主従の間に芽生えてしまった歯止めの効かない愛情は光をも割断する 作:てりのとりやき
リビングに、机を挟んで座り合う女が二人。
湯気を立てるティーカップを対面の彼女へと差し出した屋敷の主──マギアニクスは、躊躇いがちに微笑んでみせた。
「久しぶりね」
「ええ、11ヶ月ぶり、マギア」
相変わらずどこか超然とした態度を崩さずに淡々と答えるメフトは、やはり六年前から容姿の何一つも変わらない。服装とてちょっとした散歩にでも出かけるかのようなシャツとズボンという軽装の出で立ち。
不老。不死。
変わらずにあり続けること。
対して自分はどこまで変わったのだろう。彼女が真っ直ぐに見据える黒の瞳の内、焦燥の色濃い自分の顔を見てしまい、つい瞳を伏せる。
「……今までどこにいたの?」
「今は遠くにある大きな屋敷に住み込みで働いてるわ。ホルル家っていう有名な一族らしいの」
「へえ。じゃあメイドさんってわけね」
「同僚もいるのよ。歳は出会ったばかりの頃のあなたくらいで、明るい子」
「…………よかった」
「?」
つい零れた安堵の吐息に、メフトが首を傾げる。おもむろに彼女が熱をもったティーカップを両手で抱え込むように手に取ったのを見て、つい、笑みがこぼれた。
「あなたが元気そうにやってるから。だってメフトったら手紙の一つも寄こさないんだもの」
「……手紙。あなたに近況を伝えるのに、こうやって会う以外の手段なんて思いつかなかった」
マギステルシアの誕生を見届けたメフトの行動は早かった。ほとんど大した旅装もせずに、簡単な挨拶だけ済ませてこの土地を離れてしまったのだ。
彼女にとって六年間過ごした土地への郷愁はさほどの重さを持たなかったのだろうか。そんな小さな寂しさを以前まで覚えていた自分を、マギアはひっそりと恥じた。
メフトにとって時間に重みはないのだ。
かの魔法存在は気が向けば何処へでも行ける。どこにでも道を見つける。
「マギアは、なんというか……」
メフトが両手に抱えたティーカップの縁を撫でながらこちらを見つめる。続けようとした言葉が分かっていたから、自嘲で口をかすかに緩めた。
「やつれてる?」
頷くメフト。
すごいな、とマギアは素直に感心してしまう。
メフトはやっぱりすごい。あなたはいつだって何でもお見通しだった。その黒くて混じりけのない瞳にはきっと何もかもが映るのだろう。
──憧憬だったかもしれない。驚嘆? 呆れ?
いずれにせよ、目下の悩みを彼女に打ち明けることが最善に思えた。
「少し……ね。困った問題があって」
「問題?」
メフトが瞬きをした時だ。リビングの扉を開ける者が現れる。それは堂々とした登場ではなく、こっそりと二人の会話を盗み聞こうとする極めて小さな物音だった。
「……マギステルシア。こっちへいらっしゃい」
職務に忠実な夫は診療所へと向かった。マギアの母は以前から足腰が悪い。となれば必然、盗み聞きをしようだなどと考えるのは一人しかいない。
空気を多く含んだ羽毛のようにふわふわとした銀髪。淡い紫の瞳。
ててて、と小さな両足で扉を開け放った幼子が母親の下へと駆ける。その動きさえ大人からすればひどく緩慢で、そこだけ時間が切り取られてしまったかのようだった。
「驚いた。一年でそんなに大きくなるのね」
メフトにとっても衝撃が強かったのだろう。マギアに抱き上げられた幼子を、じっと彼女は凝視している。
「もうすぐ一歳になるわ。自分で歩くし、喋ることもできるの」
「髪や目はあなたの特徴を継いだのね。でも、目鼻立ちは彼に似てる」
「でしょう? 毎日本当に可愛くって、少し目を離すとすぐ大きくなってて……。でも、その……」
「こんにちは、マギステルシア」
