戒野ミサキは歩きたい   作:ぞんぞりもす

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一二話

 昼ご飯も食べずに、五時を回るまで彼女との買い物は続いた。俺が両手に下げている買い物袋には、なんだかんだいって四人分の服が入っていた。ミサキも片手に紙袋を下げ、リュックもぱんぱんと、今日ここに来てよかったと思える収穫だった。

 そうしてショッピングモールから出てすぐに、ミサキはばつの悪そうな顔でぽつりと言った。

 

 

「こんなに付き合わせて、その、ごめんなさい。まさかこんなに長くなるとは思っていなくて……」

「構わんよ。退屈しているようには見えなかっただろう?」

「それはまぁ、そうだけど」

 

 

 大通りを少し進んで、おしゃれなカフェが立ち並ぶ風景に切り替わったところで、ミサキは俺から買い物袋を受け取ろうとした。

 今日はここで別れるつもりでいたのだろう。そこを俺が「あれ、話したいから」と言って誘った。

 

 洋風の街灯やベンチがあり、一軒いっけんがパステルカラーの通りを見回す。今はまばらにしか人がいないけれど、もしも夏休みでないのならば、学校帰りの子たちであふれる場所のように感じられた。

 

 

「手近な場所でもいいか?」

「うん」

 

 

 ミサキが甘いものを嫌っていないことは過去に聞いていたし、近くの看板を見て「クレープは嫌いじゃない」とまで教えてくれた。

 テラス席に案内され、手早く注文を済ませる。チョコバナナとコーヒー。塩キャラメルとくるみ、コーヒー。

 少し離れたテラス席や他店から、女子の楽しげな話し声が聞こえてくる。

 

 

「果物が好きなのか?」

「強いて言えば、って感じかな。食事をえり好みする余裕とかなかったから、好みかどうかは……何か食べれるなら果物がいいってだけ。……無理にほしいって言ってるわけじゃないから」

 

 

 咎めるような視線に、笑みをもらす。笑ったことでさらに厳しい目を向けられ、肩を竦めて流した。缶詰めの比率を変えるときっと彼女の負担になってしまうと思ったから「今まで通りにするよ」と重みづけをする。

 

 

 ()()()()()ということが、俺に充足を与えてくれていた。知っていくことで心の欠損にパーツがはまっていくような一致感、満足感がある。

 

 依存の一歩手前なのだろう。無趣味な人はその時間的な制約の少なさから、友だちが少ない人は恋人に友だちの役割も求めてしまうことから、依存しやすいのだという。俺はどちらも満たしてしまっている。

 少し離れたほうがいいのかもしれない。そうも思ったが、それをするには彼女が俺の中に占める割合は大きくなりすぎている。

 ままならない。

 

 

「難しい顔してる」

「難しいことを考えてるから」

 

 

 頬杖をついて不満そうな顔をするミサキ。上着の裾から、包帯がのぞいていた。

 

 

「ミサキはさ、ままならないって考えたことある?」

「何に対してかは分からないけど、あるよ」

「……そうか、あるかあ」

「え、なに? なんで嬉しそうなの?」

 

 

 はぐらかして笑う。ミサキは不満そうな表情を崩さなかった。怖がっている表情や、話されないことを悲しんでいる表情ではないことが嬉しかった。相手が何らかの考えを持って話さないことを決意しており、決して嫌われているわけではないのだと信頼されていることが嬉しかったのだろう。

 

 

 注文したクレープが届いて、ふありと空気が緩む。

 紙の入れ物を手に、少しずつ食べ進める。ほかほかの生地だなと思ってミサキを見れば、「これくらいなら平気だから」と半眼で見られた。コーヒーでは案の定あれをやっていた。

 

 互いに、クレープよりもコーヒーのほうが早くなくなったので追加で注文する。

 

 二杯目が届いたときに、やっと口を開く。

 建物を見上げていたのを自覚したからだった。

 

 

「今日中に話すって言った、あれなんだけど」

 

 

 重い話には、それに比例するような空気の重みがある。そしてそれが感じ取れないミサキではなかった。

 ミサキは手を止め、俺を見た。心配そうな瞳には気遣いと優しさが見える。四ヶ月前よりもずっとずっと、ミサキの瞳には色が宿っている。今日中に話さなくてもいいと彼女は全身で教えてくれていた。

 

 

「例えばここでいえば」

 

 

 緊張で震えると予想していた声はことのほか滑らかに発された。誰にも見せたことのない部分を話しているのに、落ち着いている。この空間で心臓だけが忙しなく動いている。

 

 

 建物が倒壊したらどうなるのだろうと考えて、上を見ていた。

 俺の視線につられて、ミサキもまた周囲の建物を見回していく。高くても二階建ての個人経営店が多く、店舗のレンガ壁やガラス窓に目が吸いこまれる。

 

 やがてミサキと見つめ合った。俺は笑えていたと思う。

 

 

「生死の天秤の死の側に、常に重りが乗っている感じがするんだ」

 

 

 その声は、しんと、二人を伝った。聞こえていたはずの喧騒は耳に入らなくなっている。ミサキは表情を動かさない。

 

 

「それだけのことなんだ」

「そっか」

 

 

 ミサキは食べかけのクレープをテーブルに置いて、また頬杖をついた。目を閉じているから、俺の過去の行動を思い出しているのだろう。

 

 先程までおいしいと感じていたクレープの味が分からなかった。もそもそと食べ終えて、手をつけていなかった二杯目のコーヒーを口にする。苦手な酸味の強さだけは、明瞭に感じた。ミサキと話しているときは気にならなかったのに。

 

 

「それだけって、先生は言ったけど」

 

 

 子どもをあやすような笑み。

 最近ミサキは、口角を上げて笑うようになった。

 

 

「先生はいつも、その苦しみを抱えてきたわけでしょ」

 

 

 苦しみ……分からん。苦しい、のかな。

 薄暗い空を見る。もれた言葉は、ミサキまで届いていた。

 

 

「たぶん、先生の人生にその天秤がつきまといすぎて、一体化しているんだと思う」

 

 

 俺から突然話をされるミサキは、いつもこんな気分なのだろう。言いたいことが、俺にはまるで見えなかった。

 だから、彼女がいつもそうしてくれるように、優しく目を見て一回だけ頷く。

 

 

「リュックをずっと背負っていたら、肩が凝る。そして、慢性的な肩こりになる。リュックは目に見えているから認識できるけど、肩の凝りは目に見えない。けれど確実に痛みとして蓄積されていく。リュックを背負っているからでしょって教えてくれる人がいなかったから、先生はその痛みを分からなかったんじゃないかな。私はそう思ったよ」

 

 

 天秤がリュックで、その傾きが慢性的な痛みとか苦しみ。

 ミサキは俺の言葉を聞いて「伝わった」と照れくさそうに笑った。

 

 

「そんな、単純なことだったのかな」

「当人からすればきっと、とても大きくて重いことなんだよ」

 

 

 湖からそっと水をすくっていると思った。

 

 

 三者面談が終わったあとみたいな、緊張が解ける気配がした。まだ少し重い空気の名残はある。両親と無言で廊下を歩くような、夜じゃなくて薄暮れにぴったりの、しとしとした重み。

 漠然と感じていたことに人から言葉が与えられて、言葉は重いものなはずなのに、なぜだか軽くなった。

 

 

「ありがとう」

「いいよ。私のほうこそ、聞かせてくれてありがとう。怖かったよね、きっと」

 

 

 彼女は穏やかに、俺を揺らがせる。

 目頭が熱くなっていた。

 

 

「私はただ聞いただけだけど、きっと苦しいんだろうなって思った。毎日、自分はいま重力に引かれて生きているんだなって感じながら生きているわけでしょ。今日までそれで過ごすのってきっと、難しいよ」

「……かもしれん」

「かもしれないね」

 

 

 苦しんでいる。苦しい。そのなのかもしれない。

 反応を慈しむように、ミサキはじっと俺を見ていた。優しい焦げ茶の目に気恥ずかしさを覚える。

 絞り出した声は震えていた。

 

 

「やっぱりマスクを買っておくべきだった」

「隠すなら目もとを隠したほうがいいよ。バラクラバですら隠せないから難しいかもしれないけど」

 

 

 ミサキは、とっておきの必殺技をくらわせるみたいに笑みを深めた。

 

 

「私は今の先生の顔、もっと見てたいけど」

 

 

 勝てないな、と思った。

 こんなふうに少女然としている姿に、出会った当初を思い出してまた熱がこみ上げてくる。

 口もとを押さえて椅子ごとふいとそっぽを向いた俺の耳には、ミサキが再びクレープを手にとった音が届いた。

 

 

 

 

 私服の若い女の子が、片手に白い箱を持って店から出てきたのが見えた。そのままこちらに歩いてくる。

 俺とミサキは二人並んで、等間隔の街灯の下をゆっくりと、けれどもきたる一日の終わりに向かって、夕闇が迫る街を歩く。

 後ろを見れば石畳に伸びる長い影が建物とまざりあっている。遠くに見える街明かりにさよならをして、前に進むしかない。

 この物悲しさが寂しさなのだと思った。

 

「どうしたの?」

「いいや」

 

 

 すれ違った女の子を見て、ショートケーキを買おうと提案する。

 

 

「いろいろ話を聞いてもらえたの、嬉しかったから。俺にとっては重くて大きなことだったんだよ」

 

 

 レンガ造りの外壁、厚みのある木の扉に手をかける。

 ベルの音と暖かな照明、ひんやりした空気が俺たちを迎えてくれた。ミサキはショーケースの前で散々悩み、シンプルなショートケーキを四つ買った。食べたことがないから、と。

 店員さんが箱に詰める様子を、ずっと居座っていたのもあってか、ミサキは気まずそうに待っていた。

 

 

 生活に神経をすり減らし、娯楽にさける資源は少なく、甘え下手なミサキが報酬を受け取る役だから――俺はそう心の中で言い訳をして、ことあるごとに彼女を気にかけようとする。それが彼女の天秤を傾けていないかとても不安だった。そしてまた、彼女がそれを言い出せるかどうかも、不安だった。

 

 

 ベル音を背に受けながら、光の筋が徐々に溶けいる薄暮れに足を進めた。小さな虫がどこかに集まって、練習の成果をアピールする音が聞こえる。

 

 

「天秤、大丈夫?」

「分からないけど、たぶんまだ大丈夫。大変そうだったら言うから」

「……待ってるって言うと何か変な感じになるな」

 

 

 けれども彼女は、自分のことを信じないでくれと言った。

 歩調はどんどんゆっくりになる。ミサキと目が合った。俺がじっと見ていたからだ。

 

 

「うーん。頑張る」

「何を?」

「すまん」

「ううん。頑張って」

「……何を頑張ればいいと思う?」

「さあ。先生が言ったんだよ」

 

 

 地平線はどこまでも続くし、日はまた昇る。それでも今日は過ぎてゆく。一日の終わりは、神様ですら作った理由が分かっていなそうな不思議な区切り目だ。

 ミサキはケーキボックスを揺らさないように歩いている。

 

 

「仲がいい人と甘いものを食べると、おいしいらしい」

「……それ、店で売ってるものだからじゃなくて?」

「それもあるだろうな。でもまあ、前まで書類の整理を頼んでいた子が教えてくれて。笑顔で食べるのがいいらしい」

「ふうん」

 

 

 話をした分だけ、今日が長くなるような気がした。まだ、まだ続いている。

 

 

「さっきの、おいしかった」

「ああ。おいしかったな」

 

 

 交換日記をやり取りするように、二人だけの秘密をほどいて溶かして笑い合う。

 

 初めての領域にまで人を入れたから、歯止めが効かなくなっている。相手が拒絶せざるを得ないところまで、奥部まで誘導してしまう気がした。

 そして、俺の歯止めが効かないときは、いつも失敗してきた。話すべきか。けれども、ミサキになんと言い出せばいいのだろうか。

 

 

「今は私が、全部やってるけど」

「うん?」

「先生のことを気にかけてくれてる人とは、どうしてるの? 私、取ってるから」

 

 

 ミレニアムに出向いたときに少し話したり、パソコンのことを聞いたり。ときどき抜き打ちでオフィスに来るからきっと、ミサキもいつか出くわすだろう。

 甘いものを持って押しかけてくるようになった子もいる。

 

 そういえばここ数週間で、かっこよくなったとか雰囲気がよくなったと言われることが増えたな。

 

 交流の範囲が広がっているのかもしれないなあ。

 ぽつりぽつりとミサキの主導で気の向くままに、ぷかりぷかりと安心の海を漂う。

 

 

「どうして?」

「うん?」

「交流の範囲を広げるのって、難しいと思うから。どうしたらできるのかなって」

「あ~……」

 

 

 最近、仕事の休憩中やコーヒーを飲むタイミングでミサキと話す時間が長くなっていた。そうしてミサキと話していると、不思議な力がはたらいて、俺も頑張ろうと思える。雰囲気が変わったと言われるのは、余裕みたいなものが生まれているからかもしれない。

 

 

「ミサキと話してると落ち着くから、たぶん、癒やされてるってことなんだろうな。その分傷ついてもいいとか、そんなふうに思って少しだけ無理できるんじゃないかな」

 

 

 空気に染みてゆく呟きへの返答は、それなりの時間を要した。

 

 

「先生ってさ、そういうこと平気な顔して言うよね」

「……俺は今のミサキの顔、もっと見てたいけど」

「表情変わってないし」

 

 

 似たような考え方を持っている。自分の見方を話して、彼女の話も聞いて、少しだけ違うところをこうなのかもしれないねと話す。

 そうして世界を見る目を共有して、真っ暗闇の世界が、光でほんの少しずつ広がっていくのが嬉しいのだろう。

 

 

「そういえばこの前ユウカが――ああ、あの、ときどき抜き打ちで来るミレニアムの子なんだけど。ラックに上手にまとめられてますよねぇってしみじみと言ってた」

「自分でしたことにはしてないんだ」

「してないよ。できないしな。それに、ミサキと一緒にいることの証だろう?」

「……そうなんだね」

「そうだよ。いつもありがとう」

 

 

 そっか。

 前を向いて呟いたミサキの目もとに光るものを見た気がした。俺も黙って前を向き直す。残照がやがて雲にすら届かなくなれば、この逢瀬も終わらなければならない。

 音を立ててやってくる今日の終わりは、自分の過去の色によく似ていた。それならきっと、乗り越えてやっていけると思った。

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