金木犀の香りの交じる風の中にも、かすかな冬の匂いが入り混じりはじめてきた。
早朝のトレーニングの時間帯は、冬物のジャージの上を羽織らないと肌寒く感じる。
そんな中でもフラッシュは未だに半袖短パンを身にまとい、激しい息遣いで坂路を勢いよく駆け上がっていた。
「ゴール!」
「はぁっ……はぁ……ふぅっ。トレーナーさん、タイムはいかがでしょうか?」
そう聞いてくるフラッシュに、俺は手元のストップウォッチに視線を落とした。
「64・6。2本目のものとしては上々だね」
俺がタイムを伝えると、彼女はうなずきながら笑顔を見せてくれる。
前走の神戸新聞杯はローズキングダムに足を掬われるような形になってしまったが、フラッシュの調子自体は悪くない。
敗戦のショックを引きずっている様子もなく、重賞をひと叩きしたことによってむしろさらに調子を上げたようだ。
俺はウマ娘のメンタルの強さには、二通りの種類があると考えている。
一つは敗戦や逆境を糧にし、さらに気持ちを昂らせていつも以上にがんばれるタイプ。
もう一つは厳しい状況に置かれても、淡々といつもどおりのことができるタイプだ。
前者の場合、うまくハマれば本人のアベレージを大きく上回るハイパフォーマンスを発揮するが、その昂ぶった気持ちで挑んだレースやトレーニングで結果が出なかった時、心がポッキリ折れてしまうという弱さもはらんでいる。
二桁順位のあとに優勝、そしてまた惨敗が続いたかと思えば今度は大差勝ちの一着、みたいな極端な成績を残すウマ娘は、こういう性格の娘が多い。
後者の場合は派手なパフォーマンスこそ見せないものの、苦しいときも投げ出さず、平常時と同じトレーニングをこなして、好調時も不調時も同じようなレース運びができるので、生涯を通じて安定した成績を残すことが多い。
フラッシュの普段の生活態度やトレーニングの様子を見ていると、彼女は明らかに【安定型】の性格をしているように思う。
ウマ娘のプロフェッショナルであるトレーナーがこういうのも難であるが、受け持つ側としてはフラッシュのように真面目で気性が安定している娘というのは、非常にありがたいものがある。
……陰口に聞こえてしまったら申し訳ないのだが、ゴールドシップやエアシャカールを担当している先輩トレーナーを見ていると、あの人たちはいつ胃潰瘍になってもおかしくないだろうな、と思ったりしてしまう。
「予定していた坂路も終わったし、あとは軽くダートを流して終わりにしようか」
「はい。ですが、予定しているコースを走る時刻まで、あと2分25秒あります。今のうちに水分補給をしてもよろしいでしょうか?」
「水分補給ぐらい俺の許可なんか取らないでしっかりしてほしいし、それで多少遅れたって別になんとも思わないよ」
「そういうわけにもいきません。なにごとも正確に、ですよ。トレーナーさん」
「……そうだな」
少しばかり頑固で融通がきかないのも、彼女らしいといえば彼女らしい。
人差し指を立てて俺を諌めるフラッシュに、俺は苦笑いを浮かべながらうなずいておいた。
*
レース界には、どうにも不可解なジンクスがある。
過去皐月賞とダービーを制覇したウマ娘は、三冠ウマ娘を除けば15人。
有名どころではトウカイテイオー、ミホノブルボン、ネオユニヴァースなどが該当する。
そして皐月賞と菊花賞を制覇したウマ娘は7人いる。
こちらは菊花賞で芸術的な逃げを魅せ、一番人気のスペシャルウィークを完封したセイウンスカイや、わずか7センチ差でダービーを逃したものの、見事菊花賞でリベンジを果たした【準三冠ウマ娘】エアシャカールなどの名が知られている。
しかし、どういうわけかダービーと菊花賞を制覇したウマ娘はあのハイセイコーの同期・タケホープとダービー・オークス・菊花賞を制覇した【変則三冠ウマ娘】クリフジしかいないのである。
