「最も重い罪って、何だと思う?」
語りかけるような先生の口調だった。答えを求めているのかいないのか、寝ぼけている私は捕捉できない。
「ヘイローを破壊すること、か?」
リーダーの声には戸惑いが含まれていた。私が聞いたことのない声の調子だった。
なんでもないことのように「そうかもしれないね」と相槌を打った先生。私は未だに頭を撫でられていた。
大人との問答、その沈黙に耐えかねたリーダーが身動きする音が聞こえた。私も最初はあんな感じだったのだろうか。
「俺は、罪を認識できないことだと思ってる。償えないから。法を犯したことは間違いないのに、罰を与えられても、その意味が伝わらない。更生させることが不可能。その点で言えば、確かにアリウススクワッド大きなことをしてしまったけれど、それをしっかり認識して反省しているから……」
最も重い罪は犯していない。償うというのは、すごく難しいことだけどね。
黙考し、先生はそう言った。長い間一緒にいた勘が「きっといつか救われる」と言おうとしたんじゃないか、と予測した。
先生は相槌をまったく打たないリーダーを相手に、のらりくらりと話した。リーダーが何かしらの迷いを抱えているんじゃないかと気づいて、例えば私に話をしてくれたときのように勇気を振り絞ったのかもしれない。
手の動きはぎこちなくなり、声には硬いものが含まれていた。
「例えば、世間に広く知られる存在になって、自分たちのような人を出さないこととかも、償いだと思うよ。かなりの時間を要してしまうけどな」
「そんなふうに、明日よりももっと先のことを見ると、目先ではない償いが浮かぶさ。鬱的な傾向があったり、とても苦しい状況に人は居続けると、未来のことを考えられなくなる。おそらくまだ、その……教えが抜けていないんだ。連絡をもらえたら、話を聞こう」
リーダーが何かを話す前に、私の意識は再び飲みこまれた。
○
「……生きることって、苦しいことじゃないですか?」
疑問の形をした確信めいた問いかけ。ヒヨリと今度は話しているのだと、ぼんやりした光に合わせてぼんやり思う。
そうだねえ、と先生は間延びした声で返した。先生は髪を梳くのをやめて、私の二の腕を一定のリズムで優しく叩いていた。
「それじゃあ、どうしたら苦しくなくなりますか?」
「……どうしたらいいんだろう。難しいな、それは」
「や、やっぱり人生には夢も希望もなくて、つらいだけなんですね……!」
そうだなあ、と先生は考え始めた。
ヒヨリもまたリーダーと同じように、先走って考え話す癖がある。私がヒヨリと話すときのように話を遮られることが多々あった。先生はまるで意に介さないように、ヒヨリが何かを言い切るまで話を聞き、少しの言葉を返し、のほほんとしたペースで話の内容を修正していく。
私といるときとは話の仕方がまったく違っていると感じた。最初のころからは似ても似つかない大人なのだと、私は先生の態度からそれを知る。そもそも、先生が私以外と話をしているところに居合わせるのは今日が初めてだった。
「苦慮。苦心。苦悩。辛苦。惨苦。苦悶。苦難。とか。苦しいがつく熟語を思いつく限り言ってみたんだけど」
軒先から雨が滴るようなペースだった。ぴちゃん、ぴちゃんと虫の声にまじって発される柔和な言葉は、話し相手でない私にも静かに浸透してくる。
「苦しくなくなるって言うと、漠然としていて難しく聞こえてしまう。だからもう少し細かく見てみて、生きることの何が苦しいんだと思う?」
それは、と言い淀んだヒヨリに、先生が笑いかける雰囲気がした。これは先生が私の話を聞くときにしてくれるようになった、私が最も好きな笑みだった。すすんで自分の話をしたくなるような、不思議な力のある笑みだ。
私だけではないのだな、とハートの形を模した心がぽろりと欠ける。
先程まで満ち満ちて心地よく感じられていた体内を巡る潮流が冷たく鈍くなった。
「たとえば、ただ漠然と生きることが苦しいのか、それとも、思い通りに生きられなくて胸が痛む感じがするのか。誰かから後ろ指を刺されて生活するのがしんどいのか、その想像をしてしまうとしんどいのか。そんなふうに細かく分類していくと、自分が何に苦しんでいるのか見えてくる。おそらくアリウス分校では、自分と他者を同一の機械のように扱われていたとか、そんな感じで、自分が自分であることをしっかりと認識できていないし、認められるような育て方をされていないんだと思うよ」
「おお、大人ですね……!」
「大人だからね。自分が自分であることを考え続けるのは、大事だよ」
ゆーっくりとでいいよ、と先生は話をしめた。たった一つの伸ばし棒がバールとなって私を襲う。
この先生はまるで撫でるように鉄を曲げる。そっと、こういう見方もあると世界を広げてくれる。どうして、この魅力が外の世界で通じなかったのだろう。
親しみやすい徳とか、ピラミッドの最下層とか、前はそんなふうに感じたけれど。この不思議な力が人を惹きつけてやまなかったはずなのに。
