−−−保元元年、7月10日。
−−−平安京は三条、高松殿。
夕刻のことである。かつて西宮左大臣・源高明によって建てられ、現在は今上の帝である後白河帝の里内裏となった高松殿は見渡す限り、雲霞のように−−あるいは邸を中心とした渦巻のように、いかめしい武者たちによって囲まれていた。紋の染め付けられた旗の風に靡く音、落ち着かない様子の馬の嘶き、そわそわと浮き足だって何やら囁き合う兵たち。ざあーざあ、と。それらが生み出す無数の響きが、連なり、群れ、生き物のように京の夕暮れを震わせている。戦の前触れのようだった。
いや。そうではない。それは正しく戦の前触れだった。そうして、あと数刻すれば確かな現実となるであろう未来に他ならなかった。
遡ること1年前、久寿2(1155)年7月。第76代の天皇、躰仁が崩御し、近衛天皇と号された。若くして病に倒れ、子を持たないまま儚くなった近衛天皇の次代を巡って朝廷は紛糾し、候補に上がったのは先代である崇徳院の皇子である重仁親王や、美福門院(近衛天皇の母)の養子である守仁親王であった。王者議定の結果、後継は守仁親王に決まり、ただし年少である彼が成人するまでの中継ぎとして、守仁親王の父雅仁親王が即位されることとなる。これを、後白河帝と称せらるる。
これに不満を覚えたのは、雅仁親王の兄であり先の帝である崇徳院だった。そうして、この皇位継承にまつわる揉め事とほぼ同時期に発生した藤原摂関家の家督争い。燻り始めた2つの火種は鎮まることなく勢いを増し、来たる7月2日に崇徳院・後白河帝・故近衛天皇たち3名の父である鳥羽法皇が崩御したのをきっかけに争いは決定的なものとなって、武力闘争へと変じていた。
崇徳院と、後白河帝。
太政大臣藤原頼長と、関白藤原忠通。
真っ二つに分かれて反目する勢力のどちらに付くか、公卿も武士たちも顔を鳥羽法皇の死から見合わせており−−−その選択の結果がまさしく今、保元元年の7月10日に至って現実にあらわれていた。
崇徳院方に付くものは、白河北殿に。
後白河帝方に付くものは、高松殿に。
ぞくぞくと。意気揚々に。あるいは、不安げに。この国で最も尊き血族の骨肉相食む争いに向けて、兵たちが集まっていく足音は、未だ止んでいなかった。
話を戻して、高松殿。そんな訳で、常ならば今上帝の里内裏であり政務の中心として、余人は近づくこともできぬ邸は、打って変わってむさくるしい鎧武者たちがわらわらと群がっている。平清盛。平信兼。源頼政。源義朝。源重成。誰もが当代きっての、そして後世においても名にしおう武士たちは、此度の戦において今上帝方に付くことを表明しており、邸を取り囲む兵は皆、彼らの郎党であった。
武器を磨くもの、褒賞に何を貰うか話している気の早いもの、馬に餌をやっているもの。武士たちはそれぞれ、思い思いに過ごしながら主君の指示を待っているが、その誰もがどこか、浮ついている。そわ、と気もそぞろにに、邸の中をちらちらと伺っているものが多い。無理もない。この平安の名を冠する都で−−−その上、上皇と天皇が武士を招集してまで争うなど、前代未聞の戦だった。
−−−これは多分、とてつもなく大きな戦になるだろう。よしんば早く終わったとしても、これを機に何かが変わってしまうのではないか−−−
誰も口に出しはしないが、そういう未だ見ぬ恐れのような、それでいて淡い期待のような奇妙な心地で開戦を待つ武士たちを、見下ろす影がひとつあった。
高松殿を取り囲む、築地塀。夕刻の柔らかな日に照らされて薄橙に染まりゆくそこに、少年が1人ちょこんと、不敬にも腰掛けていた。歳の頃は12、3ほどだろうか。黒い水干に簡素な具足を身につけているところを見ると、武士の子息か何かのようにも見えたが、そうではないことは少年の髪を見れば一目で分かった。
金髪。平安の御代には明らかにそぐわない、唐獅子の鬣のごとき黄金が夕暮れ時の光を弾いて、きらきらと華やかに光っている。このご時世に、金の髪をした人間は存在しない。そして後ろ側が僅かに透けているような人間もいない。従って少年は、人間ではなかった。
−−−
少年もまた、そういう化生の一体。源頼政が亡き近衛天皇から拝領し、以来彼の愛刀として名を馳せる太刀の付喪神だった。号して、「
