仄かな違和感を抱きつつも平穏へと向かうオルステラ。
忘れられたままの存在は、ただ独り、ある場所へと向かっていた。
それはソロン王に招かれたある日のこと。
同じく招かれていたリシャール王と共に、男三人、ごく私的で気兼ねないお茶の時間を楽しんでいた。
リシャール王からのおみやげ(乾燥させた川豆に香辛料をまぶしたもの。お茶請けと言うより酒の肴かな…?)をつまみつつ、ソロン王とリシャール王から時折女性には聞かせられないような話題が飛び出しつつ、手紙では伝えられない近況などを話していた時のことだった。
――あの報せが飛んできたのは。
「ご歓談中のところに申し訳ございません、陛下。少々よろしいでしょうか」
「ん?」
「その…“角”に関することで」
伝令兵だろうか。身軽そうな装備で手紙を携えている。
「ならば二人にも聞いてもらった方がいいだろう。このままでいい、どうした?」
「は…。警備隊が倒され、賊の侵入を許してしまったと…」
「何!?」
色めき立つソロン王に、僕とリシャール王は顔を見合わせた。
「どうしたんだよソロンのおっさん、“角”ってのは何のことだ?」
ソロン王は緊張を滲ませ、伝書に目を走らせながら「“門”だ」と告げた。
「ベルケイン周辺に広がる峡谷の最奥、その谷間に隠れるように聳える巨大な門……。そなたらには手紙で報せただろう」
「ああ、あの。伝承に聞く“フィニスの門”と思われる、ってやつか」
“フィニスの門”――。神話の時代にフィニスがオルサに会うため開いたと云われる、死者の世へと繋がる扉。
ソロン王からの手紙を読んだ時もそうだったけど、どうして門の名前を聞くとこんなに胸が騒ぐんだろう。何か……何か大切なことを忘れているような…、思い出さないといけない何かがあるような…。
「門の調査を行う学者たちを向かわせたが、あの地は人が住むには過酷な環境である上、周辺には凶暴な魔物が多く棲む。彼らを守るために警備隊も併せて派遣しているのだ」
「あの辺の魔物が凶暴…ってか、厄介なヤツが多いってのは時々聞く。そんな連中をものともしない警備隊、その警備隊を倒した賊…か。きな臭くなってきやがったな」
「その賊の目的や規模はわかっているんですか?」
僕の問いに伝令は困惑を浮かべ、自身もまだ信じられないと言いたげに口を開いた。
「それが――女性が一人、と」
「間違いねえのか?」
「はい。女性が短剣で警備を全員を昏倒させ、門の向こうへ消えた…とのことで」
伝書の該当部分を読むソロン王の眉根が寄る。
「調査員に襲いかかろうとしていた魔物を追い払ってから門を潜った、目的は……人探し?」
その女性はたった一人で現れ、ある人を捜しに門を通りたいと願い出た。訝しんだ警備が立ち去るように告げたが、どうしてもと食い下がり、それも断ると武力行使に出たという。
警備隊が易々と倒される様を見ていた調査員たちは震え上がり、何人かはその場から逃げ出した。が、その先でハヤブサ種に襲われた。死を覚悟した瞬間、一本の矢がアバレハヤブサを貫き、周囲を飛んでいたアバレハヤブサたちも続け様に飛んできた矢に射抜かれていった。
『怖い思いをさせてごめんなさい。あなた方を傷付けるつもりはありません。…警備隊も、みんな倒すつもりはなかったんです』
腰を抜かしていた調査員と目を合わせるように屈んだ女性はそう言うと、警備隊が目を覚ますまでにまた襲われたらと幾つかの精霊石と傷薬を手渡してくれた。
女性に敵意は無いと感じた調査員が『門の向こうがどうなってるかわからない、戻ってこれないかも知れない』と止めると、その女性は――
『戻るつもりはありません』
そう、儚く微笑んだ。
そしてその女性が門に触れると、門はまるで招き入れるように開き、呑み込んだあとは続くものを拒絶するかの如く閉じた。以降は調査時と同じく何をしても開かず、無事を確かめようにもその手段がなかった。
