【完結】エヴァンゲリオンANIMA-1.0   作:サルオ

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【n.決意】

 

「今のって…」

 

 マヤは自分の耳を疑った。静まり返った第二発令所の中、階下の戦自隊長の号令はよく響いた。

 

「紫のやつって初号機…、のことだよな?」

「ああ…。そこにいた奴らを、ここに呼んだのか?」

 

 青葉と日向も驚きを隠せない。たった今まで殺し合いをしていた戦自隊員達が突然攻撃の手を止め、自分達にも聞こえるように号令を出した。

 

 なぜ?エヴァの確保は戦自にとって最重要事項の1つじゃないのか?

 

 マヤ達が戸惑いを感じるなか、ミサトと冬月だけが状況を把握していた。

 

 彼らは同情したのだ。エヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジに。その余りにも過酷な人生に。

 

 戦自が国連側の組織だったとしても、そこに勤める軍人は日本人だ。国民を守る「自衛隊」の人間だ。だからこそ、例え命令であっても、あの哀れな少年の命を奪いたくなかったのだろう。初号機までのルートを確保し、シンジが少しでも安全に逃げられるように、初号機付近で待機している隊員をこちらに呼び寄せたのだ。

 

 たとえこの後、彼等にどんな処罰が下ろうとも、自分たちの中にある正義を優先して。

 

 ミサトはコンソールの上に立ち上がり、階下の戦自隊員たちを睨みつける。

 

「葛城さん⁉危ないですよ!」

 

 日向が悲鳴を上げるが、ミサトは意にも介さない。

 

 階下の戦自隊員の何人かがミサトに銃口を向けるが、隊長がミサトを睨み返しながら手でそれを制した。

 

「負傷者の救護を最優先!死者は入り口の外に並べてやれ!…丁重に、な」

 

 戦自隊長が、再びミサトに聞こえるくらいの大声で命令を発する。

 

 戦自隊員が命令に従い、わざとらし過ぎるほど緩慢に動き出す。その間も、ミサトと隊長の睨み合いは続いている。

 

(礼は言わないわよ……)

 

(お互いに、な……)

 

 言葉にせずとも互いの意思が伝わる。

 

 これは戦争だ。戦自はネルフ職員を大量に殺害したし、ミサトも大量の戦自隊員を返り討ちにした。どちらに正義があるかなど、戦闘中に議論する事ほど馬鹿な事はない。大義名分はどうであれ、兵士はただ生き残るために相手を殺す。それが戦争だ。

 

 ただ、そういった戦闘の中でも、何かの気紛れで相手が慈悲を施す事がままある。それを軍人としてのミサトは経験で知っていた。

 

 この対応はあくまで現場判断だ。戦自全体が侵攻を止めるわけではない。だからこそ、戦自隊員たちが作った時間を無駄にはできない。

 

「状況を再確認するわよ」

 

 ミサトはコンソールを降りながら、オペレーター達に指示を出す。

 

 そんなミサトの様子を、冬月は頼もしく感じるのだった。

 

 

 ◇

 

 

「別の、補完計画…?」

 

 シンジは加持に問い返していた。

 

「ああ。ゼーレの補完計画は簡単に言えば、寿命という欠点を克服せぬまま進化しきった人類を、全て溶かして混ぜあわせ、新しい種族に進化させた上で、俺たちリリンを生み出したリリスに『不出来な子供でごめんなさい』って謝りながら、ママのお腹の中に還らせてってお願いすることなのさ。おみやげに『生命の実』を持ってね。全くイカれた話だが」

 

「……本当にヒドイ話ですね」

 

 加持の言い方もあるだろうが、あまりの内容の酷さにシンジは若干引いた。

 

「行き過ぎた宗教家なんてのはそんなもんさ。だが碇司令、彼は違う。彼はママに謝りたいんじゃない。自分が『神』になって、自分の望む楽園を創りたいんだ」

 

「自分の望む楽園?」

 

「君のお母さん、碇ユイとの2人だけの世界だ」

 

