あれは、拠点に招かれて一週間と少し経ったころ。
両親を殺され、故郷を壊され、あまりに落ち込んで最初は喋れないほどだった私は、マホやロックスのおかげでなんとか立ち直りかけていたところだった。少なくとも、普通みたいに喋って、食べることが出来るくらいには回復していた。
驚くべきことに、マホもロックスもたった一人だけを救うに留まらなかった。拠点にはたくさんの人がいる。その人たちを、特に子どもたちを、彼らは救った。心を掬い上げ、壊れるのを防いだ。
そうやって平穏が保たれたと思った矢先、事件は起きた。
「もうやってられっかよ!」
ガチャンと食器が割れる音がして、食堂にいたみんなが思わず振り向く。
年齢的には成人したばかりの男が、息を荒げて大げさな音を立てて立ち上がった。
「こんなとこに閉じ込められて、あとどんだけいりゃいい!?」
閉鎖された空間で、多数の人間と共同生活なんて気分が詰まってしまう。そうじゃなくても、急激に環境が変わって情緒が不安定になってしまうことは珍しくない。それでも問題にならなかったのは、泣いたり吐いてしまったりといった、他の誰かが対処できることか時間を置けば収まることだったから。
しかし、こんな怒り狂っている人は初めて。
素手だったら何人かで抑え込むことも出来たけど、まずいことにその男は金属のフォークを握って、先をこちらに向けていた。
「俺は出ていくぞ。道を開けろ!」
もしも力の入れ具合や打ちどころを間違えれば、大惨事になる。そんな
硬直してしまって退くことも出来ずにいる人もいて、そのせいで邪魔されていると勘違いしてしまったのだろう。男は周りを威嚇する。
誰も止めようとはせず、相手の次の行動に恐怖しながら見ることしかできなかった。
……一人を除いては。
「おい、お前の部屋番号は?」
「は?」
「部屋番号聞いてるんだよ」
立ち上がりながら、ロックスは強めの語気で言う。
私たちは留めようとしたけど、彼はそれを振り払ってさらに男に近づいた。
「お前には関係ないだろ!」
「関係あるんだな、それが。なんたって、この後お前はここに来るたびに白い目で見られて、ゆくゆくはそれに耐えられなくなって部屋に籠ることになるだろうからな。そうなれば、他のみんなが寄り付かないお前の部屋に飯を運ぶのは俺ってことになる」
フォークの先が向けられても、ロックスは呆れたようにため息をついて、口を回した。
「よく考えろ。それをぶっ刺したらどうなるか。子どもたちの頭に、フォークが人を傷つける物だって刷り込まれる。ここに来るたびに今の光景を思い出す。ここにいても安全じゃないって不安になる。そうなったらお前だけじゃなくて俺たちも終わりだぞ。せっかく生き延びたのに、共同生活なんて出来なくなる」
矢継ぎ早に告げる彼に、先ほどまで泡を飛ばしながら叫んでいた男の勢いが削がれていく。
「周りを見てみろ。たった一人、お前だけが暴れてるせいでみんなが怯えてる。憩いの場所のはずのここで」
ロックスがそう言うと、男は周りを見渡す。子どもたちだけじゃなく、大人までが自分に目を向けている現状に、男はたじろいだ。何十何百という目が、男とフォークとロックスに注目している。
そんな右往左往する瞳がある中で、唯一ロックスだけが真っすぐに男を見ている。
その視線に何を感じ取ったのか、男は力を緩めた。その隙を逃さず、ロックスは男に近づき、彼の手からフォークをもぎ取った。
「お前がなんとしてもここを出たいって言うなら止めない。やっぱりやめてこの中にいるって言うならそれでもいい。だけどここにいるつもりなら、みんなにゆっくり飯を食わせろ」
△
今でも鮮明に思い出せるその姿を、私は眩しいと思った。
あの日食堂で喧嘩を止めた時も、普段からずっと子どもたちに寄り添ってる時もそう、ロックスはまるで拠点の人に家族のように接し、昔からの友達のように居る。
そんなことが出来る彼を、私は尊敬していた。地獄の中で他者を慈しむことが出来る彼に憧れてすらいた。
……憧れていただけで、何も分かっていなかった。
冗談交じりの弱音を吐くその裏で、彼はどれだけの苦悩を抱えていたのだろう。笑ってごまかした顔で、彼はどれだけ歯を噛んだだろう。
心配なんてないと、大体のことは大抵どうにでもなると、周りを励ました分だけ彼自身は傷ついていく。包帯や服や装甲で隠した体は、笑顔や言葉で隠した心は、磨り減って磨り減って削られていたはずなのに、それでもロックスは笑った。私たちのために。彼が愛した者たちのために。
装甲なんて無くても、彼は私たちのヒーローだった。私たちの拠り所だった。私にとっての……世界で一番の人だった。
「う……うぅ……っ」
とてつもない喪失感と絶望感と後悔がのしかかる。うずくまって立てないほどに私を覆う。
私はどうしたらいいの? ロックス、ロックス、答えてよロックス。あなたの声を聞かせて。あなたの顔を見せて。こんなの大したことないって、笑い飛ばしてみせてよ。
「……ぅ……」
手を取って。涙を拭って。じゃないと私、壊れてしまう。あなたがいないと、私、どうにかっちゃいそう……
彼がどれだけ大事だったか理解して、それを失って──私の心の糸は、ついにぷつんと切れた。
「う、あ、うあぁぁぁ!!」
我慢できなくなって、涙を流してしまう。
泣いてる場合じゃないって頭では分かってる。だけどどうしたらいいのか分からない。
「あんりー!」
私の泣き声を聞きつけたのだろう。マホがやってきて、私の肩を抱いてくれる。背中を撫でてくれる。
それでも私の堕ちた心はどんどんと闇に吞み込まれていって、沈んでいく。
「あんりー大丈夫?」
「わた、わたしが、私がロックスを……」
頭がぐちゃぐちゃになって、しゃくりあげて、上手く言えない。察したマホは、大丈夫大丈夫と繰り返して、私を抱き留めてくれた。
でもぼろぼろと落ちる涙は抑えられなくて、破裂しそうなほどの胸の痛みも鎮まってくれない。
「マホ、私もう無理……もう、何も出来ない……っ」
痛い、痛い、痛い。何も信じたくない。何もしたくない。
考える頭も、感じる心も無ければ、こんなに苦しむことは無かった。
あの人と私が出会っていなければ。ううん、私がいなければ……!