ダービーとオークスを勝ってるって、トレーナーはどんな鬼ローテでクリフジを走らせたんだよ、と思われた人もいるかも知れない。
実はクリフジが現役だった日本レース界の黎明期、オークスは秋に行われていたために、そんなアンタッチャブルレコードが残っているのである。
なぜダービー・菊花賞の二冠が難しいのか、理由は色々言われている。
いわく、激しいダービーでの戦いで燃え尽きてしまい、菊花賞時にはすでにピークアウトしてしまっている娘が多いから。
いわく、2400Mまでは走れても、3000Mの壁を超えるのは容易ではないから。
いわく、タケホープはジュニア期・クラシック期に勝ち味が遅くて皐月賞に出られなかっただけで、ダービー・菊花賞を勝つようなウマ娘はそもそも三冠ウマ娘になるから。
いやでも、タケホープはたしかに強かったが、仮に出走していたとしても、2000Mでハイセイコーを負かすのは相当難しかったのでは?と俺なんかは思ってしまう。
後の成績を見ても分かるように、彼女は歴史的な中距離ランナーだったのだから。
とまぁ、そのような真偽を確かめるのが難しい話が飛び出すぐらい、ダービー・菊花賞の二冠を制するウマ娘が出にくい理由はわかっていないのである。
ということは、ジンクスにありがちな単なる確率の話なのだろう。
確率の問題ということは、いずれ破られる。
そしてその確率は単なる運否天賦などではなく、実力があればいくらでも上積みできるのである。
夏の厳しいトレーニングを乗り越えて培ったフラッシュの実力なら、きっと歴史のページを上書きできる。
これはなにも、彼女の担当トレーナーの贔屓目というだけで言っているではない。
フラッシュには府中の2400Mというタフなレースで、上がり3ハロン32・7という驚異的な末脚を繰り出すスタミナがある。
彼女の母親がドイチェスセントレジャーという長距離レースを制している、という血統的裏付けも持っている。
【最も強いウマ娘が勝つ】といわれている菊花賞を勝つウマ娘は、そんなエイシンフラッシュ以外にありえないと、俺は信じて疑っていなかった。
*
10月後期の、木曜日の放課後。
今日は菊花賞へ向けての最終追い切りが行われていて、練習場はそれを取材するマスコミや記者でごった返していた。
「フラッシュ!あと100M!ここでスパート!!」
「はいっ!!」
俺の合図に、フラッシュは思い切りバ場を蹴り上げた。
ダービーウマ娘に踏み込まれたダートは勢いよくバ場に飛散し、その迫力がフラッシュの好調ぶりを示している。
実際、フラッシュの調子は上昇の一途をたどっていた。
神戸新聞杯でのデキが8割とすると、今のフラッシュは120%の仕上がりである。
完成度だけでいうなら、ダービーのときをはるかに上回っている。
夏のトレーニングの効果もあるのだろう、フラッシュの髪艶・肌艶は暴力的なまでの美しさを放っていた。
「す、す、素晴らしいですっ!!」
もはやおなじみとなった、乙名史さんの掛け声が俺の鼓膜を直撃した。
彼女の声を聞いても胃痛が出なくなったあたり、俺もトレーナーとしてちょっとは成長しているのかもしれない。
「どうです、乙名史さん。今回のフラッシュのデキは、本当に素晴らしいでしょう」
誇らしげに担当のことを語る俺に乙名史さんは目をキラキラ輝かせながら、例の手帳とペンを懐から取り出した。
「ええ、ええ!フラッシュさんの完成度は、ダービーのときとは比べものにならないものを感じられます。どうですか、菊花賞へ向けて自信のほどは!?」
「そうですねぇ。ダービーウマ娘に恥じない、良いレースができると思いますよ」
「素晴らしいです!記事の見出しは『エイシンフラッシュのトレーナー、ダービーウマ娘が菊花賞で負けるわけがないと超強気の勝利宣言!これは菊花賞は彼女で決まりか!』でいかがでしょう!」
