シニア級を迎えたフラッシュのトレーニングは、まずまず順調だった。
フォームが大きく崩れているわけでもないし、タイムも良いものを叩き出している。
しかし……。
「すみません、フラッシュさん。今回は拾わせてもらったみたいで……」
メガネを掛けた一人のウマ娘が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ、イムーバブルさんの走りは素晴らしいものがありました。勉強させてもらいました」
自分を打ち負かした彼女に、フラッシュはいつもの柔らかい笑顔で勝利を称えている。
それは彼女の美点ではあったが……今日の並走もダメだったか。
並走をお願いしたイムーバブルには申し訳ないが、彼女はフラッシュに比べるとかなり格下のウマ娘だった。
なんせ彼女は、先日ようやくプレオープンを卒業してオープン入りしたばかりの娘なのだから。
そういう娘に並走をお願いしたのは――絶対に口に出すようなことはしないが――フラッシュに自信を取り戻してもらうためだった。
にもかかわらず、フラッシュは2バ身をつけられて負けてしまった。
一人で走る分には、フラッシュは本当に良い動きを見せている。
しかし今日のような並走も含め、模擬レースになると実力的には圧倒しているはずの娘にこうしてコロッと負かされてしまうことも、最近増えていた。
「では、あたしはこれで……」
「はい。またぜひ並走をお願いします」
少し気まずそうにしながら去っていくイムーバブルを、フラッシュは笑顔で見送った。
「……トレーナーさん。一体どこが悪かったのでしょう?」
彼女の背中が見えなくなってから、フラッシュは険しい顔で敗因を俺に聞いてくる。
「スタートは悪くなかったんだが、道中の走りがちょっと固くなっていたように思うな。あと、相手を負かしてやろうという気持ちが強すぎるのか、スパートが早すぎた。そのせいで、君の最大の武器である【切れる脚】がまったく使えていなかった。それが一番の敗因だろう」
「やはり、そうですか。頭では分かっていたのですが……」
イムーバブルの前では取り繕ってみせていたものの、オープンに上がったばかりの娘に負かされたのは、ダービーウマ娘として忸怩たる思いがあったのだろう。
フラッシュは奥歯をぐっと噛み締めながら、脚元の芝を睨みつけた。
どんな競技でもそうだが、このようなジャイアントキリングが起こるときの格上の心理状態は二通りしかない。
こんな相手に負けるわけがないと考えて油断するか、格下相手に絶対負けられない、という思いが強すぎて固くなってしまうか。
格下と対戦するときの心理状態で一番まずいのは、強い(と思われている)方が勝負の序盤は負けるわけがない、と油断していて、思ったより相手が手ごわいとみるや、今度は絶対に負けられないと固くなってしまっていつものプレイができない、という状態になることだ。
こうなると番狂わせが起こる確率が、飛躍的に上昇してしまう。
対戦相手に敬意を払えるフラッシュは相手を舐めてかかる、ということはあまりないと思う。
そうなると『負けられない』という気持ちが先走ってしまって、いつもの走りができなかったということが今日の敗因だろう。
感情からくる行動のコントロールが得意なフラッシュがこのような状態に陥っている、ということは、やはり最近のスランプの原因は身体的なものでなく、精神的なものから来ている可能性が高い。
それならいっそのこと……。
「フラッシュ。芝のGⅠがない1・2月中は、少しトレーニングは軽めにしよう」
「えっ!?で、ですがこのような不調時にトレーニングの負荷を下げてしまうと、さらに調子を落としてしまうのでは……」
俺の提案に、フラッシュは動揺を隠せないようだった。
俺もスポーツ経験者だから、不調のときにこそしっかりとした練習を積みたいという気持ちはよく分かる。
しかし不調の原因が練習不足やスキル不足でないのなら、必要なのはハードトレーニングなどではなく、メンタルのケアである。