「……………は?」

 

 シンジは思わず呆けた声を出してしまった。しかし加持は構わず続ける。

 

「俺は以前、君のお父さんに胎児まで小さくなったアダムの肉体を渡した。そしてネルフの地下にはリリスの本体がある。それに…」

 

 そこまで言って加持は、この先を話すかどうか、一瞬だけ躊躇した。

 

「…もう気づいているかもしれないが、ファーストチルドレン、綾波レイは君のお母さんのクローンだ。そして彼女の中には、『神』であるリリスの魂が宿っている」

 

「綾波の中に⁉」

 

「そうだ。アダムの肉体、それとリリスの肉体と、リリスの魂。それだけ揃えばサードインパクトを起こす事は十分に可能だ」

 

「ちょ、ちょっと待ってください、いきなりすぎて…」

 

「本当にすまないと思うが時間がない。碇司令は恐らく、アダムの肉体をすでに自分に取り込んでいるだろう。アダムとリリスの融合の際に自分も無理やり介入する事で、インパクトを起こせる『神』になれるハズと踏んでいるんだ」

 

 だが、と加持は続ける。

 

「たとえサードインパクトを起こせたとしても、碇司令が君のお母さんとの世界を望んでいるならば、もう一つ必要なものがある。それは、初号機の中に眠る、君のお母さんの魂だ」

 

「母さんの…?」

 

「これは渚カヲルから聞いた話だが、『神』となったものは自由にアンチATフィールドを張る事ができるらしい。それこそ地球全体を覆い尽くせるほどの巨大なものを。ATフィールドは心の壁、いや、器と言ってもいいかもしれない。自分という魂の領域を形にして守るための、この地球の全ての生き物が持っているものだ。だが、アンチATフィールドはその壁を破壊し、全ての命を原初の状態、生命のスープであるLCLに戻すことができるんだ。」

 

 しかし、と加持は続ける。

 

「しかし君なら・・・君と初号機が全力で碇司令を拒絶できたなら、碇司令のアンチATフィールドに初号機のATフィールドで対抗できるかもしれない。そうする事で、碇ユイの魂も守られる。そうすれば、碇司令の補完計画は不完全なものに終わる」

 

 シンジは加持の言葉を必死に飲み込む。自分の中に落とし込めるように、納得できるように、ゆっくりと。

 

「だから、初号機に乗って、逃げ切ればいい…」

 

「そうだ。それに加えて、ゼーレも初号機を狙ってくるだろう。奴らの補完計画はアダムやリリスと融合するのではなく、生贄の儀式を執り行うことで発動する。その生贄は、リリスを元に作られ、第14の使徒からS2機関、つまり『生命の実』を取り込み『知恵の実』との両方を手に入れた初号機が相応しい。ゼーレはそう考えているハズだ」

 

 シンジはそこまで聞いて、ようやく理解した。

 

「つまり初号機が捕まらなければ、父さんも、ゼーレも、補完計画を発動できない…?」

 

「そういう事だ」

 

 加持がすぅっと優しく微笑む。だが直後、なにかを後悔するように顔をしかめた。

 

「本当はこんな事、話すべきじゃなかったのかもしれない。君には何も知らず、自由に逃げてほしかった。なのに俺は、君が逃げなきゃいけない理由を教えてしまった…」

 

「加持さん…」

 

「本当に、卑怯な人間だよ、俺は……」

 

 加持の苦笑とともに、沈黙が二人を包み込む。トンネル内を静寂が満たしていた。

 

 シンジは、何かを言おうとはしていた。しかし、加持にどんな言葉をかければいいのか、自分の中でも整理しきれていなかった。

 

 それでも何か言わなければ。加持と会うのは、もしかしたらこれで最後になるのかもしれないのだから。

 

 そう思い、シンジが口を開こうとした時、

 

 ブブブッ、ブブブッ…

 

 加持の携帯が震えた。

 

 シンジが何かを言おうとする前に、加持が携帯を手に取り、自身の耳に当てる。

 

「葛城…」

 

