俺はマグカップの破片を回収して床を拭いて、風呂に入って、どうせオフィスにいるのならと仕事をしていた。集中力がぷつりと切れたのは、深夜の三時を回ったころだった。
仮眠しようと即決してソファまで歩き、タオルケットを手にとって動きが止まる。ミサキが気にかかった。
物音に注意しながら俺は寝室まで向かった。そっとノブをひねって、犯罪者が室内を覗くときのようにそろりそろりと頭だけで様子をうかがう。
冷たく乾いた風に、遅れて冷房が効いた部屋の香り。
廊下から差しこんだ場違いな明るさが寝室の一画を照らす。
「せんせい?」
「……すまない、起こした」
「ううん。もともと起きてたよ。目が覚めたら中々寝つけなくて」
「そうか。いや、でも、すまない。邪魔した」
……沈黙。
ミサキが一人で休んでいたのを邪魔して謝っただけなのか――すなわちまだ会話を続けてもいいのか、それとも、お邪魔しましたと退出しようとしているのか。
俺はその判断を相手に委ねた。相手の反応で行動しようとした。
ややあって、ミサキは話したいと教えてくれた。
「そんなことない」
「…………ベッド、座っていいか?」
「うん。これ、もともと先生のだし」
徐々に光の筋が細くなり、やがて寝室は真っ黒い箱となった。生きる苦しさから切り離された二人きりの空間だと思った。
記憶を頼りにローテーブルを避けて進み、少し前のようにベッドに腰かける。上体を起こそうとするミサキに、寝たままのほうが楽なんじゃないかと声をかけた。
睡魔と共存しようと思って座ったまま目を閉じていたときに、つぶやきは聞こえた。
無邪気にあなたを信じられたらよかったのに。
闇に包まれる室内。そこにあるほんの少しの光でも見えてしまう夜半の目。見つめ合う。
「無償の行為なんて、あるわけがない。私はあなたに、何も返せない。……スラックスも頭痛薬も、ごめんなさい」
口に出すことで自分の罪を直視し、自傷する。
体調が悪くて、そのしんどさに心も引きずられていると思った。
胸の痛みに苦しんでいるのは彼女なのに、俺の胸まで痛くなった。身勝手な共感だと思った。彼女が俺にいてもいいと伝えたのは、きっと、俺に苦しんでほしいからではない。
ミサキが続けそうな言葉を、自分の言葉で引き取る。
「体調を崩したという事実に対して、見舞いという心配を向けられただけ。でも、自分には心配される価値がないし、自分のことを思ってくれる心配ですら重いと感じてしまう。申し訳なく思ってしまう」
「どんな感情で受け取ればいいのか、分からない。ありがとうって言えばいいのは分かるけど、でも、心ってさ」
「……そんなに単純じゃないよな」
「うん」
見舞いというのが事実でも本心でも、それを受け取った天秤には無意識に分銅が乗せられる。かちゃん、かちゃんと乗せられていって、もうこれ以上傾くことができないとなれば、天秤は砂の城のようにさらさらと崩れ去る。
「この月に誕生日の人はいないのか?」
「いない」
「誕生日プレゼント作戦も駄目か」
「……なにそれ」
今日初めてミサキが笑った。
たとえ世界を逆さまにしても手詰まりなことがある。
どうしようもないからこそ笑ってしまうという矛盾が世の中にはある。
和やかな空気には、吸っているだけで肺が痛む冷たさがあった。
俺が自分勝手に心配したのに、ミサキは俺の行為を受け止めようとしてくれていて。でもうまくできなくて、しんどくなっていて。今度はおそらく、うまくできなくてごめんなさいと思っている。
俺はそれを察して、自分がミサキに無理をさせているのだという自覚にじくじくと胸を痛めている。
真っ暗闇の箱に、大きな絶望がうずくまっていると思った。こちらを向いた絶望が、三日月みたいに明るくて大きな口を開けている。
このままでは飲みこまれてしまう。俺がミサキと近しい関係になりたかったのは、こんな終わりを迎えるためじゃなかったのに。
掛け布団を握り込む。手触りのいいさらさらのそれは、自分の言葉がミサキに届くことなく流れ落ちるのではないかと連想させる。
命の証が忙しなく動いている。
歯を噛みしめ、やっと口を開こうとして、かたかたと無様な音を立てる。
それでも。
「俺は……自分が心配されたら申し訳なくなるし、逆に怖くなってしまうから、ミサキの気持ちは、何となく分かるんだ。俺はそんなに心配してもらえる人間じゃないし、あなたの望むとおりに行動するかも分かりません。投資が無駄になるかもしれませんって、萎縮してしまうんだ。だから、分かるんだよ」
