主従の間に芽生えてしまった歯止めの効かない愛情は光をも割断する   作:てりのとりやき

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「なにも、なかった」

 

 

 子は宝だと誰かが言っていたのを思い出す。

 何をしても可愛くて。ふっくらした足、まるい体。世界のすべてを興味津々に見つめる瞳の輝き。

 差しだした指よりも小さな手のひら。

 夫が頬を突けばすぐ泣くところ。

 何もかもが愛らしくて、いつだって抱きしめたくなる。

 愛娘マギステルシア・ファウストは世界で最も可愛く、分かち難い半身を継いだ希望そのものなのだと。

 そう、娘が生まれてからずっと思っていたのに。

 

 

 

 

 1903年11月。

 マギアニクス・ファウストはひたすらに困惑していた。

 

 

 

 

 生まれて既に11ヶ月になる娘の事だ。

 マギステルシア・ファウストと名付けた最愛の幼子は、早熟なのだろうか、既に自分で歩くことを覚えていた。そして舌足らずながらも喋る事さえ既にできていた。

 ただそれだけなら何も心配などしなかった。

 すこし早熟が過ぎるかもしれないと心配する程度で済んだ。

 しかし……。

 

「はい、マギステルシア。今日のおやつよ」

「おかあさん。わたしのなまえ、ローロ・ワンだよ?」

「…………」

 

 これだ。

 喋れるようになった頃から、マギステルシアは何度も首を横に振った。自分のことをローロ・ワンだと言って聞かないのだ。

 ローロ・ワン。ありふれた人名だ。間違ってもマギアが娘に与えた名ではない。夫だって一度も幼子をローロだなんて呼んだことはない。

 

「どうして自分を『ローロ・ワン』だって思うの?」

「? わたしのなまえだから」

 

 はきはきと娘は答える。1歳にもまだ満たない幼児にしてはあまりに賢い。賢すぎる(・・・・)

 夫はさほど気にしていない様子だった。これくらいの幼子は思い込みが強い傾向にあるのだと彼はそう言う。つまり自分をローロという名前だと勘違いしているのだと。

 ……そんな決めつけが正しいのだろうか。

 マギアが抱えた奇妙さの理由はこれだけではない。

 

「おかあさん、みて」

「んー? どうしたの?」 

 

 ある日。洗濯物を物干し竿に掛けていた母親の足元で、マギステルシアが両手を差し出した。晴天の昼下がり、心地よい風が流れる最中。幼子のふにふにと小さい五指へと目を向けたマギアは微笑い顔のまま硬直してしまった。

 

「それは……なに?」

 

 マギステルシアが広げていたのは魔力で編んだ糸──あやとり、だった。

 人ならば誰もが持ち、魔法として展開される以前の、五感では認知できない霧のような存在、魔力。色なきもや(・・)をマギステルシアは自身の意思で放出し、あまつさえそれを繊維に……糸状に束ね上げ、五指に絡め合わせることで蜘蛛の巣状の編み物を創り上げたのだ。

 

「わたしにもわからないけど、できた」

「そう。それはね、魔力って言うのよ」

「まりょく」

「……」

 

 魔力操作が極めて繊細な技術を必要とすることを、マギアは既に理解している。

 霧状に放出される魔力を糸になるまでより集めるなんて芸当を、そもそも魔力という言葉を知らなかった子供が行っている現実。

 マギアの心に異様な震えが走る。

 

「……。いつ……覚えたの?」

 

 洗濯物を干す手を止め、娘の前にしゃがみ込みそっと尋ねた。

 最愛の娘はくりくりとした淡い紫の瞳にほとんど情を乗せないまま首を傾げる。

 

「わたしがいるときからずっとあったよ?」

「それは……。……いる、っていうのは、どんな時かな?」

「なにもみえなくて、あたたかった。ぷかぷか浮いてたの。はじめは、ふつう、見えないんだとおもってた。でも、きゅうにぱあって明るくなった。息もね、しなくちゃってなんでか思って……さいしょはできなかったんだけど……あーって泣いてたらできるようになったんだよ」

