二人の女生徒が一緒にお風呂に入る場面があります。苦手な方はご注意ください。
この滴り落ちる温かな液体が赤色であるならば、私は、冷たい死を迎えるのだろう。
フックにかかったシャワーから打たれながら、ふと思う。
私たちが住んでいる廃墟はもともと大きな寮か何かだったようで、浴室が複数あった。シャワーだけでなく浴槽までついている部屋が無事だったのは、多くの建物をあさったことと、運がよかったことが関係しているだろう。
最初にシャワーからお湯を出したとき――なぜ出るのかは考えないようにしている――茶色くて
二人がぎりぎり体を洗い合えるくらいの浴室。タイル張りの床はひび割れていないが、色落ちがひどい。当然のように風呂桶もバスチェアもない。電球もやられているから、日中に入るしかない。けれど浴槽は私が足を伸ばせる程度と広く、二人で入ることが可能だ。
「……そうか」
私は、死を冷たいものと思っている。
思い返す。ぼんやりとした頭で考えていたことは、やはりぼんやりとしていてそれ以上思い出せなかった。
ああでも、だから私は先生の温かみに引き寄せられるのかもしれない。冬にストーブにあたるみたいなもの。
けれど、私が先生に引き寄せられる理由としては弱い気がした。そして何より、先生が私を気にかけてくれることを、そんな安っぽい理由にしたくなかった。
「……結局、似ているからか」
話が合う。感性が合う。とか。そんな理由。何だか少し悲しかった。それはきっと、私以外に先生と似ている人がいれば、先生は――と考えてしまったからだろう。
「子どもっぽいな」
「考え事? みーちゃん」
「……姫。おかえり」
「うん。ただいま」
横開きのすりガラスの扉を開けて入ってきたのは、資源の探索から戻ってきた姫だった。梅雨の到来が忌々しい五月の下旬、五時にもなれば帰ってきたほうがいい。今はおそらくそれくらいの時間だろう。一度シャワーを止めた。
予想以上に浴びている。このままじゃ倒れそうだ……。
姫がシャワーを浴びれるように、狭い箱の窓側に寄った。熱を持った体が、欠けた窓から吹く冷たく湿った風にまとわりつかれてびくつく。曇天だ。
紺色と水色。新品のハンドタオルが置き場に並ぶ。
ノズルを持って軽くシャワーを浴びた姫は、私にもお湯をかけた。
「順番はどうする?」
「私が先に洗うよ。少し体を冷やしたいから」
「分かった」
姫の後ろに立った。私が先に姫を洗う。こうして互いに体を洗う習慣は長い間続いていたものだった。
先生がしれっと用意していた敏感肌にも優しいボディソープやシャンプー、洗顔料。もったいなくて、三日に一回とかしか使っていない。あの先生のおかげで、私たちの生活水準はかなり高くなっていた。
一度、あまりにも分不相応なものをもらっているとして質問したことがあったが、
「俺の仕事の二、三割くらいは働いてもらっているから、逆にこれくらい渡さないと申し訳ない」
と、目をそらしながらきまり悪そうな顔で言っていて、本心なのだろうと思った。私以外の三人からは支援がかなり好評なので、強く断る理由もない。私が申し訳なく感じるだけ。だから飲み物を用意するとかその他の雑用で働いたつもりでいる。
…………利害関係だ。
ふと姫と目が合って、洗い終わったのだと知る。柔らかい笑顔を向けられ、私の頬もつい緩んだ。姫には愛嬌がある。
「ありがとう」
「うん」
今度は私が鏡の前に立った。私は目を閉じた。大切なワンプッシュの音。
姫は丁寧に、私が、最も楽になれる道を選びたくてつけてしまった跡を洗ってくれる。ヒヨリはおっかなびっくりに触るし、リーダーはどこを洗っても雑。あと痛い。腕力。
お湯と優しい手つきが私の体を新しくする。体に当たって滴るお湯は、ガラスに当たる雨よりも無意味。ガラスは雨できれいになるけれど、私の穢れた思考は同じまま。洗ってもきれいになった試しがない。
