主従の間に芽生えてしまった歯止めの効かない愛情は光をも割断する   作:てりのとりやき

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枯れない造花。


禍れない憎火(マギアニクス)

 

 

 

 1904年1月。

 どうにもならなかった。魔法も、医療も。夫も私も泣き続けた。

 

 

 1904年2月。

 体重が激減した。何も食べる気になれなかった。

 

 

 1904年3月。

 母が死んだ。遺言は覚えてない。

 

 

 1904年4月。

 花壇の花が全滅した。酒ばかり飲んでいた。

 

 

 1904年5月。

 夫と喧嘩した。彼はまだ諦めていなかった。

 

 

 1904年6月。

 夫が死んだ。娘を救おうと必死になったが故の過労だった。

 

 

 1904年7月。

 領民が減り続ける。どうでもいい。

 

 

 1904年8月。

 息をするのも煩わしい。

 

 

 1904年9月。

 ローロ・ワンは成長する。勝手に喋る。勝手に動く。

 

 

 1904年10月。

 なにもしてない。

 

 

 1904年11月。

 あ。

 

 

 1904年12月。

 もうすぐマギステルシアの誕生日だ……。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 マギアニクス・ファウストが目を覚ましたのは正午だった。

 

「……」

 

 頭痛が酷い。昨日から酒を飲み続けていたからだ。上げたくもない瞼をわずかに開くと、枕の横に転がっている酒瓶が何本も目に入った。

 吐き気。頭痛。──うざったくて、女は舌打ちと共に魔力を放出する。

 放たれた魔力は、理論や形式を完全に無視した形で魔法へと変遷する。

 

「ふーっ……」

 

 それは治癒系魔法の一種だったのだろう。

 発動者であるマギアでさえ名称を知らないが、『二日酔いを治せる魔法』だったことは間違いない。頭痛や吐き気、不安定な平衡感覚が直ちに消え去る。

 

「……寒い」

 

 もう何か月も洗っていない布団を引き剥がし、肌に触れた冷気にもマギアは舌打ちをする。更に追加で魔力を放出し、『自身の周囲の空間を暖める魔法』が発動した。

 

「はあ」

 

 体の震えを解決できたマギアは、完全に覚醒してしまったことに大きなため息を吐く。

 睡眠薬代わりに魔法で眠ってしまおうかとも思ったが。

 

「今日って……マギステルシアの誕生日だっけ……」

 

 ぶつぶつと呟くと、女はベッドから抜け出た。一年近く掃除をしていない埃だらけの寝室。床に散らばる脱ぎ捨てられた衣服から適当に長衣を引きずり出し、皺くちゃなまま着る。

 

「酒、酒」

 

 中身のない酒瓶を手に取ったマギアは何てことはないように魔法を発動した。望んだのは酒瓶を満たす葡萄酒。

 魔法という概念に愛された天才は、瞬間的な物質化魔法でさえ完全に発動せしめた。

 空の瓶はみるみるうちに濃い紫色の液体で満たされ、ずっしりとした重さをマギアの片手に知らせる。

 カップに注ぐことなどせずマギアは酒瓶を呷った。

『ご、ご、ご、ご、ご』……1リットル以上はある酒瓶の中身が一気に飲み干されていく。

 

「……味がしない。魔法、間違えたかな」

 

 飲み終えた女は、酒瓶を床に放り捨てた。

 寝室を後にしようと扉の取っ手に手をかけた時、ふいに扉の横に置かれた鏡台の鏡に目が行った。

 

「酷い顔ね」

 

 怠惰と失意で象られた、濃い目の下の隈。

 輝くことのない瞳。

 枯れ、乾ききった唇。

 二十代前半とは思えない程に老け込んでいるような気がして、意味のない苛立ちを覚えた。

 

「──【割れろ】」

 

 言葉は明確な力へと変じる。

 盛大な音を立てて鏡台が砕け散った。

 無形無色の攻性魔法。

 魔力放出から魔法発動までの時間は極めて短い。凄まじい魔力操作技術は、その気になれば一国を──それどころか世界を支配できる領域にある。

 ……大きな物音に、廊下からととと、という小さな足音が一人分。

 マギアニクスの死んだような顔が明確な表情へと切り替わる。深すぎる眉間の皺が、壮絶な苛立ちを示す。

 扉を開けた。

 