まぁここまではいつものやり取りだが、今日は少しばかり、趣向を凝らしてみることにしてみた。
「いやいや、乙名史さん。せっかくのクラシック最終戦なんですから、もっと盛り上げていきましょうよ。『フラッシュのトレーナー、「ダービーで負けたウマ娘共、かかってこいや!もう一度上がり3F32秒台の脚で、コテンパンにやるぜ!」と、強気の笑顔で挑発!』とかどうです?」
どうせ記事の責任を取るのは乙名史さんと月刊トゥインクルの編集部だし、彼女の記事が大げさに書かれていることはみんな知っている。
乙名史さんの、一種の信頼を逆手に取ったわけで、俺がどんな過激発言した風に書かれたとしても、俺に批判が来ることはまずあるまい、という読み筋である。
「えっ?あっ、いや。それはさすがにちょっとそれは……読者と関係者の反応が怖すぎるので……」
いつもやられっぱなしというのも悔しいので、ちょっとこちらから煽ってみたのだが、意外にも彼女は引きつった笑顔を浮かべながら、あっさりと引き下がってしまった。
……この女(ひと)、男勝りでバリバリのお固いキャリアウーマン風な見た目に反して、ひょっとしたら恋愛でも【強く押せばあっさり落ちる】タイプなのかもしれない。
「そうですか、これぐらいのほうがレースも盛り上がるかと思ったのですが。ま、そのへんのさじ加減は取材と文章のプロにお任せしますよ」
ちょっと嫌味っぽく聞こえたかもしれないが、乙名史さんにはこれぐらい釘を刺しておいたほうがいいだろう。
これで少しは懲りてくれれば……。
「!?フラッシュ!どうした!?」
俺が乙名史さんとやり合っているうちにダートのゴールを走り抜けていたフラッシュに目をやると、彼女はしきりに右脚を気にしていた。
まさか、故障か!?
俺は嫌な汗を背中に感じながら、慌ててフラッシュのもとに駆け寄った。
「フラッシュ、大丈夫か!?痛むのか?」
「いえ。痛み、というかちょっとふくらはぎに違和感を覚えたものですから……」
「違和感か。ちょっと失礼するよ、構わないか?」
「ええ」
俺はフラッシュに許可を取ってから、違和感があるというふくらはぎに触れてみた。
水さえ弾きそうななめらかな肌の下には、たしかに強靭な筋肉が走り抜けている。
しかしそこには、わずかに熱があるように感じられた。
俺はそこを、少しだけ力を入れて圧してみる。
「痛むか?」
「…………。はい、少し」
一瞬、本当のことを言おうか迷ったのだろう。
しかしフラッシュは、正直に現状を俺に伝えてくれた。
「大きな怪我ではなさそうだが、一応、お医者さんに診てもらっておこう。どうせなら万全の状態で菊花賞に臨みたいからな」
「そうですね……わかりました」
「大げさかもしれないが、車椅子を持ってこよう。ちょっと待っててくれ」
フラッシュが小さく頷いたのを見た俺は、小走りで車椅子の置いてある倉庫へ向かった。
*
レントゲンを撮ってくれた医師がいうには、どうやら筋肉痛とのことだった。
「筋肉痛か。夏からの疲れがあったのかもしれないな……」
トレーニング後には当然、ストレッチやアイシングなどのケアを十分にしていたつもりだったが、それでも回復しきれていなかった疲れが徐々に脚へ溜まっていったのだろう。
「それにしても、軽症だったのは幸いでした。病院で頂いてきた湿布を貼って、菊花賞当日までは安静にしておきたいと思います」
フラッシュの言う通り、軽症だったのは幸いだった。
しかし……。
「フラッシュ。残念だけど菊花賞は見送ろう」
「!?」
俺の決断に、フラッシュの端整な顔が硬くなる。
「なぜです?こういってはなんですが、たかが筋肉痛で……」
