秋緒戦。
3番人気に推されていたフラッシュの天皇賞・秋への挑戦は、着外に終わった。
「道中の位置取りも、スパートの掛け方も、すべて落第点です。なんとか及第点に達したのは、スタートだけでしょう。こんなレース内容では見に来てくださった方々や、私を推してくださった方々に顔向けできません」
厳しく自分を責め立てるフラッシュだったが、今日ばかりは勝ったトーセンジョーダンの強さが神がかっていた。
超の付くハイペースにうまく乗り、最後はギリギリまで溜めた末脚を爆発させて、新進気鋭のダークシャドウも、最強女王・ブエナビスタさえその豪脚で切り捨てた。
トーセンジョーダンの叩き出した勝ちタイムは1分56秒1。
ウオッカの持っていた1分57秒2の天皇賞レースレコードを、悠々更新しての2000M日本レコードタイム勝ちである。
『今までのウマ娘たちの歴史を上書きするような、すごい勝ち方をしてみせる!』
レース前の記者会見でトーセンジョーダンが言い放ったあの大言壮語は、決してハッタリではなかったわけだ。
「今日は、トーセンジョーダンが強かったな。やっぱり、4ヶ月のブランクが大きかったのかもしれない」
そういう俺に、フラッシュは厳しい視線を送ってくる。
「それはただの言い訳です。敗戦の理由になりません」
「いや、今日の負けは俺の責任にある。ぶっつけじゃなく、やっぱり京都大賞典か毎日王冠をひと叩きすべきだった」
もちろん、本番前にどちらかのレースでひと叩きするプランは頭の中にあった。
だが見えない夏の疲れがあったのか、9月の下旬になってもフラッシュの動きはピリッとしなかったのだ。
クラシックのころと違い、フラッシュももうシニア級の歴戦の戦士である。
いくつものGⅠという修羅場を潜ってきた。
今の彼女なら無理して前哨戦を使わなくても、GⅠという舞台で十分勝ち負けに絡める。
そう考えて伝統のGⅡをスルーしたわけだが。
「それは……10月上旬の頃の私がレベルの高いGⅡに出走していても、いいレースができたかどうかわかりません。最悪、疲労を蓄積していただけということにもなっていた可能性もあります。トレーナーさんの前哨戦回避という決断は、決して間違っていなかったと思います」
「そう信じたいけどね……」
「今日の不甲斐ない結果は、私の力不足以外何物でもありません。また一から鍛え直して、残りの秋戦線を戦っていきたいと思います」
不本意な敗戦にまみれても、やる気を失わないのはフラッシュの強みの一つだ。
「物事は、相対的なものだ。いい面を見るなら、今日がフラッシュの状態の底だったとも言える。今日はトーセンジョーダンの歴史的な勝利を讃えよう。次走は君が勝利したダービーと同じレース場、そして距離のジャパンカップだ。その舞台で捲土重来といこうじゃないか」
「そうですね。負けたことをいつまでもくよくよと考えていても仕方ないことは確かです。切り替えて、次のレースに集中しましょう」
少し楽観的すぎる発破かけだったかなとも思ったが、それでもフラッシュは力強く言葉を返してくれた。
*
天皇賞後のフラッシュの調子は、お世辞にも良いものとは言えなかった。
トレーニング中のタイムも平凡なものだったし、練習の手を抜いているというわけではないが、走りに良かった頃の迫力がない。
どこか故障しているとか体調が悪いとか、身体的な問題を抱えているわけではなさそうだが、神戸新聞杯から7連敗しているという現実が、フラッシュのメンタルに影を落としているようだった。
いくら彼女が精神的に強いウマ娘と言っても、思わしい結果が出てない時期にずっと高いモチベーションを持ち続けるのは非常に難しい。
ここは少し、いつもと違った方向から気分転換のアプローチを図ってみたいところであった。