「おかあさん、おはよう」

 

 淡い紫の瞳は何一つ変わらないで光り輝く。

 食事を与えたことはないというのに、勝手に自分で食べているらしく肌艶は綺麗で。幼子特有の柔らかい肌は血色良く、健康的に白い。

 薄い色素をした銀色の髪は誰も切らないから伸び放題だというのに枝毛もなく、艶やかで可憐だ。

 自分と、既に死んでいる夫に似た幼女が、生まれた頃から何一つ変わらない薄い表情でこちらを見上げている。

 

「誰だっけ。これ」

 

 ああ、そうだ。

 

「マギステルシア」

「おかあさん、わたしの名前は……」

マギ(・・)ステ(・・)ルシア(・・・)

 

 マギアの声音は柔らかかった。愛情をまぶした異常な程に甘い声だった。

 その場に跪き、女は笑う。苛立ちで、ひくひくと唇を不気味に痙攣させながら。

 

「お誕生日おめでとう。何も用意してあげられなくてごめんね」

 

 怒りで濁る瞳で、マギアは嗤っていた。

 幼子の両肩に置いた手が自然と我が子を握る。握り(・・)締め(・・)ていく(・・・)

 

「おかあさんがいればそれで平気だよ」

「マギステルシアはいい子ねえ」

「わたしの名前はローロ・ワンだよ?」

「マギステルシア。私のかわいいかわいい奇跡のような涙の花(マギステルシア)……もう二歳になるのね。子供の成長って早いわねぇ」

 

 何かプレゼントをあげないとね。

 マギアニクスは怒気を孕む表情で魔力を放出し、物質化魔法を起動する。

 虚空から現れ、ぼとりと床に落ちたのは熊のぬいぐるみだった。

 腕が四本、足が十二本、ボタンで象られた目が顔中に縫い付けられた、熊と思しき形のぬいぐるみだった。

 

「はい、お誕生日プレゼント。マギステルシアはぬいぐるみが欲しいって言ってたものね?」

「? わたしそんなこと言ってないよ」

「ぬいぐるみが、欲しかったのよね」 

 

 幼子は無言で自身の母親を見つめる。

 マギアニクスは瞳孔の開ききった笑みを浮かべた。

 

「アハ。ごめんね、お誕生日なのにあなたのお父さん死んじゃった。私しかお祝いできなくてごめんねえ」

「うん。しってるよ」

「お花もね、水やりを忘れたせいで枯れたわ。領地の運営をほったらかしていたからここにはほとんど人がいない。あなたの遊び相手になれそうな人、もういないの。何もかもがね、無いのよ」

「そんなことないよ。おかあさんとわたしがいるよ」

「──だったらマギステルシアはどこにいるの!? ねえ!!!! ねえッッッ!!!!」

 

 心が爆発した。

 全力で吼えた。

 全力で幼子の肩を握りしめた。

 屋敷全体が揺れるかと思えるほどの怒声に、ローロ(・・)ワン(・・)は泣(・・)くこ(・・)とも(・・)なく(・・)顔を(・・)歪める(・・・)

 

「おかあさん。て、いたい……」

「黙れ。黙りなさい。もう喋るな……! 私の娘の口で、おまえが喋るな!!」

 

 目の前にいる、我が子の形をした化け物。見ているだけで全てを思い出さなければならなかった。それが耐えきれる苦しみではなかったから酒に逃げた。何もかもから目を逸らした。

 

「どうしてマギステルシアじゃなくてローロ・ワンを育てなければいけないの?」

 

 どれだけの治癒系魔法でも不可能だった。

 どれほど医学書を読み漁っても解決手段は載っていなかった。

 

「私に義務があるの? 責任が? あんなに苦しい思いをして産んだのよ?」

 

 泣いて、泣いて、泣き続けて。

 

「マギステルシアがマギステルシアだったから耐えられたのに、なぜここに居るのがローロ・ワンなの?」

 

 何も手が付かなくなり、それでも夫は諦めず。

 あれほど愛し合ったというのに毎日喧嘩をするようになって。

 

「どうして夫は死んだの?」

 

 …………母は老衰で死んだ。夫も、過労で倒れたまま逝った。

 

「なぜメフトは私に一言も伝えてくれなかったの?」

 

 もう、この屋敷には母子(おやこ)しかいない。

 

「私がいけないの? 私は何を間違えたの? 私はこれからどうすればいいの?」

 

 何が出来た? 

