実に彼女の夢と走りと、その心の虜になっていたのかもしれない。
「まさに、恋は盲目というやつかもしれない。ただ、今思うとその時の俺には言ってやりたくもなる。大体のウマ娘が引退する3年先、そんな短い未来までじゃない。ずっとずっと先の、将来まで見据えるべきだったんだ。ってな」
そうだ、その意味を込めた行動をしていたのがここ最近の俺。だがそれはあまりにも自分本位で、身勝手で、ただ彼女を傷つけているだけだった。突き放すだけ突き放して、それで解決する問題なんかではなかったんだ。俺が居なくなっただけで彼女がこれから先の人生を選択できるのか? マスター。マスター。そう言いながら最後まで付いてきてくれた彼女にすることがこれなのか?否、断じて否。
それを教えてくれたライスシャワーには感謝してもしきれない。
俺はブルボンにまだ、何も返せていない。夢を見せてくれた。栄光を勝ち取ってくれた。それだけのことをしてくれた彼女に対してできるのは、今までのトレーニングみたいに、一緒にこれからの生き方を考えてあげること。それに尽きるはずだ。
「ただ、いきなりこれからの人生を選べ。なんて言われても、難しいよな。急に突き放した俺が言うべきことではないかもしれないが、ブルボン――」
――もう少しだけでいい。お前の傍に居させてほしい。
伝えるべきことは、すべて伝えた。後はもう、彼女がそれを許してくれるかどうかだ。未だに返答を返さない彼女は微動だにせず、立ち尽くしていた。そうか。これまでのことがあったから、そうだよな。焦って答えを出す必要なんてないんだ。俺と一緒に考えるこれからもあれば、ライスシャワーのような、同じ目線で居てくれる"友達"と一緒に考えるこれからもあれば、自分だけで考えるこれからも、ある。
「すぐに返事を返す必要はない。いつものトレーナー室。俺はいつでもそこに居るから、答えが出たら教えてほしい」
それだけ言って俺は校舎裏を後にする。何日でも、何週間でも、何カ月でも俺は待つ、かつて彼女と居ることが当たり前だった。あのトレーナー室で。
* * *
「……再生終了。これが事の顛末です」
「えぇ……」
話を聞く限りブルボンさん側の勘違いもあるのかもしれないけどこれはこれで……もっと大変な方向に行っちゃうよぉ……
「それでブルボンさんは結局、どうするつもりなの?」
「無論、答えは決まっています」
お供え物と化していた牛乳瓶の蓋を開け、一気に飲み干すと席を立つブルボンさん。その答えを告げると背を向けてどこかに行ってしまった。向かう先は多分、あそこなんだろうけど。
「でも、これでいいのかもしれないね。やっぱりライスは、ハッピーエンドが大好きだから」
――マスターにはこれからもお世話になると、挨拶をしてきます。
振り向きざまに見せたその笑顔の先に映る未来は、きっときっと、明るいものだと思うから。
ステータス『高揚』を確認。
――ミホノブルボン、今日から、ここから、再始動します。