「フラッシュ。今度のJBCクラシックにスマートファルコンが出るんだろう?応援がてら、船橋レース場に見学しにいかないか」
いつものトレーニングを終えたあと、俺はスポーツドリンクを飲んでいるフラッシュにそんな提案をしてみる。
「ファルコンさんのレースを見学に、ですか?」
「ああ。生で彼女のレースを見たこと、今まで一度もないんじゃないか?」
俺の質問にフラッシュは人差し指をあごに当て、暗くなり始めている空へ視線を向ける。
「そういえばルームメイトでありながら、なぜかファルコンさんのレースは観に行ったことがないですね」
「まぁ芝とダートでフィールドが違うこともあるしな。同じ舞台で戦うことがないなら、純粋に応援できるんじゃないかと思ってね」
「私の応援なんかなくても、ファルコンさんは立派なレースをなさると思いますけどね」
こんな軽口を叩けるのも、フラッシュとファルコンが親しい間柄だからだろう。
「ひょっとして、あまり気乗りしない感じかな?」
「そんなことありませんよ。確かJBCクラシックは11月3日の金曜日でしたよね」
フラッシュの確認に、俺はうなずく。
URAのレースのほとんどは土日に行われているが、逆に地方は平日に開催されている。
これはURAと地方で、お客さんの取り合いを避けるためだ。
平日でも仕事帰りの人などが気軽にレースやライブを楽しめるよう、地方ではナイターレースが主流である。
特にJBCのような地方の大レースでは平日の夜にも関わらず、中央で活躍するウマ娘たちや地方レース場のトップウマ娘たちの勇姿を一目見ようと、たくさんの人が訪れる。
熱心な地方レースファンの中には【地方の野武士が、中央のエリートたちを迎え撃つ】という構図で捉えている人も多い。
そんなファンたちの地方ウマ娘たちへの熱烈な応援も相まって、地方のレース場で交流競走が行われる日は、URAにはない独特な熱気に包まれている。
「そうそう、文化の日だ。予定が入ってなかったらどうだい?」
「そうですね。授業の方は休みですし、一応その日のスケジュールといいますか、することは決まっていましたが変更できないようなものではありません。トレーナーさんさえ良ければ、ぜひ連れて行ってください」
「オッケー。じゃあ3日の夕食後、メインレースに間に合うように出発しようか」
「はい。それで構わないのですが」
少し言いよどんで、フラッシュはいたずらっぽく微笑んだ。
こんな表情をするフラッシュを見るのは、本当に珍しかった。
「私達が応援に行くことは、ファルコンさんに内緒にしておきませんか?当日驚かせてあげたいので」
「それは別にいいけど。そんなびっくりさせるようなことして、レースに影響でないかな?」
「そんな心配は無用ですよ」
そう言ってフラッシュは、今度は穏やかに微笑む。
「ファルコンさんはそんなことでレースに影響が出るような、弱いハートは持っていらっしゃいませんから」
*
「うわぁ、びっくりした!フラッシュさんたち、応援に来てくれたんだ!」
控室に訪れた俺達を、スマートファルコンは100%期待通りのリアクションで出迎えてくれた。
このわかりやすい天真爛漫さが、ウマドルとして彼女がファンに親しまれている理由のひとつだろう。
「寮の部屋出るときは普通に行ってらっしゃい、って言ってくれてただけだったのに……」
「ふふっ、すみません。ちょっと、ファルコンさんをびっくりさせてあげたかったものですから」
「むぅ~」
してやられたスマートファルコンは、その丸っこい童顔をまるで風船のようにふくらませる。
それが面白くて可愛くて、俺とスマートファルコンのトレーナーさんは二人してつい吹き出してしまった。
「トレーナーさんたちまで!?」
