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白い雪が風に乗って肌を冷やす。この国は一部の地域を除いて気温が氷点下近くかそれを下回る。この街もそのひとつであり、うっかり外で眠ってしまえば凍りついて死んでしまうほどに寒かった。
「…………」
そんな街中で、街灯に照らされた夜道を1人の女性が暗い瞳で前を見ながら歩いている。コートやマフラーに身を包んではいるものの、白い吐息がどうもしようがない寒さを証明していた。
彼女はこの街に住んでいる。しかし今、彼女は自分が何者なのか、今が何時で、ここが何処なのか、全てが曖昧で思い出せないでいた。まるで初めて来たかのように、記憶が氷に閉ざされたように。
しかしそんなことは関係ない。今はただ、手に持ったものを目的地に持って帰る、それだけが彼女の頭の中に残っていた。
1歩ごとに雪を踏みしめる音が耳にこびり付くように鈍く響く。
コートは湖に落ちたかのようにビシャビシャに濡れた感触を彼女の肌に伝える。コートだけではない、全身がまるで濡れているように寒い。だがそれはただの幻覚であり、彼女の体は濡れてなどいなかった。
「……ここ?」
気がつけば建物の玄関口に立っていた。ここがどこかは分からない、しかし目的地であることは間違いなく、彼女は足を進める。
「ちょっとレターナさん、聞いてる? ケーキなんて買う余裕があるなら家賃を」
「……貰ったんです」
「このご時世にそんな高いもの、只で貰えるはずがないでしょうに。あ、ちょっと……もう」
途中、見知らぬ女性から声をかけられたが、彼女はそれを軽くあしらい歩みを進める。
そして導かれるように彼女はひとつの部屋の前で立ち止まった。
彼女は無意識にドアノブに手をかけ、扉を開く。
「……ただいま」
開けるやいなや、一言そう言う。
すると、暗い部屋の奥から小さな黒い影がひょこっと顔を出した。それは少しずつ彼女の元へと近づき、冷えた身体に抱きついた。
そして彼女は思い出す。自分はこの人影……お腹を痛めて産んだ愛しい娘の母親であることを、ここに戻ってきたのは、今手に持っているものを娘に食べてもらうためだと。
「おかえりなさい、マーマ」
「……ええ、ただいま…………『ペーシャ』」
娘の名前を呼ぶと、彼女は目に若干の光を取り戻し、ペーシャの身体を抱き返す。
──間違いない、この子は私の娘だ。
あんなに寒かったというのに、こうしてペーシャを抱きしめると、それすら忘れてしまうほどに彼女の胸は温まった。
「……ペーシャ。今日はね、素敵なお土産があるの」
「おみやげ?」
ペーシャが小さく首を傾げると、彼女はペーシャの手を握って室内に入る。灯りすらない部屋の中は大人でさえ怯んでしまうほどに黒く、得体の知れない恐怖心を煽っていた。
彼女は入って早々にテーブルに置かれた未使用の蝋燭1本を移動させる。そしてマッチを手に取り、先端を擦って火を起こすと、蝋燭の芯に移した。
ゆらゆらと揺蕩うその火はとても明るいわけではないが、2人しか居ない室内を灯すには充分であった。
「座って待ってなさい」
それだけ言うと彼女はコートをハンガーに掛け、荷物を置いてキッチンに立つ。
「…………」
落ち着いているように見せかけて、袋の中身が気になりウズウズとするペーシャに、彼女は表情は変えずに心の中で微笑みながらキッチンに立ち、袋から箱を取り出して中身を開封した。
──ああ、本当に美味しそう。
そう思いながら彼女はそれを皿に丁寧に移し替え、ペーシャの元へと運ぶ。
「これ……ケーキ?」
ペーシャは唖然とした物珍しそうなものを見る表情で声を漏らす。
目の前には、今のご時世ではそうそう購入することは難しい、ましてや自分達では買うことすらできない高級品であるはずのケーキが置かれている。蝋燭の灯りしかない部屋の中に甘い匂いを漂わせるそれは、見ているだけでも涎を垂らしてしまいそうだ。
「これ、どうしたの?」
「……店員さんがくれたのよ。その代わり、食べたら絶対に感想を聞かせてって約束で」
──そんな約束、いつしたっけ。
自分が思い出せたのは、ペーシャのこととケーキを持って帰るということ。それ以外のことは覚えてすらいないのに、こうもスラスラと言葉が出てしまうのは変な気持ち悪さがあった。
「さあ、食べて」
彼女はペーシャに食べるよう促す。
「…………」
「…………どうしたの、ペーシャ」
しかしペーシャはケーキを口にしようとしない。まるで駄々をこねる子どものように、彼女はグッと何かを我慢するかのように顔を顰める。
「ペーシャ、店員さんがあなたのためにくれたケーキなのよ。滅多に食べれないものなの」
「…………ん」
