主従の間に芽生えてしまった歯止めの効かない愛情は光をも割断する 作:てりのとりやき
夜。風呂場にて。
二人して湯船に浸かれば、ちゃぽん、という水面を揺らす音が室内に響き渡った。
「ふー……」
「こうしてる時間が一番落ち着く」
「狭いお風呂もいいものですね……」
「そーね」
この家の浴槽は、かつての居城のように広くはない。湯脈を直接引き込んでいるわけでもない。二人で縦に並んで湯船に浸かるとそれだけで身動きが取れなかったし、自由にくつろぐということは出来なかった。
かといってそれを不便だと今のローロは思わなかった。何故なら、背後、背中に触れる剥き身の感触が瑞々しいからだ。
──ちゅっ、と音を立ててメフトが口づけをした。ローロの、今は銀髪を纏め上げることで晒されているうなじに。
「こうして堂々と触れ合えるものね?」
「は、はい……」
体を触れ合わせる機会が多くなったのは間違いなく二年前からだった。あの日、確かな契りを交わした時から、メフトはある意味容赦がない。
今も暇さえあればこちらの背中を撫で、首裏に頬ずりをして、あちこちを吸う。跡をつけていく。その度にローロの顔は入浴しているのとは別の理由で紅潮を増した。
「ローロ、また痩せた?」
疑問の色が混じる声音でメフトは呟く。彼女の両手は先ほどからわき腹に巻くように置かれていた。
「いえ。体重に変化はありません」
「でも何というか……城で暮らしていた頃より細いと思うの」
「肋骨二本を魔力に変換してしまっています。その……胴回りが細いのはそのせいです」
「……そういうこと」
【
二年前からの変化にメフトが気付いた理由は、彼女も二年以上前を振り返る機会を、今多く持っているからだろうか。
考えて、そっと振り向く。狭い浴槽の中で何度か膝を着きながら。
「メフトさま。抱き心地の悪い女は嫌いですか?」
膝立ちになって見下ろす女の顔には、質問の意図を探る上目遣い。
風呂場を満たす湯気の中でもメフトの瞳は凄絶に黒く、肌は珠のように白く輝く。
「……私が好きになったのはローロが初めてで、これからもきっとローロだけだと思う」
彼女は目を逸らすことさえなく続けた。
「だから嫌いも何も無いの、ぜんぶ愛してる」
「ま、真顔で言われると恥ずかしいですね」
「愛してるという言葉を伝えるのは簡単なわけ。でも、言葉に裏打ちされた熱情だとか思いっていうのは伝えるのが簡単じゃないって私は知ってるから」
二年も経てば相手の嗜好を掴むことは出来るから、メフトは望んだ言葉を紡いでくれる──という確信ありきの問いかけだったことに間違いはない。とはいえメフトが放つ情熱には底というものがないことも、ローロは知っていた。
「何度でも言うし何度でも繰り返す」
「……」
「あなたが好き。大好きよ、ローロ」
メフトは、やっぱり悪魔なのだろうな、と赤い顔でローロ・ワンは思う。
歯止めのない愛を、有限という言葉を知らないほどの無限性で差し出せる者をメフトしか知らない。
「ふふ。さっきから顔が真っ赤ね」
「メフトさまのせいですよ」
「そーなの?」
そうなんです。
頷くと、メフトがひそやかに笑って呟いた。
「ローロの照れてる顔、いつ見てもかわいい。時間が止まればいいのにね」
「止まってしまったら、ここから先がなくなってしまいます」
「……そーね」
言ってから、しまった、とローロは気付く。
今のは失言だったかもしれない。
メフトに成長はないのだ。
「さっきの話の続きだけど……ローロは私の好みに合わせていくほうが好きなの?」
「まあ、その。私も複雑な生まれですけど、基底にあるのは19歳の女なので、思考や傾向は好きな相手に合わせたいという向きを持ちます」
つまり? と、くっきりとした二重瞼の奥から彼女の瞳が問いかける。
「か……簡単に言うと乙女です」
「ふーん。そ。そうなんだ……」
私も彼女も、厳密には人間ではない。
肉と脂肪と筋を持つが、存在の本質は魔法に依る。
ローロ・ワンは、【
それが生体・魔法複合人格『ローロ・ワン』だった。
対しメフトはといえば、純然たる魔法存在だった。
肉体は意識の容れ物でしかなく、その意識も生体神経系に萌芽したものではない。彼女は魔法で見て、魔法で感じ、魔法で思う。肉体は感覚器というより三次元空間に自身を固定する杭や重りのようなものだった。
「髪、だいぶ伸びた」
「メフトさまは、髪、長い方が好きでしたか?」
「そういうわけじゃ……」
二
彼女の細くて長い指が湯船から持ち上がり、滴を零しながら頬を撫でる。そこに全体重を預けるように首を傾ける。三本の指しかない右手を重ねる。
「……ううん。髪の長いローロが好きよ。あと私ね、細い女の子のほうが好き」
ねえローロ。
「私のためにこれからも髪を伸ばし続けてくれる?」
「はい。もちろんです」
「ありがとう。……嬉しい」
最も【質量転換】として消費しやすい部位を使わないという宣言に、メフトが笑う。それは人間らしからぬ合理的な判断を下してしまいがちな『ローロ・ワン』が、それでも愛から束縛を選んだからだろう。
人の様に振舞う。
人のように生きる。思う。笑う。愛する。
けれど存在の構造が人ではない。
