「――では、こちらが契約書になります。ご確認ください」
「わかりました」、と私は一言そう返して差し出されたA4用紙下部の署名欄に今世の名前を記入する。
その契約書にはこう書かれていた。
【乙を
◇◇
はじめは自分の身に何が起こっているのかわからなかった。
気がつくと自分は霧がかった空間の中、ひとりフワフワと宙を漂っていて物凄く混乱した。
少しでも現状を把握するため体をひねったり周囲に目を向けようともしてみたけど、何故かロクに体を動かすことも出来ず、少ししてから動かせるのが視界のみだとわかった私は周囲に意識を集中した。
すると微かにではあるが、この濃い霧の中で小さな光球のようなものが遠間隔でいくつも浮いている事がわかった。
更に下も確認してみると、なんだか異常なほどに透き通った河の水らしきものが流れているのも確認できて水の流れからどうやら自分が下流へと向かっていることがわかった。
まあ、それ以外は何もわかっていない現状では「だからどうした」という話なんだけど。
そうしてしばらく流れに身を任せていると、なにやら不思議なものが見えてきた。
『(なに、あれ…?)』
濃い霧を抜けた先にあったのは神社仏閣などで見る鳥居のようなものだった。
しかしただの鳥居というにはそれは見上げるほどに大きく、その先には何も無かった。
否…今の説明では一部語弊があった。
鳥居の向こう側に河は続いておらず、先にあるのは暗闇だけだった。
私と共に流されていた光球たちが次々とその暗闇に飲み込まれていくのが見える。
それを見て私は内心慌てるも抵抗空しく、というより抵抗すら出来ずその闇へと飲み込まれ――
――――――――
<ジリリリリリリリリリr!!!…カチ>
頭から足の先まで被った羽毛布団の中からどうにか左腕だけを出し、煩わしい太陽の出現を告げる天使の歌を止めた私は謎の達成感からニヤリと笑って再び布団を被りなおそうとするも…。
「…駄目。今日はしばらく寝らんない」
先の夢のせいで未だに毛だるい体をどうにか起こすと、私が今自分で止めた目覚まし時計に目をやって現在の時刻を確かめつつ、朝のSNSをチェックするため枕元で充電していたスマートフォンを手に取った。
「うん。7時ピッタリ…え?」
毎日の日課とも言えるSNSをチェックすべくスマホのロックを解いた私は、画面の右上に信じられないものを見つけてしまった。
私は少し冷や汗を掻きつつ一旦自分のスマホから目を外し、ベッドサイドランプのすぐ隣に置かれた卵型目覚まし時計に視線を向ける…7時02分。うん、2分経ったけどこっちはまだ大丈夫。
私はホッと一息ついて、もう一度だけスマホを見る。
【8:02】
「……、………」
さて、今日の私にはいったい…どんな予定があっただろうか。
大きく息を吐きだして、今自分にとって最も重要な昨日の記憶を思い出す。
――【乙を346プロダクション アイドル事業部 シンデレラプロジェクトに所属するアイドルと認める】
『――じゃあ、明日の午後4時に来れば良いんですね?』
『いえ…。申し訳ありませんが、喜多さんには他のメンバーとは別に、是非お願いしたいことがありまして…出来れば朝9時にはいらして頂ければと。そこで大まかにではありますが、1日の流れなどもご説明します。明日の持ち物についてはメールでお送りいたしますのでご自宅で確認をお願いします』
『朝の9時ですね? わかりました!』
私は着の身着のまま、カバンとギターケースだけ背負って家を飛び出した。
息を切らせて乗り込んだ電車の中で私、喜多郁代(きた いくよ)…じゃなかった。喜多キタちゃんは目をグルグルと回しながら焦っていた。
「(ヤバイヤバイヤバイヤバイ!!!! まさか目覚まし時計の時間が1時間も遅れてたなんて!!)」
朝の通勤ラッシュということもあり電車内はほどほどに込んでいたのだが、ジャージ姿とはいえ明らかに女子高生なキタちゃんが息を乱して一般車両に乗り込んできてしまったものだから周囲の男たちはさあ大変。
満員電車でもないのにまるでキタちゃんの周囲にだけ結界が張られたかのように、その車両の男たちは半ば寿司詰め状態を強いられていた。
「(昨日の夜もSNSは更新してたし目覚まし時計はそのすぐ後にセットしたんだから気づきなさいよ私のバカ! というかいくら慌てたとはいえひとりちゃんスタイルで来るとか何やってるの私! ジャージで挨拶に行く新人アイドルなんているわけないでしょっ、もーー!!)」
しかしすっかり自分の世界に入り込んでしまっていたキタちゃんがそれを知ることは最後までなく、346プロダクション最寄りの駅に到着した瞬間に再度走り出し、この後に上げるSNSのネタとして途中にあったハチ公像前で「キターン☆」とピンクのジャージ姿を高速で自撮りしてから346プロダクションへ急ぐのだった。
――――――――
電車を降りて駅から走ること5分、カバンからスマホを取り出したキタちゃんはどうにか9時前に到着出来たことを確認し、目の前に聳えるまるでお城のようなレンガ造りの建物に目を向けて、ようやく息を整えることが出来た。
――346プロダクション。
元は映画制作・配給会社が前身で、芸能プロダクションとして古い歴史を持つ老舗であり、歌手や俳優が多数所属していることで有名だ。