獅子王を腰元に佩いた彼の愛すべき主人は、邸の中で軍議の真っ最中。やることも特にない。獅子王は暇そうな顔で、眼下に集う兵たちにぼんやりと視線を投げかけた。後白河帝の御名の下に集まった、平清盛や源義朝ら武士の麾下ら−−ゆうに万を超す大群になった彼らに混じって、奇妙な『モノ』がちらほらといるのが、こうして上から見下ろせば分かりやすい。
黒髪や烏帽子、兜と並んで、鮮やかな色が紛れ込んでいる。真紅。銀。白。浅葱の混ざった黒髪。どれもこれも、人間にはありえない色の髪をした、透けた人のような何かが、両手両足では足らぬほどの数、高松殿の周りには集っていた。
−−−狩衣姿に、足まで付くような栗色髪の青年。
−−−白拍子のような姿をした、銀髪の童女。
−−−全身を鎧に包んだ鶸色の髪の少年。
みな、獅子王と同じく武具の付喪たちである。
(しっかしまあ、上皇さまや主上が旗頭の戦とはいえ、戦場によくこんだけ付喪神が集まるもんだな。そんだけ、どこの郎党もいい武器携えて来たんだろうけど…)
獅子王は内心ひとりごちた。付喪神は、ただ年月を経ただけの量産品には宿らない。というか、宿りにくい。一族に代々受け継がれてきたもの、名高い匠の手で作られたもの、単純に作品の出来が素晴らしいもの、あるいは何らかの伝説と共に語られるもの。そういう器物にこそ、付喪神は宿るのだ。
従って、言い方は悪いが、人の形を取れるような付喪は『お高い物』に宿りやすい傾向がある。獅子王だってその例に漏れない。そういう高価で、なおかつ家に受け継がれてきたような武具を戦場に持ち出すのは割と珍しい。戦場ではどうしたって、刀が折れたり欠けたりする危険性がつきものだからだ。なので、そこかしこに元は御所育ちの獅子王でも顔と名を知っているような、名剣名刀たちがごろごろ居る今の状況は、実に壮観の一言に尽きた。
(あっちは門脇殿のところの竹現だろ?そんであそこで話してるのが、清盛殿が下賜したっていう稗穂…流石に小烏丸…は、いないか。おっ、今来たのが……)
つらつら考えながら、獅子王が眼下の同胞たちの顔ぶれを眺めていたところで、ぱちり、と今しがたやってきた新しい軍勢に混じっている顔見知りの付喪神と目があった。厳しい具足姿もそのままに、硬い音を立てながら高松殿の中へと入っていく主人の後を追うようにして、青年姿のその付喪神は獅子王の方はすたすたと獅子王の方へと寄ってきた。
塀に腰掛ける少年を見上げて、練色の前髪の下で、とろりと濃い飴色をした瞳が人懐こそうに細まる。
「よう、
「うん。弟はもう熊野の方に移ったよ。それにしても久しいね。えっと…あー、虎丸くん」
「ウーンちょっと惜しかったな!獅子王だ、獅子王。源頼政んとこの」
「おお、そうだった。頼政のところの刀ってのはちゃんと覚えてたんだけどねえ」
ひょい、と身軽な動きで獅子王は塀から飛び降りた。それに対して、どことなく緊張感のない様子で、天下に名高い河内源氏の重宝はやんわりと微笑んでいる。相も変わらず、刀の号を覚えない悪癖は治っていないらしい。
「今回は義朝殿のご佩刀なんだな。お父君の為義殿じゃなくて?」
「うん、僕はもう随分前に義朝に譲られたからね。しかし今回の戦ときたら、源氏も平家も身内内で上皇方と主上方に分かれてしまうなんて、何とも妙な戦になりそうだねぇ。うちも為義や他の子らは上皇方で、義朝は主上方…そこそこ長く生きてきたけど、こんな戦は初めてだ」
「だよなあ。その上こんな御所のすぐ近くでドンパチやろうってんだから凄いよな。道理で付喪たちが静まり返ってるわけだ、御所に火が燃え移ったりしねぇといいけど」
「ああ、確かに。なんだか静かだと思ったら、御所の付喪神たちが引っ込んじゃったのか。なるほどねぇ」
狩衣の袖をかざして、夕暮れ時の高松殿の奥を仰ぎ見た友切が、納得がいったような顔をした。天皇の座す場所である内裏には、必然的に付喪神の憑くような高価で、珍しい品も集まりやすい。政治の中枢や裏側を垣間見ているせいで、物見高い性格の付喪神があれこれ楽しげに囁き合っているのが御所の常なのだが、流石に戦の直前ともなれば話は違うようで、いつも付喪神たちがたむろしている広々とした御殿にその姿はなかった。薄青に一滴の丹色を落としたかのような、日暮の気配が漂い出した夏の光が、時の帝の御座所をどこかさみしげに彩っている。
