それは、みんなで夕ご飯を囲んだのちに始まった行動会議の最中のことだった。
体調が悪くて探索に出られないことが続いた分、翌日が晴れで体調もよかった私は一人で散策をすると言った。
「駄目だ。一人は危険すぎる。交戦したら勝てる保証はあるのか?」
リーダーは有無を言わせない口調で私の提案を断った。前までは慣れのせいなのか何も思わなかったが、先生と過ごす時間が長くなるにつれて、私はこの直接的な物言いが苦手になっていった。
私が何かを言う前に姫にも、ヒヨリにも便乗した感じだったけれど反対されて。
「そう。分かった。それなら好きにして」
私は立つ瀬がなくなった。
先生のところに行くときは一人でもいいのに、どうして明日は駄目なのだろう。それは先生の体が私たちより脆弱であることと、私が病み上がりであることが関係しているのだと思う。
……そんな訳はないのに、まるで先生が軽んじられているように感じられて、私は頭を冷やそうと思った。丸いローテーブルに寄せられた空の缶を捨てるために立ち上がった。
「ゴミ捨ててくるから、話がまとまったら教えて」
抵抗なくこんなふうに一言つけ足すようになれたのは、先生との交流の賜物だろう。
空いている缶を集めて袋に入れるのを、やいのやいの言っていたはずの三人は手伝ってくれた。
落ちている石片を蹴らないように廊下を抜けて、玄関に出る。角に花瓶が一つ置けそうなくらいの小さな丸テーブルがあるくらいで、広い空間だけが取り柄になっている場所だ。
外に出た途端目を刺してきた夕日に、思わず手で影を作る。少し前までは同じ時間でも暗かったのに――そう思って、アリウスにいたころは地下しか知らなかった私の変化を知る。
橙色と闇色がせめぎ合う時間だった。境界線にある雲が居心地悪そうなグラデーションを描いていて、三人席の真ん中みたいだと思った。
廃墟となったビルの長い影が隣の廃墟にかかり、その光景が連鎖するように視界の端まで続いている。
梅雨に煩わしかったまとわりつくような空気とは打って変わって、乾いた風が頬を打つ。
小さな生き物たちの声がもうじき、ブーツが酷道を進む音にまじるだろう。
私はビニール袋を片手に、初めて先生と出会った場所まで来ていた。ときおり私はこの場所に来るようになっていた。触れてほしいと思った日は、こうして一人で沈むに限る。
……あの先生は衝動的に話をするくせに、衝動的に動くことがまったくない。
ままならない。
街路樹が植えられていたであろう土や、それを囲う煉瓦。消えかかった横断歩道の白線に目がいき、前方のひび割れた道路にはごろごろと瓦礫が転がっている。
ぐるりと見回して出てくる感想は、何の変哲もない十字路だということくらい。特別な記憶があったとしても、ありふれた光景として埋没してしまいそうだ。
先生は、どうしてここを歩いていたの?
熱を持ち始めたが未だに口にできていない、疑問。
あの一件があってから、先生は目に見えて変わった。よく話すようになった。先天的に話し好きなのだろう。
私が今まで見ていたのは、地層のように重なった中で最も新しい振る舞い方――つまるところ後天的に獲得したもの――だ。おどおどし、言葉を選び続け、考え続ける。
それを私は、あの一件があってからのたった二週間で、最下層まで見せてもらえるようになったのだ。その状態でも聞けていないことはあるけれど。
触れても、いいのだろうか。
少し離れたところにゴミを捨てて、家に戻った。
一人で出歩いていることを三人に教えれば怒られるだろうなと、明暗のはっきりしている街並みの中でぼんやり思った。
戻ってきて箸を洗ってもなお話し合いが続いている。
少し前に見つけた冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、三人のところに持っていく。回し飲みしているうちに会話に耳を傾ければ、どうやら姫が自由気ままに話していただけのようだった。
ああ、そういえば、体調が悪くてシャーレに泊まった際に思いのほかリーダーから確認をされなかったな。
「何だ、ミサキ」
「何でもない。それより、決まったの?」
姫が「それじゃあ」と両手をテーブルにつき、その要領で立ち上がった。
「明日は私が一緒に行くから、よろしくね、みーちゃん」
○
翌日はうだるような暑さの高気圧だった。やっと私がまともに行動できるようになった七月の中旬、今度は熱中症で倒れるのではないかという心配がサオリから私にかけられるようになるだろう。
それが今から気鬱の種だった。
窓をくぐって床に当たる日光で目を覚まし、比較的涼しい朝のうちに廃墟群を歩き抜け、トリニティ自治区の、そこまで人通りが多くない街に出る。
朝露で光る草花や樹木を――主に姫が――眺めて時間を潰しつつ、朝ラッシュがすぎるのを待った。午前中のうちに生活の不用品となったものを探して、一度家に戻る。
軽い昼食を四人で済ませ、また私と姫は廃墟を歩いた。
隣を歩いていた姫が私の上着を引っ張る。もう片方の手で、左前方に見える街路樹のあたりを指差した。
