主従の間に芽生えてしまった歯止めの効かない愛情は光をも割断する 作:てりのとりやき
……今日はデートだ!!
ローロは淡い紫の瞳をバチィっと開いて、二年間毎朝眺めた天井をじっと見つめた。まだ朝日も昇っていない頃合いだからか室内はほの暗い。しまった、楽しみすぎてまったく眠れなかった……! 朝から二人で出発するとはいえ、幾ら何でも速すぎる。かといって二度寝するには微妙なタイミングだ。
何もせずただじっと、もぞもぞもそもそ身じろぎする体はそれだけ内に抱えた興奮を抑えきれていない証。
どうやって時間を潰そうか。
考えて、首をそっと横に巡らせる。
「……?」
同じ寝室で眠っているはずのメフトとティアレスの姿がなかった。二人が眠っていたはずの場所はぽっかりと空いている。ベッドの上にはこちらに背を向けて丸くなるアルの小さな体。規則的な寝息を立てる幼馴染はいつも通りベッドの端にいる。
ローロは彼女を起こさないよう注意しながら寝室から出た。
閑静な家の中から聞こえる僅かな物音を辿って向かった先はリビング──そこに通じる扉の前で、足が止まる。
「ふん、ふん、ふーん。ふーんふふんふーん……」
聞き間違えるはずのない声音だった。しかし、一度も聞いたことのないハミングだった。
ローロ・ワンの全身に衝撃が走る。
──メフトさまが……鼻歌を……!?
「楽しそうだな」
!
「でしょ? 今日はローロとデートだから」
「なるほど……? それで私は熟睡してるところを叩き起こされてこんな朝早くからお前に付き合わされてるんだな?」
「ええ、そーいうこと」
「ふふふ。殴っていいか?」
リビングから漏れ聞こえる会話はどう考えてもメフトとティアレスのものだった。他にも、台所の方からトントンと包丁で何かしらを切っていそうな物音も届いた。
閉じていた扉をそっと、そーっと、少しだけ開ける。
エプロンを着け、長い黒髪を後頭部で纏め上げた女の背中。それをリビングから椅子に座って眺める、自前の金髪を真っ直ぐに下ろした女の背中。
「お前、ひょっとして初めてなんじゃないか。こういうの」
「そうね。愛する者と約束をして、準備をして、一緒に行動をする。そんな単純なことが新鮮で仕方ない」
料理を……恐らくピクニックのための昼食を準備しているメフトと、付き合わされているらしきティアレス。二人が二人きりで穏やかな会話をしていることに、ローロはもう一度衝撃を受けた。
顔をつき合わせればいつもいがみ合い睨み合う険悪な二人だったのだ。
昔馴染み故の、容赦ない言葉の応酬。刺々しいばかりの雰囲気。今の彼女達にはそんなものは何一つなかった。
「初めて。初めてばっかりで、わくわくするし、どきどきもするの」
言いつつ振り向くメフトに、──まずい盗み見していることがバレる。
呆然としていた体を慌てて引っ込めた。廊下の壁に背を当てながらどうにか胸の動悸を落ち着かせようとする。目を閉じると瞼の裏に浮かんだのは、 扉の隙間から、視界の端で微かに見えた恋人の振り向きざまの顔だった。
目を瞠るほど、笑った顔、白い歯、赤い頬、握り合わされた両手──。
「無邪気な子供みたいなことを言う……」
恋に恋するみたいな、愛を愛するみたいな、蕩けた顔の意味がローロには分かる。足のつま先から頭のつむじまで全身がじんわりと痺れて止まない。……そんな衝撃をきっとティアレスも感じていて、だから、毒気を抜かれてしまっているのだ。
「二年経ったんだな」
静かな、一言。ふわふわと熱で膨らむ空気に当てられた、柔らかい声音。
恐る恐る扉の隙間からリビングを見やる。
「二年経ったわ」
背中を向けてそう呟くメフトに、ティアレスの剥き身の肩がクックッと小刻みに揺れた。声を無くして笑っているらしかった。
「なあメフト、私、23歳になったよ」
「そんなこと知ってるけど」
「23年も生きられたんだよ、この私が」
──?
