◆10年経ったらただの人
午後5時。居酒屋の並ぶ飲み屋街の店先はぽつぽつと灯りがつき、仕事終わりのサラリーマンを迎える準備を始めていた。
定時直後の現在、まだ人はそこまで多くはない。その中で目立つ3人。1人は巫女服、1人は私服、1人はスーツ。どういう組み合わせなんだ、と通りすがる人々はちらちらと見てしまう。
その視線を意にも介さず、硝子、歌姫、刹那の3人は仲良くある店の前で立ち止まり、引き戸を開けた。
『らっしゃーせー』と気だるげな店員の声が彼女たちを出迎える。開店したてで店内はスカスカ。店員の案内に従って、3人はテーブル席に腰を下ろした。
「初めはビールでいいわよね」
「勿論」
「あたぼうですよ、先輩」
ドン、と机に置かれた3つの大ジョッキ。なみなみと注がれた黄金色の液体と白く輝く泡のコントラストに、思わず皆、生唾を飲み込む。
『かんぱーい!』
持ち手に手をそえ、グラスをぶつける。そして、アルコールをグビグビと胃へ流し込んだ。
少し汗ばんだ喉に液体が通り上下するさまは、もしかすると男の煽情を掻き立てるかもしれない。
しかし、そのあとのおっさん臭く息を吐く様子で全てが台無しになった。
「たっはー! やっぱ夏はビールよねぇ!」
「暑いとどうしてもグビっといっちゃいますね」
キャイキャイと騒ぐ硝子と歌姫を見ながら、刹那は懐を漁る。赤い丸が描かれたパッケージから1本煙草を取り出して、口に咥えた。
火をつけて、一服。まさしく至福のときであった。
「酒、タバコ……大人というのは身体に悪いものが欲しくなるのです」
「アンタらは学生のときから嗜んでたでしょうが」
「……えへ」
口から煙を吐き、おどける刹那。
「アンタも禁煙したら?」
「そういえば硝子もいつの間にやら禁煙してましたね。歌姫先輩が言ったんですか〜?」
「ええ、まあそうだけど……」
少しだけ彼女は言葉を濁す。そして、硝子にチラ、と視線を向けた。
手元のジョッキが空っぽになったので、お代わりと適当に肴を注文していた硝子は話題が自分のことになっていると気付いた。
「以上でお願いします。……私の話ですか〜?」
「そうよ、硝子の禁煙の話」
「先輩に言われて健気に煙草やめるなんて、ホント先輩大好きだよね、硝子は」
「いやあそれ程でも」
「私も先輩好きー」
「アンタたち……!」
素直に慕ってくれる後輩の姿に、歌姫はほろ酔い気分ということもあり涙しそうになった。
この2人の爪の垢をどっかのバカ2人に煎じて飲ませてやりたい。彼女は人を舐め腐ったような態度を取る彼女らの同期が頭にチラついた。
それを無理矢理追い出して、歌姫は話を続ける。
「でも、私だけじゃないのよ」
「え?」
「ちょ、歌姫せんぱ──」
「刹那が寝てる間に死んだら困るって言ってたわよ、硝子は」
硝子の制止も間に合わず、歌姫による突然の暴露。刹那は口を開けたまま呆けていた。
そして、情報を処理してフリーズ状態から解放されたあと、携帯灰皿にまだ長い煙草を擦り付け、箱を握りつぶした。
「私禁煙します」
「よく言った!」
「ちょっと……なんで言っちゃうんですか、恥ずかしい」
「恥ずかしくない! 硝子、もー本当にかわいい!!」
今すぐにこの親友を抱きしめなければ死ぬ。そんな衝動に駆られて刹那は隣の硝子に両腕を回した。
仲良きことは美しきかな。目の前の尊い光景を、思わず歌姫は激写した。そして2人にも転送する。
刹那は写真を見て『これ待ち受けにしようかな』とニコニコ笑顔。
彼女たちは新しく届いたビールを傾け、流石に何か腹に入れなければと突き出しの煮物を口に入れた。まだほんのりと暖かい里芋は味が染みていておいしい。
今日は楽しい夜になりそうだ。そう思ってると、客の来店を告げるチャイムが店内に鳴る。
「いらっしゃーせー。……はい、え? あ、大丈夫ですよ」
まだ店には山ほど席があるというのに、御新規さんはこちらへと近づいてくる。
歌姫からげ、と嫌そうな声が上がった。
「やあ、相席いいかな?」
「ここは喫茶店でも相席屋でもないんだけど」
「いいじゃん、どうせ空いてんだから」
白と黒の大男。そしてその後ろで申し訳なさそうに伊地知が顔を覗かせた。
店員がテーブルをくっ付けて席を広げると、野郎たちは容赦なく座る。女性陣は誰も許可を出していない。
「なんでアンタたちがここに来るのよ!」
「さあ?」
不満を隠そうともしない歌姫に、わざとらしく惚ける夏油。歌姫のストレスと苛立ちメーターが少し上がった。
間違いなく原因は自分だなと思ったので、刹那は歌姫に説明する。夏油に呪霊を付けられてるから、そこから探知されたのだろうと。