女性が門の向こうへ消えて程なく警備たちが目を覚ました。驚くべきことに皆気絶させられただけで、大した傷は負っていなかった。
「『女性は最後まで名乗りませんでしたが、あれだけの強さであれば、どこか名の知られた方である可能性があります』――か」
「警備全員を一人で相手取って、無傷で勝った? しかも警備は気絶させられただけ?」
「ううむ…俄かには信じ難いな……」
「闘技大会のチャンピオンとかか? 速さならティキレンかリ・トゥ…。あ、弓を使うならどっちも違うか」
「うむ。藍の短い髪と深い緑の瞳、だそうだ。どちらも特徴からは外れる」
「…藍色の髪と深い緑の瞳……」
伝書の内容を聞く途中から、脳裏に浮かぶ一人の女性の姿があった。アルティニアへ発つ前、大聖堂で一度だけ目にしたあの人。
「……行かなきゃ」
短剣と弓を揮う歴戦の旅人。他者を守ろうとする意思。儚く淡い笑み。
伝書で聞いただけのその姿が、あの人と重なる。そんな確証なんてないのに、胸騒ぎが確信を伴った予感に変わっていく。
「お、おいどうしたロンド。顔が真っ青だぜ?」
「死者の世界で、生者が無事でいられる筈がありません。助けに行かないと」
「しかし、我らは門の向こうの知見が無い。向かうならば相応の準備を――」
「それでは間に合わなくなります!」
礼を欠いて荒らげた声に場が静まり返る。
自分でもどうしてこんなに焦っているのか判らない。
「僕は……もう失いたくないんです…!」
胸の内から焦燥感が湧き上がる。
横に立てかけていた剣を取り、ソロン王に向き直る。賢王は既に、僕が言おうとしていることがわかっているようだった。
「ソロン王陛下、僕はその人を追います。せっかくお招き頂いたのに、申し訳ありません」
「構わんよ。だが一人で向かわせるわけにはいかんのでな、控えの隊と共に行くといい。話は通しておこう」
「お心遣い、痛み入ります。では―」
「お、お待ちくださいロンド殿…!」
二人の王に一礼し、場を辞そうとした瞬間、伝令に呼び止められた。今は一刻の猶予もないというのに、いったい何なんだろう。
「実は、その女性からと思しき文も届いているのです」
「む、何故それを早く言わなかった?」
「それが…『ロンドという聖火騎士が追おうとしたら渡してほしい』と添え書きがありまして…」
「ロンド、何て書いてあるんだ?」
渡された手紙を開くと、細い筆致でただ一言だけ綴られていた。
来ちゃ駄目だよ、ロンド
「―――…」
“彼女”の声が、頭の中に響いた気がした。
門を背にこちらを振り返り、困ったように笑って。
瞳は暗く、沈んだまま。
――鮮やかな緑だった筈なのに
「……ッ!」
急に息が苦しくなり、目の奥で火の粉のような光が舞った。壁に手を付き、歯を食いしばる。リシャール王が僕を呼んでいるのが、膜を張ったように遠く聞こえる。
その声に、記憶の中の声が重なる。
大切な……とても大切な、誰かの声。
…大切だった。
僕を導いてくれた炎。
僕を信じてくれた光。
大切な二人の声――それを焼き尽くさんと、炎が燃え盛っている。
……消させない。
「“青き炎は我が魂、我が守り人なり”――」
これ以上何も、奪わせない…!
「聖火よ、闇を制す力を!!」
「うわあぁああ!?」
「……あ」
近くから聞こえた声に瞬けば、リシャール王が急いで飛び退ったところだった。
「ちょ、おま、ロンド! いきなり聖火出すなよ、びっくりするだろ!? あとまた燃えてっけど、本当にそれ大丈夫なのか…?」
「大丈夫です。それよりリシャール王「また」って、僕が以前聖火に包まれた時のことを覚えてるんですか?」
「ん? あー…いや、なんかそんなことがあったような気はするんだが」
思い出せてはいない、か。でも焼き尽くされたわけじゃない、きっと思い出せる筈だ…!
