宴が終わり、夏油は早々に風呂に入ると、布団へと飛び込む。程よい酩酊感が身体を浮ついた気持ちにさせる。今日の眠りは少し浅くなりそうだ。代わりに、入眠するまでは早かった。
その日夏油は夢を見た。その内容は、一般的には悪夢と言って差し支えないものだ。
「なんだ、これは……」
夏油は小さな木造の小屋に立っていた。頬を引っ張ると、痛みを感じない。夢なんだとすぐに気付く。
目の前にいるのは彼の級友、虚枝刹那。そして、見たこともない男。刹那は拘束されて、椅子に無理矢理座らされていた。
彼女の柔らかな手の先に伸びた爪が、指が、滅茶苦茶にされていく。こちらを見つめる呪霊玉のような瞳が潰され、引きちぎられた腕が床に落っこちた。細い首から嫌な音がした。
──何が起こっている?
鉄臭さとアンモニア臭が夏油の鼻をつく。
夢だとわかっていてもいい気分ではない、止めようと身体を動かしたくとも、磔にされたように動かなかった。
椿の花が散るように落ちた生首。彼の足元にそれが転がった時、ようやく身体は自由を取り戻した。
「刹那!!」
級友の頭を抱き上げると、ぶつぶつと何かを呟いているのが彼の耳に入った。その声を聞き取るために、耳元へ運ぶ。
「これで、夏油はたすかるんだよ。おめでとう」
「おめでとう、おめでとう、おめでとう」
「おめでとう、おめでとう、おめでとう、おめでとう、おめでとう……」
壊れたラジオのようにひたすら同じ言葉を繰り返すそれが恐ろしくなって、夏油は思わず手を離す。柔らかい何かが潰れるような音がした。
──これは夢だ。夢だ。早く、早く覚めてくれ。
背中に伝う冷や汗。心臓はうるさいほどに鳴っている。
処刑台に寝転がっていた胴体がいつの間にかひとりでに動き、首を求めるようにうろついていた。
やがて足元に当たった自らの生首を見つけると、持ち上げて元の位置に戻す。向きを間違えて乗っけた頭をぐるりと半回転させると、夏油はそれと目が合ってしまった。
「どうしたんだい、まるで幽霊でも見たような顔じゃないか」
いつの間にかその身体の傷は何事も無かったかのように治っていた。彼女は爪の先で自分の額を引っ掻く。頭を区分するように伸びた一文字の傷からだらりと血液が垂れた。
「大丈夫! これは彼女が望んだことだから。君が責任を感じる必要なんてないよ」
狡猾な笑みを浮かべる何か。お前は誰だ、と問おうとしたところで夏油はようやく悪夢から逃れることが出来た。
寝ている間にかいた汗で寝巻きがグッショリと湿っている。
時計を見れば風呂に入っても始業時間には間に合う時間だ。慌てて夏油は服を脱ぐ。
隣の部屋から、彼の親友がベッドから転げ落ちたのか、大きな物音がした。
髪を乾かしている間、夏油は洗面所で鏡の自分と向き合っていた。風呂上がりというのに、まるで死人のように青ざめた顔だ。
──悟たちに心配されるかもしれない。
彼は頬を自分の両手で引っぱたいて、少しでも血色を出そうと努力したものの、残念ながら大して変化はなかった。
余裕を持って教室の扉をくぐると、彼は今日も一番乗りだ。自らの席に着いて、級友たちを待つ。
4つ並んだ机と椅子。夏油は窓側の隣席に目をやる。あの悪夢のせいか、彼女の所在がどうしても気になってしまう。
「……はよ」
「おはよう、悟」
引き戸が開かれ、夏油は五条と朝の挨拶を交わす。五条はいつにも増して不機嫌そうで、廊下側の席へ乱暴に腰掛けた。
「どうしたんだい、随分とご機嫌斜めじゃないか」
「うるせぇな。……ちょっとやな夢見たんだよ」
「……私もだよ」
すごい偶然もあったものだ。夏油は嫌な思いをしているのが自分だけでないと分かって、胸を撫で下ろす。強ばっていた顔も少し緩んだ。
もしかすると朝の物音は悟が悪夢から飛び起きたものだったのかもしれない、そう思うと彼の口から少し笑いが零れた。
サングラスの奥から伸びる五条の抗議の視線が彼を突き刺す。何笑ってんだよ、と思ってるだろうことが口に出さなくても夏油には分かる。
「おはよー」
3人目。煙草を咥えながら教室に入ってきた不良少女は、窓際の席へ腰を下ろす。
「おはよう硝子、聞いてくれよ。私たち、偶然同じ日に悪夢を見たんだ」