「いや、ごめんごめん。俺は一応、止めたんだけどね?フラッシュがどうしてもサプライズ訪問にしたいっていうもんから」
「いえ、別に私はどうしても、とまで言っていませんが……」
とても大レース前とは思えない、和やかな空気が控室に満ちる。
「フラッシュさんも、そのトレーナーさんも。わざわざ応援に来ていただいて、ありがとうございます」
「いえいえ。GⅠ前に押しかけていいものか迷ったのですが、スマートファルコンさんのトレーナーさんがOK出してくださったなら遠慮はいらないかなって」
さすがにGⅠという大舞台を前にガチサプライズを仕掛けるわけにもいかず、事前にスマートファルコンのトレーナーさんに連絡を入れ、控室訪問の許可をもらっておいたのだ。
スマートファルコンのトレーナーさんは俺より2年先輩で、彼女も俺と同じくスマートファルコンが初めての専属契約ウマ娘のはずだった。
「確か、スマートファルコンさんは今回が3度めのGⅠ挑戦でしたよね」
俺がそう言うと、リラックスして笑っていた二人の表情がわずかに引き締まる。
「うん、そうだよ!今回は調子いいし、いい感じでレースに臨めると思ってるの」
「三度目の正直、という言葉があります。ファル子の才能は本物です。もしGⅠを一つも勝てずにファル子が現役を終えるようなことになったら、それは私の責任です」
「トレーナーさん、レース前にそんなこと言わない!」
取りようによってはネガティブにも聞こえるトレーナーの言葉をたしなめたスマートファルコンだったが、同じトレーナーとして、その気持ちは痛いほどよく分かった。
「さて、フラッシュ。陣中見舞いもこの辺にしておこうか。今みたいなリラックスタイムも大切だけど、レースに向けて気を引き締める時間も必要だろうから」
「そうですね。そろそろ、おいとましましょうか」
備え付けの時計に目をやると、もうあと30分少々でパドックへ向かわなければいけない時間になっていた。
俺とフラッシュはお互い視線を交換して、ここを出る前にスマートファルコンとトレーナーさんへエールを送ることにした。
「それでは俺たちはこれで失礼しますね。二人にとって良い結果になることを、願っています」
「ファルコンさん。私はあなたの努力を、きっとトレーナーさんの次ぐらい近くで見てきました。ファルコンさんの努力は、きっと報われると信じています。ご武運を」
俺たちの声援に、彼女たちは笑顔で力強くうなずいてくれる。
そんな二人に会釈しながら、俺とフラッシュは控室から失礼した。
「……今日のファルコンさんなら、やってくれるかもしれませんね」
控室から少し離れると、誰もいない連絡通路でフラッシュはそんなことを言った。
「だな。なんというか、今までと少し雰囲気が違ったもんな」
トレーナーなんて仕事をしていると、自然と長い時間、ウマ娘を見続けることになる。
そうすると本番前の追い切りやパドックの様子を見るだけで、【今回はこの娘が一番強いな】ということがなんとなく分かってしまうのだ。
このことは当事者のウマ娘たちも同様で、『この娘、人気は今ひとつだけど今回は相当やりそうだ』『この娘は今日一番人気を背負ってるけど、走ってくる気配がないな』と、口には出さねどそれぞれに感じている。
もちろんレースは生き物、生モノであるので一番強い娘が100%勝つわけではない。
展開のアヤや本バ場に出てからのテンションの変化などで、惨敗してしまう可能性もないわけじゃない。
しかしそれを差し引いても今日のスマートファルコンは、まだまだペーペートレーナーの俺が見ても『きっとやってくれるだろう』と自信を持って言えるほど、いい雰囲気を発していた。
