発端は、少しでもミサキが楽になったらいいと思ったことだった。
昼ご飯を食べて仮眠を取って、書類の整理を始めたのが二時ころ。外に出る用事はミサキが来れない日に当てたので、今日はずっとオフィスにいることができた。
彼女が来る前に整理を始めて、驚いた顔が見てみたかったのだ。それに、弱みを見せっぱなしで改善する気がないと思われることも、嫌だった。
仕事ができないところを見せておきながら何をと言われても、俺は彼女には、特に嫌われたくなかった。
だから――快晴のキヴォトス、シャーレのオフィス内にて、俺は紙とのにらめっこを始めた。今日はジャケットを脱いでワイシャツ一枚でも充分に過ごしやすい日だった。
積み上がった白い山を縫うように、白くて痩せた人間が動く。
三十分もしないうちに集中力の限界はやってきた。せっかくきれいになったはずのソファやガラスのローテーブルには、小さな山ができあがっていて。自分の整理の下手さが嫌でも思い知らされる。
黒くて小さい魚が、白い紙を泳いでいるようにしか見えなくなっていた。文の意味が分からない。目が滑ってゆく。
もう少し粘ってみようと思った。
結果的に言えば、それは悪手だった。
紙を見て、よく分からなくなって、保留という小さな山を作る繰り返し。ミサキが片付けてくれた場所を汚染した白の山は、床にまで侵食した。
俺は一心不乱に動き続けた。
もしも止まってしまったら、惨状を目の当たりにしたミサキがため息をつく様を思い描いてしまう気がして、止まることができなかった。
動き続けているのに、俺は死んだマグロの目をしているように思う。とんだお笑い草だ。
嫌われたくないというくだらない感情で頑張った俺は最終的に、紙をぶっ散らかした。どうでもよくなってしまったのだ。退職を決めた社員が開き直って無敵になるみたいな、ある種の自暴自棄。
整理は無理だ。
だからどれだけ散らかしても同じだ。
……本当は同じじゃないと、分かっていた。どうしてできないのって、俺が一番思っている。でも、誰にも伝わらない。紙の整理ができたら完璧って、みんなから言われてきた。
あんな薄っぺらいものを重要視するなんておかしい。意味が分からない。勇気を出してみんなに聞いても、みんな答えられなかった。そのことに疑問を抱くことが異端であるという扱いまで受けそうになった。
「どうしてなんだろうな」
口に出しても、答えは返ってこない。
晴れた空、明るい室内に虚しい質問が溶ける。
空気が重い。呼吸に失敗して咳き込む。過呼吸みたいなものを馬鹿みたいに繰り返しても、事態はよくならない。肺にも胃にも黒くてどろどろしたものが生まれていた。
床にたくさんの白い紙が散らばっている。汚染だと思った。人の厚意を踏みにじる行いをしたのだと、胸がじくじくと痛んだ。ミサキの包帯はきれいでも、同じ色のこれは汚い。
オーバーヒートを起こした頭の片隅でミサキを思う。駄目だった。今日も駄目だった。生まれた瞬間から、俺の整理力は初期値でカンスト(笑)していた。成長の余地なんてなかった。
俺には悪意がないのに、俺は悪意にさらされ続ける。
入社してから半年経って、分かっているはずなのに「これ整理しといて」と上司に汚物を手渡された光景が蘇り、空に手を振った。位置が悪かったみたいで机にある山にぶつかって、また俺は厚意を穢した。
○
目を覚ましたとき、俺はソファに寝ていた。脱いだはずのジャケットが上体に掛けられていた。すでに日が沈んでいて、俺の上以外に電気がついていた。
記憶を手繰っても、昼寝の先がうまく思い出せない。
がた、ごとん、ばん。生活音が聞こえる。起きて見回しても誰もいない。
「ああ、起きた?」
無気力な声。
びくっと肩が跳ねて、声のしたほうを見て、片方の唇がひくひくと痙攣した。給湯スペースから歩いてきたのはミサキだった。右手に俺のマグカップを持っている。