「…………え?」
ポロ、と家入の形の良い唇から煙草が落ちた。床に転がった棒きれは未だ長さを保っているにもかかわらず、無惨にも携帯灰皿に呑み込まれる。
「私も、見た」
「硝子もかい?」
これは偶然にしても出来すぎているんじゃないか。この場の全員が同じことを考える。
「どんな夢見たんだよ、オマエら」
「……刹那が、酷い目に会う夢」
「私もだ」
「俺も同じ」
3人は未だ空いている席へ目をやる。始業時間はもうすぐなのに、彼女は一向に教室へ入ってこない。
夏油はまた背筋がぞわりとする感覚に襲われた。
夢の中身を確かめあってみれば、大筋はほぼ同じ。ただ、生首の発した言葉だけが違った。
五条は『忘れないで』、家入は『ごめんなさい』、夏油は『おめでとう』。どういう意味なのかは分からないが、夏油の心はざわつく。
とにかく刹那の部屋へ向かおうと決めて3人が立ち上がった時、彼らの担任が入ってくる。そして、五条には任務を、家入には急患の治療を命じた。
「何もこんな時に……!」
2人に託された夏油は、寮まで走る。女子寮は本来男子禁制だが、仕方がない。なるべく人に見つからないように迅速に行動する。
刹那の部屋の扉を開け放った。そこには誰もいない。夏油は息が詰まる感覚がした。
しかし、机に『少し実家に帰ります』と書かれた紙をすぐに見つける。
──なんだ。帰るなら連絡ぐらいしていけばいいのに。
夏油は息をゆっくりと吐いて心を落ち着かせる。しかし、胸騒ぎは消えない。
一応メールを送ってみる。5分、10分、30分経っても返信はない。いつもならすぐに過ぎ去るだろう時間がいやに長く感じた。
夏油はトントンと教室の机を指先で何度も叩く。電話も掛けてみたが、出ない。
無機質な機械音声が『おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない所にいます』と言うのみだった。
夏油は担任を探して、彼女の家族への連絡先を教えてもらった。
本来なら個人情報なので教えるべきではないのだが、あまりにも鬼気迫った生徒の雰囲気に只事ではないと判断して、夜蛾は電話番号を紙に書いて渡した。
夏油は電話をかける。コール音が耳元でしばらくなり続けたが、それだけだった。
時刻は10時。働いているなら当然仕事中だ、無理もない。
昼頃にまたかけ直そうと携帯をしまったところで、携帯が着信を告げた。刹那かその家族かと期待したが、残念ながら任務だった。
とてもそんな気分ではないが、前任の術師が未だ行方不明だから助けてくれ、と震えた声で頼む補助監督。夏油が断れるわけもない。
呪霊の発生場所は東京よりも少し北の県。電車に揺られ、降りた先で補助監督の運転する車に乗って現地に到着。
生得領域を展開しているタイプだったが、特級の名を冠する夏油にとっては大した相手でもなかった。移動の方が遥かに時間を食った。
前任も負傷はあれど、命に危険はなさそうだ。術師と補助監督はどうやら好い仲らしく、スーツ姿の彼女は何度も頭を下げる。
寄り添う2人を見ていると、夏油は呪術師を続けていて良かったと実感出来た。
任務もあっさり終わったので帰ろうと車に乗り込んだとき、彼の携帯が音を立てて振動する。メールだ。
「……!」
差出人は虚枝刹那。どうやら無事だったらしい。本文を見れば、現在地と、端的に助けを求める内容が書いてあった。
送信欄には五条と家入のメールアドレスもあった。
だが、五条は西へ向かっていたはずだし、家入はまだ東京でいつ急患が来るかも分からない。彼女のメールに書いてある住所に1番近いのは夏油だ。彼は2人に『私が行く』とだけ送って、車から降りる。
怪我人を巻き込む訳にもいかないので、補助監督たちに別れを告げて、空を飛べる呪霊を呼び出した。一般人に見られないように、なるべく高度を上げて飛行する。
強風に吹かれながら、最高速度で進む。彼には親友のようなバリアはないため、時々塵が目に入ったりどこからか飛んできたゴミが身体にぶつかったりもするが、気にしない。夏油傑は強靭な肉体の持ち主なのだ。
目的地付近には暗闇の結界──帳が貼ってある。中に入れば緑溢れる周りとは打って変わって土が剥き出しの更地が広がっていた。戦闘の余波だろう。