 何を許されていた? 

 過去を変えることは出来ない。

 マギアニクス・ファウストは神ではない。

 当たり前の幸せを求めたどこにでもいる女でしかない……! 

 

「私はより良い未来が欲しかっただけ」

「よりよいみらい?」

「そこにはきっときっと幸せがあったから」

 

 ……………………………………………………時間は勝手に進む。

 異常な程賢くて当然だ。メフトと同等の魔法創造型魔法が本質なのだから。

 育てる気はなくとも、勝手にローロ・ワンは成長していくだろう。

 マギステルシアの体を無断で借りて。 

 いずれは誰かを、愛するのだろう。

 誰かと添い遂げるのだろう。

 ……笑うのか? 

 父親譲りの可憐な顔立ちで。母親譲りの髪と瞳を、これからも使用するのか。

 

「ねえローロ、お前は私の何?」

「おかあさんの子ども」

「そう」

 

 誰が許した? 

 その体を使う事を、誰が許したのだ。

 呼吸も。生きることも。ここに居ていい理由の全てを──。

 

 

 

 私は、お前の呼吸を決して許さない。

 

「じゃあ死んでくれる?」

「……うん。いいよ。お母さんがそうしたいなら」

 

 

 

 これが、人でない証。

 魔法創造型魔法は──メフトと同じだ。人間の皮を被った倫理など知らぬ怪物。

 ただ言われたことを受け入れるだけ。

 こんなものが、娘であるはずがない……!! 

 

「────────―!!!!!!!!!!!」

 

 口から、喉奥から、ケダモノじみた低い唸り声が迸った。

 ほとんど何も考えていなかった。

 娘を廊下に押し倒す。

 その、簡単に折れそうな細い首に両手を絡め。

 

「              」

 

 絞め殺す。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 さて。女は思い出している。

 

『私……』

『私、あなたに作られたみたい』

 

 一体(・・)全体(・・)すべ(・・)ての(・・)因果(・・)の始(・・)まり(・・)は何(・・)だっ(・・)たの(・・)()? 

 

『名前』

『私の名前は?』

『じゃあ、私の名前はメフト、でいーい?』

 

 女は思い出している。

 

『あなたの名前は?』

『まぎあにくすふぁうすと』

『? これは何?』

『ふーん』

『よろしく、マギア』

 

 女は思い出している。メフトという存在を。その原因を。

 

『……気が向いたらね』

『さほど難しいことでもないと思う』

『マギアがどうしてそこまで私に他人と接する機会を持たせようとするのかが分からない』

『味覚はあるけど、味覚を使いたいとは思わない』

『触覚はあるけど、触覚がいるとは思えない』

『視覚と聴覚と嗅覚はたくさんの情報を寄こすけど、すべてが私には果てしない』

 

 女は考える。罪の在り処を。

 

『ゆうれい?』

 

 女は宿業の意味を知ろうとする。自身の善性を賭けて。

 

『……そうね。そういう在り方が出来たなら、そうしているかもしれない』

『ねえマギア、この世界がどれだけの完成度か考えたことはある?』

『恒星とこの星との距離がどれほどの奇跡的確率によるものか知ってる? この星がこれほど豊富な水をどのようにして得たか分かる? あなた達炭素を基調とするモノ……生命がこうも多様性を持って誕生する基盤を備えられた星がこの宇宙に一体いくつ存在できるか、思案したことは?』

『多数の色を用いて描かれた絵画が一枚あったとして、それがあなた達の社会上重要な価値を認められていたとして、そこに何かを描き足そうとする行いはやはり罪であり到底許されることじゃない。私は黒い絵の具のようなものだから』

『思うに』

『私はこの世界にとっての異物で、だからこれ以上干渉すべきではないと──』

『眺めているだけできっと十分なのよ』

 

 導こうとした……。

 

『園芸?』

『とても綺麗なものがあるのね』

『種を買って、また育てるの? 今日の畑みたいに?』

『花壇』

『花を? 私が?』

『育てる。……そんなことしなくても、きっと魔法でなんとかしてしまえるのに?』

『豊かさ』

『私には…………遠い言葉だと思う』

『……うん。わかった。マギアが言うなら、きっと正しいことね』

 

 導こうとしたッ! 