「そう。たかが筋肉痛だ。でも、合宿から帰ってきてからはいつもどおりのトレーニングしかしていないのにもかかわらず、その症状が出た。ということは医師も言っていたように、相当脚に疲労が蓄積されているということなんだよ」
「…………」
フラッシュは頭が良く、感情からくる言動をきちんとコントロールできる子だ。
だからこそ、俺の言いたいこと、伝えたいことが全部理解してしまえるのだろう。
「しかし……菊花賞ではまだ3日あります。安静にしていれば、違和感はなくなるかもしれません」
「仮に違和感が消えたとしても、出走は許可できないよ」
引かないフラッシュに、俺は首を横に振る。
「どうしてです?」
「君の脚に筋肉痛というシグナルが出たことは、動かせない事実だからだ。それに、違和感の消失は一時的なものかもしれない。そんな状態で3000Mもの距離を走る菊花賞への出走は、トレーナーとして絶対に許可できない」
「……私が、どうしても出走する、と言い張ればどうするつもりですか?」
普段俺の指示には素直に従ってくれるフラッシュがここまで食い下がるのは、菊花賞という一生に一度の大舞台へ対する執念だろう。
ダービーウマ娘として、【最も強いウマ娘が勝つ】と言われる菊花賞にはなにがなんでも出走したい、という気持ちは痛いほど理解できる。
しかし、フラッシュはまだまだ先のあるウマ娘だ。
ここで無理をさせて、その未来を閉ざしてしまう可能性のある危険を冒すわけにはいかなかった。
「その場合は【トレーナー命令】として、月曜日まで寮の部屋で謹慎を申し付けることになる」
トレーナー命令。
トレセン学園でウマ娘相手に使われるこの言葉の意味は、重い。
これを無視したウマ娘は、理事会の承認を経てトレーナーの方から一方的に契約破棄を言い渡すことすらできる。
一生に一度の夢舞台をあきらめろ、と言っているのだ。
厳しすぎる対応かとも思ったが、こちらも相応の覚悟を見せる必要があった。
「そこまでおっしゃるのなら、仕方ありません……」
大きなため息をついて、フラッシュはがっくりと肩を落とした。
「菊花賞はあきらめて、11月後期の、ジャパンカップに向けて静養に努めることにします」
それは彼女なりの、意地と負けん気の表明であっただろう。
「……すまない」
聞き分けてくれたフラッシュに俺ができることといえば、こうして頭を下げるぐらいのことだった。
「ジャパンカップは日本ダービーと同じ距離、レース場で行われる。君が世代最強を証明した舞台で、今度は世界最強を知らしめよう」
「はい」
その声はか細いものだったが、フラッシュは確かに返事をしてくれた。
「それでは、今日のところはこれで失礼しますね」
「ああ。お大事に」
フラッシュはいつもどおりに俺に丁寧に一礼し、寮の方へと足を向けた。
トレーナー室への帰り道。
俺は中庭のベンチで腰掛けているフラッシュを見かけたが、はちみーを握りしめ、声を出さずに泣いていた彼女に、声をかけるようなことはしなかった。
*
晩秋の東京レース場で行われた、ジャパンカップ。
一着でゴール板を駆け抜けたのは、GⅠ6勝目を目指すブエナビスタだった。
しかし、電光掲示板に審議のランプが灯る。
今日のレースでフラッシュの一番の強敵になると思っていた彼女だったのだが……。
『場内の皆様にお伝えいたします。只今のレース、ブエナビスタにローズキングダムへの進路妨害が認められました。よってブエナビスタは2着降着、ローズキングダムが繰り上がり1着となります』
その発表に、スタンドからはどよめきの声が上がる。
これもレース、と言ってしまえばそれまでだが、なんとも後味の悪いジャパンカップとなった。
表彰式に登場したローズキングダムとトレーナーは一応笑顔を見せていたが、勝利者インタビューでは二人とも『ああいうことがありましたので……』とだけ言って立ち去ったところを見ると、心中複雑なものがあったのだろう。