夏油は呪霊から降りて、帳の中心に転がる級友へ近寄る。どこもかしこも傷だらけだ。まだ意識はあるようで、真っ黒な瞳と目が合った。
声をかけても、小さな返事しか帰ってこない。それどころか、ゆっくりとその瞼は閉じられていく。
「刹那、刹那! 寝るな!」
必死に名を呼び揺さぶりまくっても、どうやら意識を失ったようで何の反応も返ってこなくなった。
夏油の脳内に嫌な考えがよぎる。そっと彼女の胸元に耳を当てた。耳から伝わる体温はまだ温もりを保っていて、激しくはないものの心臓はしっかりと動いている。
──高専に戻って硝子に治療してもらおう。
夏油はよっこらせ、と膝裏と上半身をしっかり両腕で支え、刹那を持ち上げた。例え意識がなかろうと、恋愛対象外であろうと、優しく抱き上げる。これを素でやるところがモテ男の秘訣である。
ただし、刹那は夏油とそこまで変わらないほどの身長である。それに加えて具体的にどことは言わないが、脂肪が付いている上に、鍛えられた身体は軽いとはお世辞にも言えない。
一瞬彼の口から重っ、という言葉が出そうになった。
高専に戻ったあと、刹那は硝子の治療を受け、ベッドに横たわっていた。小さく寝息を立てる彼女の姿を見ていると、あの悪夢の内容が薄れていく。
夏油は任務のものと刹那の件の報告書を書きながら、家入と共に刹那の寝顔を見守っていた。
「おい! 生きてんのかよ!!」
任務を出来る限り最速で終わらせて高専まで戻ってきたのだろう、少し汚れた姿の五条が医務室の扉を勢いよく開く。
「悟、刹那は寝ているんだから静かに。生きてるってメール送ったじゃないか」
「あ? ……気付かねぇよこんなん」
「何のための携帯だい……」
ため息を着く夏油を無視して、五条は刹那の頬をドスドスと容赦なく指でつつく。少し前まで腫れ上がっていた頬も、家入の反転術式で元通りである。
「コイツがここまで怪我するなんて珍しくねぇ? どんな敵だったんだろうな」
「起きたら話を聞かないとね」
「オマエらそろそろ出てけよ。他に怪我人が来た時邪魔〜」
冷たい態度の家入に、2人はヨヨヨ……と泣き真似をするも、通じる訳もなく、医務室を追い出された。
3人とも、悪夢のことなどすっかり忘れていた。
1週間。傷は完治したはずなのに、刹那は未だ目を覚まさない。家入は何度も反転術式をかけるが、何も起こらない。
1ヶ月。呪いか何かなのではないかと思って五条が六眼を剥き出しにしてじっくりと観察した。
以前指摘した歪みが治っているものの、それ自体が目を覚まさない原因とは考えづらい。他に何もおかしな点はなかった。呪術的なものではない。
1年。脳の異常ではないかと疑って、最新機器が揃う病院で精密検査をしてもらった。特記事項なし、と書かれた紙を、夏油はくしゃりと握り潰した。
何年経っても彼女は目を覚まさない。
五条の口調は落ち着いたものになった。宿敵の置き土産も拾った。
家入は煙草を吸うのをやめた。代わりに下瞼に隈が染み付いているし、酒の量はむしろ増えていく一方だ。
夏油は髪の毛を上半分はまとめ、残りの半分を下ろすようになった。親友との憂さ晴らしで死に掛けて反転を会得した。
3人は未来へ進んでいくのに、刹那だけがあの時の姿のままほとんど変わらない。彼女は高専の治療室から、植物状態の患者の世話を専門とする病院へ移った。
最近夏油が取り込んだ特級呪霊は、魂を知覚し、変形することが出来た。脳の構造すらも変えられるその術式に、夏油は一縷の希望を見出す。
夏油が病室へ行くと、既に花瓶には暖かな色合いの造花が飾られていた。恐らく彼女の両親だろう。
個室にこっそり帳を下ろして、呪霊を呼び出す。
「真人、どうだ?」
「ん〜……」
真人と呼ばれた身体中に縫合跡がある人型の呪霊は、ベッドの上でピクリとも動かない女をジロジロと観察する。
そして、興味深そうに目を見開いた。
「何これ、こんなの初めて見たよ! すっご、なんでコイツ生きてんの?」
「……どういうことだ」
「面白い魂の形をしてるんだよ。幾つもの魂がぐちゃぐちゃに混ざりあってる。普通なら絶対耐えきれなくなって爆発するはずなのに、どうして人の形を保ててんだろ?」