 

『…………好き? な人ができた?』

『それで? 誰を好きになったの?』

『……初めてね。マギアが私に隠し事をしようとするのは』

『いいの。大丈夫。あなたが喋りたがらないことまで知るつもりはないから』

『私には人が持つ美醜の価値観というものがないから、どうとも言えないけど……つまりマギアは彼を好きなのね』

『つまりマギア、あなたは彼と番になりたいってこと?』

『彼との子どもを作りたいってことよね』

『? 今日来たのは私にその協力をしてほしいからではないの?』

『? …………ごめんなさい、よくわからないわ』

『ならマギアは何かの結果を残すわけでもないのに彼を好きになり、そして私に何かを求めるでもなく彼を好きだとただ伝えに来たわけ』

 

 どれだけの苦痛で生んだ子なのだろう。

 

『──ねえマギア、話があるんだけど』

 

 女は腹部にかつてあった痛みを思い出す。

 

『ごめんなさい』

 

 あの、確かな命を自身の腸から引きずり出さんとする行いを。

 

『ねえマギア、誰かを好きになるってどういう状態?』

『誰かが誰かに好意を向けている状態とその仕組みを知りたかったのよ』

『そうね。メカニズムとして、あなたは気分を高揚させるような脳内物質が多く放出される状態にあるということくらいは』

『けど、例えばあなたがステーキを前にしても同じ状態になることを私は知っている。なんなら食事全般に対してもそう』

『ねえ、誰かを好きになるってどういうこと?』

 

 ごっそりと自身の継承を喪失していく感覚を思い出そうとする。

 

『幸せ』

『どきどき』

『肺と、心臓の隙間。腹部の更に奥。根源。芯が熱を持ち、『これでいい』、『それだけで』……』

 

 そこには愛があるはずだと女は考えている。

 

『私には遠いかもしれない』

『私には……私の番なんてこの世のどこにも……』

『それはつまり、例えば性別も種族も関係ないって言いたいわけ?』

『そういう考え方はなかった……』

 

 愛がなければ耐えられる痛苦ではなかったのだから。

 

『いいのよ。隣人だもの、これくらいは』

『歩くだけで大変そうね』

 

 愛がなければ子をほしいと願わないのだから。

 

『本当に良かったの? あなたの父の病は、私なら治せた』

『夫婦水入らずという言葉を私は知ってる。だからそのスープは二人で食べて』

『…………まあ、それはそのうちね』

『ごめんなさい。この際だからはっきり言うけど、私は今のあなたのお腹には触りたくない』

 

 女は何度も自分に言い聞かせる。

 

『私は…………』

 

 それでも女は自分の心に何もないことを知る。

 

『その子は……』

『私の、妹か、弟、になるのでしょう?』

『だけど私の血縁者にはならないのでしょう?』

『本当の意味での、あなたの子供、なのでしょう?』

『……私の、いつか友人になるのね』

『私はどう呼ばれるの? おばさん? メフトお姉さん? どうであれ私は応える必要があるのね?』

『私は…………私には分からない。私には、私は、だって……』

『私はそこにいる子供以上の繋がりを、あなたとの間に持てなかった』

『マギア。私はあなたの何だったの?』

 

 

 

 

 

 

 

 もう、わかってる。

 

『マギア。この子は……生きようとしてる』

 

 愛してない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ここから先はあなたの道を生きるべきなんだと思う』

『私は私の成すべきを知り、そしてそれは確かに果たされた』

『私は、私も、……私の道を、行くから』

『マギア。

 あなたの子よ。

 あなたが名付けるの

 あなたが愛し、あなたが導くのよ』

『マギステルシア・ファウスト』

『うん。とてもいい名ね、マギア』

 

 女は涙を流す。マギステルシアという名に込めた祈りを思い返している。

 

『驚いた。一年でこんなに大きくなるのね』

『髪や目はあなたの特徴を継いだのね。でも、目鼻立ちは彼に似てる』

『こんにちは、マギステルシア。私はメフト、あなたの母親の知人よ』

 

 全てに意味はあったか? 

