七月二十三日、ポツポツと雨が降る新潟レース場の控室。
一人のウマ娘が鏡の前で目を閉じ、落ち着いた心持ちで規則的に呼吸を繰り返す。
その後ろで壁にもたれながら彼女を見る青年は時計を何度も確認しながら胸を押さえて不規則に呼吸する。
「やっぱり緊張するかい、トレーナー君」
「そりゃあ………担当のデビュー戦だしね。ルドルフは………緊張は見えないな」
外から聞こえる大歓声に耳を傾けながらトレーナーは壁から離れて机に置いてある自分のジュースを口にする。
開始数分前だと言うのにこの歓声………重賞レース並と言っても過言ではない大歓声はきっと全てシンボリルドルフに向けられた物なのだろう。
『皇帝』と言う、あまりにも尊大な肩書を持つウマ娘。
皆がシンボリルドルフに期待を寄せている。
「寧ろ私は好機と捉えているよ。この注目と期待の中で勝てば人々は更なる話題に期待して我々を注視するようになる」
トレーナーは嬉しそうに語るシンボリルドルフの瞳を覗く。
そこには不安も緊張も見えない。
あるのは貪欲にも勝ちを掴み取ろうと意気込む捕食者のそれだ。
「………なら、俺は君を信んじて帰りを待っているよ」
「ありがとう。さぁ———ここから、我々の道を始めようか」
それだけ言うとシンボリルドルフは控室を出て行った。
◇◆◇◆
シンボリルドルフがターフに出てくる。
先ほどとは比べ物にならない程の大きな歓声。
そんな歓声に包まれながら小走りに最前列に向かうカッパを着たトレーナーは頭の中でシンボリルドルフと話した作戦を思い起こす。
『さぁ!各ウマ娘一斉にスタートしました!』
いつのまにかスタートゲートが開きウマ娘達が飛び出していく。
出走人数は十人。シンボリルドルフは六枠一番人気。
最初の直線、シンボリルドルフは三着の位置をキープしている。
ここまでは大方計算通りの走りなのかシンボリルドルフはスタミナを温存しながら走る。
先頭との差は約四馬身。
まだまだ序盤ではあるものの、バ郡の位置付けはほぼ決定されたと言ってもいい。
しかしレースに絶対なんてものは存在しない。不足の事態だっていくらでも起こる。
第一第二コーナーを抜けた辺りで焦ったのであろう後続のウマ娘が少しギアを上げる。
それを見たウマ娘もギアを上げる。
そんな事が続く内にシンボリルドルフの後ろにいるウマ娘もギアを上げる。
しかし、冷静沈着なシンボリルドルフが乗せられる事はない。
計画は、シンボリルドルフの頭の中で修正されて五位の位置をキープし始める。
バ場の状態はあまりいいとは言えない。
ここで無駄に三位をキープしても体力を消耗するだけだ。
「……………マズイな」
レースの状況を見ながら呟く。
既に第三コーナーへと差し掛かり、終盤へともつれ込んだ訳だが現在、シンボリルドルフの前にウマ娘が二人が陣取っていて前に出れなくなってしまっている。
大外を回ろうれば抜け出せない事はないだろうがその場合他よりも長い距離を走ることになる。
スタミナ面もしっかりと調整はしているものの、やはり、トレーナーとしては懸念が残ってしまう。
………しかし、
「!?」
そんなことは………、
『おっと!ここで抜け出したのは!』
『皇帝』には関係が無かった。
『シンボリルドルフ!シンボリルドルフです!大外からシンボリルドルフが抜け出した!』
シンボリルドルフはトレーナーの考えた通りに大外を回り、悠々と先頭のウマ娘を抜き去り先頭へと躍り出たのだ。
『早い早い!最早独走状態!リードは更に五馬身!そしてそのままゴールイン!勝ったのはやはりこのウマ娘!シンボリルドルフ!シンボリルドルフです!』
「やっぱりスゲェ………」
この結果を見てトレーナーは改めて『皇帝』シンボリルドルフと言うウマ娘を再認識する。
大外を走って来たと言うのに二着とは五馬身差。本当に底が知れない。
トレーナーはシンボリルドルフが戻って行くのを確認すると急いで自身もシンボリルドルフの元に向かう。
「ルドルフ!」