受け取った彼女が傷つくことが必然であると。
感情に任せて頭の整理なんかせずに話し始めてしまって、ああまたミサキを困惑させてしまうなと思う。
この箱を外からもう一人の自分が観察しているような冷静さに、腹が立つ。
「人の心配はいいのに、されたら駄目なんだよ。その気持ちが分かるからさ、どれだけ言い募っても通じないんだってのも分かって、しんどくなる。失敗の怖さも、それを受け入れてもらえたことに対する不甲斐なさとか申し訳なさも、思いやりを向けられるしんどさも、今、こうして正直な気持ちを向けられる怖さも分かるから……何も、何もできなくて。それで今度ミサキはきっと、俺に対して、何もできないと思わせてすまないと感じる」
困ったよ、俺。
俺も笑ってしまった。
悔しかった。悲しかった。
手を取り合うことも、頼ることも決してしなくて。けれども、何となく似ていると思っているからこそ、付かず離れずに一緒にいた。
そういう病気なんだ。もしも完治したら、本当に完治したのかと考え、疑い、怯えてしまう病気なんだ。
SNSや手紙、生配信。それらは対面という隔たりがないものよりもよほど上っ面の優しさに満ちている。
それでも、対面には思いやりや本心からの会話があると思う。隔たりがないからこそ、心から触れ合える。けれども俺たちは、思いやりを受けてすら天秤が傾く。かんたんに傷つけられてしまう。
抑えがたい涙を抑えようとして、代わりに呼吸が荒くなる。息を吐くたびに奥歯を噛んでしまって、呼気に音が混じった。
泣いていいのは俺じゃない。
俺は努めて深呼吸をした。
やっと整ったころに、ミサキは沈黙を破って語りだした。
「そうやって怖がってくれる先生だから、私は……信じてみたい」
隔たりがないと思った。
下にやっていた視線を動かしている合間に彼女が語った内容に、俺は上がった顔をまた下げる。
「でも、私のことは信じないほうがいい。きっと平気な顔をして先生のことを裏切るだろうから」
「それは――」
どうして。
絞り出すようにして出た声は尻すぼみになった。
それでもミサキは察してくれた。そうして彼女は、エデン条約のあらましとは別の角度から、穏やかな声で、自分自身にゆっくりとナイフを入れていった。
「私自身が、人は裏切るということの生きた証明だから。私が生きているのは、積み重ねた時間をすべてひっくり返したから。地獄のような環境だったとはいえ、育てられた恩義を、仇で返したから」
俺とはぜんぜん違う、整理された文章だった。ミサキは俺のように、頭の中を脈絡なく話すことがない。だから、その必要最低限の言葉の中には、俺が想像できない苦しさが詰まっているはずだ。
それこそ、生きることが最も苦しいことだと認識してしまうくらいに。
一切の悲しさを感じさせない
「人を傷つけたことをとても申し訳なく思う気持ちは、先生にも分かるでしょ?」
ミサキは話している間、一切俺の目を見なかった。きっと、俺の表情を見られないのだと思った。
失望していたり、怒っていたり。俺が、ミサキの望んでいない表情を浮かべていると分かってしまったら、大変なことになるから。見なければ、それは存在しないのと同義だ。
懺悔は終わった。
強く、抱きしめたいと思った。体は動かなかった。
ごめんなさい。身勝手にいろいろと話してしまった。そのくせ、動けなかった。また逃げた。条件反射で謝罪が口に出そうになるのを堪えて、言葉を探した。
「他の人には話したか?」
「いいや。ヒヨリやリーダーは考えないだろうし、姫もたぶん気づいてない。考えて言葉にするよりも感じ取るタイプだからね、姫は。言われれば理解すると思うし、『私のせいなのかな』って自分を責めてしまうだろうから、言ってない」
二人だけの秘密。言葉には出さない。
ミサキの家に一歩分だけのスペースを作ってもらって、そこを土足で踏み荒らして帰ったのかもしれない。不安になった。
ミサキの優しい顔を見て、そんなことはないかもしれないと思った。半歩分くらい、彼女の心に自分の居場所が作られたのではないかと思った。
嫌われたくない願い。過ぎた月日が育んだ期待。
あるいは。
信じるなと言われても、俺は信じたいんだな。