「食べなきゃ勿体ないでしょ?」
彼女の言葉に、ペーシャは口を微かに動かすだけで何も答えない。その姿に、彼女は心の中に黒い靄を湧かせていく。
──ああ、前にもこんなことがあった気がする。
──やっぱり私は。
──あの時みたいなことは、繰り返さないように。
一瞬湧いた苛立ちを制すると、彼女はペーシャの顔を真っ直ぐ見つめながら言った。
「……ペーシャ、もし私に伝えたいことがあるのなら、ちゃんと伝えて欲しいわ」
「…………」
「大丈夫、怒らないから」
彼女は精一杯の笑みを浮かべた。
「……ま、マーマも……一緒に、たべてほしくて」
「あなたのために買った……いえ、貰ったものだから、私は大丈夫よ」
「……マーマ、さいきんなにも食べてないから…………ケーキ、一緒にたべたい」
何かを恐れるように、ペーシャがポツリポツリと答える。勿論、何も食べていないなど今の彼女は覚えてはいない。だが、大切な娘に心配をかけてしまったことは事実だ。
「……分かったわ。一緒に食べましょ」
「…………うん」
ペーシャは嬉しそうに頷き、その反応に彼女は微笑を返した。
そして2人はケーキを各々の前に持ってくると、小さく頬張った。
──味なんてしないじゃない。
彼女は口に出さずに呟く。
本来は甘いはずのケーキ、だが彼女の舌はその甘さすら感じない。それどころか食感すら曖昧でよく分からない。まるで1度も食べたことがないかのような、今食べているものが偽物であるかのような感覚が彼女の口の中を覆う。
「……美味しい?」
「うん、すっごくおいしい」
けど、そんなものは娘の笑顔に比べたら大したことのないもの、目の前で幸福な笑みを浮かべるペーシャの姿を見れれば、彼女はそれで十分だった。
────────
「………………」
至福の時はあっという間に流れ、気づくと彼女は椅子にもたれ掛かっていた。
テーブルには、先ほどまでケーキが乗っていた空の皿と、二の腕よりも太い酒瓶が置かれているのみだった。どうしてこんな所に酒瓶があるのか、何時出したのかは分からない。
彼女は視線を移す。向こうの方では、ケーキを食べ終えたペーシャがソファに座りながらウトウトとしていた。
「………………はぁ」
全身が重く気だるい、なにかに締め付けられているような苦しさが心と体を襲う。息をするのも、目を開けているのも、生きていることさえも、今の彼女にとっては辞めてしまいたいほどに辛い。
──そう、そっか…………そのためにこれが。
彼女は無言で酒瓶を掴むと蓋を開封し、グラスに酒を注ぐ
「んっ……」
…………ことはせずに、そのままラッパを吹くように豪快に瓶ごと持ち上げ、中身を胃袋へと注いだ。
ケーキの時とは違って明確に苦い味と刺激を感じ取っており、喉が焼けるように痛み、胃袋からも鼻からもアルコール特有の臭さが回り始めた。
「んくっ…………ぷは〜っ」
そして瓶を置くと、彼女は思いっきり酒臭い息を吐き出す。
「んー…………マーマ?」
「あらペーシャ? 起こしちゃった?」
目を覚ましたペーシャに彼女は顔を向ける。
寡黙で笑みをあまり零さなかった彼女の表情は打って代わり、心の底から笑顔が溢れ出ているようなものへと変化していた。頬は紅く染まり、口元もニヘラと緩みきっている。
「……マーマ、おさけ飲んだの?」
「うん、目の前にあったからついね。それよりもほらペーシャ、こっちにおいで。今日もマーマとおしゃべりしましょ」
「うん!」
ペーシャはソファから跳ね上がると、満面の笑みで彼女に抱きつく。彼女もその柔らかさに笑みを零した。
それから暫く、2人は今日一日あったう〜っと言いたくなるような嫌なことから、にははっと笑いたくなるような小さな幸せまで、沢山のお喋りを楽しんだ。
矢張りその全てを彼女は覚えていない。覚えていないはずなのに、何故か口から次々と言葉が溢れてくる。
いや、本当は話すらしていないのかもしれない。何かを話しているように見せて、そこの部分だけ曖昧に処理されているやもしれない。
「マーマ、いつもよりおさけの臭いがひどい」
「へへ、ちょっと飲みすぎちゃったかな」
「あたしもおさけ飲んだら、楽しいお話たくさんできるかな? 」
「も、もぉー、だからお酒を飲んだらちっちゃくなって消えちゃうんだってばー」
しかし、どちらにしろ彼女にとっては幸せな時間であることは間違いなかった。
──────
「ほらほらペーシャ〜」
「わーい!」
白と黒に包まれた銀世界にて、暗く静かな広場に親子の笑い声が響く。
楽しい楽しいお話を終えた2人は、もっと楽しくなるために外に出ていた。帰宅してから時間が経っているため、外の気温はより冷え込んでいる。本当ならニコニコなどする暇もないほどに寒いのだが、そんなことなどお構い無しに、厚着を身に纏った2人は誰もいない夜の広場を楽しんでいた。