トレーナーがシンボリルドルフを見つけたのはコースから入ってすぐの廊下だった。
「無事にデビューを果たしたよ、トレーナー君」
「おめでとう。次はサウジアラビアロイヤルカップだな」
ジュニア級の王者を決める朝日ヒューチュリティステークスやホープフルステークスもトレーナーの選択肢にはあったものの、やはり今厳しいローテにする必要は無いと判断したのだ。
もちろん、事前のミーティングでシンボリルドルフも同意している。
「ではさっそく次の打ち合わせに———」
行こうか。そうシンボリルドルフが言おうとした時だった。
バタバタッと足音が聞こえたと思えば大勢の記者達がシンボリルドルフを取り囲む。
「デビューおめでとうございます!今の心境を一言!」
「今後の展望についてお聞かせください!」
「やはり狙うはクラシック三冠でしょうか!?」
「うわぁ!?記者!?ちょ、今はちょっと!」
取り囲む記者を抑えながらトレーナーがシンボリルドルフに先に控室に行くように促す。
しかし、シンボリルドルフは控室に向かうどころか何処へも行こうとしない。
不思議に思ったトレーナーがシンボリルドルフを見ると、シンボリルドルフは笑った。
「トレーナー君、私は大丈夫だ。寧ろこれは注目の好機だと私は受け取ったよ。取材を受けさせてくれ」
「………」
シンボリルドルフの言葉にトレーナーは手を顎に添えて考える。
確かに、シンボリルドルフの言う通りこの記者陣はシンボリルドルフに注目を集める好機ではある。
しかし今はレース直後。表には見えていないがシンボリルドルフも疲れは溜まっているはずだ。
だが、トレーナーもできるだけシンボリルドルフの意志は尊重したいと思っている。
「………分かった」
「ありがとう」
こうして取材陣によるシンボリルドルフへの取材が始まり、終わって学園に帰る頃には既に夕日が落ちかけていた。
「それではトレーナー君。私はここで失礼させてもらうよ」
学園の校門前。
不意にそう言うシンボリルドルフ。
「学生寮はもう少し先だろ?そこまで送ってくよ」
「いや、まだ生徒会の業務が残っていてね。今から片付けに行く」
「今からって………」
「取材が想定していたより早く終わってくれてよかったよ」
取材が来ることなんてトレーナーは一切想定していなかった。
新人だから経験不足であるのもあるのだろうが、この場合はおそらくシンボリルドルフが凄いと結論付けた方が早いのかも知れない。
「でもレースしたばかりだし休んだ方が………」
「何、自身の体調管理くらいはできるさ。文武両道といかずは『皇帝』とは言えないよ」
結局、トレーナーもそれ以上は口に出せずに、シンボリルドルフも生徒会の業務へと向かって行った。
シンボリルドルフが校舎へと姿を消したのを見送って、自身の無力さを感じながらトレーナーも再び歩を進み始める。
確かにシンボリルドルフにとっては自身の体調管理など造作もないことなのかもしれない。
しかし、レース直後に取材を受け、挙句に仕事に戻る。
常人なら過労で倒れていてもおかしくはない。
「なんかしてやれねーのかなぁ………」
そんな事を呟きながらトレーナーが何の気無しに周りを見渡すと、そこは府中にあるとある堤防だった。
朝、ここを歩けば朝練をしているウマ娘達がよくここを走っているのは有名だ。
「オラァ!走れ走れ!」
「?」
夕日を眺めながらぼーっと突っ立っていると土手の方から喝を入れる聞き覚えのある声がトレーナーの耳へと入ってきた。
土手では学園のジャージを着たウマ娘達がそこにあるコースで走り込みをしている。
その中には何人か見覚えのある顔もあり、トレーナーは喝を入れている人物に目を移す。
「スパートが遅い!」
以前シンボリルドルフと揉めていたシリウスシンボリだ。
走っているウマ娘にもう一度目を移してみれば、確かにシリウスシンボリの言うように少しスパートが遅れて伸び切っていない印象だ。
「…………………」
トレーナーは目を細めてそれを見ると堤防を降りて土手へと向かうのだった。