『聞いてたわよ、加持くん』

 

「そうか…、まぁそうだよな……」

 

『初めて見たわよ、アンタのあんな顔。ちょっとシンちゃんに妬いちゃったわ』

 

「それは、嬉しいな……」

 

 加持が苦笑する。

 

『ねえ、スピーカーにできる?シンちゃんとも話したいの』

 

「ああ」

 

 加持は携帯を耳から離すと、通話をスピーカーモードに切り替えた。これでミサトの声は、加持とシンジの二人にも聞こえるようになった。

 

『シンジ君、聞こえる?』

 

「あ、ミサトさん……さっきはごめんなさい、生意気な事言っちゃって…」

 

『あなたが謝る必要はないわ。全部私が悪かったんだもの』

 

「そんなこと…」

 

『いいのよ、本当に。むしろ、私の方こそごめんなさい。あなたがそんなに苦しんでいるのに気づけなくて。……保護者失格ね』

 

 一瞬の沈黙の後、ミサトの声に涙が混ざる。

 

 今までのシンジとの生活を振り返りながら。

 

『本当に…本当にごめんね、シンちゃん!私、あなたの事をちゃんと見てあげられなかった…。自分のことばかりあなたに押しつけて、身勝手なことばかり言って…』

 

「ミサトさん…」

 

『本当に…、本当にごめんなさい…ッ!』

 

 ミサトの心からの謝罪。先程の加持と同じように、ミサトも自分に謝ってくれた。他の誰でもない、エヴァンゲリオンのパイロットではない、「碇シンジ」個人に向けて。

 

 シンジの胸が少しだけ暖かくなる。

 

 ミサトが大きく息を吸い、吐いた様子が電話越しに伺えた。

 

『……さってと!いつまでも泣いている場合じゃないわね!シンちゃん、話は聞いてたわ。

 

 逃げちゃいなさい。あなたが望むように。

 

 誰の為でもない、自分自身のために。

 

 私達はこれからここで、そのサポートに徹するわ』

 

「ミサトさん…いいんですか…?」

 

『良いも悪いもないわよ。あなたの本音がようやっと聞けたんだもの。…嬉しかったわ』

 

 これはミサトの本心だ。

 

 ずっと、ずぅっと、こんな会話をしたいと思っていたのだ。シンジと心の壁を取っ払い、お互いの想いを相手にぶつけ合う。そんな会話を、ミサトは望んでいた。時には喧嘩になる事もあるだろう。だがきっと、人というものはそうやってお互いを知っていくのだ。その結果が、もしかしたら離別に繋がるかもしれない。けれどもそうやってお互いを知る事ができれば、少なくとも納得はできるのだ。

 

「あの時、私たちは確かに本気でぶつかり合えた」と。「そのことを後悔する事はきっとない」と。

 

 だから最後に、シンジとこうやって分かり合えて別れる事ができるのが、ミサトは本当に嬉しかった。

 

『今ね、サイッコーに優しい軍人さんたちが私たちのところに向かってきてるの。初号機をほっぽってよ?だから今が逃げ出す絶好のチャンスってわけ!』

 

「お、そりゃあ太っ腹だな!」

 

 加持がミサトに相槌を打つ。

 

『でしょ〜〜⁉見送りができないのが残念だけど、シンちゃんがこれからの人生を豊かに過ごせるように、ここから祈ってるわ』

 

「ミサトさん……」

 

 シンジの視界が涙で歪む。

 

 嬉しさで。

 

 胸が熱くなる。

 

『あっ!ちょっと…!』

『シンジ君!』

 

「…青葉さん?」

 

 電話の相手が唐突に変わった。どうやら青葉がミサトから携帯を引ったくったようだ。

 

『全部終わって平和になったらさ、俺、ライブやるから!実はギターやってんだ、俺!絶対来てくれよ?サイコーの音を聞かせてやるからさ!絶対に来てくれよ⁉』

 

「青葉さん…」

 