しかし、勝ちウマ娘が降着になるほどの不利を受け、それでも心を折らずに3着の皐月賞ウマ娘・ヴィクトワールピサをハナ差抑え込んだローズキングダムの精神力と勝負根性は称えられてしかるべきだ。
その勝負根性があったからこそ、ローズキングダムに勝利の女神が微笑んだとも言える。
フラッシュはケガの休み明けということが響いたのか、残念ながら8着に終わった。
*
菊花賞の辞退、そしてジャパンカップでの思わぬ大敗という辛いことが重なったせいか、せっかくのクリスマスも大して盛り上がらず迎えた有マ記念。
一番人気に推されたのはやはりGⅠ5勝ウマ娘、ブエナビスタだった。
二番人気にはジャパンカップで好走を見せた、今年の皐月賞ウマ娘ヴィクトワールピサが推されている。
フラッシュの人気だが、『今度こそ』というファンの想いがあったのだろう。
前走完敗だったにもかかわらず、それでもファンは彼女を夢のグランプリで5番人気に推した。
レースは感動的なものだった。
逃げるギャルウマ娘、トーセンジョーダンをレース中盤にはヴィクトワールピサが捉えにかかる。
しゃらくさい、とばかりにトーセンジョーダンはペースを上げて先頭を譲らない。
最後の直線。
本質的に中距離ウマ娘のトーセンジョーダンは、直線半ばで力尽きた。
その隙をついて先頭に躍り出たのは、ヴィクトワールピサだった。
そのまま独走態勢を築くかと思われたが、大外から鬼神も避けよの末脚でブエナビスタがヴィクトワールピサに襲いかかる。
現役最強の女王にはジャパンカップでの屈辱を絶対に晴らしたい、という強い気持ちがあったはずだ。
脚色では明らかにブエナビスタのほうが上だった。
しかし、ヴィクトワールピサは勝負根性を見せてブエナビスタをハナ差凌ぎ切る。
皐月賞を制した思い出の舞台でのGⅠ勝利に、ヴィクトワールピサはウイニングランで涙を見せた。
どうしたことか、フラッシュはあの豪脚の鳴りを中団で潜めさせたまま、7着でゴールするのが精一杯だった。
*
年が明け、フラッシュはいよいよシニア級に進級した。
シニア1年目は、スポーツ医学的に見て一番ウマ娘が強い時期だとされている。
「う~ん……」
正月早々、俺はフラッシュが坂路を駆け上がっている姿の動画と去年のジャパンカップ、それに有マ記念の動画を見比べながら彼女の不調の原因を探っていた。
トレーニングの調子は、悪くない。
いつも真面目に走るフラッシュのタイムは、常にその日の一番時計に近いものを出している。
私生活が乱れている様子もないし、どこかに故障を抱えているというわけでもない。
「となると、微妙な精神的なスランプなのか……」
能力のあるウマ娘が突如スランプに陥るということは、よくあることだ。
しかしたとえそのような状況になってしまっても、私生活に大きな問題がなく、身体的な故障もないのなら、ちょっとしたきっかけで調子を取り戻すことのほうが多い。
クリスマスは菊花賞とジャパンカップのことがあったせいで、イベントらしいことをやろうという気にもなれなかったことであるし……。
「お正月ぐらい、新年らしいことをしてみてもいいだろう」
そう思った俺は、早速フラッシュに初詣でもいかないか?というLANEを送ってみた。
スランプ脱出を祈願し、帰りに正月らしい美味しいものでも食べればフラッシュのいい気分転換になるかもしれない。
だけど5分たっても10分たっても、なかなかお誘いのメッセージに既読がつかない。
「……?」
どうしたのだろう。
授業中や食事中でもない限り、フラッシュはいつも遅くても5分以内に返事をくれるのだが。
まさか、インフルエンザにでもなって寮の部屋で寝込んでいるのか?