人でないものが人と同じ情動で生きていくことを、滑稽だとマギアニクス・ファウストは笑うかもしれない。
「背が、もっと伸びればいいのに」
「?」
愛とはなんなのかをローロは時折考える。
言葉に詰まる感覚。求められることに高鳴る胸。喜びと嬉しさ。人間が感じられることをローロ・ワンも得ることができる。それはきっとメフトも同じ。
「……メフトさまを見下ろせるのが、こういう時しかないですから。もっとたくさん機会が欲しいんです」
なぜこのようなことを考えてしまうのかと言えば、ローロ・ワンは生体に根ざした魔法であるがゆえに肉体的成長があり、メフトは魔法存在ゆえに不老だからだ。
この2年弱でローロ・ワンは少女から女へと移り変わりつつあった。未熟な丸みが体の角という角から取れ、少しだけ硬さを増したあちこちの輪郭。2年前よりも僅かに膨らみを増した胸。小指の先ほどには伸びた背丈。少しずつ、少しずつ成長の頂きが近いことをローロは感じている。
しかしメフトの肉体は、出会った頃から何一つ変わらない。細く、白く、長く、綺麗で。
「そーなの? 私、ローロがティアレスくらいの背丈になったら少し困る……」
あなたは凄絶に美しいまま。
私はいずれ成長でなく老いへと下りだす。
「その時は私がメフトさまを抱き上げられますね?」
「……それはそれで悪くないかもね」
二人して肩を揺らす。ひとしきり笑い合って生まれた会話の途切れ目に、メフトはちらちらと伺うような目線と共に黙りこくる。
何かを言おうとしているらしかった。ローロはその場に腰を下ろし、向かい合って彼女の唇が開くのを待つ。
すると。
「ローロ。今度、二人でピクニックにでも行かない?」
俯きながらそんな提案をしてきた。
「二人で……ですか?」
「だめ?」
「ダメではないですけど……」
「……もうすぐ私達の生活は終わる。その前に二人きりでどこかに行きたくて」
「で、でも、ティアレスさまやアルを置いて行くわけには。それにここは……」
「遠出したいってわけじゃないの。ただその」
これまでの会話にあったひたむきな情熱とは打って変わり、メフトの言葉はどこか歯切れ悪い。
俯いていた顔を上げたかと思うと、そのまま虚空に目線が逃げる。何度か瞬き、目を瞑り、下唇を噛む。頬を小さく膨らませ──。
「………………お弁当を毎日持っていくでしょ」
「?」
「だから、ティアレスに」
──何故か恨みがましい目で見つめてきた。
詰るような、責めるような表情。
「ティアレスばっかり、ずるい、気がする」
「……。……………………えっ」
………………『ぴちゃん』、と。湯気の溜めた滴が風呂場の床に落ちる音。
極めて小さな物音でさえくっきりと聞こえるほど、明確な無言の間。
「えっ。えぇっ……」
「一日、ローロと二人きりになりたいの。思えば私達ずっとばたばたしててそういう時間を持てなかった」
「えっと。それってつまり」
考える。頭を巡らせる。ぐるぐると目が回る。茹る思考も、熱を持った生体神経系の発火も、意味を探そうとし続ける。
……そういえば。
そういえば随分前にも、似たようなことを聞いたことが、ある。
「嫉妬してたんですか? 二年間? 今までずっと?」
……小難しいことを考えてしまったが、人間だとか魔法存在だとかは関係ないような気がした。
なにせ今のメフトは全力でティアレスに嫉妬している。
「……………………………………………………悪い?」
胸元を抑える手つきだとか、しなやかに引き下がって丸くなる背筋だとか、紅い顔でそれでも力を込めた目つきをするところだとか。──もう何というか全部。
「…………………………………………可愛いと思います。すごく」
ローロ・ワンが欲しいと、少しだけ反抗的に持ち上げた眦で、上目に甘えた顔をするのだ。
こんなにも愛らしい存在を独り占めできる事実を、愛と恋以外のどのような言葉が正しく言い表せるのかローロには判断ができない。
「大丈夫ですよ」
言葉は勝手に口から溢れた。やけに穏やかに笑ってしまった。
「……」
「大丈夫です。ティアレスさまのことが大好きなのは事実ですけど、メフトさまに向けているものとは異なるものですから」
「愛に違いが、あるの?」
「ええ。色んな種類が」
メフトはきっとまだ知らない。
知らないということは悪い事じゃない。これから知ることが彼女には許されているのだから。
「だから大丈夫です。私はメフトさまのローロ・ワンですよ、メフトさま」
「………………ずるいと思う」
「えっ」
「なんだか昔のローロはもっとこう、こういう時に私と同じように戸惑ってくれたのに……。なんでそんなに誇らしげなわけ? 昔と違う……ローロばっかりずるい」
嫉妬の矛先がいつの間にか変わっているような気がした。
そう。変化するのだ。
関係も。繋がり方も。時間は空間を変え続ける。
いつまでも同じままでいることは出来ない。
だったらローロ・ワンに出来ることは、精一杯笑って、あなたに手を差し伸べることだ。
「行きましょう。ピクニック、二人で」
「……うん」
人間でないものが、人間らしい愛を育んでいることを今この場に咎めるものはいない。
魔法だって恋をする。
生物の普遍的な枠組みの中にあるのだ。なら、それだけで十分だと思えた。