「ファルコンさんも、ファンやマスコミから色々と言われていますからね……。早く結果を出して、周囲を見返してほしいものです。彼女には絶対にそれができるだけの力があるのですから」
「そうだね」
ウマドルなんて目立つことをやっていると、とかく外野はいろいろと口を出してくるものだ。
それについてはスマートファルコンが実力あるウマ娘にしては、少しばかり【特殊なローテーション】を歩んでいる、ということが関係している。
彼女は芝からダートに転向後、中央での重賞レースより地方との交流レースを優先して走ってきた。
時には出走権のある中央のGⅠをスルーして、同じ時期に開催される地方のGⅡに出走するほどの徹底ぶりだった。
なぜそのようなローテーションを採用したのか。
本人たちに確かめたわけではないが、考えられる理由は2つある。
一つは、ウマドルとしての知名度を全国各地に広めるため。
今の時代ネットを使えば広報活動の手段に困りはしないだろうが、現地に赴き、勝利してライブを行うことほど名前を知ってもらうのに最良の手段はないだろう。
もう一つは……スマートファルコンが確実にGⅠ戦線で戦える力がついたと確信できるまで、慎重に出走レースを選んで経験を重ねている、ということ。
あくまで私見であるが、スマートファルコンは晩成型というほどでないにせよ、ピークが少し奥手のウマ娘のようである。
そんな娘が出走できる権利があるから、といってピークを迎える前にGⅠを戦うとなると消耗も激しくなるだろうし、もし惨敗でもしてしまったら精神的に打ちのめされて、心に立ち直れないほどの傷を負うかもしれない。
そんなリスクを背負うよりは全盛期を迎えるまでGⅡ、GⅢでじっくり力と経験を蓄えて、その時がくれば本格的にGⅠ路線へ臨む、というのがスマートファルコン陣営の考え方なのだと思う。
少し露悪的な言い方をするのなら【負けるかもしれないレースを避けて、確実に勝てそうなレースを選んで走っている】ということにもなる。
このような地方重賞中心のローテーションは、ファンやマスコミの間で物議を醸しだした。
【ドサ回りも結構だけど、トレセン学園に所属するエリートウマ娘としてそれはどうなの?】
【GⅠでも人気を背負って好走できる力があるのに、出走しないというのはファンに対する裏切りだ】
【中央のウマ娘が出られるGⅠをわざわざ回避して地方のGⅡに出るのは、一種の弱い者イジメではないのか】
そう言いたくなるマスコミやファンの気持ちはわからないでもないし、その批判はスマートファルコンに対する期待の裏返しと取ることもできる。
しかし彼女たちはルール違反をしているわけではないし、確固たる実力と自信をつけてから大舞台へ挑みたいという陣営の考え方は、否定されるべきではないはずだ。
「JBCには他にスプリント・レディースっていうレースがあるけど、今回はその中でも一番レベルの高いクラシックを選んで出走してきたんだ。きっと、彼女たちの中で掴んだものがあったんだと思うよ」
俺の見解に、フラッシュも同意を示してくれる。
「実は私もそう思っていたんです。ファルコンさんとは同じ部屋で寝起きをともにしていますが、ふとした動作や仕草からでも近頃の充実ぶりを感じていましたから。ひょっとしたら今日私たちは、一つの時代の幕開けを目にすることになるかもしれませんね」
*
あまりの光景に、俺たちは言葉を失ってしまった。
「これが今のファルコンさんの実力ですか……」
ようやく絞り出した声で小さく囁いたフラッシュは、つぶらな瞳を更に大きくしてスタンドに手を振りながらウイニングランを披露しているスマートファルコンを見据えている。
優勝したスマートファルコンは、船橋レース場を照らすナイター照明をまるで舞台のスポットライトのように浴びて、キラキラと輝いていた。