社内には撮影設備の他サウナにエステ、カフェなどもあり、関係者であればそれらが一部無料とはいかないまでも全て格安で利用できるらしい。
単純な事務所の規模のみでいえばあの765プロや876プロとは比べ物にならず、つい2年前に立ち上げられたばかりのアイドル事業部もこれまでの活動実績から大きな期待を寄せられているらしい。
とここまで言えば何故キタちゃんがこんなにも美城グループの内情に通じているのかと思われるだろうが、それには事情があるのだ。
そもそもキタちゃんはこの346のとある強面プロデューサーから「アイドルに興味はありませんか?」とスカウトを受けてここまで来たわけだが、そのようにスカウトされた経緯というのがこの会社の機材スタッフとして高校生ながらアルバイトをしていた所をひょんなことから目をつけられしまったというのが始まりなわけで…、
…ともかく! 要はスタッフとして働らく内に自然とそれらの情報が、キタちゃんの耳にも入ってきたというわけだ。
警備の人に軽く頭を下げて自動扉を抜ける。
すると、まず目についたのは頭上でその存在を強く主張するシャンデリアと正面に見える階段まで敷かれたアンティーク調のレッドカーペットで、改めてこのような場所にピンクのジャージ姿で来てしまったことを思うと申し訳なさが尋常じゃない。
幸いエントランス横の受付に居るお姉さんとはもうすっかり顔なじみなので、不審に思われる事がないのが唯一の救いだ。
「――それではこちらの入館証をお持ちになって、新館30階のシンデレラプロジェクトルームでお待ちください」
「ありがとうございます。いつもお疲れ様です。お姉さん」
「フフ、喜多さんもお疲れ様です。これからは我が社のアイドルとして頑張ってくださいね…ところで、何でジャージなの?」
「…そこは触れないでほしかったです」
「そ、そう。ごめんなさいね? それじゃあ、頑張って」
「はい!」
そうして私はそのままエントランスを抜けて入館証と一緒にお姉さんから受け取っていた案内図を手に、これから何かとお世話になるシンデレラプロジェクトルームへ向かうのだった。
◇◇
「…と、ここね」
エレベーターといくつかの通路を使って目当ての場所へとたどり着いた私は、目の前の扉を三度ノックして数秒中からの応答を待つ。
「スゥー…ふぅ。よし…喜多郁代です! 武内プロデューサーとの約束で参りました。――…? 失礼しまーす」
名乗りを上げても特に反応がなかったので、とりあえず受付のお姉さんの指示通りルームで待つことにした私は、なるべく音をたてないように扉を開けて中に…――
「――煩わしい太陽ね」
――ゴスロリが居た。
「…あ、はい。おはようございます」
正直いきなり過ぎてどう切り返せば良いのかわからなかったが…とりあえず、私は自分が話しかけれたのだと仮定して業界では一番無難な挨拶を行った。
部屋に入ってすぐ私の視界に飛び込んできたその少女は何故か部屋の中で日傘を差し、意味ありげに窓の外を見つめていたようだが、彼女の言葉に私が返事を返したからなのか手に持つ傘を畳んでこちらに振り向くと、大仰に自身の左手でポーズをとりながら、力強く名乗りと口上を述べた。
「我が名は神崎蘭子! 闇に生き、魔道を歩む者なり。汝も魔術師の契約を交わす者か?」
「(ちょっと何言ってるかわかんない)…えっと、私はプロデューサーさんにスカウトされて受付のお姉さんからここで待つよう言われてきました、喜多郁代っていいます。今日からこちらのアイドルをやる予定です。もしかして、貴女も…?」
アイドルなの? という疑問を私が最後まで口にする前に「うむ」との短い返答を頂けた。
「そう…我も汝と同じ闇の魔術師!」
「魔術師じゃないです」
「「…………」」
しばらくの沈黙。
やがてその沈黙に耐え切れなくなった私はダメ元で訊いてみた。
「他のメンバーの方や、武内プロデューサーはどちらに…?」
「まだ見ぬ我が同志たちならば角の悪魔が召喚されし時、自然と集まってこよう。瞳を持つ者は先ほど宝玉の翼を落としに行ったぞ」
「(どうしよう…やっぱり何言ってるかわかんない!)」
「だが、流石の我も少々気が逸っていたようだ。約束の刻までは英知の書庫にてこの無聊を慰めておくとしよう」
「え、あの…ちょっと――」
私が何かを言う前にその蘭子さん?は私の横を通り過ぎ、そして…。
「――闇に呑まれよ!」
最後に決め台詞のようなものを残し、扉の向こうに消えていった。
「(――なんだ今の…?)」
それから気を取り直してプロデューサーを待つこと数分…。
コンコン、と控えめなノックの音がしたので「どうぞ…!」と分厚い扉越しにも届くよう少し大きな声を上げたところで私は思い出した。
「(そうだ今の私ジャージじゃん! どうしよう!! もしかして下手すると初日からクビ?! 嘘でしょ! でももう声かけちゃったし、そもそも着替えも持ってきてないしぃ…ッ~~!!!!)」
「――失礼します。おはようございます、喜多さんは…もう着替えられてるんですね。すみません、どうやらお待たせしてしまったようで」
と右手で首の後ろをさする独特な仕草で入ったきたのは、これから私が参加するシンデレラプロジェクトのプロデューサーの武内さんだった。
スーツ姿のプロデューサーに対してジャージ姿の私という構図に、私は大いに慌てながら何とか弁明をしようとしたのだが、この後すぐにそれが無用の心配であったと知らされる。