『なんか気持ち悪くない?』と喉から出かけた歌姫の言葉は、刹那の身の安全のためだと思って飲み込んだ。無力な一般人になってしまった彼女には自衛手段が限られている。
「私はとりあえずビールで。伊地知もビールだろう。悟は?」
「僕オレンジジュース」
「居酒屋に何しに来たのよアンタは!」
飲み物を選ぶ権利すらも与えられなかった哀れな伊地知に、隣席にいた刹那がそっと枝豆を差し出した。せめてその隣の酢もつが良かった。そう思いながらも伊地知はもそもそと緑の鞘を噛んだ。
「七海と灰原は?」
「今日は2人で飲みに行くんだって。僕らせっかく誘ったのに、後輩としてなっちゃいない! 今度シメるか」
「またパワハラしようとしてる……」
あまりにも横暴な五条の発言にドン引きする刹那。年功序列のようなフリをしているが、歌姫のことは髪の毛一本分よりも敬う気がない。クズめ、と内心吐き捨てた。
硝子はいくら飲んでも殆ど酔わないザル、夏油は硝子程ではないが酒に強く、節操を持った飲み方をする。
伊地知も自分の限界を知っているので無理はしない、五条はそもそも下戸で1滴も飲まない。場酔いで十分なタイプである。
そして、歌姫と刹那は──酒乱であった。
「歌姫せんぱーい、そろそろお水飲まないと」
「うう……硝子、ありがと……」
「あれあれ? 歌姫もう酔っちゃったの? 顔真っ赤だよ?」
「黙れ!!」
机に叩きつけられたビールジョッキ。一発シバいてやらねば気が済まないが、生憎彼女と五条の間には夏油が挟まっていた。そもそも無下限で触れることすら出来ないが。
「伊地知ィ! のめ、のめ!」
「あの、虚枝さん、これ以上は……」
「私の酒が飲めないって言うのか?」
「大分回ってきてるね。伊地知、無視していいよ。私が飲もう」
徳利から御猪口に暖かな日本酒を注ぎ、伊地知に押し付ける刹那。普段は仕事も問題なくこなし、横暴な五条との緩衝材となってくれる良い先輩なのだが、いかんせん酒癖が悪すぎる。
伊地知は御猪口をそっと夏油に渡した。
自分の分の日本酒をくいっと一息で飲み干して、また刹那は店員を呼んだ。
「すみません、麦ロックで」
「あ、僕ミックスジュース」
刹那はアルコールを、五条はソフトドリンクを制覇する勢いで様々な種類のものを節操無しに頼んでいる。2人はどうも飽き性の気がある。
ずっとビール一筋の歌姫は頬に手を当てて呟いた。
「アンタら色んなの頼むわねぇ……」
「酸いも甘いも噛み分けて大人になるんですよ、先輩」
「精神年齢ガキのくせに何言ってんだろうね」
「アンタだけには言われたくない!!」
周りから見れば大して差はなかった。28歳児と28歳児の喧嘩である。
『お前も飲めや!』『キャー! アルハラ!』と子供のような大人のやり取りをする2人に、硝子と夏油は目を合わせて口角を上げた。
「……まさかこんなふうにまた飲めるなんてね」
「全くだ。今度は後輩2人もちゃんと呼ぶか」
チン、と御猪口を鳴らして、2人は五条と刹那とは対照的に、淑やかに日本酒を口に入れた。
宴も酣、酒乱2人のボルテージは最高潮に達していた。時計の針は8時をとうに過ぎ、他の席も埋まり店内は賑やかである。
「それでぇ! うちの、メカ丸をね! アンタに治して欲しくって!!」
「あぁ、真人なら出来るかもね。でもいいのかい? 天与呪縛は消えてしまって術師としては弱体化するだろう」
「そんなのどうでもいいのよ! 生徒が友達と会えなくて苦しんでるのにほっとけないわ!」
「……五条、オマエも少しは見習ったらどうだ?」
「は? 僕ちゃんと先生してるもん。な、伊地知?」
なんで私に振るんですか! と伊地知は半泣きになった。目の前の傍若無人モンスターからの無言の圧で、彼に首を縦に振る以外の選択肢は残されていない。
「五条、伊地知のこといじめんな」
「虚枝さん……!」
「はー? いじめてないし?」
刹那は伊地知の肩に腕を回す。彼の頬を綺麗な黒髪が撫で、シャンプーか何かの良い香りがしたが、それよりも酒臭さが勝った。
「いつも頑張ってるんだよ、伊地知は!」
「あのっ、虚枝さん、やめ、やめ……」
首に腕をかけ、ワシャワシャと伊地知の頭を撫で回す刹那。労りが込められているのだろうが、あまりにも乱暴すぎて脳が揺さぶられる。ついでに首も締まっている。
伊地知の顔色がみるみるうちに青くなっていくのに気付いて刹那を止める硝子。私服にも関わらず、彼の目には硝子が白衣の天使に見えた。
「僕も頑張ってるよ?」
「あ? じゃあ撫でてやるから無下限解けよ」
「はい」
刹那の言葉に場酔いしているせいか、案外素直に無下限を解除した五条。彼女はその白い頭にそっと手を入れて、撫でる。そして、もう一方の手を額に伸ばし──思い切りデコピンをした。
