キヴォトス全体に薄黒い雲が広がっていた。雲が低く重たいせいで、高い建物が雲の支柱になっていると思った。
水滴が下に流れるガラス窓から景色を見やる。オフィスの電気をつけていないので外のほうが明るく、よく見えた。
若々しい色をしていた葉っぱは緑を濃くし、雨に打ちつけられているせいで色の重みが増している。
葉っぱに、何となく人間関係を重ねた。
季節で様相を変え、冬に枯れる。
人から嫌われることが嫌で頑張って何者かを演じ、そこそこ好かれる。反復横跳びの線みたいにちぎれていたり見えづらい曖昧な線引があって、そこから先、自分のスペースには決して入らせない。
その状態で紙に限らずたくさんの失敗を繰り返して、あれ? と思われる。
隠蔽しきれなくなって、やがて離れられる。
あ。枯れた。
手と額をガラスにつけて真下を見ようとし、指紋がついたらミサキはどんな表情をするだろうと思ってやめた。
ミサキは『貸し借り』を天秤でたとえた。
俺にとっての天秤は『生死』だったから、その表し方に初めて出会った。
常に、死の方向に重りがある。意思が介在する余地はまったくない。
自分がその方向に傾いているのだと気づいたのは、中学二年の春に、何の部活に入ろうかと窓から外を眺めているときだった。部活動の練習風景が目に入らなかった俺は帰宅部となった。
死にたがる性質を不安定だとするならば、俺は不安定と不健全のオリンピックで優勝できるだろう。
梅雨に入り、季節は七月へと移ろっていた。
除湿の利いた部屋でミサキが両腕を抱えるようにさすっていたことを思い出した。そうだ。ミサキが寒がらないように、あとで程々に調整しなければ。今日は、ミサキが来る日だ。
○
ミサキはオフィスの扉を開けて壁際に荷物を置き、電気をつけ、いつものように俺の横を通った。俺の後ろの長机に紙をまとめて置いておくというのが暗黙のうちに決まっていた。
ごつごつごつとこの時期でも厚底なブーツが奏でる音に違和感を覚えて、作成していた文書を保存し、椅子を引いてくるっと反転させた。体重を乗せたキャスターの音は外の天気と相まって、遠くに雷が落ちたときみたいに低く響いた。
片手それぞれに紙を持つミサキを見上げ、考えこむ。元々が病的に白いから顔色は当てにならない。真っ白が三つ並んでいて、どれがミサキだ……? と言ってもあながち冗談にならなそうだった。
ミサキが俺を睨む。
「何?」
「何か、いつもと違うから」
「私はいつもどおり」
焦げ茶の瞳に生気は薄い。いつもどおりと言われればそうだけれども。
他者に踏みこむことと、自分を押しつけることは紙一重だ。助けを求めていない相手を助けることは、傲慢なだけ。
俺は首をひねって、その場を切り上げた。あまりにも仕事をしていないと力による断罪が起こるだろう。
何気なくスマホで時間を確認してぎょっとした。十一時の手前だった。あれもやらねば、これもやらねばと、降り続く雨の音をBGMに集中しすぎていたらしい。いつも遅くとも九時にはミサキがコーヒーを持ってきてくれるので、時間の確認を怠っていた。
ミサキは今やっとすべてのことを終えたようで、俺の視線に気づかずに給湯スペースまで行ってしまった。上着のポケット部分についている紺色のかわいらしいリボンが力なく揺れている。
彼女に限って、俺のように集中しすぎるということがあるだろうか。
いつもより期間が空いてしまったせいで紙の量が多かったにしても、何だか手際が悪い気がした。どの口が整理の手際が悪いなと思ってるんだと自分を殴りつけて、どうにか言い換えの言葉を探す。
休憩の準備を整えてゆっくりと歩いてくるミサキに声をかける。
「何だか今日……あー。時間、大丈夫? 紙の整理に手こずっていたのかなと思って」
「……大丈夫。飲み終わったらおとなしく帰るよ」
そうしていつものように俺の机の、マウスパッドの上あたりにコーヒーを置こうとしたとき。ミサキがバランスを崩して、少しだけ黒い液体がこぼれた。
手にかかったのだろう。短く悲鳴をあげて、その拍子にまたこぼれて、また悲鳴をあげて。最終的にミサキは二つのマグカップを落とした。
どんな音がしたのか、俺には分からなかった。ただ漠然と、紙よりもきれいな液体が床に広がっていくさまを眺めていた。そこにぽつぽつと、二人の時間の破片が散らばっていた。
液体は机の脚に届き、キャスターに届き、ビジネスシューズまで到達する。
一言も発しないミサキを見上げる。黒樫みたいな髪色を見て、彼女は今あんな心持ちなのだろうと思った。
「っ……」
彼女はひるんだように体を震わせて、俺を見て、ばつが悪そうに顔をそらす。苦しそうな顔だった。
俺は、彼女が怯えた様子を見せたことが嬉しかった。おそらくあれは、失望されたくないという心の表れだ。もしも彼女が幼少期を過ごした場所であれば、彼女は死んだ目のままで頬をさしだすか、逃げるかするだろう。
俺の歪みを、彼女に察されてはならない。