「そういえばさ。俺が近衛帝のお手元にいた時の知り合い、今は後白河帝の刀になってんだよな〜。もうしばらく会ってねえけど。今はこの中にいんのかもな、元気かなあいつ」
ふ、と。付喪神たちのいない、がらんとした高松殿から思い出されるものがあって、大した考えなしに呟くと友切はへえ、と興味を惹かれたように小首を傾げた。
「今の
「いや、太刀。俺より刀身の長いやつなんだけど、まだ若いから付喪神の姿が幼くて…あ、それで、女子なんだよ。俺、刀の付喪で女子の姿とってる奴、初めて見たから会ったばっかのときはびっくりしたんだよな」
「おや。僕も久しく、女人のなりをした刀の付喪神は見てないなあ。それは確かに珍しいね。太刀だと特に」
刀を戦場で振るうのが男だからか、刀の付喪神の大半は男の姿である。30振の刀があったとして、その内1振に女性の付喪神が宿っていれば良いくらいの大変偏った男女比なのだ。滅多なことではお目にかからないレアキャラなのである。逆に扇や屏風、着物や絵巻物などといった工芸品や装飾品には女性の付喪神が多かった。
「…ところで。その主上のご佩刀って髪の毛が結構長い子かい?」
「え?そうだけど…女の子だし」
いきなりの良くわからない質問に、獅子王は内心首を傾げた。
「暗緑色の髪で…前髪がこう、切り揃えてる感じ?」
「お、おう…」
「小袖と袴の上に黒い桂着てる?」
「んん!?合ってる!合ってるけど、え何、友切ってあいつの知り合いだっけ!?義朝殿って主上の御所の警備入ってなかったよな?会う機会なくないか!?」
「いやいや、会ったことはないよ。ただ、もしかして君の後ろにいる小さい子がそうなのかな?って思っただけ」
「エッ」
多分面識無いはずが、獅子王の知り合いにやたら詳しい友切の言葉にビビりながら、友切の葉に従って獅子王がそろそろと背後を振り返ると−−−居た。それも0距離で。記憶通りのぬーんとした表情の小柄な少女がひとり、やや低い位置から獅子王をじっと見上げている。仰天して彼は飛び上がった。
ーーちか、と。常緑樹の葉の、最も鮮やかな部分を煮詰めたような、純度の高い翠緑の眼がぱちぱちと不思議そうに瞬いていた。
「うおおい
獅子王、渾身の叫び。いつでも元気と若々しさが売りの彼とはいえ、久しぶりに腹の底から声が出た瞬間だった。それに対して、「包平」と呼ばれた少女姿の付喪は、あんまりすまなくなさそうな顔で「すみません」と短く謝罪した。10にも満たないような、幼い外見に反して案外その声は低い。硯を爪弾いたときのような、しん、と硬く濁りのない声音だった。
「お久しぶりです。頼政殿がいらっしゃったから、貴方も来ているだろうと思い、見にきて……取り込み中のようでしたので待っていました。驚かせるつもりはありませんでしたが、貴方が不快に思ったのなら謝ります」
「イヤ、別にいいけどよ………背後で待つな、背後で!あ〜〜びっくりした……魂が口から出るかと思った…」
いきなりの無駄な驚きに獅子王が胸を撫で下ろしていると、彼の大声にも全く動じていなかった友切はのほほんと笑った。
「あ、じゃあやっぱりその子が君の言ってた、主上の刀で合ってたんだね。途中から後ろに来てたのは気付いてたんだけど、通りすがりの浮遊霊とかじゃなくてよかったよかった」
「気付いたんなら言ってくれよ!いらん驚きだったぜ、ったくよ〜……」
ガリガリと荒っぽい仕草で、束ねた金髪を掻いた獅子王は深いため息をひとつついた。ついで、仕切り直すように友切の方をびし、と手で指す。
「まあ、なんだ。だいぶ締まんねえけど、2振とも会うのは初めてなんだよな?なら、ちょうどいい。友切の名前くらいは包平も聞いたことあるよな。源氏の重宝で、鬼切の実績持ち。満仲様の代からいる古株だ。ついでに刀の名を覚えねえ奴だから、会うたび自己紹介は必須だぞ」
「うんうん、よろしくね」
鷹揚な笑みに、包平と呼ばれた少女はつかの間ぽかん、としてそれからぺこりと頭を下げた。
「…!ご高名は、かねてより。音に聞く源氏の重宝にお会いできて光栄です、友切様」
「−−−そんでこっちが、
「そうです。ただ、獅子王。ひとつ訂正しておくと、私は少し前に雅仁(=後白河帝の諱)から新しい号を頂きましたので、今はもう御穂包平ではありません」