思ってからすとんと腑に落ちた。感情を言い訳にして、俺は、信じるという理由のない行いではないと思いこもうとしていた。信頼という虚像を知っているからこそ、俺はそういった行いをしてきたやつとは違うんだと思おうとしていた。
無責任な人たちとは違うんだという、優越感に浸ろうとしていた。醜悪だ。
もしもこの先ミサキが、望まぬこと――裏切りのようなことをしてきたら。俺はどうするのだろう。
せんせい、と名前を呼ぶ声に、遅れて反応する。
「何かしたか?」
「ううん。よくない考え事をしているのかなって、思った。じっと何かを見てたから」
「……そうだな。正解だよ。すまない」
「へいき。でも、大丈夫なの?」
「今のところは」
「……そっか」
「ああ」
ほんの少しだけ、互いの重みを分かち合えたのではないか。そんなやりとり。
冷房の効いた過ごしやすい寝室には、一時間くらい長話をしたあとのような、帰るか居着いてもいいか分からない情緒があった。
俺とミサキは一緒に寝るような関係ではないから、俺は腰を上げやすくするための小話をすることにした。
「嘘と裏切りは、似ているようで違うよな」
「……? うん」
俺の思っていることだと前置きをして、ゆっくりと、繊細な感性を傷つけないように口にする。いつもは一人で考えこむところを、口に出した。
「嘘は、事実と反していること。
裏切りは、積み上げた関係を根もとから崩すこと。関係というのは、主に信頼であることが多い。
ここでは後者について、もう少し考えてみよう」
考える傍らで、ああそれなら俺とミサキは偽りの関係なのかもしれないと思考がそれる。
仮の名前をつけて、それを証拠とすることで
「まず、期待とか信頼とか。ベアトリーチェが向けていたそれは、利用するものの、機械に向ける信頼に近いような気がする。車って動くのが当然だろう? 自然だ。積み重ねじゃなくて、そういう定義とか常識による信頼。……人間関係はそうじゃなくて。だから裏切りという行動の解釈は、難しい部分があると思う。車が故障して、車が裏切ったなんて思わないから。そこを裏切ったと表現するのは、ベアトリーチェにもミサキにも、人という意思があるものならではの……なんだろうな」
エゴ。独善。独りよがり。
攻撃的ではない言い換えがないものかと考えを巡らせているうちに、ミサキから先の言葉が発された。
一度ミサキを流し見る。目を閉じた彼女は苦しそうな顔をしていない。
「失敗が許されない環境にいただろうし、完璧を求められただろうけど、子どもは失敗するものだよ。そうして学び、積み重ねる。潔癖を求める洗脳が、たぶんまだミサキに残っているんだな」
やっぱりまとまりがないと思ってしまう。それでも、拾いたい部分を拾いたいように取ればいいのだとも思う。
それじゃあと言って、少しだけ軽くなった腰を上げる。凹んでいたベッドが元に戻るくらい佇む。
「信頼を裏切ったんだという私の自責を否定せずに、信頼の方向が違ったから、機械と人間は違うものだからと説明しようとするのが、あなたらしい。洗脳が必ず解けると明言しないところも、とてもあなたらしい」
「…………少しでも軽くなったらと思って」
「うん。なったよ。ありがとう」
「前までだったら、そうして気を遣われるのもしんどかったんだよな」
「うん。今も少し……ね。でも、私とあなただから」
やや間があって、おやすみを交わす。あとにはエアコンが稼働する音だけが響く空間のみが残る。
暗闇を歩く。壁が迫る。ドアを前にして、結論は出したものの言おうか迷っていたことを口にした。
「積み木は崩れてもまた積めると思ってる」
「……ガラス製だったらどうするの」
「また一から、てっぺんが落ちても壊れないように周りを囲って、地道にゆっくり作り上げていくかな」
「破片、散らばってるよ」
「丁寧に集めて寄せておくさ……最後は城みたいになるな」
「それはどっちが?」
「どっちだろうなあ。どっちもかな」
「……私、お姫様って柄じゃないんだけど。姫なら別にいるし」
不満を装った彼女は、けれども間をあけて「それでも、ありがとう」と言った。俺は今日、人生の中で一番優しい声を聞いた。
明言する重みはある。それでも、彼女がずっと孤独を抱えているよりはましだ。
扉の閉まる音に寂しさを感じないよう、そっと、そっと閉めた。