主従の間に芽生えてしまった歯止めの効かない愛情は光をも割断する 作:てりのとりやき
アル・ルールの生家の裏手には森が広がっている。
数年前から廃墟同然だった土地の森林地帯は人の手も入らず、鬱蒼とその緑の濃さを堂々と茂らせていた。とはいえローロからすればその木々の配置は
最後に仕掛けていた罠を外し終えた女の背中を、木々の間に少女は認めた。子犬の尻尾みたいにちょこんと揺れる金糸の一つ結び。シャツとズボンというシンプルな出で立ち。すっきりとしたうなじ。いつも曲がることのない背筋──。
「ティアレスさまー!」
「……お、はは、なんだ丁度よかったな」
立ち上がったティアレスが振り向く。氷という程に冷たくはなく、かといって炎じみて苛烈さもない、丁度いい塩梅に涼しげな眼差しが少女を見て柔らかな笑みに変わった。手を振りながら彼女の下に近寄れば、地面に置かれた背嚢の膨らみ具合に目が行った。
「たくさん採れたみたいですね」
「ああ。罠の調子は振るわなかったがね。そろそろ春の新芽が出る頃だから助かったよ。これからは酒のつまみに丁度いい山菜なんかも生え出すね」
適齢でないローロが酒を飲む機会はないが、ティアレスは美味しい酒のつまみになる山菜の味を思い浮かべているのだろう。幸せそうに眼を瞑っている。
「あまり飲み過ぎるのはおすすめできません。メフトさまもティアレスさまも、最近は飲酒の回数が多い気がします」
「まあ、あいつもあれで心配性なんだよ」
『もうすぐこの生活も終わるから』。言外にあった言葉をローロは感じ取る。
幻聴だとしても、ローロ・ワンが抱える不安の表れでもあった。
「お弁当持ってきました」
話題を切り替えるつもりでバスケットを差し出した。清潔な布で包まれたパンや瓶入りの塩漬け肉、紅茶を詰めた水筒……いつもの昼食の用意に、ティアレスの顔が綻ぶ。
「いつもありがとう。でも食事の前に日課をこなそうか?」
「はい!」
ティアレスに弁当を持っていく役目をローロが担ったのは、他にも理由があったからだ。バスケットを少し遠くに置いて、予めティアレスが探していた木の枝を受け取る。
ちょうど二人が扱う剣と同等の長さを持った枝を片手に、二人は枝を振るえば当たる距離で向かい合った。
ローロが見上げ、ティアレスが見下ろすことでまじりあう視線。
青の瞳は落ち着いた様子で瞬きをひとつ。
それが合図だった。
「ゆっくりと」
ティアレスが枝を持つ右腕を振り上げた。その速度は、彼女が1秒を10秒と勘違いしてしまったかのように遅いが、ローロ・ワンが想定していた速度と完全に合致している。
振り下ろされた枝を、ローロもティアレスと同じ鈍速で枝を構え、受け流す。
「少しずつ」
切り下ろす動きを次の一太刀へと繋げるためティアレスは一歩踏み込む──先程よりも少し速い。呼応するかの如く、ローロの片足が一歩下がりながら上段の構えへと。
二人の動作速度は全くの同一である。
「徐々に早く……」
切り結び。叩きつけ合い。舞踏のように踏み込み、応じて揺れる。
枝を剣に見立てた、演舞の稽古じみた緩慢な動作の連続。ティアレス・ティアラ・ホルルという女の肉体がどのように動くかを見せつけるようであり、それを観察し続けるローロ・ワンが自身の肉体をどのように動かすかを実践する、そういう時間。
少しずつ。
ゆっくりと。
だが、確実に──二人の動きが加速していく。
「うん。いいね」
女が満足げに笑う頃には、横に薙いだ枝が樹木を揺らすほどの風圧を生み出していた。
──豪速でティアレスの足が躍る。誤って触れればそれだけで何もかも破壊するだけの膂力を秘めて。【強化】は勿論、一切の魔法を発動していないというのに。
「もう少し速くいこう」
「はい」
速度の指定は常にティアレスが行った。
曖昧な指定を、ローロ・ワンは自己の解釈で形にする。
「
“騎士”の腕が、手指が、その筋と骨と神経で構成された至高の肉体を余すことなく活用していく。
「つまりそれは、騎士がどのようにして強化魔法に適応するのか、という理解の実践でもあった」
言い終えるまでに枝同士が100回以上ぶつかり合った。それでも足りないとティアレス・ティアラ・ホルルは言い募る。
「一気に引き上げる──ついてこれるかい」
当然だと強く頷いた。
女もまた、歯を見せて笑い。
「音速の15倍」
言い切り、ティアレスが秒速3402.9メートルで上段の一撃を叩き落した。
空間はそれだけで破滅的衝撃を受け、暴力が大地に巨大なクレーターを生む。辺り一帯の森林全ての木々が放射状に捩じ切れ、空に浮かんでいた白雲は一斉に形を変える。火薬が一斉に爆発したかのような轟音に、【強化】魔法を行使していないローロもティアレスも鼓膜が破裂する────はずだった。
