戒野ミサキは歩きたい   作:ぞんぞりもす

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六話

 特段の変化もないまま、月日は過ぎ去った。定期考査が終わって夏休みが始まるまでの間みたいな、気の抜けた宙ぶらりんな日々だった。

 

 

 俺の行動原理は、『ミサキに反面教師にしてほしい』から変わっていた。

 そして彼女の境遇を利用し、ポケットマネーをはたいてでも顔を合わせる機会を多く作っていた。

 恋をしている相手への言動と何が違うのかと問われれば、俺は困るだろう。けれども森の中から湧き出る水とよく似た透明な興味は、相手と近しくなるための言い訳に便利な感情――恋とは明らかに違うように思えた。

 

 

 かといって愛かと問われればそうでもなくて。徐々に相手への興味が薄れて感情が風化して脆くなってゆく過程だとも思えなかったし、それほどの感情を一ヶ月で育むことは不可能のように感じられた。

 この恋と愛についての見解は、俺が元恋人や家族と過ごして得たものだから合っているのかは不明だ。

 

 ほっとけない。ミサキは、言動の端々に見える機微を察しようとして目で追ってしまう相手となっていた。

 

 

 「何?」目で追ってしまって何度も睨まれる中で、彼女は俺のことをどう思っているのだろうと考える気持ちも芽生えていた。

 自分に自信のない俺の思考は『嫌われているかそうでないか』の環状線を巡り巡って、最終的に疲れて運休するのが常だった。

 

 近づきすぎず、離れすぎずの心の距離で話すことは何度かあった。けれどもそもそもの会話が少なかったし、アクシデントも起こっていないし、また業務についての会話が大半。過ごす場所はすべてオフィス。

 ここから彼女の機微を探ることは不可能だった。

 

 

 アリウススクワッドの中でミサキしか当番に入ることがないという事実も、彼女の解釈を難しくした。

 ミサキに一度聞いたところ「リーダーや姫は興味をもっているけど、私の役割になった。それに先生も、あまり自分のことを知ってほしいわけじゃないでしょ」と返されたため、そのとおりだと思ってしまいそこで終了した。

 

 

 結論として俺とミサキは、追手から見つかる危険――今のところ一度もないらしいが――を互いに承知しながら、木の家を築き上げていた。藁の家よりも強いが、吹けば飛ぶことに代わりはない。

 

 

「先生」

 

 

 その声に敬意はなかった。けれども、出会ってから一ヶ月が経った今、ミサキが俺を呼ぶ声は以前よりも柔らかくなったように思う。

 

 

 ミサキは荷物をドアの横の壁にくっつけて置いた。相変わらず重そうな荷物だった。

 俺は机の前までやってきた彼女にぎこちない笑みを向ける。廃墟住みの女子のはずなのに、あたりには甘い香りが漂っていた。

 

 

「少しぼーっとしていたみたいで。すまない」

「ベレッタ92を持ちながら? というかそれ、何のために? 護身用?」

「あ~……まあ、そんなところだ」

 

 

 苦笑したけれども、これはおそらくへらへらとした苦笑になったと思う。ごまかすのが遅すぎた。

 ミサキは目をつむるのみで何も言わない。

 

 昼下がり。地球が太陽に引かれるように、意識無意識などなく、自然の法則の一部として俺は引き出しを開けた。取り出したハンドガンを持ちながら考え事を始めたのは、昼食を済ませてから少し仕事をしたあと。

 

 

 当時の俺は、『放課後にミサキが来るけどまあ――』などと楽観視していた。

 果物ナイフや包丁、シャーペン、耳かきなどを凝視して考え事をしてしまうのは俺の悪癖の一つだった。

 

 気づけばかなり影が伸びている。暖色を帯びた太陽に照らされるミサキの顔は、それでも蒼白だった。

 無感動な目に見下される。ミサキは俺から目をそれして、また焦点を合わせた。

 

 

「何してたの?」

 

 

 見つめ合う時間が続く。

 焦げ茶の瞳からは逃げられない。時おりこうした頑なさを見せるミサキの態度もまた、彼女の解釈を難しくした。俺がミサキを目で追ってしまうのと似たような理由な気はしている。が、俺は自惚れと自信の線引きを考えたことがない。

 

 

 何と言おうか。

 ミサキから視線を下ろす。

 しっかりと持ち手を握り込める大きさの、名前も知らなかったハンドガン。それは橙を受けてきらめく。この銃は今のところ、俺が買った目的も護身の役目も果たしていない。もっとも、キヴォトスで護身用のハンドガンなんてお笑い草だ。撃って死ぬのは俺や黒服だけだろう。

 さて。

 

 

「手入れでもしてたの?」

「……まあ、そんなところかな」

 

 

