ゴォン、ゴォン…………
巨大な換気扇がこの場所の空気を静かに、重々しくかき混ぜていく。それ以外は何も聞こえない。どこかの工場なのか、地下路なのか、それすらも分からない薄暗い景色の中、かき混ぜられた空気にはかすかに鉄と油、そして錆の匂いが混ざっていた。
懐かしい、と男は思った。
物心がつき、両親を亡くし、幼い弟や悪友たちと暮らしながら、日々の食糧も満足に得られず、ただ生きるだけに必死だった日々。男の青春は、鉄と油、錆の匂いと共にあった。
不幸とは思わなかった。いや、不幸かどうかなど、考える余裕もなかった。生きるために必要なあらゆる事を、少年だった男は日々、必死にこなしていただけだ。つらい、苦しいという刹那的な心情はあったが、それでも必死で生きた。そのことに、後悔は何もない。
ただ、男の心には深く、暗い淀みがあった。
自分が生き残るために、男は、自分の幼い弟と仲間の命を売ったのだ。
きっかけは幼かった自分たちが食料をくすねていた軍の食糧庫。その警備の薄さに目を付けた男と仲間たちは、当番制で夜な夜なそこに忍び込み、当時の日本では貴重な食料をくすねるといった行動を繰り返していた。自分たちが日々を生きる為の糧。幼かった男たちに、手段を選んでいる余裕などなかった。
だが、たまたま自分が当番だったその晩。夜の闇に紛れて食糧庫に近づいた所を見回りの兵士に発見され、拷問を受け、最後に、額に銃を突き付けられた。
「仲間の場所を教えたら、オマエは助けてやる。だがそうでないなら、今すぐこの引き金を引く…」
状況を俯瞰的に、冷静に見る事ができれば、この時の彼の行動に一切の非難すべき点はなかっただろう。彼は幼く無力で、相手は軍人で、銃を持っていた。その引き金はひどく軽く、その軽さこそが彼自身の命の重さであることを理解させられただけだ。それに恐怖を感じない人間が、果たしてどれほどいるのだろうか。ましてや幼い少年がその脅しに屈しないという勇敢な行動を取るなんて事、絵空事の中だけの話でしかない。
だが、男はバカではなかった。たとえ今この場で仲間たちの情報を売ったとしても、置かれている状況さえ乗り越える事ができれば、売ってしまった仲間たちを救い出せるはずだと心から信じていた。こめかみに当てられた冷たい金属の感触。これが少しでも緩んだ瞬間こそが、彼の反撃のチャンスだった。
男は辛抱強くチャンスが訪れるのを待ち続けた。そして、それをものにした。軍人を突き飛ばし、彼は弟と仲間のいるアジトまで四肢が千切れる勢いで走り続けた。
そしてその先で、変わり果て、冷たくなった弟と仲間たちを見つけた。
そこに至るまでの男の葛藤や命の恐怖との闘いなど、去ってしまった者たちにとっては何の意味も持たない。結果だけ見れば、なによりも大切だった者たちを、彼はわが身の可愛さゆえ、すべて失ったのだ。
幼い弟や仲間たちが、軍人の口から「自分という人間が情報を漏らした」と聞かされた時の心情。そして、自分と同じように銃を突き付けられ、自分とは違い、その銃口から弾が飛び出した瞬間。その瞬間に何を思っていたのか。それを想像するたびに、男の胸は張り裂けるほどの痛みを訴えてきた。
何がいけなかったのか、どうすればよかったのか。答えのない自問自答を繰り返し、結果として男は、「こんな時代こそが敵なのだ」と結論づけた。このような時代・状況を作った原因こそが、自分の敵であると。
決して一人では成しえない、しかし明らかに人間による、「何かしらの確固たる意志によって引き起こされた」と男が確信しているもの。
『セカンドインパクト』
2000年9月13日、南極大陸のマーカム山に墜落した隕石によって引き起こされた、地球規模での大災害。南極の氷を一瞬で溶かし、洪水、津波、海面の上昇、噴火、地殻と地軸の変動などを引き起こした、
その真実を掴むため、男、『加持リョウジ』は今日まで走り抜けてきたのだ。
国連を陰から操るほどの権力を持つ「ゼーレ(SEELE)」、その実行機関である「ネルフ(NERV)」、そして彼の母国における最高峰の諜報機関「日本政府内務省調査部」。これらを股にかけ、三重のスパイとして、己の欲する情報をひたすらに調べ続け、真実を追い続けた。
その結果として、彼は今、ここにいる。
「これで…、ジ・エンド、か…」
加持のわき腹から滴りおちる血が、彼の足元に小さな血だまりを作っている。致命傷ではない。しかし、これ以上動き続ければその限りではない。
いつかこうなるだろう、とは予測していた。元もと「俺は幸せになってはいけないのだ」と、事あるごとに彼は自分に言い聞かせてきた。まともな死に方なんぞできるはずがない。むしろこれだけの危険な橋を渡ってきて、良く持ったほうだと自分を褒めてやりたいくらいだった。