 

 ──この子、産まれる前からの記憶があるんだ。

 たどたどしいマギステルシアの言葉からマギアは推論を組み上げる。女は、自身の娘が伝えようとしていることを分からない、分かろうとしない母親ではないのだ。

 マギステルシアは嘘を吐いているようには見えなかった。

 親の気を引きたくて噓泣きをする時期が子供にはあると聞いていたが、こんなにも賢い幼子がそんな事をするとは思えない。

 

「ありえるの? 胎児の状態で意識や記憶があるなんてこと」

 

 その晩。

 寝室で、マギアは同じベッドで横になる夫へと今日の出来事を話し、そう尋ねた。若く未熟ではあるものの彼は医者であり、マギアが妊娠した辺りから『産科学』と最近呼ばれるようになった医学分野の勉強も始めていた。母子ともに健康のまま出産という大事を終えられたのは彼の勤勉さによるところも大きい。

 マギアが全幅の信頼を置く伴侶の男は、少し考え込むように黙ってからそんな実例は聞いたことがないと首を横に振る。

 

「私が心配しすぎなのかな……」

 

 気にかかることはもう一つ。

 放出された魔力が余りにも少ないのだ。平凡な魔力総量でしかないマギアでさえ半径数メートルの魔力放出が出来る。しかし娘が出来たのはせいぜいが拳一つ分程度だけ。

 マギステルシアは恐らく魔法を一つも使えないだろう。……魔法が使えないからといって私生活上困ることなどめったに無い。だが、いくつもの事実が点でなく線になってマギアの中で引っかかる。

 あの、異常なまでの魔力総量の少なさは何だ? 

 そして常人離れした魔力操作技術は何なんだ? 

『ローロ・ワン』は、幼子特有の思い込みで済ませる問題なのか? 

 

「こういう時メフトがいてくれたらいいのだけど……」

 

 泣き言を言っていても仕方がない。メフトは出産を見届けた後この土地を離れた。彼女は自分の道を歩き出したのだ。マギアは自分自身で出来ることをしなければいけない。

 

「よし……」

 

 だから、早朝。

 隣で静かに寝息を立てる夫を起こさないようそっと寝室を抜け出したマギアは、自身の娘に与えた私室へ向かう。

 1歳児に私室を与えていいものかと夫婦は悩んだのだが、二人が使っている寝室のベッドで三人並んで眠るのは手狭だった。もしもの怪我が無いよう家具や内装には気を遣っているから大丈夫だろうと判断は、マギステルシア本人が大人しい性格なこともあり、間違いではなかったのだろう。

 

「まだ寝てるかなー……」

 

 扉を、ゆっくりと開けた。音を立てないよう気を付けたのだが、僅かな物音だけで目を覚ましたらしい。寝ぼけ眼の愛娘が「おかあさん……?」とベッドから抜け出ようとする。

 

「ああ、いいのいいの。そのまま横になっていて?」

「んー……」

 

 言われた通りにマギステルシアは目を閉じてまた体をベッドに沈める。

 その、ふにゃふにゃとした頬の柔らかさや可愛らしい小鼻の形は本当に夫そっくりで、見ているだけで心臓の奥から暖かいものが流れ出す。

 ……この子をなんとしてでも守り抜かなければならない。

 母として。あなたを愛し祝福した者として。

 

「なにするの……?」

「大丈夫。大丈夫だから。お母さんはなんでも出来るのよ」

「?」

 

 思い起こすのは、かつてメフトが脳内構造を把握するために使った魔法。

 彼女に出来ることならばマギアに出来ない道理はないのだ。

 得たい結果を想起する。

 求める現象を確定させる。

 ふ、と息を小さく吐き──女の全身から魔力が溢れ。

 

「ちょっとごめんね」

「?」

 