「おはようございます! ごめんなさい!! これには少し事情が…っって、着替え?」
「? はい。メールでお伝えしていた通り、喜多さんのスカウトは少々特殊な形でしたので…ほぼ形式的なものではありますが、他の皆さんにも受けていただいた簡単な適正テストを行うため、今のような動きやすい服装を持参してもらったのですが、何か問題がありましたか?」
「い、いいいいいいえ! なな、何も問題ありませぇん!! …え、っと、ごめんなさい。本当は朝少し寝坊してしまって。これ以外の服は持ってきてないんです」
「そう、だったんですか…。そういうことでしたら、すぐそこに衣装部屋がありますのでお帰りの際は代わりの服をそちらから御貸しいたします」
「え、いいんですか?」
「はい。…あくまでも貸し出しという形なので、心苦しくはあるんですが」
「いえいえいえ! 充分です!! 必ず洗ってお返しします! ありがとうございます、プロデューサーさん!! ――あっ」
「どうかされましたか?」
「いえ、その…実はこちらに来た時、同じシンデレラプロジェクトのメンバーらしき人に会いまして」
「神崎さん、ですね。そういえば、今はいらっしゃらないようですが」
「あ…それなら、ちょっと独特な口調でしたので合ってるかわかんないですけど、どこかで時間を潰してくるような事を言ってました」
「そうでしたか。喜多さんのおっしゃる通り、彼女は独特な世界観をお持ちですがとても真面目な方で、私が先ほど急用で部屋を開けることになってしまった際も、ちょうどいらした神崎さんが喜多さんがお越しになるまでの間、留守番を引き受けてくださったんです」
「急用…それって宝玉の翼を落としに行ったっていう?」
「…すみません。お恥ずかしながら急に催してしまい、お手洗いに」
「あ、こちらこそ不躾でした。ごめんなさい」
「いえ…では、一度私たちはレッスンルームへ向かいます。宜しいでしょうか?」
「わかりました! よろしくお願いします、プロデューサー!」
◇◇
プロデューサーの後ろについて移動したレッスンルームでは、緑の星条旗をプリントしたラフなTシャツを着た女性が腰に手を当てて待っていた。
「――よく来たな。お前がシンデレラプロジェクト最後のメンバーか?」
「はい。喜多郁代です。…え? プロデューサー、私が最後だったんですか?」
「いえ、正確には喜多さんより前にスカウトした三人が最後の予定だったんですが、先日のトラブルに尽力してくださった貴女を見て、気づけば声をかけていました。急なことで今西部長にも骨を折ってもらいましたが、どうにか定員1名の特別枠に据える形で喜多さんを15人目のメンバーに迎える事が出来ました」
「武内がここまでするなんて、お前は相当なものを持ってるらしいな。今回はその実力を存分に見せてもらうぞ」
「ということは、あなたが346プロの…」
「ああ。ベテラントレーナーの青木だ。よろしくな」
「はい! よろしくお願いします。トレーナー!」
――――――――
side 武内P
月並みな言葉にはなるが、彼女との出会いは運命だったように思う。
青木トレーナーの後に続きステップを踏む喜多さんの姿を少し離れた位置で見ながら、俺は自分が彼女のスカウトを決めるキッカケとなった先日の一件を思い返していた…。
もともと、喜多さんは美城プロダクションの音楽事業部で搬入係のアルバイトとして入っていたそうだ。
そして昨日の俺は偶然にも、シンデレラプロジェクトのために楽曲を提供してくれる作曲家を紹介してもらうべく、音楽事業部のオフィスへ足を運んでいた。
「…ええ。ですから蓮杖さんの伝手でウチのアイドルたちの曲を作ってくれる人は居ないものかと」
「武内さん、春は僕ら音楽事業部も繁忙期なの知ってるでしょ? そりゃあ仕事をお願い出来る人は何人かいるけど、今武内さんが進めてるシンデレラプロジェクトだっけ? 十人以上ものアイドルを一斉にプロデュースする企画だっていうじゃない。そんなに短いスパンでポンポン新曲が作れる人が居るんなら僕が紹介してほしいくらいだ。かといって何人も紹介してたらウチの部署から仕事を頼める人が居なくなっちゃうわけだけど、そこんところはどう考えてるわけ?」
「もちろん、こちらも無理を申し上げているのは承知しています。私個人でも外部の作曲家は探していますので、何とか一人だけでもご紹介いただけませんでしょうか」
「うーん…武内さんには以前の借りもあるしなぁ。仕方ない。何とか一人は僕の方で交渉してみるよ」
「ありがとうございます」
事件が起きたのは、この後すぐだった。
「――大変です!!」
息を切らせて走ってきた若い青年ADの切羽詰まった声がオフィス内に響き、空間を同じくしていた社員は何事かと一斉に振り返る。
「ちょっとADくーん? ここオフィス内だよー。いったいどうしたっての?」
それまで俺と話していた音楽事業部の蓮杖プロデューサーが問題のADに向けて苦言を零すも、やはり彼も一つの部署を預かる人物なだけありそれ以上の追及はせず、表情は少し硬くしつつも冷静に話を聴く体勢を整えていた。
「すみません!! でも、大変なんです!! 今日敷地内ステージで予定していた舞台に出演予定だったガールズバンドのフロントマンが、急病で来られなくなったそうです!!」