4番人気の支持に留まったスマートファルコンはスタートから果敢に先手を主張し、競りかけてくる娘を押さえつけるようにハナを奪い取った。
最高峰の舞台に集った砂の猛者12人を引き連れて、彼女は堂々と先頭を往く。
第四コーナーを回ったときには、後続とすでに3バ身の差がついていた。
そして最後の直線。
後続は必死にスマートファルコンを追いかけるが、まるで縮まる気配がない。
今日60%近い支持を集めて圧倒的一番人気に推されていたダート現役最強ウマ娘フリオーソも、まったくスマートファルコンに追いつけない。
むしろスマートファルコンとフリオーソの差はみるみるうちに開いていき、結果2着でゴールしたフリオーソを6バ身以上後ろに置き去りする、スマートファルコンの圧勝だった。
ウイニングランを終えたスマートファルコンを、バ場連絡口の出入り口でトレーナーが出迎えた。
どちらからでもなく二人は抱き合い、両者とも歓喜の涙を流している。
【ウマドル】なんて派手な看板を掲げていても、レースで勝てないウマ娘なんて誰も見向きもしてくれない。
適性がなかった花形の芝レースを捨て、勝利するためにダートを自分の戦いの舞台に選んだスマートファルコンは、そのことをきっと誰よりも理解していたはずである。
そんな彼女は今日、ダートの現役最強ウマ娘・フリオーソをまったく相手にせず、ダート界最高峰レースの一つであるGⅠ・JBCクラシックを勝利した。
GⅠウマ娘・スマートファルコンは今夜、本当の意味で【ウマドル】になったのかもしれない。
「帰りましょう、トレーナーさん」
「えっ、ウイニングライブは見ていかないのか?きっと、すごいライブになるよ」
【ウマドル】スマートファルコンは今夜初めて、GⅠのウイニングライブでセンターを務める。
会場も盛り上がるだろうし、きっと今までで最高のパフォーマンスを披露してくれるに違いない。
そのために彼女は厳しいトレーニングを合間を縫って、他の娘の何倍も歌やダンスの練習に時間を費やしてきたことだろう。
それなのになぜ、フラッシュは親友の晴れ舞台を見届けてやらないのだろうか。
「ファルコンさんの最高のパフォーマンスは、今日のレースで見せていただきましたから。それにこれから何度でも、ファルコンさんがセンターを務めるGⅠのウイニングライブを見る機会はあるはずです」
芝を主戦場にしているフラッシュとダートを走っているスマートファルコンは、戦っているフィールドが違う。
つまり、二人が同じレースで火花を散らすことは基本的にないわけだ。
そうであるにもかかわらず、フラッシュの語気はまるで次のレースで対戦する相手に強さを見せつけられたかのような、気合の入ったものだった。
いや、実際スマートファルコンの空恐ろしい実力を目の当たりにして、フラッシュのウマ娘としての本能に火が入ったのかもしれない。
「学園に戻って、走り込みです。トレーナーさん、ご指導よろしくお願いします」
ウマ娘のオーバーワークを戒めるのがトレーナーの仕事だとしたら、担当の熱意を許容できる範囲で支えるのもまた、トレーナーの仕事なのである。
「分かった。でも明日に差し支えないよう、少しだけだよ」
俺のゴーサインに、フラッシュはこくり、とうなずいてくれる。
帰りの電車の中、俺はスマホで夜間練習場使用届とフラッシュの夜間外出時間延長届を提出しておくことにした。
*
しかし、フラッシュのそんな熱意が報われることはなかった。
秋シニア三冠の二戦目、ジャパンカップへの挑戦は8着という惨敗に終わる。
わずか1年半前。
同じレース場、同じ距離で最高の栄誉を掴んだ俺たちにとって、このことは言葉で言い尽くせないほどの無念さがあった。
続く有マ記念。
