オフィスで四人に転入のことを話しているうちに、遠くの空でぷかぷかと浮いている雲や澄んだ空が、橙色に染まる時刻になってしまった。家路を急ぐサラリーマンみたいに、そびえ立つビルの隙間から窮屈そうなオレンジ色の光が差し込んでいる。
説明が終わったあとアリウス生に物資を渡すために一人でアリウス自治区へ向かうことをミサキに伝えると、彼女は表情を険しくした。
オフィスで話を重ねて、シャーレのビルを出てもなお、ミサキは心配そうな顔つきでとなりを歩いていた。
「本当に一人で大丈夫なの?」
「おそらくは。というか、誰かを連れて行くと交戦に入りやすいんじゃないかなって思って。一人が一番いいだろうさ」
「それは、そうかもしれない……けど。私が何も持たずについて行くのは?」
「……それは」
前よりもずっと健康的な白さを帯びてすべすべになった彼女の顔は、悲しそうにも、不満そうにも見える。
これは俺のわがままだから一人で行かせてほしいとか、ミサキを俺の勝手に巻き込みたくないとか、自分で始めたことの責任は自分で取りたいからとか。
丸め込もうとすればできた。けれどもその返答は不誠実な気がして、俺は本当のところを話した。
「ミサキが傷つくかもしれないから。相手に責める意図がなくても、俺たちって、いろいろと勘ぐってしまうだろう? だから、話のどこかで、何かが飛び火するかもしれない」
「……でも、その痛みを恐れていたら、きっと私はあなたと一緒にいられない」
足を止めて、ミサキに目線を合わせる。
「ミサキにとっては、俺は弱くて、自分の身を守れないように見えるかもしれない。そしてそれが、とても不安を煽ってしまうのかもしれない。俺が撃たれるかもしれないと考えると、怖いのかもしれない」
下を見ていた焦げ茶色の目と、かち合う。赤、青、緑――どれよりもきれいな、深海にまで光が及んだかのように透き通った深い色の宝石だと思った。
「それでも、いつかは。こんなふうに単独で動いたほうがいいときが来るんだ。だから、今は一人で行かせてもらえないかな」
返事は聞かなかった。笑いかけて、彼女の頭のてっぺんから後頭部にかけて一回だけ輪郭をなぞる。
「ひとまず行くよ」足音はとなりに並ばなかった。「頭を撫でて言えば了承してくれるって思ってる」ミサキは不服そうにした。
振り返って苦笑する。それは否定できない部分だった。
ミサキは表情を崩さないまま、ぼそっと、それでもはっきりと聞き取れるように「いってらっしゃい」と俺を見送ってくれた。
まるで家族みたいなやりとりを思い返して、俺はまん丸な夕日が照らす道を歩いた。
空白となっていたモモトークに時間と場所を送って、カタコンベに足を踏み入れる。両手から下げたビニール袋の音が湿った通路に響き続けた。無音の支配する淀んだ空気にそぐわぬ、調子外れのマーチだと思った。
スマホの画面いっぱいが緑色になっていた。既読はついていた。
アリウス自治区の指定場所には、生命の消えかかった電灯、ささくれだらけのベンチ、煤のついた空薬莢、水分が感じ取れないしゃがれ声みたいな瓦礫と酷道、廃墟、闇が横たわっている。人の営みや瑞々しさが欠片も感じ取れない。つくづく虚しさを学ぶために最適化されたような自治区だと思う。
彼女たちは、廃墟の裏から現れた。しっかりと
「まず、物資を」
ビニール袋を丁寧に、ひび割れた石畳の比較的平らな場所に置く。背負っていたリュックも一緒に置き、慎重に後ずさる。食料や水、日用品に衣類、弾薬と、アリウススクワッドの四人に足りなさそうなものをそれとなく聞いていた。
ウエストポーチの中にはアロナがいるが、彼女とも話し合って――ミサキと同じように心配されたが――単独で事に当たると決めた。
アリウス生は動かない。話さない。ガスマスクのせいで表情が読み取れない。しかし、銃は下げられている。
「まず、アリウススクワッドが、来年度からトリニティに転入するかもしれない。また、時間はかなりかかると思うが、あなたたちの転入も視野に入っている」
アリウス生はざわめかない。息を呑む音は多少聞こえた。予想外が起こっても慌てない高校生ほど、見ていて痛いものはないと思った。前回のように銃を向けられないのは、信用されているからだろうか。
大事なことは、ちゃんと言葉で。重みづけの意味を承知で、くじけずに。
深呼吸して、しっとりまとわりついてくる空気の味と香りを感じる。負けないように、口を開く。
