一万字あります。ラブコメチックになりました。
「じゃ~ん。これ、何か分かる?」
オフィスに入ってきたカズサはご機嫌な調子で、手に持った白い箱をゆっくりと掲げた。底面に手を添えているあたりが彼女らしかった。
「さあ、分からないな」俺はノートパソコンを閉じて、ソファへと向かう。カズサと一緒に入ってきたミサキは、ドアの近くに荷物を置いて給湯スペースに歩いていった。コーヒーを淹れに行ったのだろう。人数分の食器も取りに行ったのかもしれない。
「フォンダンショコラって言うんだ~。知ってる? 中にあったかいチョコレートが入ってるケーキなんだけど。今日たまたま見つけてさ。買ってきちゃった。勉強教えてもらうし、そのお礼も兼ねてね」
ガラステーブルに箱を乗せたカズサは、手慣れた手つきで開封して三人分取り出した。皿やカトラリーを持ってきたミサキに礼を言いつつ、さらに食事の準備を進める。
もうすぐコーヒー持ってくるから、とミサキは言い残して去っていった。
腹が減っては戦はできぬと言うから、彼女たちにとって勉強は戦なのかもしれない。若草の季節にもかかわらず、そんな悠長なことを考えられるほどに、ミサキとカズサは馴染んでいた。新学期が始まってすぐに『勉強を教えてほしい』と頼まれたことには有意義な無視を決めこんだ。
熱いものが苦手な二人を横目に手早く食べ終え、二杯目となったコーヒーを飲む。タブレットで今日の業務を続けていた。
「コーヒーって苦くない?」
「それ、いつも私に言ってるよね」
「だってミサキ以外ブラック飲める人いないし。ヨシミなんかは『スイーツと苦みを合わせるなんて冒涜だー!』なんて騒ぎ始めるじゃん」
「ヨシミってアフォガート知ってるよね……? コーヒーは甘いものに合うんだよ。コーヒーゼリーとかもあるし。これが私の食べ方」
「いいな~。私もときどき合わせるけど、ブラックはぜーったい無理。飲める人に憧れ? みたいなのがあるな。私は砂糖二本いれてやっとって感じだしね」
「砂糖二本は甘くなるよ」
「苦いからね!? 本当は三本いれたいところを、コーヒーって苦い飲み物だからーって思って我慢してるの!」
「三本もいれたらジュースにならない?」
「ならないならない! コーヒーだから!」
「カズサが言っているのはつまり……コーヒー味のジュース?」
「それはコーヒーでいいから!」
「ゲシュタルト崩壊しそうだね」
「誰のせい!?」
今日の本題は三十分経っても始められそうになかったけれど。表情を見られないようにタブレットを不自然に顔の前に掲げる。その後もしばらく、しゃー、しゃーと威嚇の音が聞こえてきそうなカズサをよそに、ミサキはすました顔でスプーンを動かしていた。
穏やかに過ぎてゆく時間。
こんなふうに、ミサキがアリウススクワッド以外の人たちと言葉をかわすことを、何度望んだだろうか。
その光景はずっとずっとほほえましいものだった。
子どもが子どもとして振る舞えていることに、無条件に元気をもらえた。幸せを感じる電波みたいなものを周囲に発していると説明されても納得できるほどに、普通の青春。これは子どもと大人の関係の一つなのかもしれないと、俺はまた一つの気づきを得ることができた。
○
勉強会が始まったのは、二人が来てから一時間が経ってからだった。部屋の片隅――アリウスの四人が勉強で使っていたスペースで、ガラステーブルだと低すぎたので新しく拵えたもの――で成績に問題のないミサキが紙の整理をしつつ、カズサの勉強を見ている。
「そこ、たぶん答えと違うよ」
「え……! うわ、ほんとだ! え~……何でミサキは二年に入らなかったの? そうすれば私、授業中とかも勉強教えてもらいたい放題だったのに」
「いろいろとあったんだよ」
ミサキの声を聞いたカズサは「いろいろ、かぁ」と悩ましげな声をもらした。椅子の背もたれが軽い音を立てた。
ミサキはカズサに寄せていた体をわずかに引いて、顎に手を当てる。マスクを外すようになった彼女は、それでもまだその場所に手を伸ばしてしまいがちだった。
勉強を見に行かないと不満そうな顔をされるので、俺もときどき見に行っていた。これはその最中の話だった。
「過去が今の自分を作ってくれているって分かっていても、なかなか口に出せないことってあると思う。それが私にとって、トリニティで一年からやってみたいって思った理由かな」
「……あぁ~、過去のこと、ね。確かにそれなら、仕方ないのかも」
カズサは机から顔を上げ、中空を見た。案外、相性がいいのかもしれない。彼女たちは相手を慮ってしまうから、メトロノームが刻む間隔が似ているのだと思った。着実に、言葉と心を交わしていくのだろう。
いずれ、盃を交わすことにもなるかもしれない。
不自然な位置で足を止めていた俺を見てミサキは首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや」
二人に近づいていって、そっと頭に触れる。カズサは耳のつけ根を親指でこすると嬉しそうに顔を傾け目を細める。一瞬非難がましい目で見られた気がするが、それは別にそんなつもりじゃないと、以前カズサから説明を受けていた。
