もう一度目を覚ましたのは一○時を回ろうかというころだった。
ミサキが作業しているスペースにだけ明かりがついていた。俺が散らかした書類は全て片付いており、全体としては七割ほどが終わっているように見える。
姿勢のせいで首が痛かったくらいで、体の不調はない。過ごしやすい室温だった。
歩いていって、しゃがんで紙紐を結んでいるミサキに声をかけた。
「悪い。寝すぎたな」
「それくらい疲れてたんでしょ。私に謝る必要はない」
「そうだけどさ。一人に働かせて自分が休むって申し訳ないから」
立ち上がったミサキの表情はかたい。マスクを外していたから、育ちの過酷さを感じさせないきれいな肌を拝めた。
「ありがとう。助かった」
「いいよ。これくらい」
今日の謝礼を取りに行こうと思って、冷蔵庫まで歩こうとした。ミサキが俺の背中に待ったをかけた。
「私、今日、ここに泊まるから」
「ん?」
上から下、下から上までミサキを見る。顔色が悪いわけではなかったし、怪我もない。
ミサキは苦い顔をしていてもなお整った容姿だった。彼女は居心地悪そうに耳たぶのピアスを弄んだ。
疲れているから帰れないのかと思って「タクシー代なら出すよ」と提案しても断られた。そういうことではないらしかった。
「……コーヒーでも飲みながら話すか?」
「ああ、うん。そのほうがいいかな。ちょうど休憩したかったし」
休んでいた分これくらいさせてくれと頼んで、お湯を沸かした。最近はインスタントのコーヒーでもおいしい。
俺がココアを飲んだ入れ物は、ひっくり返されて水切りラックに置かれていた。申し訳ないと感じながらも頬が緩んでいた自分に気づき、一人で目を丸くする。
マグカップを置いて、ミサキの対面のソファに腰を下ろした。体重で沈んだソファには自分のぬくもりが残っている。
誰かとやりとりをしていたらしいミサキは顔を上げて、じゃっかんもごもごしながら「ありがとう」と言い、スマホを上着のポケットにしまった。
「食料はまだしばらくもつ。それに、泊まることはヒヨリに伝えた。あとは先生の許可だけ」
「許可って言っても。好きにしていいと思うけど……。ヒヨリっていうのはリーダーの名前?」
「リーダーはサオリ。ヒヨリは……青緑の髪をサイドで結んでいる子」
「ああ、あの……」
陰気な初音ミクがヒヨリらしかった。それでいて、スポーツキャップの鋭い目の子がサオリ。ガスマスクの子から『さっちゃん』呼びされていたことをたった今思い出した。
「私たちのことが書かれた資料、トリニティから送られてきてたよ。『エデン条約に関する騒動について』って名前で。細部は書かれてなかったけどゲヘナからも似たものが送られてた。……まあ、うん。置いてあった時点で予想はしていたから、いいよ」
目をそらした俺に構わずミサキは続けた。
「ご飯を食べながらでも話すよ。知っておいても損はないだろうから。私たちがどうして逃げているのか、どうせ詳しく分かってないんでしょ?」
「エデン条約を結ぶときに暗躍していたアリウスの生徒で、何か、アリウスから離反して追われているな、くらいしか。だから、説明してもらえると、すごくありがたい」
「○○してほしい」と伝えることが俺は極端に苦手だった。これは自分が口に出すと、まるで自分が駄々をこねる子どものように感じられるからだった。
そのせいで今もあんな頼み方になった。してもらえたら嬉しいけど、無理ならいいよ……? と、あくまで下手に、むやみに敵を増やさないように。
「うん」ミサキは穏やかに頷いた。まとっている雰囲気からそう思った。表情や声はむしろ気だるげなのがおかしかった。
「何?」
「いや、何でもない。……ああいや。何でもなくはないな。ただミサキに伝えたら怒られそうだから、黙ってる」
「それ、隠されてることに余計に怒るけど」
冷ややかな視線を受け流してコーヒーを口にした。
ミサキも同じように口に運んで、「あつっ」とすぐに離した。ばつが悪そうにミサキは視線をそらす。
笑ったら睨まれた。
しれっとコーヒーを飲んで、憎々しい顔をされる。
「リーダーのサオリには泊まることを伝えなくていいのか?」
ミサキは視線はそらしたまま、神妙な面持ちになっていって「どうせ伝わるだろうからやめとく」と一口に言った。面倒くさそうだった。
「それより」
ちびっとコーヒーを口にしてマグカップを置いたミサキが続ける。
「晩ごはん……その。台所、借りてもいい? 余裕があったら食材も。先生のも用意するから」