しかし、地にも、空にも、森にも、誰にも、
「やるなローロ!」
“騎士”の一撃を、強大なエネルギーの解放を、ローロとて秒速3402.9メートルで受け止めていた。
完全な速度の合致にか、速度という物理法則が引き連れてくるはずの外界影響の遮断にか、ティアレスが笑みを濃くする。彼女の足が狂ったような残像だけ残して更に踏み込み、それに合わせてローロもステップを刻んだ。
「二年間、遊び惚けていたわけではありませんから」
打ち込み。
叩き付け。
「君は強くなった。星の規模から考えればそれを超すほどに」
受け流し。
つき込む。
「だけどまだ足りないと思っている。もっと遥か高みが必要だと感じている」
単純な動作を、音よりも速く行い続ける。『日課』を始めて僅か82秒の内に、切り結んだ数は数千を超えていた。
その間も傍に置いたバスケットが余波で転げまわることさえない。
「なら、かつての自分を超えるところからだ──」
森の中にあるのは長閑な昼下がりの静寂のみだ。
だからこそ、交差する形で枝が叩きつけられようとしている中で、ティアレスの言葉は澄み渡る。
「
──瞬間、二人は光の領域に踏み込んだ。
物理の超越。
空間内分子との衝突による爆光さえ起きないのは、ローロがそれを望んでいないからだ。
しかし空間全域が瞬間的に膨張するほどの熱の奔流は巻き起こり、両名にとって世界は静止したに等しい状態に至る。
そして、そんな最中にあっても、時間は必ず前進するという汎用性を見せつけ……結果としてティアレスが持っていた枝が砕け散った。
それまで何をしても傷一つ付かなかった枝にインパクトを与えたのは、ローロの振るった枝である。
「……」
驚いたな、と。
残身のままティアレスの青い瞳はそう語る。
彼女は言葉をなくして眼差しだけで問いかけていた。
今、私達、
「────私達は、勝てますか?」
言葉に、熱が篭っていた。
汗一つかいていないというのにローロは肩で息をするほど深く呼吸をしなければならなかった。
枝を握っている手指が震える。自身の解き放った力の性質に恐れているからでも、ティアレスの指定した以上の速度を発揮してしまった事実にでもない。
ただただローロ・ワンは不安だったのだ。
「勝てると思いますか……ティアレスさま」
「……正直言うとね、ただ速いからと君の母親に勝てるとは思っていないよ」
「かといって意味がないわけじゃない」。そう続けたティアレスがようやく構えを解く。燃えてすらいない地面を見つめ、速度という最強の物理法則の余波を一切受けていない森林を見回し、腰に手を当てて息を吐く。
「君に必要なのは、『いける』と思ったことを行い、『できた』と確信できるだけの自信だけだ」
そう。それだけをローロは2年かけて磨き続けた。
魔力の操作速度だとか、扱える魔法を増やすとか、そういった事を考える余裕はどこにもなかった。既にローロは魔力の変換による超常法則の発動など不要としていたし、厄介な制限のある剣を従えさせる必要があったのだ。
ティアレスは青い瞳に少女の左腕を映す。
「その力は、愚直なまでに前を向き続ける君にはぴったりなものだと私は思うな」
光沢のない鈍色をした左腕が喋ることは無い。喋ってくれたらいいのに──というローロの溜息を、女はくすくすと笑った。
張り詰めていた空気が緩んでいくのが分かって、日課の終わりもまた訪れた。
「よし。お昼にしようか。ほらこっちおいで。一緒に座ろう」
人が腰を下ろすのに丁度いい木の根を見つけると、先に座り込んだティアレスが手招きをした。ローロはバスケットを手に並んで座る。
パンと、お茶を注いだカップを差し出すと、女は目を細めてうまそうに茶を飲んだ。
「後輩とはどうだい」
「可もなく不可もなく、だと思います」
パンを齧りながら言葉を返す。もごもごと咀嚼してから、隣の女と同じように紅茶を一口。……茶葉の抽出のし過ぎで渋いかもしれない。
ちらとティアレスの表情を盗み見ると、ティアレスはやはりうまそうに茶を飲んでいる。
「そういえば……アルも、最近一人でお酒を飲んでる時があるんです」
「晩酌にはよく付き合うけど、へえ、独りで」
「大抵は深夜に、こっそり寝室から出ているみたいで……」
つい最近、ふと夜更けに目を覚ましたことがある。いつもベッドの隅で体を丸くしているはずのアルが寝室のどこにもいなかった。それが気がかりでローロは家の中を探し回ると、台所の陰に、隠れるようにして酒を飲んでいる彼女を見つけたのだ。
「……ぼんやりした顔で飲んでいるんです」
「やけ酒みたいな、依存しているみたいな?」