「ふむ、顔つきが変わったな、ロンド殿。詳細を聞かせてもらいたいところだが、急ぐのだろう?」
「はい。迎えに行ってきます、僕らが忘れてしまった彼女を――“選ばれし者”を」
同行してくれたアルティニア兵の皆さんには申し訳ないと思いつつ、山道を突き進み――翌夕にようやくフィニスの門へと辿り着いた。
部隊の方々が調査隊へ支援物資を渡す様子を横目に、さっそく門を開けようとした時、兵の一人に止められた。
「ロンド殿、お一人で行かれるのですか?」
「はい。僕だけならおそらく辺獄でも行動できるでしょうから」
「我々は陛下から、あなたの助けとなるように命じられております」
「…申し訳ありませんが、皆さんはここで――」
皆まで言う前に、わかっておりますと頷いてくれた。
「我々の存在が足枷となるのなら、せめてこちらをお持ちください」
そう言って、水と食料の入った小袋を分けてくれた。そしてもう一つ。
「これは?」
「件の女性が置いていったと言う回復薬です」
「……!」
調査隊の方を振り向くと、目が合った調査員の一人が深くお辞儀した。
手の中の小瓶が、ちゃぷんと涼やかな音を立てる。
「お戻りをお待ちしております。どうかご武運を」
「必ず、彼女と一緒に戻ります――!」
以前と同じく聖火の力を使って門を開き、再び辺獄へと踏み込んだ――
「ぐぅ…っ!?」
門を抜けた途端、空気がズシリと圧しかかってきた。息を吸う毎に胸が焼かれ、頭は重く身体は怠くなっていく。
「うっ…く…、聖火よ…!」
聖火を灯してようやくまともに息ができるようになり、肺の中の空気を入れ替えるように深呼吸を数度。前回訪れた時に何とも無かったのは、指輪の力で守られていたのだろう。
「なら、やっぱり急がないと」
最後に見た彼女は、その手に指輪を嵌めていなかったように思う。何故嵌めてなかったのか、指輪をどうしてしまったのか、疑問は尽きないけれど、それは戻ってから彼女に聞こう。今は早く捜さないと。
と、思うものの辺獄も大概広い。死した魂が集う、もう一つのオルステラとも言うべき領域なのだ。闇雲に捜したのでは時間がいくらあっても足りない。
けれど幸いなことに彼女の目的は知れている。『人探し』だ。
「彼女が辺獄で探す人物……か」
考えられる人が一人だけいる。でも正直この予想は外れていてほしい。外れたらいよいよどこを探せばいいのかわからなくなるけれど、それでも――…。
「…行こう」
これから向かう先に彼女がいてほしい、でもその理由は外れていてほしい。そんな思いで、もはや懐かしい悔恨の間を踏みしめた。
一人で進む辺獄は、思うよりも険しかった。
聖火を灯し続ける必要があるというのもそうだけれど、魔物が際限なく湧いて出て行く手を阻んでくる。
ただ、統率する者がもういないからなのか、亡者が襲い掛かってくることはなかった。
この道を彼女も進んだのだろうか。たった一人、“誰か”を捜して。
辺獄に満ちるのは瘴気だけじゃない。怨み、憎しみ、怒り、悲しみ……心を蝕むあらゆる感情が渦巻いている。
明けない夜が続く世界でこんな空気に晒され続けていたら、普通の人は耐えられない。
辺獄と地上の時間の流れ方が同じだとしたら、彼女がここに来て三日は経っている筈だ。指輪を持たない彼女は普通の人と変わらない、何の対策もせず生者として三日を過ごすのは厳しいだろう。
それでも…手遅れだなんて考えたくない。
「ここにもいなかった…。深奥まで行ってしまったのか…?」
急峻な渓谷に似つかわしくない豪奢な館を抜け、血の川を臨む。その先に見えるのは劇場の入り口。さらにその奥は――
「…どこにいても必ず見付けます。あなたは知らないかも知れませんが、僕、捜すの得意なんですから…!」
――その思いが届いたのか。捜し続けた姿を、ようやく見付けることができた。
それはこれまでよりもさらに谷底が遠い、辺獄の深淵に至る場所。
玉座のような巨大な椅子が置かれた間を通り過ぎ、断崖へと続く道の途中。
濃藍の髪の女性がそこに倒れていた。
「ッ――ミトスさん!!」
抱き起こした彼女の顔は蒼白で、身体は驚くほど軽かった。
目は力なく閉じられたままで……最悪の想像が脳裏を過る。
「まだだ…諦めるものか……!」
額に手を翳し、聖火を灯す。瘴気を遠ざければきっと…!