「治せないのか?」
「無理」
ポキリ。夏油が手に持っていたガーベラの茎がへし折れた。夏油に睨みつけられた真人は『こわぁい』と二の腕をさすった。
「例えばさあ、太い縄があるとするじゃんか。それが何本も絡まりあってたら、解くのは時間がかかるけど出来なくもないでしょ?」
「何の話を──」
「最後まで聞けよ。じゃあもしその縄がさ、こーんなに細い糸だったら?」
真人は夏油の目の前で親指と人差し指を限りなく近付ける。夏油はその手を鬱陶しそうに叩き落とした。
「ぐちゃぐちゃに絡まってんのに、そこから1本だけを取り出すなんて俺でも無理だよ。今のコイツはそういう状態なの」
「……っ」
「他になんて例えたらいい? 墨汁を1滴垂らしたプールから色素を抜くとか、溶き卵から卵黄だけを取り出すとか?」
「もういい」
これ以上口を開く前に、夏油は真人を戻して帳を上げる。悪趣味な呪霊はニヤニヤと癇に障る笑みを浮かべながら取り込まれていった。
──真人は1つ、あえて夏油に告げていないことがある。
虚枝刹那の魂の絡まりは、少し、ほんの少しだが緩み始めていた。そのことを彼はあえて言わなかった。
最後まで聞かないお前が悪いんだよ、と夏油の中で真人はほくそ笑んだ。
刹那が倒れてから約10年。夏油家の養子となった美々子と菜々子は仲良く高専に通って呪術の知識をみるみるうちに吸い込んでいるし、五条が後見人となった伏黒恵も来年度から高専に通うことになる。津美紀もよく分かってはいないが、それを喜んでいた。
クリスマスが終わって坊主が走る時期。世間は切り替えが早く、クリスマスツリーの跡地に門松が立てられていた。
夏油はそれを見て、病室に置いていた小さなモミの木を思い出す。あれを早いこと撤去して年末年始の飾りに取替えないといけないな、と病院まで早歩きで向かうことにした。
病室の前に掛けられたネームプレートには『虚枝刹那』の文字。部屋を間違えないようにちゃんと確認してから、夏油は扉を開く。
窓が開いていたのか、部屋に入ってきた夏油を出迎えるように風が吹く。
薄いカーテン越しに差す月明かり。それは、何かに遮られていた。
夏油は目を擦る。そして、目の前の光景が見間違いではないか確かめるために、何度も瞬きをした。
「刹那……?」
ベッドから、誰かが起き上がっていた。顔は窓の方を向いているからよく見えない。声を掛けられたからか、ゆっくりと夏油の方へ顔が向けられていく。
「あれ、夏油……なんか老けた?」
全てを吸い込むような黒い瞳。長年見ることも叶わなかったそれが、今夏油の目の前にあった。
「あれから、何年、経ったと……思ってるんだ」
微かに震える夏油の声。それに気付かずに、刹那は首を傾けた。
「何年……? 今っていつ?」
「2017年、12月26日だ」
彼女のポカン、と開いていた口が閉じ、緩く弧を描いた。
──ああ、打ち勝ったのだ。因果とやらに。
刹那の魂を覆っていた祝福は掻き消えていく。彼女の心はただ1人、虚枝刹那のものだ。
「夏油、ちょっとこっちこっち」
「ああ……」
手招きする刹那に従って、ベッドの横のパイプ椅子に腰掛ける。
「今は何してるの?」
「高専の教師。悟と一緒にね」
「へえ……そっか。みんな元気なの?」
「君以外はね」
刹那は少しずつ、瞼が熱くなるのを感じていた。パチリ、と瞬きをすれば、瞳を覆っていた液体が決壊して頬を伝っていく。コシのある睫毛が涙で濡れ、月光が反射して微かに煌めいた。
「夏油……」
「なんで君が泣くんだ。泣きたいのはこっちの方だよ……」
「私はずっと、見たかったんだ」
──君の生きる未来を。
翌日。夏油は家入と五条を引き連れてまた病室へ来ていた。
刹那が目覚めたという報告を聞いて、2人とも予定をこじ開けた。特に五条の方は伊地知にかなり無理を言って休暇を手に入れたようで、彼の胃には現在進行形で穴が開きかけている。
「硝子……!」
「このねぼすけ」
「ごめん、ごめんね……」
2人は熱い抱擁を交わした。こんなに隈も出来てしまって、と刹那は指で家入の目元を撫でる。
「僕は?」
「……誰? 不審者の知り合いはいないよ」
「僕だよ!