「見て、みーちゃん」
「紫陽花だね」
「私の髪と同じ色」
近づいていってかがみこむ姫。
「髪、汚れないようにしなよ」
「汚れる?」
「地面にあたって」
「ああ、うん。気をつけるよ」
私はばっさりと切っているけれど、姫は風呂上がりに長い髪を櫛で丁寧に梳いているのを見かける。
ショーケースらしきガラス壁の残骸が多いこのあたりは、もともと呉服店が多かったのだろうか。目につく灰色は少なく、だからこそ、快晴の空と傷んでいても透明なガラスと鮮やかな植物の調和が取れている。
咲きかけの紫の花が多い紫陽花。街並みに溶け込んでいた鮮やかな紫陽花は満開で、手入れが行き届いていて、綺麗だった。私が今見ているものは葉のところどころに泥みたいなものがついているし、虫食いもあった。それでも必死に生きているのだと感じた。
「まだこれからだね」
言った姫は立ち上がる。「私たちが?」と返そうとして、ためらう。
こんなところに子孫を残して……残されたほうは、たまったものじゃない。
両方の気持ちがあった。
「服、残ってるかな?」
「おそらくないよ。無事でも飛んでいってるか、傷んでるか」
「そっか……少し残念」
「ほしかった?」
「だいぶ傷んできているし、もう夏だから、ちょっと」
「……見つかるといいね」
……私は必要な資源よりも花に目がいったのか。
服というよりも、そもそも視界に入るぼろ布が少ない。枝に引っかかっていたり、瓦礫の尖った部分や石から露出した鉄骨に引っかかって破れていたり。おそらくないだろうな。口に出したりはしないけれど。
私たちは目に見える範囲の布を探し始めた。歩いて、かがんで、登って降りて。ときおり弾薬やマガジンが落ちているので、私たちの武器と互換性のあるものは拾っておく。
鉄骨に引っかかっている赤い布を取るために姫は瓦礫を登り始める。
「先生とはどんな感じなの?」
「……普通だよ。私は先生のことを嫌っていないし、先生もたぶん、嫌ってないと思う」
「そうなんだ」
布をリュックに詰めて下り始める姫。小さなものはもう十分に集めただろう。
瓦礫を下りきった姫の上着に土埃がついていたので払った。
「ありがとう」
「いいよ」
今度は大きな布を探して視線を動かし始める。汎用性が高くても見つかりづらいから、貴重な資源だ。
姫が隣に並んだ。
「『感情なんて挟まなくていい。仕事があるなら、それが命令なら、従う。十分に仕事をもらえてる』」
からかうニュアンスのない声。ただ、発しただけの言葉。
姫が言いたいことは、変わったんだねということだろう。「仕事はどうなの?」じゃなくて「先生とはどうなの?」という聞き方に悪意があるようにも思われるが、それでも私は、情報ではなく感想を伝えた。
自分の変化が感じられて恥ずかしい。
……気まずいでも居心地が悪いでもなく、恥ずかしいなのか。
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
私の表情が固まったのを見てか、姫はきょとんとした顔になる。首を傾げたせいで、さらさらの髪が頬に当たっている。頬を通って、さっと口の端に一房ついている。かわいいと思った。この無邪気な様子の裏には、私と同じだけの諦めがあっただろうに。
気づけば姫の頭を撫でていた。姫が一瞬驚いて、その表情に私は我に返る。ごめん、と手を離そうとする私に、姫は首を振り、背伸びをするようにみじろぎした。
「やめないで?」
えへへ、と擬音がつきそうな愛らしい笑みを浮かべて、姫は頂上だけでなく後頭部まで撫でることを求めてくる。しまいには私の腕を取ってこすりつけてくるように動いた。
「みーちゃんに撫でられたの、初めて」
前はこんなことしなかったし、むしろ姫のほうからくっついてきた。そのときの私は何も感じていなかったのに、今日はあたたかいと感じた。
それでも、胸の一部が痛くなってしまうのはなぜだろうか。他のアリウス生に対する罪悪感のようなものか、それとも、先生と触れ合えたらという欲のせいか。
勢い任せに押し倒したあの数瞬が忘れられない。二ヶ月も前のことを情報としてではなく、感情や手触りとして覚えているのは私らしくない。何度も思い返したせいで脚色すらされているだろう。
立場は逆だったけれど似たようなことがあった二週間前、私はきっと、先生のぬくもりを求めてしまった。言葉で触れ合い、その先が欲しくなった。
……先、か。
「もっとして、みーちゃん」
「うん」
手が止まっていたらしく催促される。
私は姫を通して、先生を見てしまっている。先生しか見ようとしていない気がする。
今は、姫との時間を大切にしよう。ぎゅっと抱き寄せたら、姫はその一回で満足したらしかった。
並んで歩き始める、小さくて短い影。
私はこんなふうに、他のメンバーとも糸を紡ぐことはできるのだろうか。
○
二人して長く探索をしてしまった。これではリーダーから怒られるかもしれないが、姫になんとかしてもらおう。