 シンジは驚いている。青葉とは何度か話した事がある。だがギターをやっていると言うのは、今この瞬間、初めて聞いた事だ。

 

 シンジは驚いている。自分が本音を話すことで、こんなにも簡単に心の距離が縮まるのかと。

 

 そして、それが決して不快なものではないという事実に、シンジは一番驚いている。

 

『シンジ君!』

 

 電話の持ち手が日向に変わる。

 

『いっつも無理な戦いにしちまってごめんな!本当に、本当にありがとう!シンジ君が守ってくれたから、俺たち今日まで生き残れたんだ!』

 

「日向さん…」

 

『私も!私も‼本当にありがとう‼シンジ君はいつもこんな怖い思いをしてたのよね?それなのに戦ってくれていたのよね⁉不甲斐ない大人で、本当ごめんね!私、シンジ君が幸せになれるよう、ここからずっと祈ってるから‼』

 

「マヤさん…」

 

『私も、いいかね?』

 

「冬月副司令……?」

 

『ああ。シンジ君、今まで本当にすまなかった。…実はね、私は昔、君のご両親の先生をやっていた事があってね』

 

「え、そうだったんですか?」

 

『ああ、何をどうして今に至るのか、話せば長くなってしまうから省くが。だが、どうしても君に謝っておきたくてな』

 

「いえ、そんな…」

 

『…君は本当に、お母さんにそっくりだ。姿だけではない。君自身の心も含めて。そんな君を、私はずっと傷付けてきた。謝っても許されるとは思っていないが、本当にすまなかった…。ここから出たら、達者でやってくれたまえ』

 

「冬月先生…」

 

 言ってからシンジはあっと口を抑える。咄嗟のこととはいえ、いきなり先生なんて呼んで冬月は怒らないだろうか、と。だが電話の向こうからは予想に反して、盛大な笑い声が聞こえてきた。

 

「そうやって呼ばれたのは本当に久しぶりだ!……シンジ君、達者でな」

 

 初めて聞く、意外な人たちからの思いがけない言葉。

 

 そんな、自身にとっては初めての、他人からすれば取るに足らない経験が、シンジのやってきた事が間違いではなかったという微かな実感を与え、シンジの目頭を熱くさせた。

 

「みなさん……」

 

 シンジの声が震える。

 

「ほんとに…本当に!今までありがとうございました!」

 

 シンジは電話に向かって、深々と頭を下げた。

 

『さあ、シンちゃん!思い立ったら吉日よ!すぐに初号機に向かって!加持くん、シンちゃんの事、よろしくね』

 

「ああ、任せろ」

 

 加持も強く頷いた。

 

 シンジの心は、雲一つない青空のように澄み渡っていた。

 

 初めて、「碇シンジ」としてみんなと話ができた気がする。初めて、みんなが自分を見てくれたと感じる。シンジの中の迷いや戸惑い、恐怖が、ゆっくりと、暖かく氷解していく。

 

 もう迷わない。

 

 初めて自分の心で、自分の意思で、踏み出そうとする一歩に誇りすら感じる。みんなの感謝の声が、シンジの背中を押していると実感できる。

 

 まるですべてが、新しい自分の門出を祝福するように。

 

 「おめでとう!」とみんなが言ってくれたように感じて。

 

 シンジもまた、ネルフに来てから初めて、みんなに感謝できたのだ。

 

(みんな、ありがとう…!)

 

 シンジは力強く立ち上がる。

 

 その目には強い決意の光。

 

 彼の人生はここに来て、ようやくのスタートを見せようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、そこでようやくシンジは『気付き』、凍りついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ミサトさん……」

 

 それは加持が、まさに通話を切ろうとした一瞬。

 

 

 

「ミサトさん達は、どうなるんですか…?」

 

 

 

『……え?』

 

 ミサトが聞き返すより前に、シンジの意図を察した加持が電話を切ろうとした。だがその通話が切られる前に、シンジは加持から携帯電話を引ったくっていた。

 

「ミサトさん、教えてください。僕が逃げたら、ミサトさん達はどうなるんですか…⁉」

 