姫は頭、顔と洗ってマッサージまでしてくれた。
……私は自発的に笑みを向けられないな。
「ありがとう」
「うん」
姫が新品のバレッタで髪をまとめなおしている間に湯船に入る。つま先を下にして入ったのに重い器は間の抜けた音を立てた。
姫が対面に座れるように、左腕で膝を抱えるようにし、右腕を縁に乗せた。
ふとした拍子に、述懐が蘇る。
利害関係。
そう言わなければならなかった。もしも私情を挟まれたら、私には何もない。返せない。体ですら。
あの関係が先生の私情から始まったのだと正論をぬかす自分を外に追いやる。
先生と利害以外で関わるなどおこがましい。人と人の関係は親子などの特別な場合を除いて――いや、そんな特別な場合でも、信頼関係で成り立つ。そして私は、何年も重ねたそれを一晩でひっくり返したことがある。
人は裏切るのだという生きた証明である私が、どうして無条件に人を信じられるだろうか。
信じてもらうことを無邪気に求められるだろうか。
「考え事?」
「うん」
無垢な目。いとけない顔。
「みーちゃんが笑った」
「……笑ってない」
「そうなのかな。私を見たときに、少し目つきが変わったから」
「変わったかな。分からない。あと、目つきが変わったのは笑ったには含まない」
アリウススクワッドは裏切りによって守られた組織だ。そしてその意識を持つのは、私一人で十分。無理に知らせたくもない。
四人で生き残るためだったとしても。
人としての尊厳がない扱いを受け続けたとしても。
任務を遂行する機能だけを備えた捨て駒と思われていたとしても。
私たちが任務を放棄し、育ててもらった恩義を仇で返したことは覆らない。有罪判決が情状酌量のみで無罪になるのなら、犯罪はもう少し
私が生きている限り、私は証明であり続ける。
こういう輪にはまってしまうと、思考は必ず、私を楽にしたがるほうに導いた。
私は右の手首を見る。包帯で隠している証拠。色味と肉付きの悪い体についた細い変色。
こんなとき、先生がいれば。衝動的に先生を押し倒した記憶がよぎる。男性の、けれども脆い肩だった。触れた場所から伝わってきた熱を、はたして先生も感じただろうか。
私は意図的に、なぜ衝動にまかせて先生に触れたのか考えないようにしていた。何かを思いつくことが怖かった。どうでもよくない結論が出てくることを恐れる日が来るなんて、思いもしなかった。
「みーちゃん」
視界に影がさした。柔らかなものが私を包み込む。
遅れて、私の頭に姫の両腕が回され、頬ずりされていることに気づいた。
「……ごめん」
「ううん。みーちゃんが何を考えているか分からなくてごめんね」
「それは違う。私が悪い」
思考を遮ってもらったあげくに謝られる始末。
しばらく私は、姫の柔らかい頬と、ところどころに当たる肢体を感じていた。ぴたりと動きを止めた姫が私の胸に手を当てる。動いている。
「みーちゃんは先生になら、話せるよ」
「……そうかもね」
「あたたかいね」
「うん」
姫は私から離れ、そのあと関係のない話をぽつりぽつりとした。印象に残ったのは、学校に行ってみたいと語る姫に、うまい言葉を返せなかったことだった。
ブラックマーケットをひっくり返せばじゃらじゃらと落ちてくるようなありきたりな願い。その資格は私たちにはないのだ。私たちは先生に出会えただけで恵まれているほうなのだろう。
しばらくして、熱くなった私は風呂の縁に腰掛けて足湯を始めた。壁に背を預け、その無機質な寒さが痛くてすぐに離れた。
「……姫は」
「うん」
「どうして私と先生が似ていると思ったの?」
ずっと気になっていたこと。
浴槽の中で三角座りをする姫はもったいぶらずに口を開いた。
「実はね。特に理由がないんだ」
姫はしてやったりと笑い顔だ。