心配になった俺は同室のスマートファルコンに急いでその旨のLANEを送ってみた。
彼女から返事は、すぐに戻ってきた。
『フラッシュさんなら、朝一番に出かけたよ~。てっきりトレーナーさんと初詣にでも行ったんだと思ってたけど、違うの?』
とりあえず病気で寝込んだりしていないことには安心したが、しかし、それならフラッシュはどこへ行ってしまったのだろう?
『実はフラッシュをLANEで初詣に誘ってみたんだけど、既読がつかないんだ。フラッシュは何時ぐらいに寮を出たんだ?』
『そうだったんだ!フラッシュさんは確か朝の7時には部屋から出ていったと思うよ。そういや、妙にソワソワしていたし、トレーナーさんと初詣?って聞いても、まあそんな感じかもしれません、ってなんか曖昧に返事していたな~』
朝の7時?
休日のお出かけにしては、ずいぶんと早い時間に出たものだ。
今の時計は、もうすでに正午を指そうとしている。
『まぁあの娘に限って正月から悪所に出歩いているということはないだろうけど……連絡がつかないのは少し心配だな。もしそちらにLANEがあったら、すぐに俺にも連絡をいれるよう、伝えてくれないか?』
『了解~♪でもフラッシュさん、一体どこへ行っちゃんだろう?ちょっと心配だよね』
『最悪事故にあったりしていても、フラッシュは必ずトレセン学園の学園証を持ち歩いているはずだから、そんなことがあれば俺か学園に連絡が入るはずだ。便りがないのは良い知らせ、という慣用句を信じるしかないな』
そこでスマートファルコンとのLANEは終わったが、その間に俺からのメッセージに既読がつくことはなかった。
俺がフラッシュに送ったメッセージに既読がついたのは夜の11時を回った頃で、『連絡が遅れてしまい、申し訳ありませんでした。事情は明日、必ず説明します』という定型文のようなメッセージが送られてきただけった。
*
翌日、フラッシュは珍しく瞳の下にクマを作ってトレーナー室に現れた。
「おはようございます。トレーナーさん」
「おはよう。昨日は一体、どうしたんだい?」
焦る気持ちを抑え込んで、俺はできるだけ冷静を装ってフラッシュに質問する。
「昨日はせっかくお誘いいただいたのに、お返事が遅れて申し訳ありませんでした。実は……」
「実は?」
フラッシュと違って人間ができていない俺は、つい急かすような口調で先を促してしまった。
フラッシュはしばらくうつむいて黙り込んでいたのだが……。
「その……朝からずっと、自主トレーニングに勤しんでいまして……」
「朝から?あの時間までずっとか!?」
信じられないフラッシュの告白に、俺は思わず大きな声で聞き返してしまった。
「本当に申し訳ありません。過度な自主練は慎むようにいつも言われていたのに……」
「う~ん……」
三が日は学園のトレーニングルームも閉まっているし、フラッシュがもし学園内のコースで練習に勤しんでいたのなら、いくら俺がボンクラでもさすがに気づく。
ということはフラッシュは昨日、俺に【秘密特訓】がバレないよう、元日早々1日中外周を走り込んだり、24時間365日利用できるジムに行って自分をいじめ抜いていたのだろう。
「去年のジャパンカップ、有マ記念のとき、私の体調は決して悪くありませんでした。にもかかわらず、思わしい結果が出なかった。それは結局、私自身の努力が足りていなった、ということではないのでしょうか?」
彼女にしては珍しく、焦燥感に駆られるがままに自分の思いを打ち明けてくれているようだった。
こういう時、担当にどんな言葉をかけるのかは非常に難しい。
安易にそんなことはないよ、というと『ということは、努力で埋めようのない私自身の才能や実力そのものが足りていなかったのだ』と、さらに自信を喪失させることにもなりかねない。