俺の実体験からすると、必要以上の努力やトレーニングは競技者の【器】から溢れ出してしまって、ほとんど身につかないどころか、かえって自信を失ったり、故障の原因になったりするものだ。
「単走での動きやタイムが良いということは、身体的には何の問題もないということだ。それなのにレースや並走になると結果が伴わないのは、メンタルに何らかの問題を抱えている可能性が高い。春の第一目標である大阪杯までに、それを探ってしっかり解決していきたいと俺は考えている」
理由を説明しても、フラッシュは眉をひそめるばかりだ。
「納得できません。メンタルに問題があるだなんて言われましても、睡眠や食事はしっかり取れていますし、学業やトレーニングなどのすべきことには精力的に取り組んでいるつもりです」
フラッシュは、嘘はついていまい。
彼女は、そういう真面目な娘だから。
でも。
「じゃあ聞くけど、最後に友人たちと遊びに行ったのはいつだい?」
「えっ?」
「最後に大笑いしたのはいつ?心の底から君が『今日は楽しかった!』と最後に思えた日は、いつ?素晴らしい景色や創作物に触れて、最後に感動したのは?」
「それは……」
俺の質問にひとつも答えられなかったフラッシュは、うつむいてそのまま黙り込んでしまった。
そう。
人間追い詰められて思い悩むと、日常から得られる小さな喜びや、なに気ない幸福への感度が著しく減少してしまう。
しかもこれは、なかなか自分では気づくことができない。
今のフラッシュのように、そのような状況でも【しなければいけないこと】はわりとしっかりできてしまっていたりするからだ。
これがもう少し深刻になると、食欲不振や不眠症などのうつの初期症状が現れてくる。
そうなる前に、手を打っておくに越したことはない。
「もうひとつだけ。フラッシュが『走るのって、楽しい!』と思って最後に走ったのは、いつ?」
「……わかりました。でも、まったくトレーニングしないという提案だったらさすがに賛同できませんよ」
大人からいいように説得されてしまったようで面白くないのか(俺もそんな時期があったからよく分かる)、フラッシュはちょっと怒ったような口調で俺の『軽めのトレーニング』とやらを確かめてくる。
「もちろんだ。俺はとりあえず通常メニューの3割で考えていたんだが」
「6割……いえ、7割です」
「えっ?」
「いつもの練習量の、7割までは譲歩します。それ以下のトレーニングを押し付けるつもりでしたら、もう一度話し合わねばなりませんね」
「う~ん……」
と困った顔でうなりつつ、心のなかでは昔ヒットした漫画の主人公のように『計画通り』とつぶやいてニヤついていた。
フラッシュの性格からして、俺からいつもの練習量の7割なんて提案していたら、きっと8割9割はトレーニングさせろと詰め寄ってきたに違いない。
最初に無理めな要求をして、譲歩を引き出す。
対比効果という説得術の中では鉄板のテクニックだが、効果が抜群だからこそ、鉄板の説得術たり得るわけだ。
ありがとう、充。
ベロンベロンに酔ったときに、この話を聞かせてくれていて。
最近連絡も取ってないが、また今度一緒に呑みにいこう。
「6割でも十分だと思うんだがな……」
それでも俺は一度は納得できない、という態度を見せる。
欲張りすぎなようにも見えるが、これが重要なのだ。
「いえ、7割です。先ほどもいいましたが、これ以上は譲歩できません。それに、そんなに練習量を減らしては、むしろ『本当にこんなに休んで大丈夫なんだろうか』という焦りが出てしまって、せっかくのメンタルのための休養が逆効果になってしまうと思います」
少しズルい気もしたが、これでフラッシュ自身が【練習量はいつもの7割】と決めてくれたことになった。
彼女は生真面目な性格だから、きっと自分の言ったことを厳守してくれる。
本当はさっき言った通り、6割ほどで同意を得たかったのだが、まぁここらがお互いの妥協点だろう。