次いでミサキの頭も撫でる。彼女は淡くほほえんで、撫でやすいように少しだけ下を向いてくれた。
「そんなふうに軽々しく頭を撫でてたらさ、いつか勘違いしちゃった子に襲われちゃうかもしれないよ? そのときはどうするの?」
カズサからぶつけられた純粋な疑問。どうするかなと呟きながら視線をオフィス内に向けるが、助けになりそうなものは見当たらない。業務遂行のために作り上げられた無機質な空間のみが広がっていた。ミサキを筆頭に、業務を手伝ってくれる人たちがいなかったらこの部屋は灰色一色になっていただろう。
――軽々しく撫でないようにする。
簡単な数学の問題に思わぬ落とし穴があることを、誰しも一度は経験したことがあると思う。
ミサキに目を向けて、頷き合う。おそらく考えていることは同じだった。
先に口を開いた俺が言い淀む。
「厄介なポイントは」
「そうしたら、あなたは私にも触らなくなる。せっかく増えたのにそれが減るのは……ね」
「そこなんだよな」
「先生は私と同じで不器用だから、片方を立たせようとするともう片方が立たなくなってしまう」
「そうなんだよな……」
「今日もたくさんの業務を溜めこんでる」
前の文脈から意味を考えようとして、つまづく。知らぬ間に居合い切りされた感覚だった。疑問符を浮かべながらミサキを見てもなんら動揺していなかったので、俺は自分の読み取りが変だったのかと思ってもう一度考えこんだ。
徐々にミサキの表情が緩んでいくのを横目で捉えた。
「もしかして関係ないこと言ったか?」
「自分が提案したことだからって、キヴォトスの教育方針の何かをまた引き受けてるの、知ってるから」
「申し開きのしようもございません」
「手伝うから」
「本当にありがとうございます」
最近のミサキにはどことなくアツコ
けれど、緩んだ空気は元に戻りそうになかった。
「まぁ、気をつけなよって話」空気を読んでくれたカズサが、むりやり話を引き受けてくれた。
「先生が襲われたら助けに向かうけど、襲われないことが一番だからさ」
「もしも襲われても、先生が助けてくれたときみたいに助け出すから……その、なに、今のままでもいいとは思う……」
ミサキは俺を一瞥した。「ちょっと不安ではあるけど」おおかたそういった内容を口にしたかったのだろう。つい口もとを手で隠すとミサキから睨まれた。以前よりも食生活が整えられているおかげか、ほんのり頬が色づいているのが分かる。
肩を竦めたら「私は
「前から気になってたんだけどさ。先生とミサキって何ていうか……特殊な雰囲気? みたいなのあるよね。以心伝心っていうの? でもそれよりももっと深い……繋がりみたいな」
カズサが俺とミサキを交互に見ながら口を開いた。ミサキが先に口を開いたので、俺は説明を任せた。
「けっこう一緒にいるから。あとは、まぁ、似ているから」
「ふうん。それってさ、さっき言ってた過去の何かってやつと関係があるの?」
「そうだね、いろいろあったんだよ」
「二人の間で? 乗り越えられたの?」
「私は乗り越えられたと思ってるよ」
「先生は?」カズサが見上げ、ミサキは少しだけ首を横に倒している。これは不安に思われているかもしれないなと思って、ミサキの頭部の輪郭に手を這わせた。
「俺も乗り越えたと思ってるよ」同じことしか言っていないと遅れて気づいて、少しだけ付け足した。
「ちゃんと気持ちを……相手のことも傷つけないような言葉にしていって。過去は変わらないけど、それを受け止めて未来に繋げることはきっとできるからって、俺たちはそれをしていったんじゃないかな」
「……そっか」
その言葉は、カズサの中にある何かに触れたのだと思った。惚気みたいな空気にならなくてよかったと、俺とミサキは目配せして、胸を撫で下ろしていた。
○
梅雨にしては珍しく、一日中爽やかな天気だった。俺は空調の効いたオフィスでパソコンと向き合い続けて、ときどき通話で生徒とやり取りをした。
ミサキと話さない日は同じことの書かれた小説の一ページで、今日もそうなるだろうと思っていた。
退屈というよりは、慣れただけの日々。ときおり来訪するイベントで精神の疲れを癒やすことは、同棲していないものたちの健常な形の一つのように思う。
一度大きく伸びをする。腰からも肩からも小気味いい音がした。会議をしていた誰かから連絡が入っているかもしれないと思ってスマホを手に取る。
ロック画面を解除して飛び込んできたそのメッセージに、嬉しさよりも驚きが勝った。ミサキからだった。
『シャーレに向かってるんだけど、いる?』
『いるよ。何か用事?』
『そんなところ。
電気がついてたから、すぐに分かった』
珍しい文章だと思った。最近のミサキは用事を濁すことがほとんどないし、続きの一文も、何となく言いそうにない。オフィスに入った拍子に言うかな、くらいのものだ。彼女はモモトークでの雑談を得意としていない。
『何か緊急事態?』
『……何で分かるの?