 仕方ないなと言うように、ミサキはほんの少しだけ目尻を下げた。優しくて、手を伸ばすことができず悔やんでいるような目。傷だらけの野生動物を見る目だと思った。

 これは助け舟だ。何も答えられない俺に、そういうことにしておいてあげると提案してくれたのだ。

 

 

 ミサキは細かなところへの配慮ができる子だった。

 細かな部分を気にかけすぎて、考えて考えて、押しつぶされてしまう子。

 彼女の精神が不安定なのはその優しさからなのではないかと俺は考えていた。それについて話をしていないので、真相は彼女の胸に眠っている。

 

 

「それなら、邪魔した」

「いいや。ちょうど全部終わったところだったから、大丈夫だ。ぴかぴかだったろう?」

「うん。誰も手をつけてないみたいだった」

 

 

 答え合わせはせずに、互いが都合のいいように解釈をする。

 ほどほどに気遣い、ほどほどに察するだけ。言葉を重ねて分かり合うには、二人はすり切れてしまっている。

 

 

 人間同士の話し合い。

 

 それは戦争よりも根深い問題で、利害なんてなくて、善悪もつけられない――終わりなき共同作業。

 妥協というツチノコを探し続ける苦行。みんな途中で疲れるから、離婚なんて言葉が生まれたのだ。

 

 

「このまま使わないでいるのがいいと思う。先生は戦えないし、撃たれたら大変だから」

「……戦闘も整頓も任せっきりなのが何だかな」

「それは、分かるけどさ。できないことは、無理にしなくていいよ」

 

 

 自虐に対してことのほか真摯な言葉が返ってきた。

 顔を上げた俺に、ミサキはハイライトの薄い目を向ける。きゅっと結んだ口を何回か開いては閉じ、目をぎゅっと閉じたあとに、俺を見据える。

 

 

「私がここに来てるのは、先生を手伝うため。そして資源を持ち帰るため。仕事を増やされたら『面倒』って言えばいいけど、減らされたら困る。報酬が減るから」

 

 

 最初の一文を聞いて浮ついた気持ちになった自分は卑しい。そしてそれが違ったからと言って落ち込む自分は、もっと卑しい。

 この一ヶ月で徐々に忘れていったことだった。俺は、アリウススクワッドの望むままをする心持ちでいた。けれども彼女たちは、仕事と報酬という関係を重んじていた。

 

 

 自分の表情に気を配る余裕がない。間を空けたらその分だけ心を覗かれると思って、俺はすぐに喋った。知らず、肉体を切って見せていた。

 

 

「ウィンウィンを重視するのは分からないでもないんだがな。俺からすれば、『いつまでできないんだ』っていつか怒られるんじゃないかって思ってしまうよ」

「確かに私の機嫌が悪いときだってあるだろうし、疲れてるときにいらっとすることはあるかもしれない。でも、怒ることはしない。任務に感情はいらない。特に怒りは、誤った判断をさせるから」

「ミサキはそうかもしれないがな……。まあ、俺にも、いろいろあったから」

 

 

 疲れたように笑う俺を見て、ミサキは悔しそうに唇を結んだ。俺は表情を取り繕えずにへらへら笑ってしまったのかもしれない。暖かい色が差しこんでいるオフィスで肺に入った空気は軽くない。

 「馬鹿みたいに人を信じられたらよかった」呟いたミサキは無表情だった。赤色、黄色、緑色、青色、茶色――いろんな色の気持ちを混ぜ合わせた結果、そうなってしまったような。たくさんの色が混じった筆洗いは汚い色をしているけれど、ミサキの表情はぜんぜん違って、もっと神聖なものに感じられる。

 

 俺は肩を竦めて話を終わらせる。

 

 

「まったくだよ」

 

 

 ミサキに紙の整頓を頼んで、俺はパソコンに向かった。

 

 

 夢中になっていたらしく気づかなかったが、明かりは夕日でなく蛍光灯に変わっているし、ところどころブラインドが降りているし、書類はすべて山分けされていた。

 

 周囲に目がいき集中できていないと気づいた途端、わずかながらも残っていた集中力が霧散してしまった。

 音を立てながら椅子を引いて背もたれに体重を預け、光が目に刺さるのも構わず天井を見る。首や腰が痛かった。

 

 

「利害……か」

 

 

 繰り返した言葉は、すっかり忘れていた事実に関するもの。考えれば考えるほど、私情から生まれた利害関係はそもそもの成り立ちから破綻しているように思われた。

 

 それを忘れているうちは幸せだったけれども、いざ目の前に突きつけられてみると、脳裏にちらついて回る。

 

 

「どうしたの?」

「ん? ああ、いや……ああ、いたのか」

 

 