おずおずと、相手の機嫌を損ねないような切り出し方。全身から発される特異な雰囲気から、彼女の境遇を思うことは簡単だった。
勇気を
「作り置きがあるから、それを食べるといい」
「…………料理できたの?」
「一応はな」
半信半疑の顔だった彼女に、向こうでは一人暮らしだったことを伝える。大学に入った歳から六年ほど自炊生活をしていた。ここで寝泊まりすることがかなり多いので、自然と食料を置くようになっていた。
最後に茶化すように付け加えた一言で、ミサキは俺を信用したらしかった。
「一人のほうがいろいろ気楽だろう? だから、生活のすべを覚えたんだよ」
「……ああ、うん。そうだね」
二人だけが知ってる合言葉みたいな空気だと思った。出会ってから数日というのが信じられない。
俺のコーヒーが空になったころに、ミサキはようやっとそれを満足に飲み始めた。ミサキの表情が少しだけ柔らかいのがほほえましい。
「……あと、そうだ。俺の分はいらんよ。腹減ってないし」
「でも、お昼も食べてないでしょ」
まあな、と俺は頷く。ミサキは無関心な話題だろうと思っていたが、彼女は黙考していた。
「何か、リーダーが言ってたこと少し分かるかもな」険しい顔のミサキはそれきり話をしなかった。
彼女の機嫌を損ねたのか考え、関係が大変そうなリーダーに同調した意味も分からず不安になってしまった俺に気づいたらしく、ミサキは短く謝った。
「そんなつもりはなかったんだ。話すと長くなりそうだから、言わないけど」
「……そうか。分かった」
「私があとで一緒に洗っとくから、マグカップは流しに置いていって。ああ……あと、冷蔵庫の場所を教えてもらえると、助かる」
ミサキの言葉は尻すぼみになっていった。
質問を受けて説明した俺に、ミサキは思い出したように付け加えた。今度もまた弱々しい声音と表情で、それが俺に親しみをわかせる。
「ついでだから、今のうちにいろいろと場所を聞いてもいい?」
彼女は特に、シャワールームに興味を示した。俺が入るタイミングで声をかけてほしいとも言った。
そしてまた彼女は、俺の寝室と同じ階にあるオフィスで寝ることを頑として譲らなかった。ソファで寝れるなら上等とは彼女の弁である。
「仮眠室で寝るなら、先生も一緒の部屋で寝て」
その一本刀で、ミサキは俺の提案をばっさりと退けた。
「寂しい、とか? 誰かが一緒じゃないと寝れないとかか?」
「それは違う。ただ少し、思うところがあるだけ」
両者ともに譲らないとなれば、先ほどのように力で捻じ伏せられるのだろうと思ったので、俺はそれ以上を尋ねなかった。
エデン条約のあらましを食事中に聞き、先に風呂をいただく。ミサキには必要なものをコンビニで買ってくるようにとお金を渡したが、けれども彼女は、寝間着を買ってこなかった。
そうして何事もなく夜が明けた。
必要なものを買ってリュックをぱんぱんにした彼女は、後腐れも名残惜しさもなく去っていった。
エデン条約編について補足を。都合のいい解釈が多く含まれており、苦手な方は後書きをすっ飛ばすことをおすすめいたします。今後の展開にはあまり関係がなく、この先生の世界線ではエデン条約はこうなったという解釈になります。
この物語の主軸ではなく、神視点でのダイジェストとなります。
ミカ、ナギサに呼ばれた先生は補習授業部の担任となる。嫌われることを恐れて心情や行動を深く考えすぎる性質で
訪れた調印式の日、先生は参列しなかった。
爆撃は成功したものの、アリウススクワッドによる襲撃は失敗。これはヒフミの功績が大きく、異なる解釈の前に書き換えられたETOにより聖徒会が混乱してしまった。
機能不全となった聖徒会の複製を得ることは叶わず、ベアトリーチェの目論見通りにはならなかった。
炎に包まれる調印式の会場で、アツコはベアトリーチェと取引するのではなく、スクワッドで逃げることを決意。
トリニティから追われていると思っていたのは、襲撃(調印式の前にナギサを誘拐しようとして)したせい。
アリウスから追われているのは、逃げたせい。なお、ベアトリーチェの動向は不明。
こんな感じになるのかなと。
エデン条約編の復習をせずに一話を書いてしまった末路の、突貫工事の言い訳です。読んでくださる方が冷めることをしてしまったかもしれません。申し訳ありません。
評価、感想、お気に入り登録など、ありがとうございます。
もうしばらくの間、拙作をよろしくお願いします。