これによりアリウススクワッドへの感情もまた、そこまで大きくなっていないと考えました。
明け方になろうとしていた。パソコンの右下には四時と書かれている。もう少しすればオフィスに朱がさすだろう。その前に仮眠を取ろうとしていた俺は、飲みかけのコーヒーを飲んでから寝室に移った。
いつだったかと同じように、そっと扉を開け、中を確認する。
アリウススクワッドには仮眠室を使ってもらおうと考えていたのだが、姫からの強い希望で、ミサキは俺と同じ部屋で寝ることになった。「何回かお泊りしていたでしょ? それとも先生はみーちゃんが望んでいないようなことをするの?」姫のにんまりした笑みに押され、ミサキを見ても、彼女は強く否定しなかったことを覚えている。強く否定しすぎるとミサキを拒んでいるようで嫌だったため、俺は曖昧に頷くしかなかった。
風呂に入るときや髪を乾かすときにもいろいろとあり、犯罪にならないことはすべて首を縦に振るしかなかった。
交際経験はあるが同棲経験のない俺は、この緊張感に慣れる未来が見えなかった。一緒に寝るか、先に寝るか――しかしそうしたらミサキは寂しがるかもしれないと煩悩に振り回されていたら、床が軋んだ。
普段は気にもとめない冷房の音と乾いた風が、気になった。
ミサキが寝ていないほう、出入り口から遠い側に回り込んでそっと掛け布団をめくる。
「……せんせい?」
「すまない」
「うーん。いいよ」
抜け出すときに気づかなかった彼女は、ここで気づいた。揺らさないように薄い掛け布団とベッドの隙間に体を滑りこませる。
少し手を動かすと人のぬくもりやその熱が伝わったものがあるというのは、電車の空いた席に座ることと何ら変わりはない。人と寝ることは何度か経験していた。今回だけはなぜか、呼吸のたびに生唾を飲みこんでいる気がした。
「せんせい?」
コーヒーに砂糖をひと粒だけ入れたような甘い声だった。それを察せられるほどに、俺とミサキは一緒にいたのだと実感する。
近づいてきた彼女から遠ざかろうとして手を握られる。あたたかい。彼女と肌を触れ合わせるときは大概冷静でいられなかったときなので、俺はミサキの体温をよく覚えていなかった。何となく低いと思っていた。実際には、子どもと同じくらい高いものが巡っている。
もぞもぞと移動して、覆いかぶさってくるミサキ。少し前もこのシチュエーションはあったというのに、泣いているか安心しきっているかで受ける印象はずいぶん違う。
「あたたかい」
風呂上がりの
相変わらず、彼女は肩口が好みのようだった。すぅすぅと安心しきった吐息がこそばゆい。てんやわんやしているのは俺だけだ。
腰などに手を添えたほうがいいかなどと煩悶しているうちに眠りに落ちていた。
俺が目を覚ましたとき、ミサキはまだまどろみの中にいた。
もう一眠りしたいところだったが、ティーパーティには今日の午後から向かうと伝えてしまっている。もう少し内容を練りたいところだった。
ミサキを起こさないように動こうとして、抱きしめられている事実に気づく。彼女の力は強く、無理に引き剥がしてしまえば起こしてしまうだろう。
俺は頭の中で、使いたい資料やプレゼンの文言を考えることにした。このあとシャッター音のせいで苦い思いをすることになった、俺とミサキだった。
予定よりもシャーレを出る時間が遅くなったとリーダーはぼやいていたが、それでも彼女たちは周辺の探索に向かった。四人それぞれの表情を、俺は怖くて見ていない。
『ホーム画面にどうかな?』という一言とともに送られてきた写真を見たのは、暑さを気温のせいにできそうな正午のことだった。
○
見渡す限り、ほぼすべてが白と水色と緑色だった。
遠景には灰色の高い建物が豆粒ほどの大きさで広がり、澄んだ空によくある白っぽい色味が、こちらに近づくにつれて水色になるグラデーションを描く。
トリニティ総合学園の各所にある白を基調とした建物は大きく、またそれを繋ぐ石畳の道は広い。