「…マジで?」
「どうしましょう?」
「どうしましょうも何も、今日は拙いよ……武内さん」
隣で眉間を抑える蓮杖さんを横目に事態の推移を見ていた俺は、この後に続く言葉を半ば予想しつつも短く返事を返す。
「何でしょうか」
「武内さんの今すぐ呼べるアイドルに歌とギターが出来る人って居る? 最悪ギターは音源流せばいいから歌唱力重視で。欲を言えば初見の曲でも問題なく歌える人!」
「…前者はともかく、後者の条件はいささか厳しいのではないでしょうか?」
「だよなー。言ってみただけ…それとこれはダメ元で聞くんだけど、高垣楓さんとか呼べたりしない?」
「確かに高垣さんなら初めての曲でも難なく歌いこなすでしょうが…」
「だよな! だよな!」
目を輝かせ始める蓮杖さんの気勢に水を差さなければならない申し訳なさで、俺は思わず自分の首を右手で擦っていた。
「申し訳ありません。高垣さんは二日前から地方のロケに行っています。帰ってくるのは明日以降になるかと」
俺の返答に蓮杖さんは相当なショックを受けたのか、白目を剥いて口からは魂のような何かが出てきてしまっている。
気の毒ではあるが、美城ほど大手の芸能プロダクションではこういったトラブルはよくある話だ。
現場のトラブルで期限に提出される筈だった各種書類が滞り、関連するその他業務の納期にも遅れが生じることなど、この業界では日常茶飯事だ。
その度に俺たちプロデューサーは関係各所に頭を下げることになるのだが、よくあることだ。首が飛ぶようなことにはならないだろうし、蓮杖さんにはどうかこの後待ち受けている試練に打ち勝ってほしい。
と俺がまるで他人事のように考えていたのが悪かったのだろうか…蓮杖さんの瞳が妖しく光り、気づいた時には蓮杖さんの鋭い眼光が俺を捉えていた。
「そういえば今思い出したんだが、武内さんこの間ギター弾けるって言ってたよな?」
「…あの、ちょっと待ってください。まさかとは思いますが、私に代役を務めろと?」
「……(ジーーー)」
蓮杖さんは無言で応え、その視線にてじっと俺を捉えて離さないが冗談ではない!!
確かに俺はアイドル事業部プロデューサーという役職の都合上、歌もダンスもそれなりにこなせるし学生時代の杵柄でギターにも多少の心得はあるが、今求められているのはガールズバンドのフロントマン…つまり女性のボーカルだろう?
男の中でも特に低音だと学生時代から言われてきたこの俺に、代役など勤まるわけがない。
「本当に落ち着いてください蓮杖さん。こういった事態へのアフターケアも私たちプロデューサーの仕事でしょう?」
「仰る通り。いつもなら僕が方々駆けずり回れば済む話だったさ…でも今日は駄目なんだよ」
「…何か、あるんですか?」
「時咲財閥のご令嬢がその舞台を観にいらしてる」
「なっ…!?」
時咲財閥(ときさき ざいばつ)。
時咲グループという大手レコード会社を複数抱える企業集団で、大国アメリカや音楽の聖地イギリスにも支社を持ち、各国の音楽業界では多大な影響力を持つ国内有数の財閥だ。
美城グループが芸能プロダクションとしての顔を持つようになった最初期において、時咲グループには数多くの支援を受けたという。
その時咲の関係者が今日ここに来ていると?
「でしたら蓮杖さんはどうして今ここにいるんですか? 貴方も今問題になっているステージの、いわば最高責任者でしょう?」
言外に、どうしてそこまでの大人物を出迎えに行っていないのだと訴える武内に蓮杖は「ま、当然の疑問だな」とため息交じりに何故自分が問題の現場に赴かずこの場に残っていたのか、その理由を口にする。
「時咲のご令嬢…時咲栄子(ときさき えいこ)嬢は、大の男嫌いなんだってさ。男の僕が出向くわけにはいかんでしょ」
「あの…そういうことなら益々、男の自分では代役など成立しないのでは?」
「……」
「……」
しばらくの沈黙。そして…、
「武内さん、――女装とか興味ない?」
いよいよ不穏なことを言い出した蓮杖さんに身の危険を感じた俺は、隙を突いてこの場を離脱すべく脚に力を込めていたのだが、幸いといって良いのか次に聞こえてきた青年ADの声でその必要がなくなった。
「あの…蓮杖プロデューサー」
「なんだよ、ADくんまだいたの? 僕が忙しいのは見てわかるでしょ?! 話はわかったから、君も早く持ち場に戻りなよ!」
「違うんです! たった今現場チーフから連絡がありまして…実は――」
その後すぐ彼から続けられた言葉に蓮杖さんは目を見開き、共に聞いていた俺も内心で驚いた。
「ステージで搬入を手伝っていた女学生のアルバイトスタッフを、代役として起用したみたいです」
蓮杖さんは左手首に巻いた腕時計を一瞥してから、少しだけお腹の胃のあたりを擦ると、すぐさま目の前の青年に指示を出した。
「現場の映像…今すぐ僕のPCに送らせて」
蓮杖さんの指示に迅速に従って青年ADが先ほど通話状態を維持していた相手…ベテランの現場チーフにその旨を伝えている間に蓮杖も万が一の事態に備えとして自分のPC周りに予め用意していた受信機材を起動し、物の数秒で準備を整える。
しばらくすると、美城グループの敷地内にある多目的ステージの様子が蓮杖さんのPCに映し出された。
side喜多
どうしてこんなことになってるんだろう?