「あ、エゾギク」
「また花?」
道端に咲いてあるたった一本の花。尖塔みたいなフォルムの先に、紫色の小さな花をつけている。
毎日の幸せを感じられるように、些細なことでも見つけて楽しむように、姫は生きている。吸いこまれるように歩き、しゃがんだ彼女を見て、温かい血の流れる全身で生きていると思った。
「花言葉は『変化』『信じる恋』」
「ふうん」
「『変化』『信じる恋』」
「二回も言わなくていい」
「三回目も言っていい?」
「どうして?」
「みーちゃんの表情が変わりそうだから」
「あのさ……」
姫は私を見上げて口角を上げる。目が、どこまでも優しかった。
前者は分かった。私もアリウススクワッドも、少しずつ変わっている。けれども後者は、信じないことの逆――今までの逆と言われても、よく分からない。ましてや続きの二文字は私が想像したこともない未知のエネルギーだ。
夕日と、しゃがむ姫と、一本の花。アクセントをつける暗い色の長い影。
彼女を通して、私は自分の古い影法師を眺める。人の思惑に絡まってばかりで、手足を自由に動かせていない。いいや、違う。過去の私は、そうして操り人形みたいに糸で吊るされていないと立つことすらままならなかった。
今は少しは、一人で立てるようになっているだろうか。なっていると頭が言う。そんなことはないと否定してくるのは、自己を肯定する心だ。
「またこーんな顔してる」
戻ってきた姫は自身の眉根に両手の人差し指を当てて、寄せるようにした。精いっぱい口をむすっとさせているのだろうが、不慣れというか、不格好だ。
「してないよ」
「うーん……。してたと思うけど、みーちゃんが笑ってるから、気にしない」
「笑ってた?」
「うん。口元が少しだけ」
「そっか」
どちらともなく家がある方向へ足を進めた。
姫は無邪気に、馬鹿みたいに望んで、求めて、願っているわけではない。自分の罪と向き合ったままで、それでもなお進んでいる。姫は舗装されていない道を、それを承知したうえで進んでいるのだ。
私と姫では分かっていることの度合いが違う。私のほうが深くまで考えすぎているから、水圧でいえば私のほうがしんどい。
それでも。
自分の内面を言語化していくことで恐怖という感情に気づくのなら、姫は気づいていないだけだろう。
恐怖がそこにあったとしても認識しなければ怖くない。
それでも。
姫の歩みの速さが、私には羨ましかった。また何かを見つけたらしく、とてとてと走っていく彼女を立ち止まって待つ。
私は彼女のようには、なれないな。
前を向くのではなく、後ろを向いて歩くのだとすれば、それは後ろに進んでしまう。
今の私はおそらく、後ろを向いて後ろ歩きをしているようなものだと思った。
だから何かが当たれば、不意討ちになるからとても痛く、傷つく。障害物が見えないから、たくさん予想して神経をすり減らす。怯える。
それでも、前には進めている。
完璧にそんな生き方をしているわけではないけれど、一部当てはまっているように感じた。私にも、そして先生にも。
思いのほか長く考えていたらしい。二人分の花冠を作って戻ってきた姫のために少し頭を下げた。
歩いているときに、もしかしたらと思って取り出したスマホには、やはりリーダーから複数の連絡が来ていて。思わずスマホから顔を遠ざけてしまう。心配はしてくれているのだろう。姫にもリーダーに返信してもらうように頼んだ。
何とかなりそうと姫は言ったけれど、おそらく何とかしただけなのだろうと、画面越しのリーダーの渋い顔に思いを馳せる。
「そういえば」
「うん?」
「紫陽花を見たとき、花言葉を言ってなかったから。……気になる」
姫は私が昔と違うことをすると、優しく笑う。私はそれに気づいて、マスクを顔まで上げる。
姫が歩調を緩めた。
「『冷酷』とか、『高慢』。だから、言わないほうがいいかなって」
「……確かに、知らないままのほうがいいこともあったね。私なら、余計なことを考えるだろうから」
「……うん」
自分のしたことや痛みに気づかないまま、私は過ごしてみたかった。無邪気に、笑顔を浮かべて――とても攻撃的な物言いになるけれど、不用意に。人を裏切っておきながら軽率に信頼を求められたら、私は幸せものなのだろう。
決してできないけれど、そこには僻みがなくなっている。
「なんだか今のみーちゃんは、吹っ切れてる? 感じがする」
「少し、前を進むための言い訳を思いついたから」
「先生と何か話したの?」
「それもあるかな」
「……そっか。よかったんだね」
「何が?」
「んーん。なんとなく。理由なんてないよ。かわいい」
「姫?」
「あ、みーちゃんが怒った」
小走りになった姫を追って、私も歩く。先に行きすぎた姫が途中で止まって待っててくれた。長い影法師が再び、並んで動く。
飛び出してきて花冠を見たリーダーがとても呆れたような顔になるのを、私はしばらく覚えているだろう。
ヒヨリに私の分をかぶせてあげたら、なんだか、とても変な顔をされたことも覚えていると思う。