母親の困惑をよそにメフトは幼子へと言葉を向ける。ちょうど、当のマギステルシアと目線が合った時だった。
「私はメフト、あなたの母親の……まあ、知り合いよ」
「こんにちは」
溌溂と娘は答える。誰に教えられなくとも、挨拶をされたら返すことを知っていた幼子。マギアニクスも夫も多くを教えることなくひとりでに歩き出した娘。
まだ一歳にも満たないというのに、マギステルシア・ファウストは淡々と告げるのだ。
「わたしのなまえはローロ、ローロ・ワンです」
「──」
言葉に、メフトが硬直していた。何かを紡ごうとしていた唇の動きがぎこちなく止まり、やがてきつく口を引き結ぶ。
マギアは、彼女の困惑に大きな共感を覚えた。
「ねえ、どういうことだと思う? この子、自分をローロ・ワンだって言い張って聞かないのよ」
「……………………」
「それにね、本当についさっき分かったことなんだけど、この子の脳内構造が……その……」
「マギア」
言葉を遮り。
メフトはただ、見開いた眼で、二人を見つめる。
「私はあの時、最善を……より良い未来を求めただけだった」
「?」
「これが私の成すべきことだと。私はこの子を導かなければいけないって、……かつてマギアが私にしてくれたように。だから……私は、この子に生きてほしいと……」
「ど──どういうこと? 歯切れが悪いじゃない」
困惑だけが広がっていく。
胸の中に澱みのような息苦しさを覚えた。わからない。急にメフトはどうしたのだろう。その、初めて聞く重々しい声音は何なの?
得体の知れない重圧に──母は、膝上の娘を抱きしめ。
「こんな、つもりじゃ、なかったの」
「……」
こんなつもりじゃなかったの。
コンナツモリジャナカッタノ。
こんな、つもりじゃ、なかった、の。
って。
なに?
「…………………………………………………………………………え?」
繰り返す。
脳裏を過ぎる。
メフトは魔力を基にした魔法存在だ。
自身を魔法創造型魔法と呼称する彼女はありとあらゆる魔法に精通している。
私の脳を解析したことがある。
人体の構造に詳しくないはずがない。
つるりとした脳。空虚な頭蓋の内。代わりにとでも言うかのように芽吹く、出自不明の魔法──脳神経の代替存在。
『ローロ・ワン』。
額に触れた細い指。
お腹に触れさせた白い手。
つまり機会はあったのだ。
……そんな。
ありえない。
「メフト、なの?」
言葉に女が何一つ答えないことが恐ろしかった。
ただ黙り、その手に持っていたティーカップをそっと置く仕草に。これからも続く宿痾の元凶がまるで首でも差し出すかのような意図を、覚えてしまって。
「この子は、なに?」
「……あなたの娘よ」
「この子に、何を?」
「名前を、あげたの」
「この子になにがあるの?」
「空っぽの脳と、私が撃ち付けたシナプス代替魔法【ローロ・ワン】」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
これは告罪? 懺悔? だとしたらそれを聞く私達
時間、という概念が破裂していた。
「嘘よ。だって。なんで? どうしてそんなことをしたの?」
「臨月を迎えたあなたの腹部。そこに触れた時、彼女に未来がないと知った」
「育つ事のない、未熟なままの脳神経細胞──だから救ったと?」
メフトは何も言わずに首肯する。
「どうして私に相談してくれなかったの?」
「『幸せ』を手に入れたあなたに、どう伝えればいいのかわからなかった」
胸の奥に気道を詰まらせるような隔壁の存在を幻覚した。息が塞がっていく。徐々に徐々に呼吸が荒く、目の前の現実をまっとうに見つめることが出来なくなっていく。
歪む。
滲む。
幸せ、だったから……?
そんな理由でマギステルシアが……!