緊急ってほどでもないんだけど……まぁ、ちょっと。
オフィスには一人?』
『そうだよ』
『それなら会ったときに話すよ。今向かってるから』
『待ってる』
今日は花火大会だった。そして、吊るされたてるてる坊主を数えるのが大変な天気だった。
D.U.地区で催される気の早い夏祭り。ポスターが街を彩っている様子を出先でよく目にしていた。夏休みを一ヶ月ほど先取りしたイベントは、シャーレに出入りする生徒の間でも頻繁に話題に挙がっていた。
実際に何回か誘われていたそれは、最初の一組を断った時点で『最初の一組を断った時点で他の子たちと行くのもな……』と考えてしまい続け様に何度も断った。俺がそういったことを得意としていないことは、薄々みんな感づいているようだった。
ミサキには誘われる前に断ることを匂わせていたので誘われていない。しかし、期待せずにはいられなかった。自分の浅ましさに、思わず鼻を鳴らしてしまう。彼女との時間を長くするために、さほどの休憩もせずにマウスに手をやった。
来訪のベルは三回のノックと決まっていた。
パソコンをスリープにしながら返事をする。何か相談事かもしれないと思ったから、ソファまで歩いた。
普段よりも時間をかけて扉が開き、ひょこり、と顔をのぞかせた彼女は薄く化粧をしていた。髪は側頭部に編みこみを作っている。耳にある風鈴の棒みたいなピアスが涼し気に揺れている。神経質な画家が何年もかけて作り上げた作品から、何かの手違いで飛び出してきたのだと思った。
立ち止まる。見惚れる。口に手が伸びる。感嘆の息がもれる。
ゲームに登場する音に反応するタイプのギミックみたいに、からんころんという音につられて目線を下にやる。黒のペディキュアが施されていた。
俺は目線を上に戻した。
深い紺色の浴衣。生地を自由に泳ぎ回るみたいに、赤色の金魚が数匹。尻尾の軌跡を描いたのか、水の動きを表しているのか、水色の筋も生地に走っている。合わせの帯は淡い黄色だった。水底に差す陽光みたいだった。
ミサキは、淡い笑みを浮かべていた。俺が何かを言う前に「その反応で満足した」とこともなげに言った。どちらが大人なのか分からなかった。俺は口に大福でも突っこめるくらいにぽかんとしていたと思う。
下駄とビニール袋を鳴らしながら俺のとなりを通りすぎたミサキ。普段とは違うシトラスの香りがした。彼女が歩いた残像を追って俺は首を動かす。
「あ」
おそらくそれは俺が出した声なのだと思う。男性の声だったからとかそんな理由ではなくて、ミサキ以外にオフィスには人がいないからという消去法によって導き出された答えだった。
ガラステーブルに荷物を置いたミサキと目が合う。俺はもう一音それを繰り返して、やっと適切な言葉を脳のタンスから引っ張り出した。
「似合ってる」
「うん、ありがとう」
態度から伝わっていると思ったけれど、こういうのは言葉にするのが大事だと俺は学んでいた。「やっぱり言葉にされると嬉しいね」ミサキも満更でもなさそうだった。髪を耳にかける仕草をしてはにかむ様子に目がロックされる。
「もう、いつまでそうやってるの? 足に根が生えたみたいだよ」
メドゥーサが美人だったなんて聞いてない。
いや、見た目で誘惑してくるタイプの新手のセイレーンなのかもしれない。この見た目なら確かに船が沈むのも納得だ――それる思考に首を振った。四次元ポケットから「あれでもないこれでもない」と言葉を探しても適切なものは見つからない。じっと見て考え事をしてしまう癖がなおる兆しはない。
黙っている俺を見かねたミサキが手を引いてくれて、やっとソファに座ることができた。俺はもしかしたら放心状態だったのかもしれない。気づいたら袋の中のものがテーブルに広げられていた。
フランクフルト、焼きそば、たこ焼き……肉食的な香りが鼻腔まで届いた。脳内はいまだにシトラスの香りに惑わされていた。