「わかった。確かに、それは一理あるな。じゃあ明日からは通常のトレーニング量の7割で取り組むことにしよう」
「……了解しました。では、今日の残りのトレーニングをお願いします」
「ん?もう今日は激しい並走を済ませたじゃないか。だから今日のトレーニングはおしま……」
「トレーナーさん?」
ニコニコ微笑むフラッシュに、俺はなぜか昔母親から『怒らないから言ってごらん?』と優しい微笑で言われたときと同じ恐怖を思い出していた。
お約束といえばお約束だが、正直に罪を告白した幼き日の俺は、そのあとバチクソに母親から怒られるハメになった。
あの日俺は確かに大人への階段を一歩登り、『大人も平気でウソをつくのだ』という、この世の真理を手に入れたのだ。
「すまん、面白くもない冗談だったな。じゃあ今日は坂路一本と、トレーニングルームで20分の筋トレをすることにしようか」
結局俺は並走が終わったあとにいつもやっているトレーニングを、彼女に言い渡したのだった。
*
トレーニングの強度を下げれば、その分終わる時間も早くなる。
そうして空けた時間をフラッシュは読書をしたり、好きな映画を見に行ったり、同じように少し早めにトレーニングを終えた友人たちと出かけたりしているようだった。
休養というのは練習以上に、効果がすぐには現れにくいものだ。
結果が出てない中での休養にもちろん焦りはあるだろうが、なんとかうまく気分転換してほしいと思う。
いつもより少し早い時間に、フラッシュがいなくなる。
そんな日々が続いて、はや一ヶ月が過ぎた。
いつものようにトレーナー室で事務作業に追われていた俺は、ふとカレンダーに目をやった。
「そういや、今日はバレンタインか」
カノジョがいた時期はそれなりに楽しみにしていたし……実は去年、フラッシュから世話チョコでももらえないかなー、なんて期待したりしていたのだが、あの時期はフラッシュへのいじめやら体調不良やらの問題が山積していて、バレンタインどころではなかった。
昨今じゃ世間様の虚礼廃止の風潮に則って、トレセン学園でも女性教諭や女性トレーナーからのバレンタインチョコの配布もなくなってしまっているようだった。
今学園内でやりとりされるバレンタインチョコといえば、ウマ娘同士の友チョコ交換とウマ娘がトレーナーに贈る世話チョコぐらいのものである。
しかし今のフラッシュはスランプからの脱出に必死だし、今年もフラッシュからのチョコレートは期待薄ですかねえ……。
しゃーねー。
買い置きしてある一袋300円の一口チョコでも食べて、バレンタイン気分を自家発電するか……。
そう思って立ち上がると、コンコン、とトレーナー室の扉が鳴った。
「はい?」
「私です。入っても大丈夫ですか?」
「ああ、どうぞ」
俺の返事を待ってから部屋に入ってきたのは、制服姿のフラッシュだった。
その彼女は、何やら手に小さな箱を携えていた。
これは……。
「どうした、なにか用事か?」
白々しいとも思ったが、大の大人の男が高等部の女の子に『ひょっとして俺にバレンタインチョコ持ってきてくれたの?へっへっへっ』と聞くのも、セクハラじみている気がしたのでやめておいた。
「今日はバレンタインデーですね。ファルコンさんから日本では愛する男性や、お世話になっている人に女性からチョコレートを贈る習慣があると聞いたものですから。どうぞ、これをお受け取りください。いつも色々とお世話になっている、ささやかなお礼です」
そう言ってフラッシュは、シンプルながら可愛らしい包装紙で丁寧にラッピングされた箱を差し出してくれた。
彼女が口にした『愛する男性』という言葉に不覚にもドキリ、としてしまったが、まぁ普通に考えてこれは世話チョコだろう。
「おっ、ありがとう。ちょうど甘いものが食べたいな、と思っていたところなんだ。開けさせてもらってもいいかい?」
「ええ。それは構わないのですが……」
フラッシュは整った形をしたあごに手を当て、何やら難しい顔をしている。