「────メフトッ!」
必死になって膝上の我が子を抱きしめた。その小さくて丸いばかりの肩を。折れそうなほど柔らかな体を。突然の叫び声にびくりと震えた幼子を、守り通すつもりで。
睨む。
──睨む事しか出来ない。
「あなたは! あなたは! 私の、私達の娘を……ッ!」
「怒りは当然だと思う。……私にも想像できなかったのよ、【ローロ・ワン】が肉体の主導権を得るなんて」
それでもあの時私が手を出さなければ、その子は今ここにはいない。──そう言いたげに口を噤むのは何故だ? 黒い瞳に宿した薄い情動は何を意味する?
分からない。
何一つ理解できない。
この女は。人の形をしたこの悪魔は。
なぜ……何故、真っ直ぐにこちらを見つめていられる!?
「息が、ね、できなかったのよ。肺の手前までせり上がる苦しさで喉が詰まって、お腹が痛くなって、産まれるんだってわかったの」
「……」
「痛かった。怖かった。本当に私もこの子も無事でいられるのかわからなくて。……信じられる? 私のお腹からこの子が出てきたのよ?」
分かるはずがない。
人の営みから外れた存在であるメフトが、それに伴う辛苦を理解することなんて出来るはずがないのだ。
「気が狂いそうになって、歯をすべて噛み砕いてしまいたくて、顎の骨もへし折りそうで。それでもこの子がマギステルシアだったから耐えた」
それでも言わなければならなかった。伝えなければならなかった。
一体どれほどの恐怖と戦った時間だったのか。
「未来が、あったの。ここに」
無事に生まれてほしいと願う母親の祈りの大きさを。
激痛と失われていく血液と、無限にも思える時間の中で、必死になって握った伴侶の手指。握り返された時の力。手汗。
「返して」
「……出来ない」
全て無意味だったとメフトは言うのか?
──そんな現実、認められない。認められるはずがない!
「返してよ、私の娘を」
「完全に【ローロ・ワン】が同化している。あなたが心臓の鼓動を自意識で止められないのと同じように、
「返して、マギステルシアを……私の娘を……!」
「その子は生き続けることができずに終わっていた」
「だとしてもマギステルシアとして生まれられた!」
「一年と経たずに死んでしまう酷さを是とするの?」
「いいえ! 私と夫の二人できっと治せたはずよ!」
「そんな可能性はないわ。代替脳を用意する以外は」
「この子に与えられるべき人格を奪う行いだった!」
「神はいない。私がいた。私はあなたの娘を救えた」
「そんな傲慢私は認めないッ! 許せるはずない!」
酷な現実だけど、それでも事実を言う事しかできないと。
女が首を深く横に振る。静かに。重々しい仕草。
……まるで。
まるで裁きを宣告するみたいに。
「マギア。あなたは賢いからわかっているはずよ」
「やめて」
「現代の医学で治せる状態でないことを」
「……やめてよ」
「数多ある治癒系魔法のすべてにも叶えられない奇跡だと」
「やめて、やめて、やめて」
「その子の脳が抱えた異常を治す手立ては、なかったと」
「やめてって言ってるのよメフト!!!!」
「その子の脳を見たのでしょう? 自分自身と比較したあなたなら、もう分かっている」
聞きたくなんかない。
受け入れたくない!
今抱き留める我が子は──マギステルシア・ファウストは、健やかで、賢くて、もう歩くことも喋ることもできて、きっときっと愛した男と自分自身の全てを受け継ぐ。
母親譲りの淡紫の瞳を、銀にも似た色素の薄い髪を。
父親譲りの可愛らしい顔立ちを。目鼻立ちの柔らかさを。
無限の未来が、
無数の可能性が、
道はこれから、これから先の全てに……!!
「マギステルシア・ファウストは、……あなたの娘は。
生まれてすぐに死ぬためだけの理由で生まれ、
息をすることひとつ誰にも許されていなかった」
「あぁぁあ゛あぁあ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!