フラッシュは今年の二冠ウマ娘ゴールドシップ、フラッシュの同期、ルーラーシップに続く3番人気に推されたが、またもや7着に終わってしまう。
勝ったのはいつぞやの並走の時に、フラッシュに向かって『いつかレースできちっと差し切ってやるからな!』という捨てゼリフを吐いて去っていったゴールドシップだった。
ゴールドシップは無尽蔵とも思えるスタミナに物を言わせ、タフな冬枯れの中山レース場を荒々しく走り抜けて優勝をかっさらっていった。
『真面目にトレーニングして、真剣にレースを走ればゴールドシップは誰にも負ける気がしない』と言っていたトレーナーの言葉は、決して大げさではなかったわけだ。
結果はともかく、フラッシュは今日もがんばってくれた。
この成果の出ない苦しい中、トレーニングも手を抜かずに取り組んでくれている。
逆境の時に努力を続けることがどれだけ厳しいことなのか、なにかに真剣に取り組んだことのある人間ならば、誰だって理解できると思う。
逆境の時こそ明るく振る舞って、少しでもフラッシュを元気づけてやらなければ。
俺以上に今日の敗戦に打ちひしがれているであろうフラッシュを出迎えるために、連絡口から外へ出た直後だった。
「フラッシュ!お前のその見栄えのいいバ体とでかいおっぱいは飾りかよ!」
そんなヤジが、スタンドから飛んでくる。
大学生ぐらいの若い野郎が殺伐とした雰囲気を発しながらこちらを睨んでいる視線から、それをほざいたのがそいつだということは、すぐに分かった。
「!今つまんねえこと言ったのはお前だな!ちょっとこっち来い!!」
怒りに任せて声を張り上げ、スタンドへ向かって走り出そうとする俺を、本バ場からこちらへ歩いてきていたフラッシュが静かに袖を引いて制止する。
「トレーナーさん。いきましょう」
「でもな……」
「いいんです。いきましょう」
それだけ言うと、フラッシュは再び連絡口に向かって歩き始めた。
侮辱された本人がそういうのなら、仕方あるまい。
俺はそのセクハラ野郎を、思い切り睨みつけてからフラッシュの後を追った。
視線で人が殺せたのなら、きっとそいつは頭に穴を開けて卒倒していたことだろう。
*
惨敗した有マ記念の翌々日(レースの次の日のトレーニングはお休みである)も、フラッシュはいつもどおり、一秒の狂いもなく定時にトレーニング場へ来てくれた。
「トレーナーさん。今日もよろしくお願いします」
「……ああ」
笑顔で挨拶してくれるフラッシュは、いつもとなにも変わらない。
GⅠという大舞台で普段仲の良い後輩の後塵を拝したことに、それにあのセクハラ野郎のヤジに、何も感じていないわけではないだろうに。
そして今日もいつもどおり、俺の指示に従ってきちんとトレーニングを消化してくれる。
もちろんすべてのトレーニングメニューは寸分の狂いもなく、予定の時間通りに進んでいく。
なぁ、フラッシュ。
辛いときぐらい、落ち込んでみせていいんだよ。
しんどいときぐらい、練習をサボってもいいんだよ。
やりきれないときくらい、好きなものを好きなだけドカ食いしたっていいんだよ。
結果が出ず、辛くても、しんどくても、悔しくても淡々とすべきトレーニングし、徹底した自己管理を己に課しているフラッシュは、言葉を選ばずに言っていいのなら、どこか哀れにさえ思えた。
*
有マ記念が終わり、今年のURAのレースプログラムはすべて終了した。
今年ももう、今日を含めてあと3日を残すのみだ。
祖父の死という悲しい出来事があったとはいえ、シニア級1年目というウマ娘の実力がもっとも充実している時期に、結局フラッシュは一勝もできなかった。
去年のダービー以降、フラッシュはもう1年以上勝ち星から遠ざかっている。
トレーニングの調子は悪くない。
毎日熱心に取り組み、フラッシュは時にその日の一番時計を記録することもあった。