「じゃあ諦めるの? ううん、諦められるの? あーしは諦められない。だってロックスは、あーしのズッ友だもん」
毅然とした態度で、彼女は言う。
「完全に同化しちゃったんなら、マジェコンヌはあの魔女みたいな姿になるんだって。でもあそこで見たのは、ロックスの姿だった。これってどういうことか分かる?」
私は首を横に振った。
「ロックスは生きてるんだよ。頑張って抵抗してる。だったら、あーしたちが止まってる場合じゃないっしょ!」
……今、マホはなんて言ったの? ねえ、なんて?
「ロックスが……生きてる?」
マホが言ったことは、私の耳に入ってはいてもほとんど理解できなかった。でも、たった一言だけはすんなりと脳の中に入ってきた。
「生きてるって、そう言ったの?」
「そうです」
答えたのは、いつの間にかそばまで来ていたネプギアだった。
「ロックスさんはきっと生きています。犯罪神という強大な力にも負けず、決して混じることなく、自分の心を守っているんです」
「……そうだとして、私はどうしたらいいの?」
「やれることをやるしかないんです」
確固たる意志を持って、全くの疑いがない目で彼女は言う。
「ロックスさんはそうやって戦って、勝って、証明してくれました。それを見ていた私たちが諦めるわけにはいかないんです」
彼は口癖のように言っていた。『大体のことは、大抵どうにかなる』と。
きっと良くなるって思って諦めずに戦い続ければ、最悪の未来を回避出来るって、そういう意味だって私は解釈した。だって、それを他でもないロックスがずっと示してくれていたんだから。
それなのに、彼を一番信じていたはずの私が、彼を想う私が、ただ頬や床を濡らすだけでいいはずがない。
彼が世界で一番の人だと信じるなら……
「取り戻しましょう、ロックスさんを」
そう、きっと、どれだけ怖くても戦うしかない。
私は顔を乱暴に袖で拭いた。
私の心はあらゆるところがひび割れてしまっている。あとちょっと力を込められただけで粉々に砕け散るだろう。
それはつまり逆に言えば、あと一回。一回だけ戦う力が残っているということ。
何もかもを手放すのは、全てやりきった後。
そうでしょ、ロックス?
△
「来たわね、アンリ」
意を決して戻ると、出ていった時と同じようにみんな集合していた。
「ええ。正直、どこまでやれるか分からないけど……戦うわ」
弱音を飲み込んで、倒れないように必死に足で立つ。傍から見れば全く頼りのない木偶の坊だけれど……
「でも、ロックスさんの体が使われてるってなると戦いにくいのは変わらないですよね」
「それにそもそも、どうしたらマジェコンヌを倒せるのかも分かんないよね。だってそれって、ロックスを……」
「大丈夫です」
グレイシスターが口を挟んだ。
「これがあります」
そう言って、彼女は手のひらに収まるような筒を見せた。
「ネプテューヌさんが捕えられていたあのカプセルを改造して小型化したものです。これがあれば、犯罪神の魂を吸い込んで閉じ込められます」
「そんなものがあったの!?」
「この時間軸に来て研究して、出来たのはつい最近です」
「じゃあそれを使えば……!」
「いえ、大きな問題があります」
グレイシスターは首を横に振る。
「これは、そこに在る魂を吸い込む装置。器が、つまり肉体がある場合にはそれが壁になってしまいます」
「じゃあそのカプセルを使うには……」
器を壊さなければいけない。それはつまり、ロックスを死に追いやるということだ。
「犯罪神を解析すれば、私たちならきっと器を傷つけずに魂だけを閉じ込める方法を見つけられます。その技術とこれを組み合わせれば、きっと……!」
協力する、となって可能性は広がった。話をしなかったり、話を聞かなかったり、戦ったりではありえなかった未来が見えてくる。
バズール現象も封じた私たちなら、きっとやってのけてみせる。
「じゃあまずその一歩目、一番難しいところをやる必要がありますわね」
「はい、ロックスさんを捕まえましょう」