『シンちゃん…』

 

 ミサトは一瞬の逡巡の後、きっぱりとこう告げた。

 

『そんなの、シンちゃんが気にする必要ないわ』

 

「そんな、だって…!」

 

『シンちゃんの新しい旅立ちなのよ?そんなの、気にする必要はないわよ』

 

「でも、父さんはもうサードインパクトを起こせるんでしょう⁉」

 

『そうならないようにするのが、今の私たちの仕事よ』

 

「でも!サードインパクトが起こったら、ミサトさん達はLCLになっちゃうんじゃないんですか⁉」

 

 サードインパクトの発動時、シンジが初号機に乗っていれば、シンジは助かるかもしれない。

 

 

 

 ATフィールドを張れる、シンジ『だけ』ならば。

 

 

 

「そんなの嫌ですよ!せっかく、やっとみんなの事がわかりかけてきたのに、僕の事を見てくれるようになったのに…!」

 

「シンジ君」

 

 横から加持が割り込む。

 

「さっきも言ったが、俺は君に逃げてほしい。これ以上、君が戦い、傷つくのは見たくない。君を笑顔で送り出す事が俺の、俺たちの願いだ」

 

「でも加持さん!」

 

「葛城も言ったように、俺たちだって黙ってやられるわけじゃないさ。サードインパクトは俺たちだけで食い止めてみせる。だから…」

 

「でも防げなかったら⁉それに人間の軍隊も襲ってきてるじゃないですか!このままじゃみんなが…!」

 

「シンジ君ッ!」

 

 加持がシンジを一喝する。

 

「お願いだ。逃げてくれ。俺たちのために逃げてくれ。俺はシンジ君を戦わせるためにこんな話をしたんじゃない。誓って本当だ。心の底から君を守りたいんだ。だから、お願いだから、逃げ出してくれ。君自身の幸せのために……」

 

 加持の目は一切の曇りなく、一切の偽りなく、自分の気持ちを素直に告げているようにシンジは感じた。

 

 だからこそ、思う。

 

 

 

 なんで、そんな事を言うんだよ。

 

 

 

 なんで、僕のためにそこまでやるんだよ。

 

 

 

 

 

 なんでみんな、こんなにやさしいんだよ……‼

 

 

 

 

 

 心の底では分かっている。

 

 きっと加持もミサトも、今の自分と同じ気持ちを抱いているんだろう。

 

 自分を犠牲にしても構わない、と。『自分の命の価値などどうでもいい』と思えるほどの気持ちが、彼らの心を満たしているのだろう。それほどまでに、今のシンジを守りたい、と心の底から思ってくれているのだろう。

 

 こんなとき、自分にとって大きな決断を迫られたとき、シンジが取る一つの癖があった。

 

 右の手を開いて閉じ、開いて閉じ、そして、最後に強く握りしめる。

 

 加持の目を見ないように、自分に罰を与えるように、自分自身を呪うように。

 

「…逃げちゃダメだ」

 

「…シンジ君?」

 

 シンジの口から自然と言葉が漏れ出る。それは今まで、シンジが何度も自分に言い聞かせてきた言葉。

 

「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ……!」

 

「シンジ君‼」

 

 加持がシンジの両肩を掴む。まさかここに来て、自分の言葉がシンジのトラウマを刺激したのかと。

 

「シンジ君!逃げちゃダメなんて事はない!逃げて良いんだ、君は!変な責任なんて、感じる必要はないんだ‼」

 

 加持はシンジを強く揺さぶった。自身の言葉の通り、そんな意味のない責任など振り払えと言うように。

 

 だが、俯いたままシンジはこう返す。

 

 「加持さん、違うんです」

 

 シンジが顔を上げ、加持の目を見据えて言う。

 

 「逃げちゃダメなのは、僕の本当の願いからなんです」

 

 シンジの目に、決意の光が再び宿る。

 

 それは先程までの「自分は逃げても良いんだ」といった他人の願いに乗っかるようなものではなく、自分の気持ちを真正面から受け止めた者だけが宿す事のできる光。

 