「どうかしたのか?」
「なぜ、日本ではバレンタインに女性から男性へチョコレートを送るのでしょうか?ドイツにもバレンタインデーにプレゼントを送る習慣はありますが、男性から女性へ花を送るのが通例です。私の父も、毎年母に花をプレゼントしています」
ああ。
ドイツで生まれ育ったフラッシュから見ると、日本のバレンタイン文化は少々奇異に見えるのかもしれない。
「それはね。日本でバレンタインの習慣が根付いたのは昭和30年代中盤……っと、フラッシュには西暦で言ったほうがわかりやすいか。西暦に直すと、1950年代になるのかな。ともかく、それぐらいの時期にバレンタインデーってイベントが定着したって言われていてな。当時の日本では『女性から男性へ愛を伝えるのは、はしたないことだ』って謎の空気感があったんだ」
「えっ?なぜ女性から男性へ愛を伝えることが、はしたないことなんですか?」
男女平等の意識が強いヨーロッパ人の彼女からすると、そういう男尊女卑的な考え方は受け入れがたいのだろう。
といっても、俺がその空気感を醸成したわけでもないので、俺に怒りをぶつけられても困る。
「いや、もうそれは当時の風俗がそうだったとしか言いようがない。で、そこに目をつけたのがお菓子会社だ。西洋ではメジャーで、プレゼントを贈る習慣のあるバレンタインデーという日を見つけてきて、『この日だけはチョコレートとともに、女性から愛を伝えても良い日』というイベントを打ったわけだ」
「そんな日に、どんな意味があるのです?男性でも女性でも、愛を伝えたいときに伝えればよいではありませんか」
その言葉は俺の耳にも、少しばかり痛かった。
フラッシュの言い分は正論だが、正論では感情論と世間の目に勝てないのである。
「当時の空気は想像するしかないが、その時代は女性から男性に思いを伝える、ということがよっぽど恥ずかしいことと思われていたんだろう。そんな時に『今日はバレンタインデーだから……』という免罪符のようなものがあれば、背中を押される女性もいたんだと思うよ」
「わかったような、わからないような……」
そう言ってフラッシュは首を傾げる。
偉そうに言っている俺も実は肌感覚で分かっているわけじゃないから、彼女が困惑してしまうのも無理はない。
「まぁ、日本にはそういう時代もあったってことさ。今じゃだいぶ女性が男性へ気持ちを伝える日、みたいな感覚も薄れてきて、今のフラッシュみたいに世話になっている人や友達に贈るっていうケースのほうが、むしろ多くなっているようだけどね」
「男性から女性にチョコレートを贈る、ということはないのですか?」
「別にないわけじゃないけど、それは『逆チョコ』なんて言われてるぐらいには珍しいケースだね。そのかわり、女性からチョコレートを貰ったお返しをする『ホワイトデー』なんてものが存在している」
ホワイトデーという単語にピンとこないとか、フラッシュは頭上に『?』を浮かべる。
「チョコを貰った女性にお返しをする日、ですか。ドイツにはそんな習慣はありませんね……」
「ああ。これはどうやら、お返し文化のある日本発祥のイベントらしいよ。昔は女性からもらったチョコレートの額の3倍返し、なんて言ったらしい。今でもたまに冗談めかしてそんなことを言う女の子もいるけど、俺らの世代だとあまりピンとこない話だよな」
俺の説明がよっぽど下手なのか、フラッシュの頭上のクエスチョンマークは増えていく一方だった。
「なぜ男性は女性からもらったものを、3倍にして返す必要があるのです?」
「これも昭和という時代の名残でね。昔は男性と女性の収入格差が、今以上にひどかった。だからそれぐらいのお礼をして当然、って感覚があったんだろう。あと、オトコの見栄ってのも当然あったと思うよ」
「……バレンタイン一つにしても、これだけの文化の違いがあるのですね」
フラッシュはどうやら日本のバレンタインに対する完全な理解をあきらめたようで、苦笑を浮かべながら俺の話に対する感想をまとめてくれた。