体調も、ほぼ完璧に近い状態を維持してくれていている。
あのセクハラ野郎みたく、心無いレースウオッチャーは(そんな連中をレースファンとは呼ぶまい)レース場やSNSでフラッシュのことを『バ体だけ見れば現役一』『マジでパドックでの見栄えだけはどのウマ娘より良く見える。だから今回はやってくれるんじゃないか、って騙されてしまう』など好き勝手なことを言いやがる。
マスコミはマスコミで、『見た目は立派だが、すでにエイシンフラッシュはピークアウトしているのでは?』『惨敗続きで、あのレベルの高いダービーを勝ったウマ娘とは思えない』などと紙媒体、ネット記事問わず憶測で勝手なことを書き散らしていた。
フラッシュは結果の伴わない中、やるべきトレーニングを投げ出さずにがんばっている。
自棄になって過食に走るようなこともなく、厳密なカロリー制限を自らに課して、バランスよく食事を摂っている。
だからこそフラッシュは泥沼のような不調の中でも、あれだけの肌や髪の美しさ、体幹のバランスの良さを維持できているのだ。
スランプ中のウマ娘の中には、勝てないフラストレーションを紛らわすために過食に走ってしまったり、無断で夜遅くまで街で遊び歩いて体調を崩してしまったりして、さらなる長期のスランプに陥るという負のスライパルにハマり込んでしまう娘も少なくない。
そういう娘たちは毛艶が悪くなり、肌の艶も筋肉のハリもなくなってせっかくのウマ娘らしい端整なビジュアルが本来あるべき姿でなくなってしまう。
フラッシュのグッドルッキングは、いわば努力の証なのである。
フラッシュは精一杯、がんばってくれている。
俺も俺で、やるべきことはすべてやっているつもりだ。
一体、何がスランプの原因なのか。
もう、俺にはわからなかった。
「ちくしょう……」
俺はトレーナー室の横開きの扉に手をかけてそれを乱暴に開けると、真っ暗な部屋に千鳥足で踏み込んだ。
なぜそんなおぼつかない足元になっているかといえば、ベロベロに酔っ払っているからである。
担当のスランプの原因もわからず、見ているだけで好きなことを言うマスコミにもレースウオッチャーにもなんにも言い返せないトレーナーができることといえば、酒を飲んで酔っ払うことぐらいのものだ。
照明をつけるのも暖房を入れるのも億劫だった俺は、とりあえず椅子に腰掛けた。
フラッシュを担当してから与えられたこの部屋はもう3年近く毎日出入りしている、自室の一つみたいなものである。
ぐだぐだに酔っ払っていても、明かりをつけなくても、どこに何があるかぐらいは体が覚えていた。
「一体、何が悪いんだよ……」
今夜アホほど酒を飲んだのは、嫌なことを忘れるためだったはずだ。
それなのにどんなに酒を流し込んでも、レースで結果が出せないことと、そんな中でも健気に頑張るフラッシュのことは、記憶から消え去ってくれなかった。
酒がかなり入っているはずなのに、部屋の中がひどく寒く感じる。
それに、眠い。
とにかく、眠い。
このまま寝てしまえば風邪を引いてしまうか、最悪そのまま目が覚めないということもあるかもしれないが、今の俺はなんだかそれがとても魅力的なことにように思えた。
少なくとも、寝ている間はレースのことも担当のことも、考えなくていい。
勝手に夢にまで出てくる分は、知らん。
眠ろう……。
そう思って目を閉じると同時に、まぶたの上から強烈な光を感じた。
「……?」
頭だけでなく、とうとう目にまで酒が回っておかしくなったのか、と思って慌ててまぶたを開けると、光は天井の照明が原因だということは分かった。
なんだ?
最近の照明は酔っ払って眠ろうとするやつがいると、明かりをつけて邪魔する機能でもついているのか?