「先生、あんまりジャンキーなもの食べないでしょ? だから買ってきてみた。本当は聞いておきたかったんだけど、夏祭りは行かないみたいなこと言っててあれでさ……。驚かせたかったから、まさか今日になって聞くわけにもいかなくて。平気?」
「あ、ああ……」
「もしかしてまだ放心状態?」
「たぶん……?」
ミサキは目尻を下げながら「落ち着くまで待つよ」と言ってくれた。小気味いい音が行ったり来たりして、水を差し出してくれたり、紙を見てくれたりする。
落ち着くころにはコップが空になっていた。対面で紙を見ていたミサキが顔を上げる。
ミサキの目を見てうんうん頷くと、大丈夫なのかなぁと言わんばかりにおかしそうに首を傾げていた。
とんとんと紙を整えたミサキが口を開く。
「さっき冷蔵庫開けたんだけど」
「うん」
「その、作り置き……さ。あるにはあったんだけど、あれだと少ないかなって思って。先生が忙しいのは分かるけど、ちゃんと食べてほしいんだ。最近また痩せたし。今度からご飯作りに来ても……いい?」
「それは、大丈夫なんだが」
「申し訳ない?」俺が口を開く前に、ミサキから先取りされた。俺の表情を観察した上で、あくまでも軽く。そんな気遣いとニュアンスが感じ取れる。
俺は目をそらしながら頷いた。カッターで怪我をしたのは昔のことなのに、使うときはついつい緊張してしまうような、慣れとは異なる記憶に植えつけられた恐怖からだった。何度摘んでも、根までは完全に取り除けないから、どこかで必ず芽が出てしまう。
ミサキはそれを力ずくで取り除くのではなく、そこに芽があるもんね、と何でもないことのように扱ってくれる。彼女の美徳を好ましいと思える自分の感性もまた、俺にとっては嬉しく感じられるものだった。
「私は、先生が食事をおろそかにして倒れたりすることのほうが嫌だな。それにたくさん甘えさせてもらってるしさ。これくらい、させて?」
すっと上体を傾けて、蒼い血管が浮き出るようになった手首を握る。上目遣いで様子をうかがってくる。
「それとも、私が作る料理は食べたくない?」
「その聞き方はさ……?」
「ほら、にやけた」
勝てない。心の底から確信した。
「大丈夫だよ。私たちはたくさん話せる。ときどき、作りに来るよ」
抑揚の少ない、しかしふありとした声だった。
「それなら頼む」一拍置いてつけ足す「楽しみにしてるよ」。
頷いたミサキはそれから、ビニール袋に残っていた二つのリンゴ飴を取り出した。はいと差し出された。瑞々しい。ミサキの唇の色と同じだった。
包装を外している最中に思ったことを口に出す。
「せっかくだし、外、歩くか?」
「でも先生、いろいろと断ったんでしょ?」
「まあ……。だから、ほんの十分くらい。夜風に当たりに。気分転換」
「いいよ。
「きっと許されるよ。破る前提なのはいただけないがな」
「それはお互い様」
時計をちらりと見てから、ミサキは腰を上げた。
六月の夜は過ごしやすい。ひんやりした風が過剰な熱を持った脳を冷ましてくれる。シャーレ出口から一直線に進んだ石の床を並んで歩いた。
見慣れた道に、見慣れた人。聞き慣れない音、かぎ慣れない香り。
ぼーっとしそうになったところを、口にしたリンゴ飴の甘酸っぱさが引き戻してくれた。
「コーヒーを飲みたくなるな」
「これにも? でもまぁ、分かるけど」
苦笑するミサキ。放課後スイーツ部の面々を脳裏に思い浮かべたのかもしれない。
「かき氷と迷ったんだ。それで、こっちにした」
「ああ、ミサキは果物が好きだもんな」
「ううん」ミサキは首を横に振った「でも、覚えていてくれて嬉しいな」。手を握られ、丈の短い草のほうへ誘われる。
「かき氷はみんなと食べたんだ」
「ああ……放課後スイーツ部の?」
「うん。『シロップって全部同じ味がするんだって』って言って、試してみようって。みんなそれぞれ違う味を頼んでさ」
「あー……そんな話あるな」
その光景が脳裏によぎって、ほほえましくなる。