言葉の意味が、ローロには呑み込めなかった。
二人の間にだけ流れていたかつての時間がそこに意味を持たせているのだと、ただそれだけが分かった。
「碌でもない人生で、姉上たちのように壊されるだけなんだと思ってたんだ」
時間が灰色がかって見えたんだ。
暗い日陰ばかりの人生だってね。
「だけどなんだろうな……お前と出会ってからの時間は──」
ティアレスはふいに口を噤む。
「……まさかお前とまた暮らすことになるとは思わなかったな。はは、私の人生はつくづく予想できないことばかり起きるなあ」
やがて彼女は口を開いたが、その言葉は郷愁と懐古を織り交ぜたものだった。どこか乾いた、どこか湿った、不思議な声音……。
「憎むだけだと思ってた。裏切られて、許せなくて、お前を殺すしか解決できないと決めつけて。メルツェルに託した望みが私達にはあったはずなのにな」
「ティアレスあなた、いつからそんな臭いこと言うようになったわけ?」
「いいから聞けよ。……二人きりで話すなんて、めったにないんだ」
覚えてるか?
「私がいつもみたいに父上に痛めつけられて、それでもこなさなきゃいけない雑務はあったから、掃除道具を抱えて庭掃除をしてた」
「……」
「お前、何も言わずに手伝ったし、何も言わずに道具を全部片づけたよな。そうして二人で部屋に帰るまで、お前は並んで歩いてくれた。あの日は眩しい夕焼けが綺麗だったなあ……あの日見た茜色は今でも覚えてるんだ。今もあの帰り道と同じなんだよ。私達は帰ろうとしてるんだよな、肩を並べて、共に」
なあ、メフト。
「帰り道を共に歩こうとするのは……何年ぶりなんだろうな」
「さーね。忘れた」
「なんだかこの土地での生活もそう悪くないと思えるんだ」
「私もよ」
「はン。珍しく気が合うじゃないか」
少しだけ、ローロは目を伏せる。そっと自身の左腕を……鈍い色をした義手を生身の右手で抱き寄せた。
メフトも、ティアレスも、アルも、ローロ以外の三人が初めから望んでこの土地に縛られていたわけではない。全てはローロ・ワンの願望が……『二年という時間を邪魔されたくない』という祈りが、マギアニクス・ファウストからの防衛手段として取った形に巻き込まれただけだ。
責任の一端を感じてちくりと痛む心を、当然ながらティアレスが知る由もない。それにティアレスは好意的に今の時間を見ているのだ。必要以上に抱えるべき重みではないと思い直す。
「…………あと十日もすれば、終わるんだな」
「ええ」
「決戦か。敵は強大だな?」
「だけど勝つためにここまで来た。私達は私達全員で帰るのよ」
「……なあメフト、お前さ」
歯切れ悪い言葉をティアレスが口にした。
言葉の先がローロにも容易に想像できたから、じっと聞いた。
「マギアニクス・ファウストをどうにかできたとして、その後は……」
「はいこれ、食べて」
言葉を覆い隠すように。
メフトはサンドイッチが一切れ乗った皿をティアレスの前に置いていた。
彼女がティアレスと向かい合う形で座ろうと椅子を引いたのを見て、そっと扉から体を離す。
「なんだ気持ち悪いな。毒味か?」
「ええ毒味」
言葉だけを静かに聞いた。そのうち、小さな咀嚼音と、こくりと鳴った喉。
「まあ……いいんじゃないか?」
「でしょ? 自身作なの」
それきりしばらく二人の間に会話はなかった。
ただティアレスが食べる物音だけが響いていたかと思うと、
「ティアレス」
「なんだよ」
「聞いて」
「聞いてる」
「食べるのをやめて、こっちを見て」
「いやお前が朝食寄こしたんだろ……真面目な話か?」
「真面目な話」
声のトーンには先ほどまであった浮かれ切った熱がない。
ローロもまた扉越しに、いけないとは分かりつつ聞き耳を立てた。
「あなたを前にすると、私はどうしても上手く言えないことが多い。それはきっと、あなたが私に出来た初めての対等な友だったから。気安い言葉。その応酬。売り言葉に買い言葉。……私達は理想的な関係にはなれなかったけれど、次善の友であることはできた。──それでも噤むべき言葉が、あったと思う」