テラスから眼下を見れば、手入れの行き届いた天然芝、等しい間隔で並ぶ街路樹と洋灯、ベンチ、太陽を受けてきらめく噴水が見える。吸いこんだ空気は都会のものとは思えないほどに清々しい。
目の前にあるテーブルやクロス、カップやティースタンドまでもが毒々しい白色をしていて、そのわりに紅茶は琥珀色で、色とりどりのスイーツが並べられている。爽やかな香りと甘い香りを同時に味わうことができた。
すべてが、アリウス自治区で見た光景と違っていた。
ここには、救護騎士団のミネ、シスターフッドのサクラコ、ティーパーティーの
広いテーブルの狭いスペースに何とかパソコンを置いた俺は、権力者たちに話をした。内容はハナコにしたものとほとんど同じだった。
締めの話をしても、彼女たちの顔色は変わらない。
「子どもの失敗は許されるべきだと俺は考えている。アリウス生はもともと、トリニティに入学する器を持った子たちだったはずだ。それが大人の、我々大人の薄汚い欲望のためにああなってしまった。思想が拭われるには、長い時間をかける必要があるだろう。それでも、いいものに触れていれば、己を見つめ直す余裕や教えがあれば、いつかは変わっていくはずだ。子どもは変わることができる」
話の終わりを、俺の雰囲気の変化で察したのだろう。三組はまるで空気を読むように、あるいは牽制し合うように、視線を交錯させ始めた。
望み薄だと感じた。商談がまとまるときや相手が乗り気なときは、話している最中に感触で分かるものだ。今のこれはどちらかというと荒唐無稽すぎて、この案をよくするためにどう動けばいいかではなく、実現可能かどうかをそもそも疑っている。
後ろで控えていたハナコに視線を向ける。品よく椅子に座る彼女は俺の視線に気づくと、まじめな顔を一変させてふありと笑った。
その柔らかさに、自分も思わず口角が上がる。
代表として話を進めようとしたナギサが息を吸ったとき、おずおずと手を挙げる子がいた。小動物のような周囲を伺う動作の反面、彼女の声は明るかった。
「あ、あのさ、その話なんだけど、ちょっといいかな!」
自分のような存在がこの場で声を上げてもいいのか。彼女はその不安を抱えているように思えた。立場がかなり厳しくなった、聖園ミカだった。彼女は、社会から疎外された経験のあるもののみが持ちうる、虚ろで、けれどもどこか優しい、自分のようなものを出したくないと願う焦点の合っていない目をしていた。
全員の視線を受けて、立ち上がった彼女は多少おどおどしていた。それでも、音を立てて深く息を吸いこんだ途端、がらりと落ち着く。
お姫様が家臣に命令をするときのような、上の存在のみが持つ威圧感。
ぱたぱたとはためいていた翼が、広がって静止する。
へそで重ねられた両手に、余裕の笑み。
芯の通った明瞭な声。
「私、昨日の夜に、アリウススクワッドのサオリって子と話して」
「なっ――」
紅茶のカップを揺らしたナギサにミカは笑いかける。
「
視線や空気の冷たさに耐えきれなくなったらしい。彼女は自らが作った空気を声量で破壊した。
「アズちゃんが言うには、昨日の日中にサオリ――っていうか
穏便な調子で紡がれた、最後の言葉。どれだけの重要性があったのかは俺には分からなかったが、周囲の様子を見ると普通でないことは明らかだった。
ナギサはじっと目を閉じて黙考しているが、カップを持つ手に震えが走っている。ミネとサクラコは険しい表情と視線でミカを射抜く。セイアは落ち着き払っていた。
昨日、仮眠室で話していたらしい。
……いいや、おそらく違う。姫やヒヨリがいる場所で話すことはリーダーの性格上、考えづらい。日中にアズサに連絡し、「自分が全て悪いのだから三人のことで口添えできないか」などと言ってミカとの接点を持とうとしたのだろう。ミカの立場の危うさをリーダーはおそらく知らないはずだ。そして夜に抜け出すとき、姫に見つかったなどだろうか。
「あの子たちも、自分のしたことの重みを分かっているし、苦しんでいるし……さ! 私はぜんぜん許したりとかそういうことをするつもりはないんだけど! それでも! 『これから頑張ろう! 頑張っていきたい!』って子を見ると、私がされてきたような対応はしたくないっていうか。トリニティにけしかけておいて今さら何をー! って思うかもしれないんだけどね!?」