「小難しいことはともかくとして、今日もらったチョコのお礼はそのホワイトデーにさせてもらうよ。俺も一応働いてるし、三倍返しぐらいは楽しみにしてて」
「そのお気持ちは嬉しいのですが、そんなことされたらもうトレーナーさんに贈り物ができなくなってしまいますよ」
冗談っぽく言ってフラッシュは苦笑したが、贈った女性の方からすると、案外それが本音なのかもしれない。
あまりに高額なお返しをもらっても却って気を使うだろうし、贈った相手との関係性によっては、気持ち悪く感じることもあるだろう。
「そうか。でも、うまい飯ぐらいは期待しててくれよ。ところでフラッシュは、これからなにか予定が?」
「ええ。これから部屋に戻って夕食まで読書するつもりですが……」
すっかり失念していた。
これは誘った俺が悪かった。
フラッシュは一日のスケジュールは分単位で決めていて、それを実行することは彼女にとって【正しい行い】であり、大切なことなのだ。
本当はもらったチョコを一緒に食べながら、雑談でもしたかったのだが。
ま、バレンタインのうんちく話が披露できたのは楽しかったから良しとしよう。
フラッシュが楽しんでくれたかは、また別問題だけど……。
そう考えるとフラッシュが決めている予定を、トレーナーの俺がこれ以上壊すのもなんだか気が引けた。
「なるほど。休養中でもないと一気に本を読むという機会もなかなかないだろうし、読書はメンタルにもいいからな。ぜひ、励んでくれ」
「……?はい。それでは、失礼します」
休養を言い渡した俺がわざわざ予定を確かめたのを変に感じたのか、フラッシュは少々怪訝な表情を作りながらも一礼する。
「うん。今日はわざわざチョコレート持ってきてくれてありがとう」
「いえ、お口に合えばいいのですが。良ければ後日、感想を聞かせてくださいね」
フラッシュは小さく手を振りながら、静かにトレーナー室をあとにした。
「さて。頂いたチョコレート食べながら、もうひと頑張りしますか」
俺は思い切り上半身を伸ばしてから、コーヒーを淹れるために立ち上がった。
フラッシュが贈ってくれたのは、誰もが知っている高級ブランドのミルクチョコレートだった。
普通、フラッシュぐらいの年頃の子が【大人の男性】に贈るチョコレートといえば、甘さを控えたビターなものにするのが定番だけど。
いつだったか、一緒にチョコレートケーキを食べに行った時に『いい歳した男がちょっと恥ずかしいんだけど、実はこういう甘いもの好きなんだよな』とポツリもらしたのを覚えていてくれたのかもしれない。
そうだといいなあ、なんてバカなことを考えながらチョコレートを口にする。
「! うまいな、これ」
俺は別に海原雄山じゃないから、食い物のことなんて好みでうまいまずいぐらいしか言えないけど、フラッシュの贈ってくれたチョコレートは俺の好みにドンピシャだった。
フラッシュがプレゼントしてくれた美味しいものを食べながら作業を進めていると、いつもは退屈でなかなか捗らない書類仕事も、なんだかずいぶん楽しいものになった気がした。
*
今年の早春は例年よりかなり暖かく、少し動くとじんわりと汗をかく日もあった。
ウェザーニュースでは、来週にはもう桜が咲き始めるではないか、なんて言われている。
フラッシュの練習量をいつもと同じ負荷に戻して、そろそろ半月が経つ。
そのフラッシュは今日、クラシック級の芦毛のウマ娘とダートで並走していた。
芦毛の娘の脚質は追い込みなので、差し脚質のフラッシュが常に先行する形になっている。
直線に入ってその差がぐんぐん縮まっていくが、先輩の意地を見せつけて1バ身ほどの差で先にゴールしたのは、フラッシュだった。
「くっそー!さすがはダービーウマ娘。そう簡単には勝たせてもらえないか」
相手がシニア級の、それも天下のダービーウマ娘だったのにもかかわらず、先着された悔しさを隠そうともせずに脚元のダートを蹴り上げたのは、今年クラシック級になったゴールドシップというウマ娘だ。