「……で?」
「あなたが生涯子供を産めない体だと端的に伝えるのは、大いに間違っていた」
『────』。
二人の間に広がる静寂を前に、ローロは息を呑む。
今……メフトは何と言ったのか。
「あなたに、私は、謝らないといけない。本当にごめんなさい。私は……最低だった」
「…………………………………………」
先の言葉が事実だとすれば、それは、そんなの。
「驚いたな。お前、頭下げれたのか」
「ローロが私にたくさんのことを教えてくれたの。もう、後悔したくない」
「そっか」
ティアレスの声音に、聞く限り負の情はないように思えた。
「メフト。それは贖罪か? それとも自己満足か?」
「……たぶん、どっちでもあるのよ」
思いこみかもしれないと尚神経を研ぎ澄ましても、やはりティアレスの言葉はひどく穏やかで。
だから、メフトの放った言葉がどうしようもない事実なのだと思い知らされる。
「いまさら13年前の話をしたってどうしようもないだろ」
「でも……」
「────なあメフト、今、嬉しいことってなんだ?」
言い募ろうとするメフトを制するようにティアレスの言葉が覆い被さる。
彼女は問う。怒りや憎しみからではない言葉で。
ローロからでは二人の表情を見ることは出来ない。それでも分かる、分かった気がした。
「痛みや刺々しさをばかり思い返して、今ここにはないもので呻くためだけにお前は生きているのか? そんなもののために戦うのか? 勝ち取りたい帰路はそんな虚しいものなのかよ?」
「でも、私は」
「『でも』じゃないんだ。お前は気を抜くとすぐそうやって後ろ向きに僻む」
「……」
たぶんティアレスの背筋は未だに真っ直ぐだ。
「なあメフト。お前が
青い瞳も。金色の髪も。大きな手、硬い肩のライン、だけど柔らかく笑う口元。全てが力強いものだ。弛まぬ鍛錬と経験がティアレス・ティアラ・ホルルの所作に、発する音階のひとつひとつに明確な芯を形作る──ローロがなりたいと願う姿をいつも見せてくれる。
「お前が幸せになってはいけない道理なんかどこにもないんだぞ」
「──」
それが、剣よりも明確に彼女の心臓を突き穿つ一言だったことは、間違いない。
「………………あなたは何でもお見通しなのね」
「私は悲しい話より、誰もが笑っていられる時間が欲しい。私が今ここにいる動機はそれだけだよ」
言い切り、ティアレスは口を閉ざす。
代わりに聞こえてきたのは微かな……本当に小さな、鼻をすする音。小さくておぼろ気で、だけど間違いようもなく……。
「ティアレス。私、今……きっと幸せなんだと思う」
メフトが、泣いていた。くぐもった声音は容易に俯く彼女の姿を想起させた。
「わかるの。メルツェルを殺したこんな私でも、あなたに酷いことを伝えたこんな私でも、マギアを破滅させたこんな私でも……。」
押し殺すような呻くような嗚咽。
「……わかるの。私、幸せよ」
「そうかい。なら絶対に失っちゃいけないな?」
「ええ。ええ……!」
それきり二人の間に会話はなかった。
いつまでもすすり泣くような物音だけが聞こえてきて、ローロはそっと寝室に戻る。
眠れないというのにベッドで再び横になる。眠ったフリをするために瞼を閉じる。そして想像した。ベッドの縁に座り、自分を起こそうとするメフトの顔を。涙の跡を綺麗に決して、弱みを隠して、うつくしい笑みを浮かべる最愛の恋人を。
……彼女の強がりを否定することは、きっとできない。
虚勢も。内に抱えた脆さも。それをひた隠しに毅然とするところも。そういう、弱点のあるメフトが好きでたまらないのだから。
だからこそ、ぐっすりと眠れたフリをして私も笑おう。寝起きの演技をしてみよう。
目覚めと共にあなたと出会えて嬉しいと。
そんな、ちょっとの嘘。
代わりに得られるあなたの歓び。
おはようございますの一言で噛みしめられる幸せがあるなら、なにも間違っていないから。