はっきりした抑揚に乗せられる感情。そして激しく上下する声の大きさ。葛藤と不安。
「でも、私も、ナギちゃんたちのおかげで今こうして何とかやってるわけだし! 失敗しても大丈夫だよって伝えられたら、きっといいと思うの。私は厳しい立場にあるけどね。だから、さ。少し手を貸してみるのは、駄目なのかな!」
響いた声に反応するものはいなかった。
ミカの表情が、必死な様相から悔しそうなものに徐々に変わっていく。
社会、そして組織を動かすのは個の意思ではない。多くのものを効率的に動かすための仕組みが動かしていくのだ。
それでも、規格外なものたちは、あがいた。
再び重くなった空気を破ったのは、大きなため息だった。セイアが仕方ないと言いたげに肩を落とし、まったく何をやりたいんだと言いたげにミカと俺とを交互に見る。
「他のアリウス自治区の人員の受け入れについては、白州アズサを含めた五人の、今後の成績や言動次第だろう。多少期間は空いてしまうが、来年の春であれば、四人を受け入れる差配が楽になる。……歩みを止めさせるのは、またそれを成し得ないものに変えてしまうものは決まって、寡黙さと猜疑心だろう。私たちはそれを学んだ」
何かをそらんじるように平坦な調子でセイアは語る。中空に言葉を放ったあとは、俺を見た。
「先生は先ほど、書類の処理や依頼はトリニティのものを優先的に引き受けると話していたが、それは公的な機関がこちらを優先するということかな」
「俺の業務時間外、私的な時間に対応しようと考えていた。趣味と捉えてもらえれば」
「趣味ではないと思うのだが……」
セイアはもう一度ため息をついた。そして黙った。
「シスターフッドがカウンセリングを請け負っておりますが、それは懺悔という行いから罪を告白し許しを請うこと、そして信仰心ゆえです。新たに学術的な知見が加わるのであれば、皆様が健やかな日々を送る手助けとなるでしょう。そのため先生の私的な時間に、少々融通を利かせていただいても?」
「問題ない。それは資料を作ったり講義をしてほしいということだろうか?」
「お願いできるのでしたら、そういったことも。また、秘密を聞く身である私たちの心理状況の把握や、秘密を告白され、それを抱え続ける生き方についても、可能であれば意見をお伺いしたいものです」
「……後日、資料を送ろう。当てはまる考え方は思いついたから、それを文字に起こしたい。訓練と実践を繰り返せば、一年でもある程度はできるようになる」
「ありがとうございます」
セイアとサクラコとの話で、流れは決まった。ミネとナギサが互いに視線を交わし、頷き合う。思うところがあったとしても、二人とも異論はないようだった。
正式な決定の文面や手続き、アリウススクワッドの学力状況や何学年として受け入れるかなどは追々話し合いを重ねていくことになった。アリウス生への敵愾心の高さが、一番の問題となってくるだろう。その点もどうにか、丸く収まらずとも、敵愾心を別のほうへ向ける何かを考えなければならない。
まだ日中と言っていい範囲だが、ここを訪れたころよりも日はだいぶ西に傾いていた。神経を使いすぎたのか時間の感覚があやふやだった。
椅子から立ち上がって、腰を直角に曲げて礼を言った。後ろにいるハナコにも会釈して礼を言う。
心の奥底の衝動に任せて頭を下げたのは、初めてのことだった。
他人に何かをしてもらったときの、申し訳なさと義務感に駆られる感じではなかった。安堵感から感謝を伝えたのかもしれない。それだけ大きな不安を抱えていたのだと、遅れて気づいた。
ハナコと少し話をしてから、シャーレに戻った。
出迎えをしてくれたミサキを見て、人はこんなあたたかな気持ちで「ただいま」と言えることを知った。今日あったことをあなたに話したい、聞いてほしい。そう願う気持ちが、きっとこの言葉には込められている。