彼の心残りは二つ。己の人生を賭けた戦いにおいて、セカンドインパクトの真実にたどり着けなかったこと。そして、自分に少しの間だけでも幸せを感じさせてくれた女性、葛城ミサトのこと。
(未練、だな…。男らしくもない)
この場に来る直前、加持はかつての恋人であった葛城ミサトにメッセージを残していた。「もし、もう一度会えることがあったら、この思いを素直に彼女に伝えたい」と。
だが、それは無理だ。
ジャリッと、加持の背後で土を踏む音がした。どうやら、お迎えが来たらしい。
「よお」
加持は振り返り、背後にいた人物に声をかけた。薄暗いこの場所、さらには逆光だったということもあり、その人物の顔を伺うことはできなかった。
しかし、目を逸らしはしない。己の人生の終着だ。真正面から受け止めたい。
「やっと来たな。おそいじゃないか…」
その人物が銃を構える。人気のない場所だ。サイレンサーを付けるまでもないのだろう。ひどく武骨な拳銃が、加持の左胸に照準を合わせる。
「遠慮はいらない……。今度は外すな…」
パンッ、と軽い音がした。
「……加持リョウジくん、だね……?」
撃たれた拳銃は、天井を向いていた。
「なに…?」
加持はあらためて相手を見遣る。
撃たれていない。自分に訪れるのは逃れようのない後悔と、痛みと屈辱にまみれた死であると覚悟を決めていたにも関わらず。
(この声、若い男…、いや、下手したら少年か?)
逆光でいまだ相手の顔を確認できないが、声とシルエットから成人男性ではないと加持は判断した。加えて──、
(俺の名前を確認した……?)
自分への追手であるならば、問答無用で撃ち殺せばいい。名前を確認するなどという無駄なことをするはずがない。
「どこかで会ったかな?あいにくと、俺は君みたいな少年との友好関係はそれほど広くない、と思ってたんだが……」
軽い口調とは裏腹に、加持は内心で警戒を強めていた。
(こいつは何者だ?ゼーレ?ネルフ?……内務省はありえない。内務省にとって、俺はトカゲのしっぽだ。俺を始末するためだけにわざわざ人員を寄越すはずがない。俺にゼーレかネルフの鈴がついていると分かった時点で、むしろ積極的に俺を奴らに差し出すだろう)
加持の頭の中でいくつもの可能性が生まれては消えていく。加持が恐れているのは全くの第三者の介入だった。自身の持つ情報を欲しがる第三者。それは十中八九、今後のネルフやゼーレの行動に積極的に介入してくるだろう。そしてそれは、ただでさえややこしくなってきている世界情勢にさらなる混乱をもたらす。
ゼーレの提唱する『人類補完計画』。
加持ですらその全貌はまだ知る由もないが、その終局の場面において余計な横やりが入ることは、人類全体の存亡の可能性を大きく揺るがすだろう。
であるならば、加持は自らこの場で死ななければならない。情報は時に命よりも重い。人類補完計画について断片的な情報しか手に入らなかった加持だが、それすら手に入れられない組織は星の数ほど存在するのだ。そんな奴らに情報をくれてやるつもりはない。
加持はゆっくりと、相手に悟られないように腰に隠した銃に左手を伸ばした。暗殺用の小型拳銃。目の前の相手は殺せなくても、自ら頭を撃ち抜くには十分な代物である。
「いいや?はじめまして、だよ。僕がこうやってあなたに会いにくるのは、今までには無かったことなんだ」
いっそ朗らか、といえばよいだろうか。声の主は緊張感というものがまるでない様子で加持に話しかけた。
「ほんとう、今回が初めてだよ。今回の彼ならば、もしかしたら僕の想像を超えた幸せの形にたどりつけるかもしれないね……」
「悪いが独り言ならどっか他所でやってくれないか?見ての通り、俺も結構忙しい身でね」
加持が自分の傷を右手で指さす。声の主はクスクスと笑った。
「ごめんごめん。そんなに難しい話をしにきたわけじゃないんだ。要件はすぐに終わるよ、加持リョウジくん」
声の主が気兼ねなく、加持に近づいていく。それに合わせて、逆光に晒されていたその顔が光の中に静かに浮かぶ。
アルビノを彷彿とさせる白い肌と髪。
深紅の瞳。
それらを持った、ゾッとするほどの美形の少年であった。
「僕はカヲル。渚カヲル。碇シンジくんやそのほかのチルドレンと同じ、ゼーレに運命を仕組まれた子供。そして、第17の使徒『タブリス』だ」
加持の目が見開かれる。
「加持リョウジくん、僕は真実を伝えに来ただけだ。『セカンドインパクト』。『人類補完計画』。君が知りたがっていた真実を、僕だけの意志でね」
そういって、渚カヲルは手を伸ばした。まるで握手を求めるように。
「これをどう活かすか。それはきみ次第だよ」
つづく