「あははっ、よーしもっと速くー」
彼女はペーシャの手を持ちながら、その場でグルグルと回転して小さな体を宙に浮かせる。
目前の世界が横に流れてくらくらと揺れる。魂が抜けてしまいそうな浮遊感が、彼女の体をより心地よくさせる。
「あっ」
「ぎゃふんっ」
途中、彼女は躓き、ペーシャと共に道脇に出来た積雪へ背中から倒れ込む。その衝撃にペーシャは思わず変な声を上げた。
「「…………ぷっ、あははははっ!」」
刹那、大の字になった2人は夜空に目を向けながら、倒れたまま笑い声を共鳴させた。
なにもおかしくはない、ただ躓いてその場に倒れてしまっただけのこと。だというのに、今の彼女にとってもペーシャにとっても、思わず吹いてしまうほどに可笑しくて楽しかった。
「はぁ、やっぱりペーシャと一緒に遊ぶのは楽しい」
「あたしも、マーマと遊ぶの大好き」
ペーシャの言葉に彼女は「ありがとう」と返して、小さな頭を撫でた。
「ペーシャ」
「?」
「……この前はごめんね。ペーシャの気持ちも知らずに怒鳴っちゃって。さっきもあなたを叱りそうになっちゃった」
「……ううん、気にしてないよ。だって、マーマはあたしのためにがんばってくれてるから」
いつの間にか湧き上がった言葉を吐くと、彼女は腰を起こして膝の上に乗るペーシャを背中からぎゅうっと抱きしめる。ペーシャも応えるように彼女の冷たい手を両手で握った。
人も肌も、何もかもが冷たいこの世界の中で、愛娘だけは体も心も暖まらせてくれる。こうしていれば、寒さなんて怖くもない。
──だから本当のことを話さないといけない。
「……私ね、ペーシャには幸せになって欲しいの。だから、あなたを素敵な場所へ連れて行こうって…………けど、もう少しだけ頑張ってみてもいいかなって……思ったわ」
「……あたし、マーマといっしょがいい。マーマとなら、どんなに辛くてもがんばれる」
「…………私も、あなたと一緒ならどんなことも乗り越えられる」
彼女はにこやかな笑顔で、酒で赤らんだ頬をペーシャに擦り合わせる。
──この子には、幸せになって欲しい。
──この子のためなら、命だって捧げる。
──大事な大事なペーシャ。
「ペーシャ」
「………………」
「大人になったら、私と一緒に────
…………?」
言葉の途中で、彼女は謎の違和感を覚えた。
娘と戯れてこんなにも暖かいはずなのに、芯はそれに逆らうように冷めていく。あれほど酒でぽっとしていた頬も元の肌色へと戻り、体からアルコールが抜けていく。
「……ペー……シャ?」
違和感は体だけではなく、今抱きしめているはずのペーシャにも表れていた。あんなに温かかった彼女は今、呼び掛けにも反応せずに氷のように冷たくなっている。
…………いや、そもそも初めから温かくなどなかった。なぜなら、今彼女が抱きしめているのは愛しい娘などではなく、単なる『人の形をした冷たい塊』であったのだ。
「どう、して…………」
先までいたはずの娘がいないという現実に理解が追いつかない。というよりは頭が理解を拒んでいた。
気づけば、そこにあったはずの積雪も、白に包まれた広場も、寒さに凍えた木々も、人々の眠る建物も、澄んだ夜空も、全てが彼女の周りから消え去っていた。
あるのは真の暗闇と彼女が抱きしめている塊だけである。
「まだ、伝えられてないことが…………」
瞬間、ペーシャだったものは粉々に砕け散り、彼女の腕から崩れ落ちる。
そして割れた破片は溶けるように液体へと変化し、彼女の体を一瞬で包み込んだ。やがてそれは大きく広がっていき、1つの湖へと変わっていく。
──ああ、そうだった
──私は、もうあの時
氷点下近くの水の中、彼女はどこまでも暗い闇色をした湖の深くまで沈んでいく。
体が指先から溶けるように崩れていき、口から肺に残っていた空気が泡となって水面へと逃げていく。
それと同じように、ペーシャの笑顔も、ケーキの無味も、酒の味も、広場での告白も、伝えたかった言葉も、大切な思い出も体から抜けていく。
否、そもそもそんなものは始めからなかった。ここにあるのは、彼女の心の底に眠るものを具現化した張りぼてな幻でしかないのだ。
『シャイン、残念だが遅すぎだようだ。彼女はおそらくもう』
『そっか……残念、なんだ…………』
『マーマ! やだよっ! マーマッ!』
耳に響く幻聴でさえ彼女の心には届かない。ただ崩れゆく身体を虚ろな目で見るしかなかった。
──ああ、虚しい。
──寒いわ。何もかも……。
──約束…………そんなものしたっけ。
──伝えたいこと…………そんなもの、あったかしら。
──ペーシャ…………あなたは…………誰?