 ──自問に、無表情の娘だけが視線を寄こしている。

 

『マギア』

『私はあの時、最善を……より良い未来を求めただけだった』

『これが私の成すべきことだと。私はこの子を導かなければいけないって、……かつてマギアが私にしてくれたように。だから……私は、この子に生きてほしいと……』

 

 奇跡のような涙の花。

 そう祈った赤子は魔なる王によって殺されている。

 

『……あなたの娘よ』

『名前を、あげたの』

『空っぽの脳と、私が撃ち付けたシナプス代替魔法【ローロ・ワン】』

 

 …………いや、違う。

 魔王がそこにいたから死んだのではない。

 

『臨月を迎えたあなたの腹部。そこに触れた時、彼女に未来がないと知った』

『『幸せ』を手に入れたあなたに、どう伝えればいいのかわからなかった』

 

 魔王を、生み出した者がいるからだ。

 

『マギステルシア・ファウストは、

 生まれてすぐに死ぬためだけに生まれ、

 息をすることひとつ誰にも許されていなかった』

 

 何一つ考えること無く。

 

『私は、あなたの娘にそのような終わりは与えない、認めたくなかった』

『私はもう、生きることをあなたと二人で出来ないのね』

『わかってる。知ってたの。私はあなたのようにはなれない』

『あなたが私に世界をくれた。あなたはいつも、私に手を差し伸べてくれた』

『あなたのような人になりたかったんだと思う。……けどやっぱり、私には遠かった』

 

 ただただ思いつき一つで、決して存在してはならない怪物を生み出した馬鹿な女がいたから!!!!!! 

 

「死、ん……で……!」

 

 力み。手指に全身全霊を込めて。

 震える両腕に全てを。

 

「私ッ、が、お前を……!!」

 

 幼子はただ見上げるだけ。

 その淡紫の瞳に映る女の顔を、また一筋、透明な滴が流れ。

 

 

 

 

 

 

 体が、吹き飛んだ。

 勢いで手が……娘の首から離れた。

 

「────っ」

 

 廊下を何度も転がりようやく止まる。

 衝撃──大した痛みもない。

 

 

 

 

 

 体を起こす。

 そして、見る。

 

「め、ふ、と」

「嫌な予感がしたの」

 

 黒い髪も。

 黒い瞳も。

 白い肌も。

 何も……変わらない。

 

「勘が当たって、よかった」

 

 廊下の奥に、悪魔が一つ。

 彼女はいつもいつも唐突に表れる。

 理知と薄情で作られた、情動の弱い顔。

 理由は無い。まるで……今この時、そこに立つ事が運命だと言わんばかりに超然としていて。

 

「マギア。これがあなたの幸せだったの?」

「──」

 

 酒。

 枯れた喉。咳き込む幼子。

 私を見る、あなた。

 黒い瞳の中にいる私。

 ボロボロに泣いて、やつれて、酷い貌の女。

 私はどうしてここにいるのだろう。

 

「………………………………幸せ」

 

 幸せ。

 幸せって……なんだったかな……。

 私の。私の、幸せは。それは。夫と娘と、メフト、と。

 …………………………ねえ? 手を、繋ごう? 

 皆で。

 共に。

 暖かな血の通う手を。

 そうして家に帰ろう。

 ここではないどこか。

 どこでもない遠くに続く帰り道。

 夫が今日の出来事を話す。娘が頷く。私は聞き入る。

 私達は夕陽が沈みゆく道を並んで歩く。

 

 

 

 今日は何を食べようか。夫がいう。

 二人の大好きなスープを作るわ。私が、笑うの。

 やったあ、と。娘がはしゃいで。

 

 

 

 花壇の水やりも忘れてはいけない。そうだ。一輪だけ花を摘んで食卓に飾ろう。

 花瓶は夫の手製のものを。不格好だけれど、この上なく美しいから。

 楽しい食事を。

 色どりを。

 私達の世界を。

 …………平凡な春の宵が、ただ欲しかった。

 だというのに私の眼に映るのは絶えた現実ばかり。

 ──はっきりと目立つ指の跡。

 ──柔らかな肌を締め付けた感触。

 ──伸びた爪が皮膚を喰い破る時の音。

 ──私が殺そうとした。

 ──私が選んだ。

 ──すべては私の選択だった。

 