この場に集まる幾人もの人たちが、何故か今ギターを抱えて舞台の中心に立つ私に如何にも「不安です」と言いたげな視線を叩き付けている。
私は若干今更な現実逃避をしつつ、自分が立つ舞台下から間違いなくこちらに向けて獰猛な笑みを浮かべている今の私と同年代ぐらいと思われる金髪ツインテールの少女と、その両隣で佇むSPの女性二人から視線を外し、私は自分が今この場に立つことになった経緯を思い出していた。
時は数分前に遡る。
「――全員クビにしてさし上げますわ」
金髪のツインテールなどという如何にもお嬢様然とした髪型であるにも関わらず、その歳には見合わない筈のオーダーメイドスーツを見事に着こなした少女の発した声に現場は凍り付いた。
まあ私はこの時その子が誰なのかもよくわかっていなかったから、周囲の人が呆然とする中で一人キョトンとしていたのだが。
突然だが、私は少し前から美城プロダクションの音楽事業部でアルバイトをしている。その理由はまたの機会に語るため今この場では割愛するが、ともかく私に課せられる主な業務は舞台で使用する大道具の搬入。あとは細々とした雑用、演者の皆さんに注文していたお弁当を届けたりするだけの簡単なお仕事! …その筈だった。少なくとも、今日この日までは…。
事の発端は昨年メジャーデビューを果たした実力派ガールズバンドが、とある作曲家に楽曲を提供してもらったのが始まり。
件の作曲家は実力こそ折り紙付きだが有名な時咲財閥の関係者で、こと音楽に関しては高いプライドを持っており自ら手掛けた楽曲を提供する際は、必ずある一つの条件を提示する事で知られていた。
「ワタクシは言った筈よね? ワタクシが楽曲を提供した際は、【ワタクシの必要とした時】、【提供したその曲で】、【自分たちの力を十全に発揮する】、そんな子たちに演奏させてって。なのに、どうして肝心要のフロントマンが来られないなんてふざけたことを仰っいますの? 納得の行く説明をしてくださる?」
「いえっ、ですから! 栄子様もご承知のフロントマンは急病で――「言い訳は結構ですわ!!」――…えぇ」
納得のいく説明をと言葉で求めておきながら、弁明など求めていないという少女の傍若無人ぶりに現場チーフを任せられていた女は思わず呆気に取られてしまった。
だが今この現場にこの少女を咎められる人物など何処にもおらず、現場チーフはどうにか少女の機嫌を取るために頭を下げるしか選択肢がない。
何故ならこの王者然とした少女こそ、件の作曲家にして時咲財閥の一人娘、時咲栄子嬢なのだから。
偉いのは当主本人で娘にそんな権限などないのでは? なんて楽観して考えることは出来ない。時咲家の現当主が自らの娘のことを「目に入れても痛くない」と方々に触れて回るほど溺愛しているというのは有名な話だ。
もしも過去多くの支援をこの美城プロダクションにも行ってきた時咲財閥の当主が、たとえ娘越しにでも今この場にいるスタッフ全員の首を飛ばすようにと働きかけをした場合、上は自分たちを容易く切り捨てるだろう。
時咲というのはそれだけの影響力を持っているのだ。
「いいこと? あなた方庶民には一生かかっても理解できないでしょうけど、ワタクシの時間は黄金よりも貴重なの。それなのに、このワタクシがわざわざその一部を割いて自ら足を運んで来てさし上げたというのに、あなたたちは約束を反故にしたのです。上から下まで連座で責任を追及するのは当然のことではなくて? ねぇ?」
「それについては大変申し訳ございません! ではせめて、私だけのクビでご納得頂くことは出来ないでしょうか?!」
「あら、あなたワタクシの決定に異議を挟むのかしら? 何様のつもりよ」
何やら遠くで中世の寸劇じみたやりとりが行われているが、その内栄子様と呼ばれていた女の子の口から聞き捨てならないセリフが飛び出してきたような気がして、私は先ほどまで大型スピーカーを一緒に運んでいた先輩に「私たち全員クビって、幾らなんでも冗談ですよね?」と何となしに訊いてみた。
「…いやー。残念だけど、あのお嬢様は本気だと思うよ。最近では随分落ち着きが出てきたなんて話もあったけど、似たような栄子様の逸話は割と聞くし。こりゃ明日から別の仕事探すようかなー」
と何やら先輩は諦めた貌でぼやいているけど、冗談じゃないわ!!
「ちょっと! さっきから聞いてれば幾らなんでも横暴じゃない!! あなたこそ何様のつもりよ!!!!」
「ちょ、馬鹿アンタ何やってんのッッ??!」
それまで現場チーフに詰め寄っていたお嬢様は、私の声にその動きをピタリと止め、ゆっくりとこちらへ振り向いた。
後ろからは先輩の悲鳴混じりの声が聞こえるが、あいにくと今は構ってられない。詰め寄られていた現場チーフも呆けたように口を開け、「なにしてんだこいつ??」というような目を私に向けてきているが関係ない。
こちとら毎月ライブハウスのステージ利用料稼ぐために、元陰キャの私が決死の想いで始めたアルバイトなのよ? 最近はやっと仕事にも慣れてきたところで、それをこんな理不尽に奪われてたまるもんですか!!