 先程までの光より、ずっとずっと、強い光。

 

「僕だけじゃ嫌なんです。みんなを犠牲にして、僕だけ生き残る。たった1人だけで生きていく世界なんて、僕は望まない」

 

「シンジ君…」

 

「僕は、ここまでやってきて、ようやくだけど、分かった気がするんです。……一度は願いました。誰もいない、争いも、諍いも、支配も、服従も、飢えも、寒さも、痛みも、何もない、幸せな世界」

 

 だけど、今は。

 

「違うよ、加持さん。一度は望んだかもしれないけど、今は違う」

 

 シンジの手が、加持の手を握る。

 

「だって、そんな世界には、誰もいないもの。そこには幸せなんてないよ。悪いこともないけど、いいこともない。死んでるのと同じだ」

 

 その言葉を受けて、加持の心に再び痛みが生まれる。

 

「・・・・・・本当に、君はそれでいいのか?」

 

「いいんです」

 

 シンジは即答する。

 

「僕は、人と人とが完全に理解し合うなんて不可能だと思ってたけど、僕はまだ、それを確かめきれてないんだ。確かめなきゃ。僕のこの体と、心で。確かめて、結局は苦しむだけで、やっぱりダメだったとわかったとしても。でも、一瞬だけなら心を通わせる事ができるんじゃないかなって。今の加持さんやミサトさん、それだけじゃない。僕と関わってくれた全ての人と。確かめなきゃ。僕のこの手が、何のためにあるのか。僕がなんのためにいるのか……」

 

 

 

 シンジの奥底に沈んでいた記憶が蘇る。

 それはシンジの母が、シンジに残した言葉。

 あの夏の日。蝉の声がうるさかったあの日。

 自分を抱きしめて、願うように言ってくれた母の言葉。

 呪いであり、同時に、福音であった言葉。

 

 

 

『忘れないでね。母さんと約束しましょう』

 

 

 

 靄のかかった記憶が、少しずつ鮮明になっていく。

 

 

 

『この先、何があっても』

 

 

 

 なぜ、こんな大事な事を忘れていたんだろう?

 

 これこそが、自分がここにいても良いと思える理由。その根拠であったハズなのに。

 

 

 

『世界中の人たちの幸せを、あなたが守るのよ』

 

 

 

「だから、行かせてください」

 

 

 

 シンジの手が、ゆっくりと、優しく加持の手を自分から引き離す。

 

 

 

「僕はエヴァンゲリオン初号機のパイロット、碇シンジですッ!」

 

 

 

『ダメよ、シンジ君!絶対ダメ‼』

 

 ミサトが叫ぶ。

 

『なんでそうなるのよ!いつもいつも私の言うことを無視して、勝手に先走って‼なんでアンタはそうなのよ⁉好きに生きていいって言ったじゃない!アンタの幸せを願ってるって言ったじゃない‼なんでアンタはいつも、私の逆を行こうとするのよッッ‼』

 

「ミサトさん、ごめんなさい」

 

 シンジは、何もミサトに反発したいわけじゃない。むしろ、今この場で自分を叱ってくれるミサトに、愛おしさすら感じている。

 

 だからこそ、今のシンジはミサトを見捨てられない。

 

 ミサトだけじゃない。今まで自分と関わって来てくれた全ての人たちを見捨てて、自分だけが生き残るなんて選択を、今のシンジは取る事ができない。

 

 例え自分が何もかも上手くできなくて、結局全てが無駄に終わったとしても。

 

「でも、大事なんです。大切なんです。ミサトさんも加持さんも、青葉さん、日向さん、マヤさん、冬月先生、リツコさん、トウジ、ケンスケ、委員長……それにアスカも!綾波も!どうしても、見捨てたくないんです…自分だけ逃げたくないんです!ミサトさん!これってそんなにおかしい事ですか⁉」

 

『おかしいに決まってんでしょ!ガキのクセに‼』

 

 そしてミサトも、シンジを大切に思うからこそ見捨てられない。

 