「ひとまずこれ。甘いほうがいいと思って、ココア」
気遣う様子もなく、ミサキは自然に笑ったのだと思った。逆光だから表情は見えなかったが、柔らかい雰囲気があった。
「……その。勝手に作ってもよかった?」
しどろもどろに何回も「あー」とか「あ」とか言ってしまった。居心地の悪さのせいでなかなかお礼の言葉が出せない自分に嫌気が差す。
彼女は対面のソファに座らず、マグカップを置いて歩き去った。
「何かするのなら、俺も……」
もたついてジャケットが床に落ちる。足を入れればいいだけのビジネスシューズを履くのに時間がかかる。その間に近づいてきていたミサキが俺の両肩を押して、押し倒して、ソファに押さえつけた。
彼女の動作に合わせてさらりと髪が空を切る。ふありと女性の香りが舞う。
ミサキの手首を掴もうとして、やめた。払われたらどうしようと考える臆病者の性分がそうさせた。人に触れられるのは好きではないで済ませられるけれど、触れるのは嫌と言い切れた。
俺たちの上だけ黒いスポットライトに照らされているみたいに暗い。
逆光のせいで、またしてもミサキの表情は見えづらかった。それが救いだと思った。もしも彼女の表情に失望や怒りがあれば、俺はきっと、一生自分から行動を起こすことができなくなる。子どもが母親を想って行動して、結果として怒られてしまうような――自分本位の行動の罰を、人の顔色をうかがって精神をすり減らし続けるという形で受けることになる。軟弱者の俺はその現実に耐えられない。
ミサキの表情は依然として見えない。けれど、彼女の瞳にはきっと、唇をちぐはぐに引きつらせながら視線をあちこちに動かす愚か者が映っていることと思う。
「まず、休むこと。何も聞かないし、何も思わないから。いい?」
俺は何も言えなくて、悪あがきみたいに体を動かそうとしたが、ミサキの力が強くてびくともしなかった。
ミサキはふっと笑う。
「私はこう見えてロケットランチャーを撃てるくらいには体幹が強いし、腕力もある。このままずっと押さえていても苦にならないよ」
このまま押さえつけられるか、それとも休むことを了承するかの二択。俺は後者を選んだ。
脱力する俺を見て、ミサキは再び移動した。
上体を起こしてからマグカップに手をかけた。甘いことしか分からない香りが鼻を満たす。甘くて温かい、子どものための飲み物だと思った。惨めだった。
ココアを飲み切るまでの間に会話はなかった。ひたすらにミサキが紙と格闘する音だけが響いた。
気の利いたジャズでも流そうと思ってスマホを探して、見つからなくて諦める。
普段仕事している机の奥にある金属ラックに目をやれば、いくつかの学園が背表紙に書かれたファイルが収められていた。目を凝らす。丸くてかわいげのある字だった。
「あんな感じでよかった?」
「ああ。ありがとう」
「そう。でもファイルがたぶん足りなくなるから、次までに買ってもらえるといいかな。あと校外秘の情報をそのへんに置いておくの、やめたほうがいいよ」
「……分かってるんだけど、口頭で説明されるし、データとしてももらうから、どうしてもな」
「まあ、言いたいことは分かるけどさ」
前を横切ったミサキが足を止めて、こちらを流し見た。
「てっきり、仰々しくファイリングしてたらいかにも何かありますって分かりやすくなるからそのへんに投げてたとか、そんな理由だと思った」
「紙を隠すなら紙の中じゃないんだよなあ」
きっとこれは彼女なりの気遣いで。慣れないことをした自覚があったのか、下にやっていたマスクを上げてミサキは作業に戻った。
その気遣いに報いたいと思ったから、俺は少しだけ自分の肉体を切って見せた。ミサキを見ることができなくて覗き込んだマグカップの底には、甘い液体の跡が残っている。
「昔から、紙に書かれた文字を読むことも、紙の整理をすることも苦手だった。文字を追おうとすると目が泳いでいくんだよ」