嘘よ嘘よ嘘よ嘘よ嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘ッ──!」
俯き。抱きしめ。涙がこぼれ続ける。娘は話の内容が理解出来ずはずもなく、身動きがしづらそうにもぞもぞと体を揺する。
「私は、あなたの娘にそのような終わりは与えない。……認めたくなかった」
……もしも。
もしも、マギステルシアの身に巣食う病魔があったなら。
きっと医者である父親は必死になって治そうと努力出来た。
もしも、マギステルシアを侵す悪意があったなら。
きっと魔法の才能を持った母親が何もかもから娘を守り通した。
致命的なまでに不可逆な状態でさえなければ。
「出ていって……」
「マギア。私はただあなたを、あなたの娘を」
「今すぐ!!!! 私達の家から!!!! 消えなさい!!!!」
「……、……。……」
喉を嗄らすほどの叫び声に、メフトの体が小さく震えた。
情動の薄い顔は口を噤み、そっと立ち上がる。物音ひとつ立てない所作さえ見たくはなかった。俯き続ける中で頭上からメフトの声だけが降り注ぐ。
「……ローロ・ワンであることさえ除けば、その子はまったくもって健康体よ。きっとこれからも健やかに育つと思う」
「うるさい。うるさい……もう、黙って……」
やがてすぐ傍にあった気配は静かに遠のいていく。
そのまま消え去ればいいと思った。二度と現れなくていいと。
しかし。
「私はもう、生きることをあなたと二人で出来ないのね」
「──。メ……フト」
顔を跳ね上げ、部屋の出口に立つ女を見た。
情動が乗る事のない薄い表情。
『あなたはまだ、きっと、一度も笑ったことがない』
言葉には、責任を。
果すべき約定を。
『恋は、愛は、……それを抱くだけで幸せな気持ちになれるよ』
『んふふ。私が何言ってるかわかんないでしょ?』
『──いいじゃん相手が同じじゃなくたって!』
今まで彼女に何を説いてきた?
人並みに色恋に目覚め、自分自身の幸福ばかりに目が行って。何も分からないままだった彼女に対し得意げになって。
「違う。私そんなつもりじゃ、ただ、だって! こんなの──!」
「わかってる。知ってたの。私は、あなたのようになれない」
メフト。
メフィストフェレス。
メフィストフェレスラフレシアディアレシオディファレンスディファレンシアバレルロードカルテル・ファーストラグドール。
「あなたが私に世界をくれた。あなたはいつも、私に手を差し伸べてくれた」
……酷い名前だった。
14歳で、反抗期で、あまりある力の遣い方を知らなかった小娘は本当に無責任で。
だけど彼女は、自分自身に初めて与えられた名を受け入れたのだ。
その黒い瞳で眺め、観察し続け。
始めは恐れ。拒み。霞のようであろうと。
それでも望み。生きることを始めて。
そう。
「そうか。私は光が欲しいのではなくて、光になりたかったのね」
「──」
彼女は今ここにいる娘と同じ。
生まれることを拒めなかった。
それでも生まれてしまったからには、生きてみたいと願ったのだ。
きっと──それだけだった。
「あなたのような人になりたかったんだと思う。……けどやっぱり、私には遠かった」
時間は前にしか進んでくれない。
どれだけ祈っても。願っても。泣いて叫んで抱きしめても、マギステルシアの脳が抱えた異常はあまりに進行しすぎていて、ローロ・ワンなる魔法代替脳はどうしようもなく定着しすぎている。
治す手立ては、無い。
受け入れるしか。もう。
生まれた瞬間から──何もかもが手遅れだったのだ。
さようなら。
そう言い残し、扉は閉じる。
彼女の足音が戻ることは無い。
静けさに痛みを覚えて……ようやく。
「おかあさん? ないてるの?」
「……ううん。大丈夫。大丈夫よ。絶対に私がなんとかするから。私と、あなたのお父さんの二人で、きっときっとあなたを救うから」
六年間ともに過ごした、誰よりも特別な彼女を失ったのだとマギアニクス・ファウストは気付く。
空想の悪魔はもう居ない。
無責任な行いを責める者は、もうどこにも。
女の心に、ひとつ、致命的な亀裂が走る。