 片手に一つずつマグカップを持ってきたミサキ。

 二度見したことを笑ってごまかしたが、それだけでミサキはすべてを察したようだった。

 わざわざ取っ手を右にして俺の分を机の右端に置いてくれる。どこにも謝意など感じさない、ただ言うだけの礼が滑り出た。

 『お風呂がわきました』って機械音から感情を読み取れるわけはないのに、俺はそれをした。

 

 

 以前はいちいち許可を求めていたコーヒーを準備するということを、最近のミサキは無言でやるようになっていた。小さな変化だ。けれども俺は、そのわずかな距離の縮まりに嬉しさを覚えている。

 同時に、ミサキはコーヒーを飲んだあと洗い物をしてすぐに帰ることも学んでいた。

 

 

 さて。

 

 

 前は抑えていたことが、はっきりした言葉となってオフィスの空気を震わせてしまった。寒くも暖かくもないちょうどよい空間は微妙な空気に落ちる。

 

 利害の内容について俺は一言も口を利かなかった。けれども、言葉以外が雄弁に語ったようだった。

 ミサキは固く結んでいた唇を開く。

 

 

「たぶん私たちは、貸し借りっていうものにひどく鋭い。だから、天秤が傾いた状態を敏感に嗅ぎ分けて、勝手に居心地が悪くなる。その空気を吸っていることが私たちにとってはストレスになる」

 

 

 ――だから駄目だよ。ミサキは口にしなかった。想像できた内容の声には、普段のような一本筋の通った無気力さがない。

 借りがあると思うと何かすり減る。いつか俺が言ったことをミサキは詳しくした。

 

 

「難しいな」

 

 

 ごちてコーヒーを口にする。マグカップってやけにすべすべした手ざわりなんだなと今さら知った。そのくせ苦味も熱さも感じなかった。せっかくミサキが用意してくれた飲み物を無駄に消費しているような気がして、一口以上受け付けなかった。

 惰性でブルーライトに向かう。

 

 邪魔をしないようにか、隣に立っていたはずのミサキは視界の外に行っていた。

 

 

 緩慢な仕事を続ける俺を、不意に後ろから聞こえた声が止める。ずっと脳内で会話をしていて、ついにそれが漏れ出たような苦悩に満ちていた。

 

 

「私は、もしも借りを作ったとして、返せるものが何もない。差し出せるものが何もないのにねだるのって……さ。……だから私は、何も求めない」

 

 

 自分を励ますためにあえて口にしたのであろう最後の一言。

 本音と建前を、行ったり来たり。揺れ動く内心がそのまま声になっている。直感で思った。

 

 

「先生が私を頼る分には、好きにしてもいいよ。私は先生の駄目なところを散々見てるし、仕事である以上は従うから」

「……頼られる分には、俺も全然いいんだけどな」

「私たちはきっとそういう病気。しょうがない」

「世にも珍しい、一等星みたいな奇病だな」

「その言葉に無邪気に笑えるようになったら、私もあなたも完治してるね」

「まったくだよ。……度し難いな」

 

 

 コーヒーを飲む。酸味の少ない好みの味。

 ミサキも同じようにコーヒーを飲んでいた。笑顔ではないけれど、穏やかな顔だった。

 

 

 そうか。ミサキが普通に飲めるくらい冷えるまで、彼女は自分の話をするか迷っていたのか。

 

 

 お互いに、人に頼られるのは何とも思わないけれども、人を頼ることはしない。

 

 似た者どうし手を取り合って頼っていこう――そんなふうに一歩踏み込まないところが、どこまでも今の俺たちらしかった。

 

 

 本音を言えば俺は踏み込みたくって、きっとそれはミサキも同じで。けれども口にしたら最後、言葉となって相手に届いた責任みたいな重みがついてまわって、俺たちを苦しめると分かっているからこそ、口に出せないままでいる。

 

 

 味わってコーヒーを飲んだ。

 

 

 マグカップを洗い終わったミサキが俺の隣に立った。普段はビニール袋をがさがさ言わせながらリュックにしまい、背負うから、意外な行動をとった彼女を見上げた。

 それと同時にミサキは「そういえば」と硬い声を出した。

 

 

「スイミー読んだんだけど。……ごめん。その。言いそびれてて、今思い出した。でも、この空気で言うことじゃなかったかもしれないね」

「……構わんよ。唐突だなとはまあ、思ったけどな」

 

 

 目をそらして伝えてくるミサキに、笑みを返す。

 ミサキは耳たぶをいじったままで続きを話さない。

 

 

「俺も読み返してみたよ。あんなふうには、なれないよな」

「……うん」

 

 

 少しの間、遠い目をしたままミサキと言葉をかわす。

 これはどこまでも続きそうな、俺とミサキの日常の一部だった。

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