どうやらあのお嬢様はこの場に居る全員クビにするつもりみたいじゃないか。だったらこちらにはもう失うものなんて何もないんだから。泣き寝入りなんて損を見るだけよ。
私は肩を怒らせてズカズカとお嬢様との距離を詰めると、横から二人の女性SPが私の進路を塞ぐようにして前に出てきたのでそこで私は立ち止まる、がそのお嬢様当人が二人のSPを押しのけて私の前に進み出てきた。
そんなお嬢様の行動が何だか私には意外で、さっきとは違う意味で動けなくなっていると、こちらの姿を認めたお嬢様はいつの間にか私の何かを観察するかのように念入りに足先から頭までをねめつけると、少し困惑したような声色で訊いてきた。
「そこの庶民。まさかとは思うけど、今のはワタクシに向けて言ったのかしら?」
「…だったら何だって言うの? あなたが私たちを全員辞めさせるとか理不尽なこと言いだすからでしょ?」
「…あなた、面白いわね。歳は御いくつ? お名前は?」
「人に名前を尋ねるならまず自分からって習わなかったかしら? 喜多郁代…16歳よ」
「あら、ワタクシとしたことが失礼致しましたわ。お詫びに同い年のよしみも含め、あなただけは雇用を継続していただくようワタクシから口添えしておきます」
「…私以外の人たちは?」
「そうですわねぇ…では一つ、ワタクシと賭けをしませんこと? あなたが勝てば、ワタクシはこの身の全力を以てあなたの願いを1つ叶えてあげましょう。何を願うかは自由です。無論、ワタクシが勝てばこちらの要求を呑んでいただきますが」
何だか迂遠な言い方だけど、要はその賭けに勝ってさっきの不当解雇の話自体を取りやめてほしいってお願いすればいいわけね。理解したわ。けど、その前に。
「賭けをするのはいいけど、あなたの名前もいい加減教えてよね。不便でしょうがないわ」
「契約成立ですわね。ワタクシの名前は、時咲栄子ですわ。あなたには是非、“栄子”と呼んで頂けたら嬉しいですわ」
「そう。よろしく“時咲さん”」
「郁代さんは釣れないですわね」
「名前で呼ばないで。…勝負内容は?」
「フフ……」
時咲さんは不敵な笑みを浮かべると、勝負の内容を口にした。
「ルールは簡単。喜多さんはバンドの経験がおありでしょう?」
「…わかるの?」
「当然。ワタクシは時咲ですわよ? 一瞥すればその人物がどのような奏者なのか、大体わかりますわ。喉や手足の発達具合から察するに、喜多さんはギターボーカルですわね。何を驚いた顔をしていますの? これくらい時咲の人間として当然です。――続けますわよ? 曲目は何でも構いません。喜多さんにはご自身の歌と旋律で、ワタクシの心を動かしてほしいんですの」
「…それってだいぶ私が不利な勝負じゃない?」
「ワタクシが音楽に対して偽りの評価を下すとでも? 天地がひっくり返ろうとありえませんわね。時咲の名に懸けて誓いますわ。それとも何? 自信がないのかしら」
「ッ…上等よ!! やってやろうじゃない! 時咲だかなんだか知らないけど、あなたの知らない音楽なんて幾らでもあるんだから! 吠え面かきなさいッ!!」
◇◇
で私は売り言葉に買い言葉の応酬の果て、そのまま勢いで壇上に上がり今に至ると…。
「(…つまり、私は今先輩たちの進退も預かってると。そういうわけね)」
それでも私のやることに変わりはない。
一人回想を終えた私は正しく現状を理解したことで少し自責の念に駆られながらも、ひとまずは目の前の勝負に意識を切り替えた。
「それでは喜多さん、準備はよろしいかしら?」
「ごめん。ちょっと待って」
「ふっふっふっ、何ですの? まさか今更怖気づいたなんてことは言いませんわよね」
「そんなわけないでしょ。確認だけど、あなたさっき【自分たちの力を十全に発揮する】、そんな演奏を聴きたいって言っていたわよね」
「確かにそんなことを言いましたわね。それがどうかしまして?」
「なら、そこの人たちを助っ人に呼んでもいい?」
そう言って私は右手で鉄砲を形作ると、その先端を時咲さんの後方に向けた。
「?」
私の指に釣られて振り向いた時咲さんの目に映ったのは、本来はここで演奏予定だったにも関わらずフロントマンを欠いたことでそれが叶わなくなったガールズメジャーバンドのメンバーたちだった。
「ドラム、ベース、リードギター…つまり喜多さんが全力を発揮するには、あそこに居る三人の助けが必要ということですわね。別にワタクシは構いませんけれど、即席で組んだバンドにこの時咲栄子が心動かされるとでも?」
「言った筈よ。時咲だかなんだか知らないけど、あなたの知らない音楽なんて幾らでもあるって」
「…いいでしょう。 ――貴女たち、話は聞いていまして? ほら、早くステージにお上がりなさい。精々喜多さんをサポートしてあげることですわ」
時咲さんの号令と共に今世の私より幾分か年上の人たちがそれぞれの楽器を持って、私の元に集まってくる。
その中で一番に声を上げたのは、バンドメンバーのまとめ役らしいドラム担当の女性だった。けっこう背丈のある人で、私は少し見上げる形になってしまう。
「おいアンタ、急にしゃしゃり出てきてどういうつもりだよ。お嬢様が言うにはアンタもシンガーらしいけど、アンタみたいなぽっと出の奴があのお嬢様の耳に適う演奏が出来るってのか?」
まあ相手からすれば当然の懸念だな、と私は至極冷静にその言葉を受け止めた。
確かに彼女たちから見た私は、『自分たちプロのバンドマンの世界に平気な顔で踏み込んできた世間知らず子ども』という印象だろう。
それが上からの指示とはいえ自分たちをバックにつけて、フロントマンを務めるというのだ。これでは確かに良い気はしない。
「今ならまだ間に合う。あの人は相当のサディストだけど同時に女好きでルッキズムの塊みたいな人でもあるから、普通は無理でもアンタはお嬢様好みのツラしてるし、土下座でもすれば許してもらえる」
あれ、もしかして私を心配してくれてる? ツンが強火で分かりづらかったけど、実は良い人? それはともかく。
「…それじゃあ意味がないんですよ。私だけが許してもらえたって、この部署には! 皆さんが居ないと…っ!!(せっかく今の環境に慣れてきたっていうのに、皆私の知らない人になるとか元陰キャの私には絶対無理!)」
「…はぁ。馬鹿だな、お前。しょうがねえ。やれるだけやってみろ。ウチらも精一杯のサポートはしてやる」
「っ! ありがとうございます!!」
心なしかお姉さんの態度と表情が柔らかくなった気がする。
やっぱりこのお姉さん良い人だ!