 手を娘の額に。

 しっとりと柔らかく、滑らかな額を覆うように手を当てて。

 天賦の才は見事なまでに完璧な、構造解析の魔法を発動した。

 そして。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 ()      ()が娘の頭にあった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ぺたん。

 そんな情けない音を立てて、気付けばマギアは尻餅を付いていた。脱力したようにその場にへたり込んで身動きが取れなくなった。

 一分だろうか。

 十秒だろうか。

 十分だろうか。

 ──肩を揺さぶられて、マギアは思い出したように息をしだす。

 

「……っ、は、ぁ、! っは!」

 

 眼球が視覚がぐるりと回り、自身の右肩に置かれた手に焦点を合わせる。大きくて細くて、だけど慣れ親しんだ男性の手。

 自身の夫が心配した様子でマギアの肩を揺さぶり、朝からどうしたのかと問うていた。

 

「なっ、なに、なにもっ……」

 

 マギアは聞かれるがまま口を開くことしか出来なかった。溺れてしまったかのように口が上手に動かない。

 ……ベッドの上で座り込む娘が、不思議そうに母親を見下ろしている。

 

「なにも、なかった」

 

 意味が分からないと夫が続きを促す。

 何度も何度も深呼吸をして、重くなるばかりの息を吸っては吐き、言葉を無数に呑み込んで。

 ひたすらに言葉を待つ伴侶に、マギアはようやく端的な言葉を伝えられた。

 

「ほとんど成長してない」

 

 マギアニクス・ファウストは思い出す。

 七年前。ほんの一つの思い付きから空想の悪魔を生み出した際、参考にした自身の脳を。魔法で洗い出したその構造を。

 人の脳は不気味なほど皺があり、豊富な感受性を叶えられそうなほど複雑で。

 なのに。 

 

脳に(・・)皺が(・・)ない(・・)のよ(・・)

 

 マギアニクスの夫は、言葉の意味が分からない医者ではない。男の顔が瞬時に青ざめた。

 

「代わりに……生体機能を模倣する魔法が、たくさんあって」

 

 異常なまでに少なく、そして異常なまでに高度な魔力操作技術。

『ローロ・ワン』。

 構造解析の魔法。その結果。

 マギアが瞳孔の開ききった眼で娘を見つめる最中に紡いだ言葉。それらを聞くたびに隣の夫の表情が険しさを増し、同時に悲壮を増していった。

 喋っていくうちに整理が付いていく。

 自身の娘を取り巻く状況を端的に言い表せるほどに。

 ──極めて単純な事実が、口から零れ落ちた。

 

「魔法に……私達の娘が乗っ取られてる……」

 

 その一言に、一組の男女は目の前の娘を見ることしか出来なくなった。

 否。

『見る』のではなく、『観察』していたのだ。

 マギステルシアという名を与え、最大の愛情を──自身の全てを注ぎこんだ愛娘を。

 マギ(・・)ステ(・・)ルシア(・・・)ファ(・・)ウス(・・)トの(・・)形を(・・)した(・・)何か(・・)を。ただ茫然と。

 

 

 そして、重く、軋む音が玄関から。

 怪物の悲鳴にも似ていた。

 

 

 幼子が真っ先に首を巡らせた。夫婦は何も考えることもできないまま、私室の入り口へと目を向けることしか出来なかった。

 足音は一人分。

 情動なんてまるで無いような歩調に、何故だろう。マギアは自身の娘と同じ癖があることを覚えて。

 開け放たれたままの入り口に姿を現したのは。

 

「メフト……?」

 

 艶めく長い黒髪は、星無き夜空とおよそ同質。

 逆光を背に、曖昧になった輪郭の中でも彼女が帯びる黒は純粋だった。

 いつまでも変わらず黒く。

 末恐ろしくなるほど病的に白い肌は余計に黒を際立たせる。

 ひたすらに黒い、およそ理外の領域にある女。

 

「久しぶり、マギア」

 

 六年前から何一つ変わらない。

 薄い表情で三人を見つめる、空想の悪魔(メフィストフェレス)がそこにいた。

 

 

 

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