「そうではないんです。考え事をお酒で誤魔化しているようにも、眠れないから飲んでいるようにも見えて……」
結局ローロは声を掛けられなかった。以前までの二人なら声を掛けて、共に酒を飲むことはできないまでも、他愛ない会話ならばできたはずなのに。
ローロ・ワンを愛するよう気付かないうちに改造され、心の働きを強制されていた事実と共に愛情を捨てさせられたアル・ルール。彼女の、緑に近い濃青の瞳がどういう意志でこちらを向ているのか、ローロにはもう分からない。
以前まであった距離感は、最初から無かったことにされたみたいに存在していない。
「関係を修復したい?」
「……はい」
だけどそのやり方がローロには分からない。分からないまま、ずるずると刻限だけが近づきつつある。
「ティアレスさま。なにか、アルと仲直りできるような助言をいただけませんか?」
「私は人間関係でことごとく失敗してきたタチだからなあ」
自身の過去を振り返っているのか、頭を掻きながらティアレスが苦く笑う。
「困ったらまっすぐ行くしか能が無い」
「……当たって砕けろ、的な?」
「まあそういうことになるな! あれっ……でも私はそれで失敗してきた訳だし、まっすぐ行くんじゃなくて遠回りを……? いやでも遠回りなら既にローロはしている……? 遠回りでも、真っ直ぐでもない……。………………???」
自問自答で首を捻り出したティアレスが目をぐるぐる回していた。
だんだん訳が分からなくなってしまったのか、胡乱な目つきで女が傍にある背嚢に手を突っ込む。ごそごそ探った後に取り出したのは、手巻きの小さな紙筒。それの先端に【発火】魔法で火を灯すと、煙草よろしく口に咥えた。
「お煙草、体に悪いですよ」
「煙草じゃなくて薬草だから大丈夫」
「……薬草ではありませんよね?」
「んむ……まあ、そうだけど……。私にとっては手放せない薬草みたいなものだしなあ」
彼女は二年前からローロの前でも煙草を吸うようになった。どこにいても知られてしまうのだから隠すことを辞めたのだとティアレスは以前語った。
それが、感覚麻痺を効能とするものの副作用として依存性がある植物を乾燥させたものだということを、ローロは知っている。世界最高峰の騎士たるティアレス・ティアラ・ホルルが、薬物を定期的に摂取しないと全身の神経系が幻痛で埋め尽くされる状態にあることも理解している。
本当ならば今すぐ咥えている煙草を抜き取ってしまいたい。
けれどそれが酷な行いだから、ローロはじっと見つめることしか出来ない。
「そんなものがなくても、ティアレスさまがまっとうに生きられるように私がします」
「やや、いつになく真剣な顔だね」
「私は本気です。……今は無理ですけど、いつか必ず」
「おー……。……じゃああれかな、私、またメイド服着れるかなあ?」
「もちろんです。色んな国のメイド服を用意します」
「それは楽しみだね」
衣類の調達が難しい空間にいるから、二年前のマギアニクス・ファウストとの戦闘でボロボロになったメイド服を、ティアレスはきっぱり諦めていた。誇らしげに揺れていた踝まで覆うロングスカートも、フリルのついたエプロンドレスも、今ここには無い。それをローロが形作ることは難しい。
「じゃあ、その時はローロも着てみないかい?」
「えっ私ですか? ティアレスさまみたいに背も高くないし、足も長くないし、似合わないと思うのですが」
「やけに自己評価が低いな……。いや大丈夫! きっと似合うよ。ね、ね、いいだろいいだろ」
「私なんかよりメフトさまの方が似合いそうです」
「それは絶対にない」
ないんだ……。
「……わかりました。約束ですからね、ティアレスさま」
「ああ約束だ!」
頷くと、隣の女が満面の笑みを浮かべた。
吹かしていた煙草の火を消すと、ティアレスは中断していた食事を再開する。もそもそとパンを齧りながら、前を向いたまま呟いた。
「どんなことでもいいから、私も願うところから始めるよ」
「……」
「願うことは今から続く未来を求めることだろう?」
果たして未来があるのか、断絶してしまうのか、ローロには分からない。その結果は16日後にしか得られない。
望みはあるかと誰かが問うなら、ある、と断言できる。
「君には成すべきと願ったことがある。私達はそれに同意し、そのために準備をしてきた」
ティアレスは彼女なりの言葉で、背中を押そうとしてくれている。アルとの関係修復を望むローロ・ワンを導こうとしている。
「だから、せめて悔いの残らないようにしよう。──お互いに」
天蓋に張り付けられた青空よりも確かな蒼が二つ、全幅の信頼で弧を描く。
彼女の笑みを、ローロは素直に眩しいと感じた。