「すみません、それじゃあちょっとこちらを左右どちらかの手首につけていただけませんか? 残りのお二人にも」
「なんだ、こりゃ。結束バンド…?」
「ごめんなさい!! 詳しくは言えないんですけど、必要なことなんです! 信じて受け取ってくれませんか?」
「ふーん…。ま、いいや。何かしらのお守りみたいなもんだろ? ありがたく使わせてもらうよ。おまえらー、ちょっとこっち来い! この子がウチらにお守り巻いてくれるってさー!」
ドラムのお姉さんの声かけで、ベースを持ったマイペースそうなお姉さんと、ギターを両腕で抱える気弱そうなお姉さんがこちらにやってくる。
「では、いいですか? こちらの黄色い結束バンドはドラムのお姉さんに、青はベースのお姉さんので、桃色はギターのお姉さんに巻かせて頂きます」
「別にいいけど、担当楽器で色変えんのか? それだったらウチ赤のほうが好きなんだけど」
「赤は私のなので駄目です。さ! いきますよ!! 演奏開始です!」
「ちょっ! 待てって!! ウチらまだ何の曲演るか聞かされてねえぞ!!?」
「――大丈夫です。すぐにわかります」
所変わって、視点は少しの間だけキタちゃんたちの映像をPCに映し出している蓮杖の居るオフィスに戻す。
蓮杖は先ほど現場から繋いだライブ映像を前に、まるで今隣に居る武内プロデューサーのような顔になっていた。
「こりゃあ本格的に拙いんとちゃうかなー。フロントマンに素人さんを入れた即席バンドに栄子嬢の求めるレベルの演奏なんて出来るわけないやろ」
「蓮杖さん、地が出ていますよ」
「おっと、こいつは失敬。でも実際、今の僕らにはどうしようもないしー」
もはやその後に続く演奏は見れたものじゃないものになるだろうと、せめてもの情けとして蓮杖がパソコンの電源を落とそうとした…その時。
「いえ、待ってください」
隣に居たアイドル事業部の武内プロデューサーが蓮杖の手を止めた。
自らを制止した武内プロデューサーを怪訝に思い、蓮杖はチラリとその顔を盗み見るも武内の顔は何故かもうすぐ凄い事が起きると確信しているかのように、ステージの映るPCの映像に釘付けになっていた。
「(いったい何が…って――は?)」
武内の目線に釣られ渋々自分も映像に向き直った蓮杖。しかしそこには直接目にしても信じられない、奇跡的な映像がリアルタイムで流されていた。
『~~♪♪ 突然降る夕立 あぁ、傘 も な いや 嫌~ 空のご機嫌なんか、知~らない♪~~』
まずは序の口とばかりにドラムによる2カウントでスタートを切った完璧なイントロ。後に続けとばかりに息を合わせた見事な入りを見せたベースとリードギターの腕も称賛に値する。
さすがはメジャーデビューを果たしたガールズバンドのメンバーといったところだ。
しかし、蓮杖がそれ以上に衝撃を受けたのは最初はただの素人かと思っていた代役のフロントマンが、他メンバーの演奏技術に勝るとも劣らないギターボーカルの技術を見せたことだ。
いや、それどころか…。
『♪~~ 足りない! 足りない! 誰にも気づかれない! 殴り書き みたいな 音 出せない 状態で 叫んだよ 』
「マジかよ。あの子、もはや素人ではないにせよ…ホントにアマチュアか? 周囲の子たちは既にメジャーデビューを果たしたバンドのメンバーなんだぞ? それを…」
「ええ。見事にリードしていますね」
『♪♪ 馬鹿なわたしは歌うだけ~~♪ ぶ~ちまけちゃおうか、星にッ…~~~~♪』
――――――――
side 喜多
どうにかやり切った。
「――…以上、【ギターと孤独と蒼い惑星】でした」
私はフ、と後ろを向いて今回一緒に演奏してくれた三人のお姉さんたちに目を向ける。
どうやら自分たちが全く知らない曲を勝手知ったる曲のように合わせられた事に戸惑っているらしく、全員狐にでも化かされたような顔をしていた。
黄、青、桃と三人に貸した結束バンドは無事に機能してくれたみたいで、此処とは別の世界に存在しているであろう“あのバンド”とも遜色ない演奏が出来たと思う。
なんせ数分前までなんとも余裕そうな笑みを舞台下で浮かべていた時咲さんが、愕然とした顔でこちらを見ていたのだから。
この様子なら多分大丈夫だとは思うけど、そろそろ勝負の結果を聞かせてもらおうかな。先輩たちも気になってるだろうし。
とりあえず、このままでは埒が明かないのでこちらから話かけさせてもらう。
「えっと、それで結局この勝負は“私の勝ち”ってことで良いのかしら?」
「……ええ。信じられませんが、どうやらワタクシは敗北したようです。どうぞ何なりと御命じなさいな」
「うん。それじゃあさっき皆を辞めさせるって言ってたアレ。取り消して」
「ワタクシから提案した事ですけど、本当にその願いでよろしいんですの? 時咲財閥の次期後継であるこのワタクシに、叶えられない願いなどそうそうありませんのよ?」
「別にいいわよ。私の夢は自分で叶えないと意味ないもの」
「……わかりましたわ。敗者は勝者の言葉にただ従うのみ。 スウ――『時咲栄子の名において、先の解雇宣言は不当なものであった事を認め、ここに宣言の撤回を約束致しますわ』…これでよろしいかしら?」
――ワァァァァァ!!!!!