先生もまた変わったのだ。気づいた。今日、私だけの特等席で得意げにブーツの音を響かせて歩いた私は、後ろを歩いたほうがお似合だったのかもしれない。……けれど、意味もなくモモトークをタップしそうになったり、節々が欠けている姿見を自室に持ってきたり、私も、変わってはいるはずなのだ。
自責を吐き出せたら、きっと楽になれる。
そう思って、はっとする。私はただ、先生に肯定してほしいだけなのかもしれない。そしてそれは、先生と心を触れ合わせるのではなく、先生の形をした機械に肯定されるだけで容易に満たされてしまうのかもしれない。
私は、温度を失ってゆく気持ちのまま、身動きすることができなかった。
○
もう一度目を覚ますと、頭に触れているものが動く気配がした。もう少し、と思って目をつむったまま先生の手を探り、逆に手を握られた。その柔らかさに、意識が覚醒する。
柔らかな声が降ってきた。
「おはよう、みーちゃん」
姫に返事をして上体を起こした。
いつの間にか、先生と姫が入れ替わっている。にこにこする姫にじゃっかんの居心地の悪さを覚える。
「ぐっすりだったね」
「……まあ」
「安心感があるんだね、きっと」
「どうだろう……あるのかな」
「だってみーちゃん昔から眠りが浅かったでしょ? 今日はかなり深かったんじゃないの?」
もしかすると、途中で目が覚めていたことには気づかれていないのかもしれない。それだけぐっすり眠っていたと取られるか、先生のぬくもりを求めて狸寝入りをしていたことを自白するか……。
私は誤解をそのままにした。
立ち上がる姫に合わせて立ち上がる。
きれいに片付いているこの部屋には、清潔感とは別の、年季というか、本来は役割を終えているのであろう寂しさのようなものが感じられた。上部だけが見える二人分の靴がそれぞれぼろぼろなことも、それを助長した。
「目が覚めたら見張りを交代しようって話してて。次は私とみーちゃんと先生」
「ああ、うん。すぐに支度する」
私の元気がないことに気づいたのか、姫は唇を尖らせた。
「私はちゃんと、みーちゃんの目が覚めたときに先生がいたほうが喜ぶよって言ったもん」
「……そういえば、先生はどうして呼ばれたの?」
「さっちゃんとひーちゃんが、話したいって。それに何かあっても指揮ができるから。先生も、ずっと休んでいるのは申し訳ないっても言ってた」
「そっか」
姫の顔を見て、嬉しさと痛みが同居する。
自分の体が自分の意思で、明るい方向へと動いたことが嬉しかったのだと思う。そして抵抗されなかった。……触れてもらうことも、なかったけれど。
同時に、親しい人同士が話していると知っただけで、私の心は欠けた。
先生が遠くに歩いていって、私はぽつんと一人で取り残される感じ。
先生の周りに明るいスポットライトが当たっているのに、私の周りは真っ暗になっているような感じ。
「初めて合った日の先生と、全然違ってたね」
「やっぱり分かるんだ」
「私じゃなくても分かると思うよ。なんて言えばいいのかな……余裕? とか、目とか、ぜんぜん違ったから」
話しながら出入り口まで歩いて、三人の空気に動揺してしまう。石片を蹴った音で三人は私と姫のほうを見た。
平静を装ってリーダーと軽い会話をして交代する。
先生は私たちが銃眼として使いそうな窓縁に腕を乗せて外を眺め始めた。ガラス片が腕に刺さったら危ないからと先生の腕を引いたけれど、先生は、私ではなく姫を見た。姫の表情を見たのか、それとも、人前でそういったことをするのは好まないのか。
何に対してかは分からない。ただ怖かった。
「髪を耳にかけてるの、珍しいな」
恐怖や気の迷いが些細な変化を起こし、気づいてもらえて嬉しくなる。少ししてから、自分自身が子どもじみたことをしていたのだと自覚して嫌気が差した。先生はゆったりとした調子で話してくれる。
「そうか。そういえば、ピアス、でもよかったかもしれないな」
「……何が?」
「買うもの。ジーンズは破れてしまうのが心苦しいって言っていただろう? だから、ピアス」
そっと、笑いかけてくれる、先生。
少し体を曲げて目をこらしている。そうやって近づいてくれるのに、決して触れてこないところが私を不安にさせる。先生にはなんの落ち度もないのに、どうして私は先生を責めようとしているのだろう。
自分勝手。欲。わがまま。
自分で自分を切りつける痛みには、体に跡が残らない代わりなのか、楽になれるかもしれないという希望がなかった。ひたすらに痛かった。
リーダーやヒヨリと話すときの先生は大人だった。私と話すときや、ともすればそのとき以上に。
あなたの優しい目には、ちゃんと私が映っているのかな。
……分かっている。映っている。子どもだな、私は。
人知れずついたため息に、先生は不思議そうな顔をした。
ほら、やっぱりちゃんと見てくれている。