「冗談冗談。というか五条、なんか丸くなったね。あ、態度の話ね」
「分かってるよ!」
──すごい、あの五条が面白おじさんになってる!
自分もアラサーということには気付かずに、刹那は気が済むまで五条を弄りまくった。
「ていうかさぁ……なんで呪力も術式もなくなってんの!?」
「私が知るわけないでしょ」
五条は違和感を覚え、目隠しを下げて刹那を見れば、かつてあった呪力は一般人並に。術式もさっぱりなくなっていた。
こんなこと前例がほとんどない。呪力はともかく術式というのは肉体に生まれつき刻み込まれているものだからだ。
そう言われても刹那は全く心当たりがない。気付いたらこうなっていた、と言うことしか出来なかった。
そもそも、呪詛師と戦闘していたらしいが、その記憶すら曖昧である。ほぼ10年寝ていたものだから仕方ないじゃん、というのが彼女の言い分だ。
他にも大事な記憶があった気がするが、すっぽりと抜け落ちていた。しかし、この世界で生きるためにはない方がいい記憶だった気がするので、刹那は深く考えることをやめた。
「ああ、足が棒のように……ちゃんと筋肉付いてた私の美脚が……」
「脂肪で覆われていたの間違いでしょ」
「悟、本当のことを言ってはいけないよ」
「アンタらアラサーだよね? デリカシーどこに置いてきたんだよ……」
相も変わらずクズらしい。刹那が硝子を見ると、『ゆっくりリハビリしていこう』と親指を立てた。頼れるのはやはり親友しかいない。彼女はうぇーいと肩を組む2人を見なかったことにした。
「これからどうしようかな……」
目が覚めてしまったからには、生きるために働かなければいけない。
せめて呪力だけでも残っていたなら補助監督や窓として働くことも考えられたが、もはや彼女の瞳は呪霊を映すことすら儘ならなかった。
10年職歴なし、資格もなし。誰がこんなの雇うんだ。刹那は頭を抱える。
「じゃあ、高専の事務員にでもなったらいいじゃないか」
「え? 呪霊も見えないのに?」
「この界隈って常に人手不足じゃん? 規定的に呪術のこと知らない奴は雇えないし、出来たら逃がしたくないんだよね〜。書類仕事とかデータ処理とか、見えなくたって出来ることはいくらでもあるよ」
──それは〝アリ〟だ。今更一般企業に勤めるなんて正直無理。
「と、いうわけでリハビリしながら頑張ります」
「虚枝さん……! 目を覚まされたんですね……!」
伊地知は昔刹那が見た時よりもすっかり老け込んでいた。元から童顔ではなかったが、窶れている気さえする。五条に振り回されているのだろう。刹那は心の中で手を合わせた。
「う、虚枝さーーーん!!」
「おぶぇっ」
「心配してたんですよ! ずっと寝たきりだったから僕もう死んじゃったのかと!」
「は、……い」
「やめなさい、完全に締まってます」
ベシンと灰原の頭を叩いて、刹那の首に回った腕を外す七海。この2人の関係は変わらないな、と刹那は大きく息を吸いながらも懐かしさを覚えた。
車椅子を操作しながら、ゆっくりと刹那は高専の廊下を進む。窓に自分の姿が映っていた。
術式も呪力も失ったただの無力な女。鍛えたはずの身体は長期間寝ていたせいで随分と細くなってしまった。
それでも、未来に向かって歩んでいけるのだから、これだけ幸せなこともないだろう。
やり直しはおしまい。今から刹那の人生はたったの1回きりだ。せめて、悔いのないように生きていこう。
■虚枝 刹那
おはよう。
これにて完結です。
見てくださった読者の皆様方、ありがとうございました。
あとがきや今後の詳しい話は活動報告に上げますので、興味があればどうぞ。
お題箱
匿名で質問や何か伝えたいことがありましたらこちらまで。
完結記念に良かったら評価や感想いただけると嬉しいです。
那由多の明日はどっちだ
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しめりけ
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だいばくはつ