「……っ…」
「ミトスさん、気が付きましたか!?」
ゆっくりと開かれた目と視線が絡み、安堵の息を吐く。
「……その声は…ロンド…? どうして…来ちゃだめ、って手紙…」
「聞けるわけがないでしょう! 聞けるわけありません…!」
「…仕方ない、な……。でも、たすかった…」
「ええ、帰りましょう…! すぐに戻れば――」
「ロンド」
くん、と服を引かれ声を呑む。
焦燥感とは違う、嫌な感覚が離れてくれない。どうしてこんなに胸が騒ぐんだ。
「おしえて、ロンド…。あそこの、断崖…。だれか…いる…?」
「え――」
僅かに逸らされた視線の先は、かつて“彼”と対峙した場所。
僕が聖火を奪われた場所でもあり――“彼”と話した最後の場所。
彼女に視線を戻せば、その目は深く昏く、僕を見ているようで……少しずれている。
「目…もう、みえなくて…。あなたのかお、も」
「ッ――! ここです、僕はここに…!」
服を引いたまま固まっている手を取って、僕の頬に触れさせる。その瞬間、薄く開いた唇は微かな弧を描いた。
「ああ、…。ふふ…やわらかい……」
撫でることもせず、ただ添えられるだけの手。記憶と違わず優しい指先は、憶えてるよりずっと細く冷たくなっていた。
「崖には誰もいません…。ここには今、僕とあなたしか…っ」
「…そう、よかった…。かれらは、ねむれているんだね……」
“彼ら”――。この場所に縁ある魂、“彼女”ではなく“彼ら”……。
彼女がここに誰を捜しに来たのか……予想は外れてくれなかったようだ。
「っ……」
「なかないで、ロンド…。せいか、しゅしちょう、を…、つぐんでしょう…?」
「無理ですよ……。あの人を喪って、今度はあなたまでこんな状態で…!」
「…やさしい、ね、……でも、それぐらい、した…みが、ある…ほうが……ひとり、に…は…、なら…くて…、………。」
「あなたも一緒にいてください…! もう独りになんかさせませんから、だから――」
「……そう、いっしょに……また…あなたと……サザ…トスさ…と……さん、にん…で……いっしょ、に……たび、が……し、た―……」
「……ミトスさん…?」
「…………。」
「そうだミトスさん、僕、回復薬を持ってるんです…! 調査員の方から頂いた、あなたが持っていた薬を……」
「…………。」
「もう、寝てしまったら飲めませんよ? ほら起きてくださいミトスさん、起きて……」
「…………。」
「…目を……開けて、ください……」
頬に手を添えても起きてくれない。深く寝入ってしまったようだ。辺獄の地を聖火も指輪もなく進んできたのだから、いい加減疲労が溜まっていたのだろう。仕方ない、今は寝かせてあげよう。劇場まで戻れば休めるかな。
なんて考えながら、救助する時の癖とでも言えばいいのか、無意識に首筋へと手を滑らせ確認してしまった。
もう、鼓動が絶えているのを。
「ッ―――ぁぁぁああああああああああああああああ!!!」
魂が旅立ってしまった身体を抱き締めて、その身体すら光の粒となって消えていく中、僕は叫んだ。
喪いたくなかった。生きていてほしかった。どうしてこんなに深い絶望を抱えたまま逝かなければならなかったんだ。
二人とも――
◆あとがき
焚かれし騎士の手記と同時期に書いた、姉妹作です。
辺獄パートは一部書いていたので、「手紙」というお話をくっつけてセルフリメイクしました。
※「手紙」はこれの前話から行けるので、興味あれば比較してみても面白いかもです。当時の自分の地理のわかってなさがやばい。処してほしい。
ミトスが指輪をつけていなかったのは、アタラクシアさんに返していたからです。
自身の心が絶望に染まり、堕ちつつあるとわかっていたミトスは、指輪を堕とさないように手放したのです。その後、大聖堂で最後の祈りを捧げてからフィニスの門へと向かいました。
ロンドが見かけたのはこの、最後の祈りを捧げているところですね。
門をくぐる前にカラスを飛ばしていて、ロンドはフレイムグレースに戻ったらミトスからの手紙を受け取ることになります。そこには指輪を巫女長に預けた旨と、彼のこの先の無事と平穏を祈る言葉が綴られています。
思い出していなければ怪しい手紙でしかありません、が。指輪について記されているため検閲などは突破できるだろうと踏んでいて、情報を確かめるためにアガペアを訪れることも見越しています。祈りの言葉は彼の心に届かずとも問題ないのです。
しかしロンドは思い出してしまったので、自室でこの手紙を読んで歯を食いしばり、“彼ら”のいない現実に耐えることとなるのでした。