 

 

 創造(私の失敗)絞殺(私の失敗)老衰(私の失敗)過労(私の失敗)病死(私の失敗)離別(私の失敗)

 

 

 

 ……すべての因果の帰結先など、もう知っている。

 つまり何もかもはマギアニクス・ファウストから始まった。

 メフトを、生まれた瞬間に殺さなかったから。

 私が(・・)だから(・・・)夫も(・・)娘も(・・)父も(・・)母も(・・)死んだ(・・・)

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 1904年12月。

 マギアニクス・ファウストはこのようにして完全な発狂を迎えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 断言しよう。

 

「う、フ」

 

 感情は、時間という絶対の流動性に流されるまま、劣化し、いずれは砕け散る。

 私が初めてマギステルシアを抱き上げた時の情動が、今はどこにもないように。

 今目の前にいる娘を愛することができないように。

 メフトを、殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて殺したくて仕方がない。だけどそれさえ忘れてしまうのだろう。いずれは怠惰に現在を、ただの過ぎゆく過去へと移ろわせるだけの無意味な生き物に成り下がるのだ。

 老化。

 歳を重ねること。

 時間はいつも無慈悲に私を変える。

 この憎悪はいつか消え、死ぬ。

 

「ハハ……」

 

 復讐はいつか理由を失う。

 ここにいてもいい意味は。もう。どこにも。

 

「アハハハハ……!」

 

 ああマギステルシア。

 私のかわいいマギステルシア。

 あなたは美しく清らかな、私の奇跡のような涙の花(マギステルシア)

 

「ずっと……ずっと前に気づくべきだった……」

 

 おまえを、どれだけの苦しみからだって守ると決めていたの。

 おまえを、どれだけの悲しみからも守り通すと約束したのよ。

 おまえを……いつまでも愛することが出来る自分であろうと。

 だけど。

 だけどね、マギステルシア。

 おまえはもうどこにもいないのよ。

 だからこそッ!!!! 

 

「今ようやくわかった。今──私は確信した!」

 

 この憎悪! 

 この怒り!! 

 この殺意!!!! 

 全ては言いがかりに等しい──故に!! 

 

「お前を生み出したことこそが!!!! 

 お前を真っ先に殺さなかったことがッ!!!! 

 私の──全てのォ゛────―!!!!!!」

 

 全てに論拠は無くッ! 

 全てに理由など要らない!!!! 

 

「お前そのものが最大最悪の間違いだったッッッ!!!!」

 

 メフトぉ……間違いは、正さなくちゃ。ね? 

 だから、作ろう。

 私は私を作るわ。

 今ここに私が抱えた復讐を、それだけで魂を打ち鍛えた私を。

 

 

 いつまでも壊れない憎悪を作ろう。

 いつまでも狂わない妄執を産もう。

 いつまでも貴女を怨むわ、メフト。

 

 

 私という女が、かつて少女であり、若いばかりの女であり、愛する者と添い遂げることを決めた妻であり、抱きとめた我が子に未来を得た母であり、そしてやがては朽ちゆく老婆になっても。

 永遠に譲れないものは出来たから。

 

 

 私は睨む。

 私は嗤う。

 あなたは戸惑う。

 あなたは悪意に俯く。

 やがてあなたは家を後にする。すべてを捨てる。

 

 

 あなたはあなたの暗がりを行き、私がその背を追う事はない。

 

 

 ……うん。そう、そうね。

 最初からこうしていればよかった。

 手を差し伸べるのではなく。

 人の挨拶を、教えるのではなくて。

 憎悪でしか通じ合えない私達の在り方をあなたに叩きつけること。

 殺し合い奪い合うことでのみ成立する人の不和。

 希望など無い。

 殺すか殺されるかだけ。

 それだけが、私達の生き方だったのにね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幸せはどこにも見当たらない。

 作らなければよかった。

 あんな女も、こんな娘も。

 

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