「服は汚れてないみたいだな。手は大丈夫か?」
雨の音が続いた。今なお降り続く雨は弱まっていたけれど、そのか細い音ですらミサキをめった刺しにする責め苦となっているのかもしれない。観念したのか、ミサキは振り絞るように「うん」とだけ言った。
「……でも、先生のズボン……汚した」
「ん? ああ、ああ……そうかもな」
落とした衝撃で飛び散ったコーヒー。ミサキはブーツだから大丈夫だと思っていたが、そういえば俺はブーツではなかった。裾のあたりが濡れているかもしれないが、俺は気にしなかった。
「まずまあ、そんなこともあるだろう。目立たないし、気にしてないよ。それよりもミサキを休ませることが俺にとっては重要だ」
「……ごめんなさい」
「そんな日もあるだろう。気づかなくてすまない」
「先生は気づいたよ。……私が嘘をついただけ」
沈んだ声でごめんなさいを繰り返すミサキを宥める。立ち上がり、水音を鳴らしながらミサキに近寄った。おっかなびっくりに背中に触れ、上着越しに背中をさする。
質問していくと、汗を冷やしたなどではなく、もともと体調が悪かったとのことだった。それなら断りの連絡を入れればよかったのに、などとは言わない。そんな中なぜ来てくれたのかも、考えない。浅はかな期待をしてしまうと思った。
ミサキは低気圧の日に頭痛が起こるようで、それに加えて季節の変わり目でも体調を崩しやすいと教えてくれた。
薬はおそらく、
「仮眠室まで歩けるか?」
「……いいよ。ソファで少し休むから」
「それじゃちゃんと休めんよ。今日は泊まってもいいから、しっかりと休める環境のほうがいい」
「…………仮眠室まで歩くのは、少し、厳しい」
伺うような、目と語気。大人に提案をするのはまだ怖いのか、怯えているようにも見えた。
「俺の部屋で休むといい。肩を貸すから」そう言って背中に回した手を動かす。
返事をしたミサキの声は、震えていた。
「先生は今日、どこで休むの?」
「……どうするかな」
仮眠室と言いかけて、とどまる。前にもこんなことがあったと記憶をたどり、そしてそのときにミサキがソファで寝たことに何となく意味があったような気がして、言い直した。
ミサキの顔は見られなかった。
自室のベッドにミサキを寝かせて、頭痛薬を持ってまた戻る。一人の時は気にしなかったが、カラーボックスやキャビネットがすべて空な部屋にぽつんと人がいるのは、とても寂しいことに感じられた。趣味があれば部屋は賑やかになっていただろうし、ミサキが俺を解釈する一助になったかもしれない。
うつらうつらする彼女に薬を飲ませて、また寝かせた。
ミサキと目が合った。じゃっかん口が動いたので、ベッドに腰かけて聞き直す。
「どうした?」
「頭痛薬と、スラックスのクリーニング代……足りないかもしれないけど……」
報酬から引いてほしい。ミサキはそう言った。
俺はそのつもりはなかったけれど、弁償をしないとミサキの気がすまないのだろうことは想像できた。
ミサキが「足りないけど手を打ってくれませんか」と頼んできていて、譲歩するのは俺の側。
ここで俺が「そういうのはいいから頭痛薬とかももらっておきな」というのは、彼女の天秤を壊すことに繋がる。
俺は目を閉じ、沈黙した。目を開いたときにミサキが肩をきゅうっと上にやったのが、布団の動きで分かった。
「分かった。引こう。病人とはいえ、うん」
「……うん」
「ただまあ、病人なんだ。見舞いのものをあとで見繕うから、帰るときに持っていくといい」
もしかしてと思っていたのだろう。
ミサキは唇を噛んだ。
施しを受ける、悔しさゆえだろうか。この押しつけは、確かにミサキの尊厳を傷つける自覚があった。それでも俺は、自分の感情を、心配を押しつける愚をおかした。嫌な顔をされなかったことが、嫌われなかったのだという幼稚な安心感が、俺を満たして、そのことに気づいて胸が痛くなる。
立って一直線に出口まで歩いた。扉に手をかけたところで、いつも以上に覇気のない声がする。
「逆らったらぶたれて、うるさくしてもぶたれて、失敗してもぶたれて。考えることも決めることも諦めて。大人への不信を強めるには、あの環境ほど適した場所はなかった」
洗脳と教育がミサキの体に根を張って四肢を動かしていると思った。
一呼吸。おそらく傷だらけである細い喉が、音を震わせる。
「私はどうしたら、あなたの
俺自身、その答えを持っていない。
先生。教え導く人。どこが?
きっとミサキは、俺の押し付けがましい心配を、貸しと思わずに受け取りたいと思っていて。大人への不信がそれを邪魔して、苦しんでいる。
もがけばもがくほど体が沈んでいく同じ沼に、はまってしまった。
「難しいな」
「うん。難しい」
当たり障りのない言葉が空を滑った。
一向に立ち去らない俺を見かねてか、ミサキが穏やかな声を出した。
「ヒヨリに連絡してから、休むね」
「ああ。……おやすみ」
「おやすみ、先生」
言うことに抵抗がなくなった言葉は、ずっとずっと重たかった。