「でも、みーちゃんが乗り気になった時点で何かあるって思った。みーちゃんが自分から何かをするって、たとえ私たちに利益があるとしても珍しいと思ったから。雰囲気が似ているとは思ったけど、それだけだと弱いよ」
「……よく見てるね」
「みーちゃんほどじゃないよ」
私はすりガラスを見る。
あれは壊れた洗面台。
あの色はおそらく畳まれた服。
壁とほとんど同色なのは洗濯機だろうか。
そんなふうにぼんやりと見える脱衣所の風景のように、姫は人の心を感じて、そして動くことができる。
「みーちゃんがさっきみたいに質問してくれて嬉しいな」
「どういうこと?」
私は姫に再び目を向けた。
隙間風が入り続けるこの浴室は、シャワーを出していないせいで外気温と同じくらいになろうとしている。そろそろあがろう。
「前までなら、命令以外のことで質問も話もあんまりしなかったから。おかえりって素直に言ってくれるようになったり、さっきみたいに目を見てありがとうって言ってくれたりするのも嬉しいよ」
「反抗期じゃないんだから、言う必要があるときは言う」
「でも、前まではときどきしか言ってくれなかったもの」
「……私はそろそろ出るから、のぼせないようにね」
「またご飯のときにね」
私は足早に脱衣所へと向かった。こんなふうに気安い会話をすることは、前までだったら、確かに稀だったと思う。
体を拭くためのバスタオルもまた、新品だった。
○
かろうじて蛍光灯が割れていない六畳ほどの小さな部屋に、小さな丸テーブルを運んで、みんなで囲む。食堂らしき場所は老化と戦闘に耐えきれなかったらしく、瓦礫の山となっていた。
色とりどりの箸、洗い場には黄色いスポンジと水色の三角コーナーとオレンジ色の洗剤容器。ちびちびと回して食べるのは、肉や魚の缶詰、スープ缶。
「む……姫、少し食べ過ぎではないか?」
「そうかな……? でもみんなもっと食べたそうだよ」
「しかしそれでは、もしものときに食料が持たない」
「さっちゃんも食べたいことは否定しないんだ。……どう思う? みーちゃん」
鯖がおいしい。味噌のようにしょっぱいものを食べたのは久しぶりな気がした。アリウス生だったころは久しぶりの間隔が一年だったのに、今では二週間ほどになっている。
「食べてもいいと思うよ。明後日また呼ばれているし、このペースならどんどん余っていく」
「やった。はい、みーちゃんにも」
「私はいいよ」
「でもまた少し痩せたんじゃない? さっき見たよ。一番動いてるんだから、一番食べてもいいと思うな」
「そういう問題じゃないんだけど……」
もともと食が細く、それも気まぐれに食事をとっていたため、食事の時間を人に合わせると食べられない。
私の分は結局リーダーが食べた。このリーダーは一番食べるくせに一番我慢をする。
姫にねだられ、不承不承にリーダーがラベルのない缶を開ける。中には桃。三人の驚きが重なった。
ラベルのついていない缶はネットで安く手に入れたものだと先生から聞いた。ただ渡されただけの私たちには、その缶の製造元が分からない。下手をすれば爆発物かもしれない。それをためらいなく開けてこの反応。
「ひーちゃんに大きいのをあげるね」
「え、ええ……いいんですか……!? リーダーは……」
「さっちゃんはみーちゃんの分も食べるから。ほら、早く取らないとさっちゃんに取られちゃうよ」
「ええ! い、いただきます!」
「姫、私は分量は守るが」
先生を、信頼しているのだろうか。
一度も追手から見つかっていないことも、私たちの油断を増長させている。
ご飯を囲んで食べることはなかったし、こんな雰囲気でもなかった。先生が手伝ってくれるようになってから、少しずつ私を取り囲む雰囲気は変わっていった。
どの景色にも先生がいる。褪せた建物に色が増えていく。
私はオフィスの片付けをするために先生のもとに行く。
…………片付けをすれば、減っていく。減っていってしまう。