「えっ、マジかよ!なんて名前なんだ?」
もとより正式な号を持たぬ刀なので、獅子王も『御穂から来た包平の刀』というそのまんまのあだ名で読んでいるに過ぎない。あるのとないのでは、付喪神の存在の格に大きな差が出てくるので、正式な号がつくことは大変におめでたいことなのだ。
問われた少女は、よくぞ聞いてくれましたとばかりに松原の遠景が刺繍された袖を胸に当て、ぴんと胸を反らした。
「−−−『
その顔ときたら!あんまりにも得意げで、混じりっけなしの喜色を少女が幼い顔いっぱいに、ぴかぴかと広げているものだから、獅子王も友切も思わず、そのいとけない可愛らしさに破顔した。
「ふ、あはは、いいねえ。僕なんかもう、名前を何回も変えられてきたから、そんなものどうだっていいって思うことが多いけど…君みたいな若い刀に、初めての名はそりゃあ嬉しい贈り物だよねえ。うんうん、いい名前じゃないか」
「主上もなかなか風雅な号を下さったな!よかったな〜〜常盤丸」
「そうでしょう、そうでしょう。我ながら佳き名を賜ったと思っています…とは言え」
彼女はすこし、残念そうに口を尖らせた。
「…私自身は大した逸話を持っているわけでもなし。いずれは私も、友切さまや平家の重宝と名高い抜丸さまのような、勇ましい逸話が欲しいものです」
若き少女の姿をした刀は、中々に分不相応な将来を望んでいるようだ。獅子王はちょっとばかり呆れたように、古馴染みを半目で眺めた。友切も、名前の出た抜丸も、世にそうはいない妖切りの逸話を持つ天下の霊刀である。常盤丸のような、成り立ての付喪神が目指すには、いささか壮大な目標だろう。
「名前の次は逸話ってか?にしても友切や抜丸を目標とは、大きく出たなお前」
「夢を大きく持たずしてどうするのです、獅子王。鵺殺しの褒美がつまらぬことを言わないで下さい。…だいたい刀の付喪たるもの、妖切りや戦の手柄を一度は夢見るものではありませんか。かっこいいし」
「そーかあ?」
「そうです」
妖切りの逸話持ちは、そりゃかっこいいかもしれないが、そうホイホイ出られても困りもんじゃないかなあ…そんな気持ちを込めて友切に視線をやると、当の名高き鬼切の太刀は、首をこてん、と横にやった。
「ええ?でも君、主上の刀でしょ?今の主上って武芸に秀でた方なのかい?」
「いえ、全く。雅仁は私を持ち上げるだけで息を切らす有様ですが……若宮とか、お孫様とか……どこかで武芸に秀でた方が出…る可能性は……あんまり無いですね……」
言ってるうちにだんだん自信がなくなってきた常盤丸に、友切は気にせず追い討ちをかけた。非情なことである。
「そもそも、皇家の人々が直接武器を手に取るような事態にならないよう働くのが、僕ら武家の責務だしねえ。皇家にいる限りはあんまり妖切りの機会なんて、回ってこないんじゃないかな」
「すごいバッサリ行くなあ友切!若い刀にもうちょい夢見せてやれって!」
ーーー結論から言って。
このとき、保元の乱の始まる前のわずかな暇に交わされた、3振の付喪神たちの会話。常盤丸という幼い付喪神が抱いていた、いつか妖切りの逸話が欲しいというたわいもない小さな夢は、終生叶うことはない。
その代わりに常盤丸は全く別の形で、別の逸話で人々の記憶と、記録に残ることとなる。
常盤丸は、そのような異名で自分が呼ばれるようになることを未だ知らない。憧れた霊刀や、妖退治とは程遠い来いつかの未来を、知らない。
知らずとも、それは始まり、止まることなく進んでいく。人が紡ぎ、物が語る物語の幕は、既に上がっているのだから。
だからこれは、刀の話だ。常盤丸という、一振の刀の、始まりから終わりまでの長い長い、旅路の話。
・常盤丸
女の子姿の刀の付喪神。この時後白河帝の刀。二尺八分五寸のかなりデカめの太刀だけど、生まれてそんなに時が経ってないので外見年齢が幼い。備前国包平は1145/1160頃活躍など諸説ありますが、今回は藤原保昌(958〜1036)の太刀が包平作の説を採用してます。
・獅子王
ご存知おじいちゃんっ子。この時の頼政公、既に50代といい歳。
・髭切(友切)
ご存知名前を覚えない刀。武家の惣領刀という自認のある兄者、とても好きです。