私と時咲さんのやりとりを見ていた現場スタッフの人たちが歓声を上げる。
そりゃあ自分たちのクビが振って沸いたミラクルで帳消しになったら喜びで声も上げたくなるわよね。
時々「キタち゛ゃーーん!! ありがどーー!」、「愛してるーー!!」などの世迷言も混じって聞こえてくるが…それはともかく。
私は舞台から飛び降りるようにして時咲さんの前で着地を決めるとスッ、と右手を差し出した。
「? 何ですのこの手は」
「お嬢様は世俗に疎いって聞くけど、こんな事も知らないの? 仲直りの握手に決まってるじゃない」
時咲さんはちゃんと約束を守る人みたいだし、もう仲良くなっても良いよねってことで。
「……フ…フッフ。本当にあなたは、面白い人ですわね。郁代さん?」
「だから名前で…って、まあいいわ。許してあげる。私もさっきは強く言い過ぎたし、改めてよろしく“栄子”。今度は、友だちとしてね」
「――――……ええ。こちらこそ、よろしくお願いしますわ“郁代”。それにしても…フフ、お友だちですか。ちょっぴり残念ですわね」
「何よ。やっぱり私みたいな庶民の友だちはいらないってわけ?」
「とんでもありません。ただワタクシとしましてはお友だち以上の関係でもよろしくてよ?」
「えッ”!? いや、私はまだそういうのよくわかんないから…」
そうだった。
さっきは軽く流してたけどドラムのお姉さんがそんなようなことを言ってたじゃん! 何で忘れてたの私ぃ…!
「別に良いじゃありませんの。同性の友だち同士の軽いスキンシップですわ。ほら、もっとこっちへ寄りなさい――ソォレ!」
「ギャーー!!!! 服の下に手を突っ込まないでー!!」
「あら、あなた見た目通り胸はそれほど無いのですわね」
「天誅ーーーッッ!!!!」
スパーン!! と栄子の頭がこぎみ良い音を響かせる。
そこには、下手をすれば美城プロダクションの社長すら頭の上がらない時咲家令嬢の後頭部を引っぱたくという神をも畏れぬ暴挙に及んだ、平社員以下の女学生アルバイトが居た。
というか、私だった。
「ぐッふ…。これが巷の…ツッコミというやつですのね。ワタクシ初めて体験致しましたわ」
『『お、お嬢様~~~~ッ?!!!!』』
「ちょっと喜多ちゃ~~~ん!? アンタ時咲のお嬢様にツッコミ入れるとか何考えてんのーーー?!!!」
栄子のSPが血相を変えて走ってきて、少し前まで放心していた先輩は大声でツッコミを入れてきた。ツッコミにツッコミを返すなんて、さすが先輩はレベルが高いわね。私も見習わなきゃ。
この後については特に語って聞かせるほどの事ではないだろうが、栄子とはお互いの連絡先を交換して友だちになった。
そうこうしている内に日も傾いてきて周りでは会場の後片づけが行われる中私も手伝いに行こうとしたのだけど、現場チーフ直々に「こっちの事はいいから栄子様を御見送りしてあげて。お願いだから」と何故か必死な形相で頼み込まれてしまい、最後は私と二人で話したいとリムジンから顔を覗かせる栄子たっての希望もあり私たちは車窓越しに話をしていた。
その際もしこっちが敗けていたら栄子は何を頼もうとしていたのだろう、と気になった私はその事を本人に聞いてみたのだけど…。
「別に大したことはありませんわ。先ほども言った通り、あなたはとてもワタクシ好みの容姿をされていたので、あわよくば忠実なペットにでも躾られないかと考えていただけですわ。もちろん今は大切なお友だちですし、そんな事は考えていませんが」
などと宣っていたので私は栄子の頭にもう一度さっきと同じツッコミを入れつつ、本当に敗けなくて良かったと思った。
その後栄子を乗せたリムジンが美城の門扉を出るまで見送った私は、いつの間にか撤収作業を終えてこちらの様子を窺っていた先輩スタッフたちに囲まれて揉みくちゃにされた。
中には涙ながらにお礼を繰り返す人も居たりなんかして、好き勝手した私としては何だか面映ゆい想いだった。
こうして私の長い一日は終わりを告げ、その幕を閉じた。
…でも、この後私に待ち受ける一人の魔法使いとの出会いによって次のステージの幕は思いの他早く上がる事になるのだった。
――アイドルに興味はありませんか?
―fin
蘭子のセリフ解説
1、角の悪魔が召喚されし時
ここで蘭子が言っている角の悪魔はバフォメット。つまりはヒツジ。
集合時間は午後4時で申(サル)の刻だけど、メンバーもそれより前には集まるだろうから一つ前の未(ヒツジ)の刻には集まるだろうという意味。
2、宝玉の翼を落としに
こちらは本編で武内さんがその答えを口にしていましたがちょっと補足。
まずトイレに行くことの隠語として「花を摘みに行く」という言葉は有名ですが、実はこの言葉は女性が使うものなので、これが男性の場合は「雉を撃ちに行く」という言葉になるそうです。雉はその羽を大きく広げた際、色とりどりな宝石のように綺麗な色をしている事から、蘭子は“宝石のように綺麗な羽”を言い換えて「宝玉の翼」と言ったわけですね。
以上、蘭子の厨二語録の解説でした。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。