「アリウス生にとっては、侮辱になりうるかもしれない。自分たちをこんな境遇に追いやった者たちの傘下に入るなど。それでも、少しでも明るいほうにいくには、この対応が望ましいものなんじゃないかと思った。これしか思いつかなかった。何を今さらと思うかもしれない。すまなかった」
所詮自分も、大事なもののために子どもを傷つけ、生徒に優先順位をつける悪しき大人。誠意のために頭を下げた。やっぱり、申し訳なさはついてまわる。
俺は罪滅ぼしの安い自己満足で動くような底のしれた存在だった。
それでも彼女たちは、純粋さの代わりに狡猾さを備えるようになった子ども――大人に、助けを求めた。自分たちを地獄の底に叩き落とした連中にすがりたいほど
それならば、と思った。
考えすぎてしまう大切な少女がもしも、自分の身が救われてしまったことを悔やむときが来るのなら、一生薄暗い影みたいなものがつきまとう人生を歩むくらいなら、可能な限りアリウス生に明るい道を進んでほしかった。ミサキたちのおかげでアリウスはだいぶ変わったのだと、胸を張れる日が来るように。
未来のミサキをうみ出したくない。
ミサキに誇れる人間になりたい。
言い訳はいくらでも思いついた。けれどどれにも核心みたいなものはなくて、体と心が前に進もうとしていることだけが確かだった。
「俺は最善を尽くすつもりだし、アリウススクワッドの四人も、将来あなたたちが入学を果たせるように頑張ると言っていた」
俺にできたのは、彼女たちが学ぶ環境を整えることのみ。ともすれば最悪の誘いかもしれない。長らく恨んでいた学園、自分たちをこんな境遇へと追いやった元凶のもとに入らないかと提案したのだから。
淀みの中を響き伝わる声に、震えはまざっていなかった。
「たとえば、だけど。トリニティを恨む気持ちは、抑えなくてもいいし、抱いたままでもいいと思う。それでも、学園に入って、優秀な成績を収めることで、ここに住んでいる人たちをより多くトリニティに通わせるとか、トリニティ自治区の生徒に悔しい思いをさせたいとか。恨みの感情を持ったままで、それを武力ではないほうに向かせることはできないか? 話ならばいくらでも聞く。こんな捉え方はどうだろうかと、自分自身が培ってきたものを出し惜しみするつもりはない。協力したいんだ。だから――」
少しだけでも前に進んでみないか?
自分の口から出た言葉に、驚く。考えなしに、無責任に言葉を紡いだかもしれない。彼女たちが進んだ先で怪我をしたとしても、俺は責任を持てないのに。進路相談で「お前ならこの大学に行けるよ!」と無責任に言い放った若い男性教師と俺は、根本的に何が違うのだろう。それでも、俺は言った。
やっと、隊長格の、以前話したであろう子が口を開いた。
「サオリたちは、最初、信じたのか?」
「最初というのが、出会った当初なのか、転入の話をしたときのことなのかは分からないが。出会った当初は利害関係から始まって、今では少しばかりの信頼を得ていると思っている。また、転入の話をしたときは疑われたが、嘘ではないかという趣旨でなく、本当にできるのかという問いだった」
困惑が広がっていった。
何人かが俺を見るのをやめ、となりの子と顔を見合わせ始めた。
「大人を信じられないのは、分かっている。俺はあなたたちに危害を加えた。だから、俺を信じなくていい。何度でも言う。けれど、アリウススクワッドが多少は信じているという理由で、俺に関わってほしい。四人がここで血反吐を吐きながら積み重ねて作り上げたものを否定されると、とても悲しい気分になるんだ」
何か欲しい物があったら連絡してほしいと一方的に告げて、俺は去った。
おずおずとしたお礼の言葉が、振動とともに届いた。重い金属扉がスマホのライトに照らされたときのことだった。
彼女たちがここで過ごしたことが意味を持ったような気がした。決して、無駄ではなかったのだ。
虫と満月夜のハーモニーを乱した無法な金属音がどこまでも響き渡る。その音はやがてコンペイトウを散りばめたような夜空に吸い込まれていき、明日を待ちわびる代わり映えしない夏の夜に戻る。
何となくライトを消した。
弱くても懸命に存在を示そうとする電柱と満月に浸りたい気分だった。目を閉じてもうっすら明かりを知覚できた。
足音とともに、背後から声がした。
「先生」
「……ミサキ?」
歩くわけでもなくじっと目を閉じたのだから、不審に思ったのかもしれない。それは声もかけるよなと苦笑しながら振り向く。俺は自分の中に秘めた嬉しさの分だけ、彼女と話がしたくなっていた。
顔を合わせると、ミサキはばつが悪そうに目だけをそらした。彼女の背後にはアリウススクワッドの三人が控えている。
「ごめん。やっぱり心配で」
「大丈夫だよ。むしろありがとう」
痛くて不安になる場所に、そっと絆創膏を貼る。何回も何回もそれをして、気づいたときには平気に、丈夫になる。そんな言葉。
帰るか、と方向転換をして、ミサキの背に触れた。三人にも礼を言った。ミサキはそれだけで満足だったのか、笑みをこぼしながら滑らかに歩き出した。となりを歩いてくれる硬質な音が、他のどんな足音よりも聞き心地がいい。
三人は俺たちよりもずっと後ろを歩いていた。心配して何度か後ろを確認するたびに、三人は開いていた口を閉ざした。姫に至ってはどこか呆れた様子で首を傾けていた。
ミサキと話しているのだから、という気遣いなのだろう。ミサキは俺と姫の無言のやり取りに困ったように笑う。どちらの言い分も察した彼女は中立を保っていた。
むありとした風が吹き抜ける。
「夏の夜のにおいだな」
「どんな?」
「少し湿っていて、土のにおいも混じっている感じ。あと、人の香りも薄い」
「懐かしいな」というつぶやきに、「ふうん」とミサキが横目で見上げる。目が合って、少し遅れてから続きを促されているのだと気づいた。
「泊まりこみの……何て言えばいいかな。勉強とかレクリエーションをする合宿みたいなので一回だけ、田舎に行ったことがあって。キャンプファイヤーをしてるときか? 物が焼ける煤けたにおいに、こんなにおいもまじってた」
「……高校の行事?」
「いや、もっと小さいころだったな。小学生だった」
「そっか」
答えて、ああ、ミサキも興味があるのかもしれないと思った。
……そうか。それは、そうだよな。無神経なことを言ってしまった。ミサキを一瞥しても、変化は見当たらない。
「余裕ができたら、行ってみるか。泊まりでどこかに。旅館とか。長期休みにでも」
とぎれとぎれの慣れない言葉。月光に照らされたミサキの笑みは、見惚れてしまうほどに、なんとういうかこう、あれだった。
「そうしたら、バイトとかしてお金貯めなきゃ」
「奢りは
「うん。お仕事何回分かな」
「あ〜……そういえば、それの報酬も考え直さないとなあ」
今までは俺の采配で物を見繕っていたけれど、時給にしたほうがいいのかもしれない。四人にもシフトみたいにして入ってもらうとして……。華の女子高生になるのだから、文化的な生活が送れるくらいには工面したい。
当番というバイトを作り出すのは厚意で入ってくれるユウカやカズサに申し訳ないが、その二人にはお金ではなく、これまでもそうしていたように好きなものを渡すなどで手を打とう。
これから彼女たちは、ひとまず春までシャーレビルの一室を借りることになっていた。備品ということでいろいろと経費で落としてもいいだろうか。……ユウカに怒られるかもしれない。アリウススクワッドにヘイトが向くのは避けたかった。
「トリニティでの金銭問題もあるよな……。授業料……奨学金制度とか特待生とか、勉強に関心が向くようにトリニティに作ろうかな……」
「また難しい顔。もっと難しい顔にしていい?」
「……まだ何かある?」
「家賃。私たち、しばらくシャーレで世話になるんでしょ」
俺の反応がオーバーだったのか、ミサキは満足そうに、そしてとても嬉しそうに顔をほころばせた。
彼女の反応が収まってから、俺は再び口を開いた。
「言ったはいいけどやることが山積みすぎて……杜撰だよ。キヴォトスの教育制度。教育は専門外なのに。今からめまいがしてる」
はあ〜、とわざとらしくため息をつく。
ミサキはおかしそうに笑った。口元に手をやって声をこらえて笑うミサキは、とても珍しい。
俺にも自然と笑みが浮かんだ。
「珍しいね、『言ったはいいけど』って。考えて話すあなたにしては」
「……まあ」
星空を見上げて、ビルが立ち並ぶD.U.との光景と重ね合わせる。都会の過剰な電飾のせいで、そのきらめきは損なわれている。
小学生のときに森林で見上げた空は、思い出せない。あのときは、必死になって周りに馴染もうとしていた。けれど。彼女と並んで歩くときは、緊張しすぎることなく目の前にあるものを楽しむことができる。これもまたきっと、幸せの形だ。
こぼれた吐息には、確かな熱が宿っていた。
これから先の日々を思うと、大変なことをしてしまったという頭痛みたいなものが起こる。けれどそれは後悔や沈鬱さを伴って現れるのではなく、未来を思うわくわくや意欲を湧き上がらせて訪れた。
実際に激動と言っていい日々の連続には、決まってミサキの、様々な笑顔があった。
※次で最終話です。