『アンタ、実際に何ができんのよ!ええ、そりゃあエヴァには乗れるでしょうよ。でもアンタに碇司令を止められるの⁉戦自を撃退できんの⁉ゼーレをぶっ潰せるの⁉無理に決まってんでしょ‼一人で何もかもできるなんてガキの妄想よ!調子に乗らないでッ‼』

 

 ミサトはもう、自分を抑えきれずにいた。例えシンジが傷付こうとも、ここだけは絶対に譲れなかった。

 

『なんでアンタばっかり傷付くのよ…なんで私の下でみんな死んでくのよ…!レイは死んだ。アスカは壊れた。その上アンタまで不幸にしたら、私の人生なんだったのよ…ッ!お願いだから言うこと聞いてよ、幸せになってよ‼逃げていいって言ってんだから、逃げて、生き延びてよォ‼』

 

 電話の向こうから、ミサトの啜り泣く声が聞こえる。

 

 だがシンジも譲れない。譲りたくない。

 

 守れるものなら守りたい。そして、自分にはその力がある。エヴァンゲリオンという、地球最強の兵器がある。母の魂の宿った、世界を救う力を扱う事ができる。

 

 ミサトがここまで想いをぶつけてくれるからこそ、何とかしたいと思っている。

 

 今、目の前で起きている不幸を、これから起こりうるだろう全ての不幸を何とかしたいと強く思っている。

 

「シンジ君」

 

 沈黙していた加持が、ここぞとばかりにシンジに詰め寄る。

 

「悪いが俺も葛城と同じ気持ちだ。君が何もかもできるとは思えない。そして、それを君がやる必要もない。頼むから、ここは俺たちに任せてくれないか?俺たちに、少しでもいいから格好付けさせてくれよ……」

 

「加持さん……」

 

 加持の言葉に、シンジの決意が揺らぎそうになる。シンジだって中学生だ。大人ではないが、子供でもない。大人の理屈もわかるつもりだ。

 

 だがそれで、ここでみんなを見捨てたとして、果たして今後自分は幸せになれるのか?

 

 絶対に違う。絶対に、嫌だ。

 

 確かに自分のできることは限られている。ミサトが言ったこと全てを、シンジひとりでやるには無理があることだって分かっている。

 

 でも諦めたくない。絶対に、諦めたくない。

 

 今ここでようやく芽生えた覚悟を、無駄にすることをシンジは望んでいない。

 

 やりたい事とやれる事とやらなければならない事。それらを分けて優先順位をつけることにシンジは慣れていない。当たり前だ。いまこの瞬間こそがシンジの意志で行う、初めての決断の時だったのだから。

 

 大人はそれを割り切れる。無駄な労力であると早めに見切りを付けることができる。

 

 しかしシンジにはそれができない。大人の意見が上乗せされれば尚更。

 

 シンジには必要だったのだ。同じ世代で、一緒に戦ってくれる仲間が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『はん!だから、あんたには任せらんないのよ、バカシンジ!』

 

 

 ◇

 

 

 ジオフロントにある地底湖で巨大な爆発が起きる。それはまさに光の十字架。

 

 エヴァンゲリオン弐号機の捜索にあたり、戦自は弐号機が地底湖の底に隠れているのではないかと推測した。当たれば御の字。当たらなくても、いない事が判明すればそれで良いと、戦自隊は地底湖内に爆雷を投下していく。

 

 そうして数分が経過し、地底湖から上がる十字架状の光。

 

「こ…これは⁉」

「やったのか⁉」

 

 作戦の成功を半ば確信した戦自隊員たち。

 

 しかしその後、戦自隊は信じられないものを目にする。

 

 それは爆雷を投下するために地底湖に浮かんでいた護衛艦。

 

 それを持ち上げながら立ち上がる、赤い巨人の姿。

 

 

 

「おまたせ♪」

 

 

 

 そして、惣流・アスカ・ラングレーの復活の瞬間だった。

 

 

 

 

 

つづく

 

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