「っ! 何すんのさ!?」
「アハハハハ!! 歌姫先輩の仇じゃあああ!!」
「よくやったわ刹那!」
おでこに手を当てて抗議する五条。爆笑する刹那と歌姫。ニヤニヤする夏油と硝子。伊地知もなるべく笑いを抑えようとしているが、その肩は震えていた。
「酔いが醒めたら覚えとけよ……」
「多分覚えてないよ、彼女」
胃がひっくり返りそうなほど笑い声を上げる刹那はもう顔も真っ赤のへべれけ状態だ。飲むと記憶を失う厄介な酒乱であった。
会計を済ませ、皆帰路に着く。ぐでんぐでんになった刹那を家まで送るのは専ら夏油の役目だ。
体格が良いから女性陣と伊地知ではしんどいし、五条は『酒臭いからヤダ』と拒否する。
正直自分も捨てて帰りたいが、それで死んだら流石に目覚めが悪い。夏油は仕方なしに酔っ払いを背中に乗せて、歩き始めた。
「んん……硝子……?」
「硝子はもういないよ」
「歌姫先輩は?」
「いないよ」
『ヤダーッ!』と背中の上でぐずり始める刹那。この28歳児を宥めすかすのは大変面倒である。
黙って歩を進めると、突然彼女は口を閉ざした。
──あ、これはやばいな。夏油が目を向けると、その顔は真っ青だった。
「き、もち……わる……」
急いで夏油は公園へ駆け込む。多目的トイレの扉を開け、便器の前で刹那を下ろした。
何度もえずいているが、中々出ないらしい。涙目になって、刹那は夏油に助けを求める。
かなり葛藤したが、背中で吐かれるよりはマシだと思い、夏油は手を洗って指を刹那の口に差し込んだ。
ぬるり、と生暖かい粘膜に触れた。異物に反応したのか舌が指を這い、夏油は思わず鳥肌が立つ。めげずに奥へと押し入り、口蓋垂に当たるまでいくと、びくり、と刹那の身体と喉が痙攣した。
「ぁ、……お゛ぇ……!」
夏油は直ぐに指を引き抜く。刹那は便器に手を添えて、先程まで口にしていたツマミたちを戻した。何度も吐瀉物をひねり出して、もう何も出なくなったらしい。彼女はぺたんと床に座り込んだ。
刹那にコンビニで買っておいたペットボトルの水を蓋を開けて差し出す。喉が上下して、少しずつその瞳に理性が戻ってきた。
「ごめん、こんな……私、もう、猿なのに。世話させちゃって」
「……猿?」
「……非術師に、なっちゃった……から……」
アルコールに当てられて泣き上戸になったのか、彼女の目が潤んでいく。夏油は涙が溢れる刹那の目元にハンカチを押し当てた。
「別に君のことを猿だなんて思っちゃいないよ。私にとって猿はクソみたいな非術師のことだ」
「あ、そ……」
ちなみにクソみたいな術師は腐った蜜柑である。
「……でも、本当は私、呪術界から、抜けた方が良くって、でもまだ……みんなといたくて……なんで、力が……う、ぐっ……」
ボロボロと本音を零す刹那。目覚めてから気丈に振舞っていたが、今まで出来ていたことが出来なくなるというのは辛いものだ。
呪霊を知っているのに、対抗すら儘ならない。他の皆におんぶにだっこ。心に抱えていた不安が爆発していた。
「大丈夫だ。刹那、私たちは最強なんだよ? 君1人ぐらい守れるさ」
「……うん…………」
小さく頷くと、電池が切れたように刹那は目を瞑って気絶した。
夏油はそれを横抱きで持ち上げて、また帰り路を進む。
寝息を立てる彼女を見ていると、病室で微動だにしなかった時の姿を思い出す。
夏油は呪霊でそっと鼻を摘んだ。彼女の眉間に皺が寄る。ふ、と笑いが漏れた。
彼は自分の中にいる特級呪霊を呼び出す。何も無い空間からぬるりとツギハギの呪霊が顔を出した。
「真人」
「え? 何? 今漏瑚たちと麻雀してたのに」
「彼女を術師に戻せるかい?」
「んー。もうほとんど素質がないからね。耐えきれなくて身体が破裂するかもしんないけど、いい?」
「良いわけないだろう」
文句を垂れる真人を戻して、彼女の住むマンションのオートロックを解除する。
夏油は刹那の鞄から鍵を出して、部屋へ入った。
生活必需品以外はほとんど置かれていない、飾り気のないシンプルな部屋だ。
刹那をベッドに転がす。その側の小さなサイドテーブルには、昔撮った写真が飾られていた。
「おやすみ、刹那」
「…………ん……」
──翌日、何も覚えていない刹那は五条に全力のデコピンを食らって呻き声を上げた。
力を失って昔とのギャップに苦しむ姿、いいよね
那由多の明日はどっちだ
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しめりけ
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だいばくはつ