ジュニア級時代を4戦2勝、重賞2着2回という優秀な成績で駆け抜け、クラシック級の初戦、共同通信杯を勝って来月行われる皐月賞へ臨む、将来有望なウマ娘だ。
ゴールドシップといえばデビュー前から奇行が目立つウマ娘としても有名だったが、なぜか真面目一徹なフラッシュとウマが合うらしく、よく一緒に出かけたり、カフェテリアで食事をしているのを見かける。
「いえ、ゴルシさんの走りは本当に末恐ろしいものがありますね……。少しでも油断していれば、あっさりと交わされていたことでしょう」
「そんな見え透いた世辞はいらねーんだよ。いつかレースできっちりと差し切ってやるから、覚えてろよ!」
なぜか負けた悪役風の捨てゼリフを残して、ゴールドシップはダート場の柵を飛び越え、明後日の方向へと去っていった。
「……とてもユニークな友人だね」
まさかフラッシュの友だちのことを『どうにもイカれたヤツだね』と本人の前では言えなかった。
「はい。ちょっと変わった人ではありますが、彼女の走りの才能は本物だと思います」
あっ、フラッシュもやっぱりゴルシは変なヤツ、って認識はしてるんだ。
しかし、ダービーウマ娘であるフラッシュを1バ身まで追い詰めたゴールドシップの才気は、認めざるを得ない。
そんな【若き天才ウマ娘】に先着したのだから、フラッシュのメンタルはほぼ完全に復調したと考えていいだろう。
「あんな感じの人ですから振り回されることも多々ありますが……とても面白くて、実は友人思いの方なんです。今日もわざわざご自身のトレーニングの予定を変更して、私の並走に付き合ってくださったんですよ」
そうだったのか。
トレーニングを始めようとしたらいきなりゴールドシップが『おい、フラッシュ。並走すっぞ!』って声をかけてきたものだから、前から約束していたものとばかり思っていたが。
そんな話をしていると坂路場の方から、ものすごい脚でなぜかゴルシのトレーナーさんがやってきた。
「はぁっ……はぁっ……お二人さん、急にすまない。ゴールドシップを見なかったか?ヤツがこっちに向かって歩いていったって目撃情報があったんだが」
ヤツの目撃情報って……。
自分の担当ウマ娘なのに、まるで珍獣のような扱いである。
「ゴルシさんなら私と並走してくださったあと、あちらの方に走っていかれましたが……」
俺が口を開く前に、フラッシュは今しがたおこなった並走トレーニングのことをゴルトレさんに説明すると、すっと校舎の方を指さした。
「なんだって!今日は坂路を走り込む予定だから坂路場で待ってろって指示したのに……あいつはまた勝手なマネを!」
フラッシュの話を聞いたゴルトレさんは、担当と同じように苛立ちのまま脚元のダートを蹴り飛ばした。
ゴルシがトレーナーに似たのか、朱に交わればなんとやら、でトレーナーがゴルシに毒されたのか。
それはともかくとして。
今日の並走、ゴールドシップはトレーナーの指示すっぽかして走っていたのか……。
「やっちまったもんは仕方ない……ところでフラトレさんにフラッシュさんよ。その並走はどれぐらいの距離を走ったんだ?」
呆れとあきらめの混じったため息をつきつつ、ゴルトレさんは俺達にその内容を確認する。
「ダート2000Mのマッチレース形式ですが……」
「マジかよ!そんなハードな並走のあとに坂路なんて走り込んだら、いくらゴルシが頑丈でもさすがにオーバーワークになっちまう。また今日も練習メニューの大幅な変更が必要だな……」
俺が端的に事実を伝えると、担当の勝手な行動にゴルトレさんは思わずといった感じで頭を抱えた。
「ところで……その並走の結果は?」
「一応、私がなんとか1バ身ほど先着しました」
今度はフラッシュが謙虚に結末を報告すると、ゴルトレさんは驚愕に目を見開く。
この百面相を見る限り、案外ゴルシとこのトレーナーさんはいいコンビなのかもしれない。