水族館という狭い水槽だとしても、魚は自由に泳ぎ回る。四角い書面を、俺の目もまた自由に泳ぎ回る。
空のカップを置く。手持ち無沙汰になって、返事が来る前にもう一度手にした。
「それって、教科書は読めたの?」
「……割と。重みとか厚みが、読まなきゃいけないっていう圧があるんだよ。あれには」
間があって「分かんないけど、先生にとってはそうなんだね」とミサキは静かに言った。
「薄くなると、どうにもなあ」
学校では、あんまり
家ではぶちまける回数が多かった。ここではいつも怒鳴られた。
家と学校では、人に嫌われることを恐れる臆病者の性分が、衝動を抑えてくれていた。ストレスを溜め込む代わりに、少しでも書類を減らすようにと体が動いた。
無駄だったけれども。
一人となったここでは、自分を隠すことなく堕落していった。ユウカやカズサに嫌われたくない気持ちはもちろんあった。しかしそれよりも、摩耗しきっているから少しだけ休ませてくれという気持ちが強かった。
今日初めて、キヴォトスに来てから失敗した。これはきっとミサキに嫌われたくないという気持ちが強く働いたからだと思う。その気持ちが働くことで余計に失敗しやすくなるなんて矛盾している。けれどもそれが俺だった。
「スマホとかパソコンだったり、教科書になると大丈夫なんだけどな」
両手で握り込んでもマグカップは割れない。
落としたら簡単に割れてしまう。
間違った接し方さえしなければ、壊れることはない。それはきっと人と同じで。
俺はずっと間違った接し方をされてきたからぼろぼろなのかなと思って、自己嫌悪に陥る。他責はきっとよくない。一人の大人として、自分の行為には責任を持たなければならない。
でも、人のせいにしたい。俺はもっとまともな人間になりたかった。
「
ミサキは笑った。呆れたように、慈しむように、静かに。
「私にも違いは分からないけど、きっと何かが違うんだろうね」
「ああ。何かが違うんだろうな」
「困ったね」
「困ったな」
二人で疲れたように笑いあった。
社会で働く人はほとんど代替可能だ。その中で、俺は特別だった。俺だけ歯車の規格が少しだけ、違っていた。
特別であるということは、優秀であることと同義でない。能力が突出していればそれは特別になりうるが、ただただ特別なだけでは、駄目なのだ。
明かりのついていない蛍光灯を見上げた。
「いつもなあなあで察してもらっていたから、こうして言葉にするのは初めてだな」
言葉にしただけで意外なほど苦しみが和らいだ気がした。話している最中は心臓がばくばくしていた。今は平常時よりも落ち着いている気がする。
「そっか」ミサキがプリントをめくる音が聞こえ始める。
社会に出てからはパソコンでの業務が増え、衝動に突き動かされることが少なくなった。代わりに、上司や同僚とのコミュニケーションで躓いた。
こうして話を聞いてもらったのは、久しぶりだった。だから、勢いに任せて、思ったことが口をついた。
「ミサキってさ、スイミー読んだら苦しみそうだよな」
俺の悪癖だった。
黒い魚が紙を泳いでいるみたい。目も泳いだ。そこから魚を連想したなんてミサキは知る由もなくて、造語っぽい何かにただただ困惑していた。
また彼女の手が止まっている。作業を邪魔してばかりだ。
「すいみーって何?」
「小さくて黒い魚の名前。物語だよ」
「ふうん」
「文字が、黒い魚みたいだったから」
「ああ、なるほどね。目が泳ぐってのもそこから連想したんだ」
意味が分からないことを投げずに考え続ける彼女のあり方は、尊い。
それに甘えっぱなしの自分は、醜い。
染みついたあり方を変えるのは難しいと思った。俺は横になってジャケットを掛け直した。
「もう一回休むよ」
ぼそっと聞こえた声に同じ言葉を返して、ありがとうと付け加えた。