──私は…………誰?
────────
「…………」
「…………」
アマラリルクの住処。
人には見つからないこの場所で、一時の眠りから覚めたツィベタは、指で口端を引っ張り舌をベロンと出す目の前の少女、クフフ=ケケラケラことクフフさんを冷めた瞳で見ていた。
「…………」
「…………
「……なに?」
「
「……ええ、とてもつまらないわ」
「……相変わらず冷たいね」
ツィベタからの冷たい返しに、クフフさんは内心傷つきながらケラケラと笑った。彼女は笑わせたいという理由でいつもツィベタに執拗く絡んでくる。このやり取りも何度目か分からない。
「また新しい遊び?」
「うーん、と言うよりは、ツィベタちゃんが魘されてたからちょっと起こそうとしただけだよ」
「魘されてた……私が?」
「うん。名前を呼んでも起きないから。悪い夢でも見た?」
くいっと体を傾けて顔を覗くクフフさんの言葉に、ツィベタは首を傾げる。
彼女自身は魘されていた自覚などない、悪夢など見た覚えもなかった。
「(……けど)」
どこか懐かしく、楽しく、悲しく凍えた鈍いものが頭の片隅に残っていた。だが所詮は一時的なものでしかない、どうせそんなものはすぐに消えてしまうだろうと、ツィベタは片手で頭を軽く押さえながら考えた。
「ツィベタちゃん」
「?」
途中、声をかけられたツィベタが顔を上げると、目の前に謎の四角い箱が差し出されていた。様々な模様が彩られているそれは、あからさまにクフフさんが造ったものであることを証明している。
「なにこれ」
「くふふ、つまらなそうな顔をするツィベタちゃんにアタシから愛のプレゼントだよ〜。中身は開けてからのお楽しみ」
くふふのふ、と不敵に笑うクフフさんに真顔を向けつつ、ツィベタは差し出された箱を両手で受け取る。外装は派手だが、それ以外はいたって何も仕掛けがないように見える。
パンっ!
なんて思っていると、大きな破裂音とともに箱の蓋が開き、中から紙吹雪とともに謎のキャラクター……というよりは小さなツィベタらしきものが飛び出した。
「…………」
そんなことだろうと思っていたツィベタは、無言のままその人形を見つめ続けた。ツィベタによく似ているが、じっくりと観察すると微妙に違う。
そう、それはまるで…………
「ふふ、ねえねえ元気出た? ツィベタ…………ちゃん?」
ケラケラと笑いながら話しかけてきたクフフさんの笑顔が硬まる。
「あ、あれ? ツィベタちゃん? どうしたの?」
急に心配をし始めるクフフさん、珍しくアタフタとする彼女の姿にツィベタは頭上に疑問符を浮かべた。
「どうしたって、なんのこと?」
「だってツィベタちゃん、泣いてるよ」
「……え?」
その言葉にツィベタは自身の異変に気づく。
こんなドッキリ、悲しくもない、辛い訳でもない、こんなにもくだらないことなのに、彼女の瞳からは涙が零れていた。
「なんで……」
なにもおかしくはない、それなのにどうして涙が溢れてしまったのか、ツィベタ自身も自分への理解が追いつかなかった。
「え〜っと……びっくりしすぎて泣いちゃった? それとも感動のあまり?」
冷や汗を飛ばすクフフさん。必死に笑顔を作っているが、内心はかなり焦っている。
「クフフさん」
「え、なに〜?」
「…………少しの間、傍にいてくれるかしら?」
「……うん、いいよ」
そう答えると、クフフさんはツィベタの隣に座り、謝罪するように彼女に抱きついた。
そして涙が乾くまでの間、クフフさんはツィベタの傍に座り続けた。