絵柄の違う浴衣を着て、人混みに紛れて歩いている。ナツが目的の屋台に向かってずいずい進んで、あわあわしながらアイリがついていき、ヨシミがわちゃわちゃ言いながら少し後ろを歩く。その後ろをカズサとミサキがやれやれ言いながら進むのだ。最後には、みんな笑顔。
踏みしめるたびに返ってくる土の弾力と、わずかな草木の音が二人の沈黙を埋めた。
「それで?」
「そしたらさ、やっぱり甘いものはみんなで食べるとおいしいって。もう、味の話はどこいったのって話だよ」
彼女がおかしそうに言うから。その時間を慈しむようにきれいに笑うから。俺もつられて、何だそれ、と語彙も何もなく笑ってしまって。
その間に、月光が振りまく色気すらも纏わせてしまう美しい横顔を盗み見る。もしもこの瞬間を写真に収めることができたら――。それを見るだけで明日が待ち遠しくなるような気分になる。そう思った。
ありふれた日常の一部は、アリウスがやっとの思いで手に入れたかけがえのない宝石だ。クレーンゲームの宝石だとしても、それは、紛れもなく幾人もが携わった結晶なのだ。
笑っていたミサキはやがてちょうどいい位置を見つけたのか足を止めた。「もうちょっとだよ」時間を気にする仕草もあったから、それに関係している何か。花火なのだろう。
ミサキは夜空を見た。
「ずっと一緒にいるなんて、私たちは言えないんだよね」
「おそらくな」
何かを考えていることしか、分からなかった。それは不鮮明な記憶とよく似ていて、歯がゆさを伴って俺に伝わってくる。
あくまで俺たちに言えるのは、今現在のことでしかなくて。それを誠実と取るか意気地がないと取るかは、相手次第だ。幸運なことに俺たちは、互いを前者だと思っている。
「あなたに好きと言えたら。迷わず、無邪気に、言えたら」
その独白をしたミサキは、目をつむって、笑んでいた。ややもすれば悲哀すら漂いかねないセリフを、まるで愛しい人に詩を贈るようなトーンで紡ぐ。
ぎゅ、ぎゅと二回手に力がこもる。よく手入れされたそこには、やはり黒色のマニキュアが施されていた。
「もっと先生をどきどきさせられたかもしれない」
「もっと、なあたりが、すでに一定以上はどきどきしていることを察せられているみたいで何だかな」
「だって先生、私に触るとき、にやにやしないようにきゅっと奥歯を噛むから。痩せてるから頬の動きで分かる。たぶんカズサも気づいてるよ?」
「ほんとに?」
「だからあんな忠告をしてくれたんじゃないかな。先生って意外と分かりやすいし」
「無自覚だったな……」
ミサキは横目で俺を見上げて、口もとをほころばせた。もう、しょうがないなぁ――なんて心の声が想像できるあたりお互い様な気もしてしまう。
「恋や愛は、私たちにとってはコーヒーに似ている。……猫にとって、コーヒーって毒になるんだって」
「コーヒーは昔、人にも害があると思われていたらしいな」
横目で俺を見上げたミサキが「うん」と頷く。その声は静寂に吸いこまれていく。彼女の耳もとで揺れたピアスだけが脳内で音として再生される。
「好きな人にとっては好きで、それが飲める人を羨ましく思ったりして、一方で害にもなりうるもの。私たちにとっては、圧倒的に一番最後のもの」
「言葉って、重いもんな」
「私たちにとってはね」
「違いない」
軽いやり取り。ほほえみの中をたゆたうじゃれ合い。
「これは、逃げなのかもしれない。それでも。人間関係をそんなに、白か黒か、付き合っているかいないか、好きか嫌いかのものさしで測る必要はないと思うんだ」
「うん」
「人間関係ってそんなふうに両極端なものではないと思うんだ。グレーを許容する、って言えばいいのかな。その人たちがちゃんと話し合って納得しているのなら、どんな形でもいいというかさ」
「……言いたいことは分かるけどさ」
ミサキは含み笑いをした。ミサキがこういう笑い方をするときは決まって俺が負ける。見ただけでなんだか終わったなと思うくらいの回数を俺は経験していた。
「何だかそれ、浮気した彼氏が言い訳してるみたい」
「だいぶ暴論かましてないか、俺」
「でもあなたがそんなことをしないって、私は信じてるよ?」
鮮やかな焦げ茶色の瞳の奥には、言葉通りの信頼があると思った。
沈黙の帳が降りた。俺はどの地区で祭りをやっているのか知らなかったから、ミサキが見ていたほうに同じように視線をやる。
次の言葉が紡がれるまで、やや時間がかかった。
「今、浮気って言葉を出したけど」
「うん」
「そもそも私たちの関係ってさ、どうやって説明すればいいのかな」
哲学のような問いには、ミサキが学校生活を送る上でぶつけられた質問にどうのように答えたらいいのかという迷いが含まれていた。
「その、だから……あれ、に近いのかなって、私は思っているんだけど。今までは私たちの中で完結していればよかった。でも、いざ学校生活を送ってみると、いろいろな人が私と先生に関心を向けているって分かった。どんな関係なのって聞かれたときに、私は答えることに苦労してしまって、考えたり、曖昧に返答するうちに話が流れていく。私はあんまり、あなたとの関係をそんなふうに雑にってわけじゃないけど……なんて言えばいいかな。とにかく、そんなふうには扱いたくないんだ」
手を握る力が強くなった。離れてほしくないから、心細いから無意識のうちにそうしたのだと思った。
「先生なら、どんなふうに答える?」
その質問をあらかじめ予想できていたから、俺はなめらかに話し出せた。
「……人から求められて関係に重みを与えてしまっては、きっといつか潰されてしまうと思うんだ。だから。今、一緒にいる時間が心地いいと感じられる人とか、もしくは――大切な人、時間を共有したい人、とかって答えるかな」
「あくまでも、今」
「うん。……この先のことってさ、分からないだろう? もしかしたら、ミサキが学校生活を送っていく上で価値観が大幅に変わって、俺といる時間よりも他のことに時間をさきたいと思うかもしれない。それを承知した上で、未来で別々の道を歩く可能性はあるけれど、少なくとも今は一緒にいたい、みたいな」
ミサキの声は釈然としていなかった。
「まぁ、その可能性はあるよね。あまり想像したくはないけど」
「必ずそうなるってわけじゃないし、別れた道がその先でばったり交差することもあるだろうさ。それに、今一緒にいたいってのを一年間続ければ、それだけ一年になるんだ。十年続ければ十年になる。俺はそんなふうに考えるし、相手に伝えるのが難しくてもそう伝えるかな」
「……今この瞬間を積み重ねていくうちに、私たちが歩いた道のりになる、か」
俺は最後までリンゴ飴を食べきってしまった。ミサキは半分以降食べ進められていない。深く考えていた。
小さな手が飴を、同じくらいに鮮やかな色味の口に運んだ。咀嚼している。喉の上下の動きまで追ってしまう。結論が出たらしく、ミサキは満足そうな顔をした。
「未来のことも、感情のことも断言はできないけど、私はあなたに会えてよかった。あなたのことが、とても大切。私に対しても同じ感情を持ってもらえたら嬉しい。そんなふうに言いましょうってことなのかな、きっと。人からの意見でもなく、あなたから何かを求めるのではなく、私はあくまでこう思っているからねって」
「ああ、そんな感じだな」
二人で笑った。愛しいものにしか向けられることのない、特別な形をした笑みだった。
月光と街灯。もう一つ、別の光が仲間に加わる。
ミサキが陣取ったポジションからは、背の高いビルの間から色とりどりの大輪の花が咲いているのが見えた。やがてそれは季節が過ぎ去った桜みたいに重力に引かれて落ちていった。遅れて大きな音が響く。重力を食い止めたいのだと、わけもなく思った。
無言だった。ときどき俺はミサキの顔を盗み見ようとした。目が合うたびに、二人して肩を竦めて笑う。
結局最後まで一緒だった。やっぱり誤用が正解となった。
「――学校、楽しいよ。胸を張って伝えられるようになったことも増えたしね」
明日が楽しみなのだと、彼女は笑っていた。それは今日見たどの花よりも美しい輝きを放っていた。