そうかと言って、その通りだからこれからもっとがんばっていこう、みたいなことをいうと、担当を今以上のオーバーワークに駆り立ててしまう危険性がある。
「フラッシュ。原因不明のスランプに悩まされることはアスリートであれば、きっと誰にでもある。そんな時、自分を壊しかねないがむしゃらなハードトレーニングが、そのことを解決してくれると君は本気で信じているのかい?」
「……それは……」
基本的にフラッシュは論理的に物事を考え、理性的に行動できるウマ娘だ。
そんなフラッシュには変に感情に訴えたり、こちらが激情をあらわにして叱りつけるより、冷静に過去の事例やデータなどを持ち出して説得するほうがその成功率は高いはずだった。
もう、フラッシュとの付き合いも3年目だ。
ここで彼女を納得させられないようであれば、俺は彼女のことを何も理解していなかった、ということになる。
「実際に不調であえいでいる君に、安易に『焦るな』なんて俺は言えない。でも、今の君の行いが本当に【正しい行動】なのか、今一度見つめ直してほしい」
「ですが……」
何かを言いかけ、フラッシュは恨めしそうに俺をまっすぐ見据えた。
毎日杯のときと違い、俺はフラッシュのその視線を真正面から受け止め続ける。
先に視線をそらしたのは、フラッシュの方だった。
「確かに、そのとおりです。自分を壊してしまいかねないようなハードトレーニングは、正しい行いではありませんね……」
そう言ってフラッシュは、自己嫌悪が混じったため息を吐き出した。
客観的に自分を顧み、出した結論がたとえ自分の意に反するものでも、きちんとそれを受け入れられる。
それはフラッシュの、最大の長所の一つだ。
「しかし、スランプを脱出するためのトレーニングがダメだとするならば、私は一体、何をすればよいのでしょうか……」
その相談は自傷的なハードトレーニングを行ってしまう前に、ぜひとも俺にしてもらいたかったものだった。
トレーナーの仕事は出走届をURAとレース場に提出して、ウマ娘を走らせるだけじゃない。
担当しているウマ娘がそんな悩みを抱えたときに一緒に悩み、解決の糸口を探ることもトレーナーの根幹をなす重要な仕事なのだ。
「フラッシュ。俺は何もトレーニングをすることがダメだと言っているんじゃない。同じようにトレーニングをするなら、スランプ脱出のためのアプローチを取れるものにした方が良いに決まっているだろう?」
「それはそのとおりですが、それが分かるのなら私は悩んだりしていません」
「もちろん、そうだ。でも、君は一人で走っているわけじゃない」
俺が一番伝えたかったことを伝えると、フラッシュは両手を口当て、大きく目を見開いた。
そして小さく頭を振り、思い切り息を吐き切ると、澄んだ瞳をこちらに向けてくれる。
「そうですね。私はいつまでもトレーナーさんに甘えているようではいけない、と思い込んでいました。しかし今の私は甘えるということと、頼りにするということをごちゃ混ぜにして考えてしまっていたようです。トレーナーさん。どうか私のスランプ脱出に、力を貸してください」
ブラックジャックじゃないが、俺はフラッシュの、その言葉を待っていた。
「もちろん!じゃあ早速、練習時のフォームと年末のレースで負けてしまったときのフォームを見比べてみよう。俺もさっきまで分析していたんだけど、二人で見るとまた別の視点が得られるかもしれない」
「はい」
新年早々若い男女が肩を並べ、ノートパソコンでレースやダートを走るウマ娘の動画を見ながら、あーだこーだと討論している。
はたから見れば、なんだコイツ等は……と思われても仕方ない光景だろう。
でもなんだかそれは、【今のふたり】にとって一番しっくりくる新年の過ごし方のような気がしていた。