「1バ身!?ゴルシのヤツ、ダービーウマ娘のキミ相手に1バ身差まで詰め寄ったのか?」
「ええ」
「……真面目にトレーニングしてくれたら、今年は3つとも持っていける才能があるんじゃないかアイツ……」
3つとも、というのは多分、ゴルシが参戦予定の皐月賞・ダービー・菊花賞のことだろう。
どれか一つ勝つのも超が付くぐらい大変なのに、いくら自分の担当している愛バとはいえ、それはさすがに期待しすぎな気がする。
「ともかく、二人ともありがとう。ゴルシはあっちに行ったんだな?」
校舎を指さしたゴルトレさんに俺達は同じようにうなずくと、ここへ来たときのように彼はすごい脚で約束の地(もう約束破られてるけど)を目指して走り去っていった。
「担当ウマ娘が変わり者だと、トレーナーも大変なんだなぁ」
他人事だけに他人事のようにつぶやいて、フラッシュみたいな真面目な娘が初めての担当で本当に良かったとしみじみ感傷に浸っていると、軽快な音楽が辺りに響き渡った。
「……トレーニング中にすみません。私のスマホみたいですね」
音源はフラッシュの手提げバッグのようだ。
今の時代のスマホは個人情報の塊というだけでなく、財布でもあり、身分証明書のようなものでもある。
実際トレセン学園が発行する生徒証明書は従来通りの紙の手帳のものもあるが(フラッシュはこちらだ)、希望者にはスマホに表示できる電子生徒証明書も発行していた。
そんなスマホを練習場に持ち込むことを快く思わないトレーナーも一定数いるが、俺はむしろ手元に置いておかないと、ウマ娘も不安でトレーニングどころじゃないだろうな、と考える方だった。
「電話か?」
「はい。こんなことは珍しいのですが……」
今は家族でもLANEでやりとりするだろうし、今どきの生徒や学生はウマスタのDMなんかで連絡をやり取りするらしい。
「とりあえず、出てみたらどうだい?」
「はい、それでは失礼して……」
フラッシュは律儀に非礼を詫びてから、けたたましく鳴り響くスマホをバッグから取り出した。
「父親からのようですね。Hallo? Ich bin gerade mitten in einer Trainingseinheit...」
電話の相手は、どうやらフラッシュのお父様らしい。
しかし、どうもフラッシュの様子が変だ。
やり取りが進むにつれて、どんどんその美しい顔から血の気が引いていく。
なにか、よくない連絡なのだろうか。
「Mein Großvater!? Ich bin versucht, schnell nach Hause zu kommen... aber ich habe das G1 vor mir, also kann ich nicht sofort gehen... Ja, lass mich hier für Großvaters Ruhe beten.
Es tut mir wirklich leid. Ich lasse Sie wieder warten, Trainer, also diesmal...」
青ざめた顔のまま、フラッシュは電話を切った。
「どうした、なにかあったのか?」
「祖父が……亡くなったそうです」
力なく、フラッシュはそうつぶやく。
彼女の心中を表すかのように、手の中のスマホが小さく震えていた。
読了、お疲れさまでした。
今回登場したドイツ語は、ディープLに翻訳してもらったものです。
ドイツの方やドイツ語が堪能な方が読まれると違和感があるものに
なっているかもしれませんが、ここは雰囲気を重視させていただきました。
最近ちょっと筆が乗っていて、書くのがとても楽しいです。
次回作もひょっとしたら、早いうちに読んでいただけるかもしれません。
今回も最後まで読んでいただき、まことにありがとうございました。
よかったら、次回作も目を通していただけると嬉しいです。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします!