以前は一人で歩いていた酷道を、二人で走る。スマホの明かりはない。心もとない月光だけが私たちの行く末を照らしている。
私の頬を銃弾が掠めたのは、トリニティ自治区の郊外で先生と別れようとしていたときだった。急いで先生の手を引こうとして――袋が邪魔だったので、半ば突進するように住宅の影に隠れた。廃墟と住宅が入り乱れる場所で、どこから狙われたのかは分からなかった。呆気にとられる中で思ったのは、先生が狙われなくてよかったということだけ。
先生を帰そうとしたけれど、指揮するから一緒に逃げようと言われ、そのままの流れで私の家を目指すことになった。
隠れてやり過ごしたときのやり取りを聞くと、たまたまではなく意図的に撃たれたことは明白だった。アリウス生はまだ私たちを探しているらしい。
迂回に迂回を重ね、慎重に索敵をして、そして家が近づき、走った。
武装した三人の出迎えで、やっと私たちは一息つくことができた。軽く話し警戒を三人に任せ、ひとまず私たちは休むために、いつもご飯を食べている小さな部屋に移動した。
何気なく靴を脱ごうとして、袋が邪魔だと――思い出の結晶に対してそう思ってしまった自分の短絡さにほとほと呆れてしまう。疲労に引きずられた心は沈み始めている。
馬鹿みたいに浮かれても結局はこうなる。
部屋の隅にそっと袋を置く先生を見て私もそうした。重い沈黙だ。
無我夢中で動いているうちは気にならなかったが、余裕が生まれると自責が始まる。
今まで見かけることすらなかったのに。
もっと早く別れていれば。
油断していた。
歯噛みしたところで過去は変わらない。
古い電球がちかちかとまばらな明るさを放つ。居場所がばれるかもしれないのだ。消したほうがいいと思ったが、テーブルの前にどさりと音を立てて落ちた重い体を動かすことはできなかった。かろうじて腕がぴくりと動いたが、それだけでは何も成せない。
湿った隙間風が肌を撫でる。走ったせいで汗をかいたと思っていたが、私は違ったらしい。先生はワイシャツの襟元をぱたぱたとさせていた。
先生が声を上げた。虫の演奏会にまざるような声音だった。
「ケーキ、どうする? 夏場だからたぶん、そのままにしていると食べられなくなってしまうから」
「……食べなきゃね」
「それなら、先にみんなに渡してくるよ。皿ってどこかにある?」
「流しにあるよ」
お礼の言葉に首を振る。
先生は皿や箸を持ってきてケーキを取り分けた。私は一番形が崩れたものを自分のほうに寄せた。先生は三つ目のケーキに手を伸ばす。
「無事でよかった」
それはケーキが?
それとも私が?
ほどほどに察し合う関係だったはずなのだ。けれども、願望のまじった思考は偏った結論を導いてしまう。
ケーキの下の銀紙やフィルムと格闘している先生は、私の視線に気づいていない。
か細い声を出した。けれども私は、そこにことごとくの意思をこめた。
「……どっち?」
「うん?」
「ケーキか、私。無事でよかったって言ってたから」
「ああ……。どっちもだよ。前者はおいしいものが一緒に食べられる。後者は言わずもがな」
そっと笑いかけられる。こういうことが、最近増えた。
「でも私は、先生が怪我をしたら責任が取れない」
「大人の責任を子どもが取るもんじゃないさ。俺が、ミサキと一緒にいることを選んだんだよ」
ありがとう。
照れも恥ずかしさもない、真心のこもったお礼が言えた。
「置いてくるよ」
「うん」
先生はおいしいものを、みんなに共有しようとしたんだね。そして、あなたは私の側にいてくれるんだね。
こういうところであなたは、器用にしれっと片手で皿を二つ持つ。私に動くように頼めばいいのに、心と体が海底にいることを察してくれる。
先生はほとんど音を立てない足取りで部屋から出ていった。
器が心の濁流であふれてしまいそうなときは一人だったり、最近では姫がいてくれたりする。それなのに、今は。
本当は分かっている。合理的に考えれば、一人で帰るのは危なかったかもしれないって。それでも私の心は、どうしてももう一つの可能性を大きく考えようとする。
先生が戻ってくる前に、テーブルの上に乗った真っ白い甘味に手を伸ばす。そっと頂上のイチゴを手に取り、かじってみる。
わずかに生クリームがついているそれは、クレープよりもずっと酸っぱい。この落差がそのまま、一人でいるか、先生といるかの感情だ。
戻ってきた先生に、何も言わず差し出す。靴を揃えることすらせずに近づいてきてくれる先生は、ありありと困惑を顔にした。嫌そうな表情では決してなかった。先生に無言で頷き、さらに少しだけ前に出した。少しだけ欠けている真っ赤なイチゴ。
食べた先生は神妙な顔で何回か口を動かして、やがて観念したように、酸っぱいなと言った。苦笑していた。本当は甘いと言いたかったのが読み取れる。そして私はおそらく、真っ赤な情熱を受け止められたのだと錯覚している。
テーブルに転がっていた箸を取って、ケーキの上のほう、生クリームとスポンジの一層分を食べた。下のほうは先生に差し出す。
甘い。
たったそれだけの味覚情報と、先生の言葉に、ほとばしる何かがあった。温かい血が全身に流れている。何度も吐いた命の証に上ってくる熱がまじる。
熱く疼いた場所は、胸だけではなかった。
「襲撃されたことで極度の興奮状態になっているのかもしれない。その緊張がほどけて、高まった感情が行き場をなくしている感じがする」
先生は穏やかに言った。確かに、初めて銃を撃ったときや自分に傷をつけたときに似ているかもしれない。
それだけではないけれど、私はそれを言い訳にした。
先生の腕を取り、壁に背を預けさせる。先生が頭を壁にぶつけないように、後頭部に手を回した。馬乗りになって唇を自身のそれにあてがう。
ああそうか。私は先生よりも力が強いから、先生に甘えようと思えば、力づくで甘えることができる。軽く位置を調整するためのみじろぎをしたくらいで、先生は大きな抵抗をしない。そして、先生からは触れてこない。まだ駄目なのかという絶望に似た真っ黒な気持ちが先生の代わりに私を抱きしめた。熱は引いていった。
肩口に顔を埋める。しっとりしたそこは、私の知っている香りの他に、汗のにおいがまじっていた。
位置を先生のとなりに移って、片腕に抱きついた。
先生が自由になっている片腕で何とかしてケーキの皿を取ったのを見て、私も箸に手を伸ばす。
交互に、ゆっくりと食べ進める。終わったタイミングで箸を受け取った先生が、少し休んだほうがいいと囁いた。今日の夜は見張りをしなきゃいけないから。
そうだね。そうだ。
せっかくなら、今日の夜は長くなると言ってほしかったな。
○
リーダーと先生の声がした。薄く開けた瞳でスクワッドの三人を捉える。
目を閉じて意識を集中させると、頭にあたたかな感触があって、膝枕か何かをされていると分かった。そして頭を撫でられて――ゆったりとした手つきの先生が、私の髪を手櫛で梳いてくれている。
私は起きたことを隠すほうが賢明だと判断した。
リーダーや姫は私が起きたことに気づいただろうが、どんな目を向けられているか直視したくなかった。それに、先生に頭を撫でられている安心感を手放したくなかったし、どんな反応を示して起きればいいのかも分からない。
「巻いてきているし、遠回りもしたから、ばれてはいないと思う。ただ、今後トリニティ自治区周辺を探られる可能性は十分に高いだろうね」
「移動するか」
「移動すると言っても、どこに行く? 他の自治区に、当てはある? 少し離れた建物に移動するとしても、トリニティ自治区であることに変わりはないから、見つかる確率は変わらないと思ってしまうんだ」
リーダーの沈黙が答えだ。どうやら移動するかを話しているらしかった。
先生はゆっくりと話した。大人というだけで警戒してしまう三人への配慮かもしれない。
「カタコンベの出入り口は三○○箇所ほどあるんだろう? ここはそれからどのくらいの距離があるか、教えてもらえる?」
「私たちが知っている中では、比較的遠いものを選んだ。明確な距離については、すまないが……」
「分かった、ありがとう」
そうだな、と呟いた先生は重心を後ろにやった。考え事をするときに、この先生は背を何かに預けたがる。
他の自治区に移るにしても、その土地特有のルールがあるだろうし、土地勘もない。道中で行き倒れる可能性だってある。
オフィスに匿ってもらうことには触れない。私たちにそんな資格はないし、その分銅はあまりにも重い。
「もうしばらくはここにいて、他の場所を考えたり、他に住みやすい場所を考えるのはどう? 幸いここを確定はされていないから、たとえばもう一回見つかったら、どこか当てがありそうな場所に移動するとか。D.U.周辺も探してみるよ。しばらくは警戒を強めるくらいでも」
「……分かった。あとからミサキの意見も聞いてみよう。詳細は追って連絡する」
トリニティ自治区の郊外はかなり広いから、しらみ潰しに探すにしても時間がかかる。
もぬけの殻のように偽装しておいて、逃げる準備だけ進めておくでもいいかもしれない。
三人と連絡先を交換したらしい先生は、再び口を開く。
「――今後は支援の物資を多めに渡して、ミサキがオフィスに来る回数を減らしたほうがいいかもしれない」
もしかしたらと予想していた言葉は、自分自身に刃を立てるよりも心を抉った。そんなわけはないのに、一拍ごとに赤色の液体が、手で洗剤を押したときみたいに一筋の軌跡を描いてあふれているように感じられる。
けれども、先生が苦渋の決断を下したことは、天秤が傾いたときは伝えるという私の言葉を頭に置きながら言ってくれたことは、微妙な間と手の動きと声のトーンから容易に察せられた。
それは駄目だと反射的に答えたリーダーは二の句を探しているのか、虫の鳴き声だけが響く部屋になる。
剣幕におされたのだろう。先生はリーダーの声にびくりと震えていた。
「とにかく……駄目だ。ミサキにはこれまで通りにオフィスに向かってもらう。私が安全な場所まで見送りをする」
……これはきっと、私たちとは方向の違う思いやりなのだ。
先生は私の頭から手を離した。首を人差し指で掻いたり、腰骨に手を当ててみたりしているのだろう。これは先生が困ったなと考えているときの動作だ。きっと苦笑を浮かべてもいるだろう。
「私はさっちゃんに賛成かな。もしも見つかってひどい目にあったとしても、私たちはそれだけのことをしたんだから。覚悟はできてるよ」
ほほえみすら浮かべて姫は言ったのだろう。
先生が大きく息を吸った。これは覆せないなと自然に先生の声で再生される。
「ヒヨリ。私と姫は、このままがいいと言っている。そしておそらくミサキは、先生に賛成するだろう。二対二だ。決めてくれ」
あのリーダーが、多数決を取った。
迷いに迷った彼女は、大きな声で、リーダーに賛成した。いつも私たちの後ろを歩いてきた彼女が、選んだ。