まさか、そんなことはなかった。
「大丈夫ですか、トレーナーさん」
聞き慣れた声が、そして今一番聞きたくなかったであろう声が、俺の鼓膜を打った。
「フラッシュ……?」
「はい。……ずいぶんとお酒を飲まれているようですが、大丈夫ですか?」
女子高生らしい、かわいらしいパーカーを着込んだフラッシュは再びそう尋ねると、机の上にペットボトルの水を置いてくれた。
「ああ、大丈夫だ……でもなんでフラッシュがここに……」
「大井レース場から帰ってくる途中だったファルコンさんが、トレーナー棟に向かうトレーナーさんを見掛けたと教えてくださって。かなりお酒で酔ってそうだったから、見てきてあげたら?と言ってくださったんです」
「そうか……」
なんというか、タイミングが悪かったな。
しかし、スマートファルコンか……。
「今日の東京大賞典。スマートファルコン、強かったな」
「そうですね」
「あんなタイムで逃げ切られたんじゃ、フリオーソもベテランのワンダーアキュートもどうしようもなかっただろうな……」
「2分0秒4という、今年の皐月賞と同じタイムでの逃げ切りですからね。しばらくダート界は、ファルコンさんを中心に回っていくと思います」
「だろうなぁ……」
俺は今日のスマートファルコンのレースを、一人居酒屋でスマホで見ていた。
俺も長いこといろんなレースを見てきたが、あれだけの強さでダートの2000Mを駆け抜けたウマ娘を見たのは初めてだった。
仕事がうまくいかなくて自棄酒を飲んでいるときぐらい、ウマ娘のレースなんて見なければよいのだが、トレーナーというのはこういう人種なのである。
「ウマドルをやりたいというスマートファルコンの夢を叶えながら、ウマ娘としての才能もちゃんと開花させてやったトレーナーも大したもんだ。フラッシュもああいうトレーナーが担当だったなら、今のような苦労はせずにすんだだろうに。すまんな、頼りない浅学非才のトレーナーで……」
俺の自虐に、フラッシュはなんともいえない難しい苦笑いを浮かべた。
「そんなことありませんよ。私のためにトレーナーさんがどれだけ骨を折ってくださっているか、私は理解しているつもりです」
「フラッシュ……」
そう言ってフラッシュは、その眉目秀麗な顔に柔らかい微笑を浮かべてくれた。
そうだよな。
俺はフラッシュのために、寝ている以外の時間のほとんどを費やしている。
俺の意識のほとんどは、フラッシュのことで占められていると言っていい。
俺は無意識の内に、酔っ払いにしては機敏な動作で椅子から立ち上がっていた。
「フラッシュ……!」
「! トレーナー、さん?」
俺はその勢いのまま、フラッシュを思い切り抱きしめる。
そうだよ。
俺はこんなにも、フラッシュのことを想っている。
フラッシュも、こんな俺を信頼してくれているに決まっている。
それならこのままここでフラッシュを押し倒しても、彼女は受け入れてくれるんじゃないか。
だって俺はこんなにも彼女のことを想っているわけだし、尽くしてきたのだから。
フラッシュを抱きしめた全身から彼女の体温と、女性らしい起伏に富んだ肢体の柔らかさが伝わってきた。
風呂上がりなのだろう、髪から漂うシャンプーの甘い香りが、俺の鼻腔をくすぐってくる。
それが俺の男性自身を、痛いほど刺激する。
が、その生々しさが、俺を現実に引き戻させた。
「ご、ごめん……」
……担当のウマ娘に、なんてことをしてしまったんだ俺は……。
激しい罪悪感を覚えながら、俺は腕をほどいてフラッシュから距離を取るとそのまま出入り口に足を向ける。
「……すまなかった。酔っていたとはいえ、許されないことをしたな」
俺はとりあえず、おぼつかない足取りでトレーナー室から逃げるように退出した。
まったく……。
アイの時といい、酒が入っている時に女性が近くにいると、俺は本当にロクなことをしないな……。
いや、酒のせいじゃない。
俺は結局、自分の欲望をコントロールすることもできないロクデナシの男だというだけだ。
俺は、俺を信頼してくれていた担当のウマ娘を、最悪の形で裏切ってしまった。
裏切ったのは、フラッシュのことだけではない。
俺を信じて大事な一人娘を預けてくださったご両親の信頼も、裏切ったことになる。
トレセン学園で絶対にしてはいけない禁忌を犯した俺は、もうここに居続けることはできない。
俺は禁断の果実を口にして楽園から追い出されたアダムのごとく、大きな後悔を抱いてトレセン学園をあとにした。
*
「なんですか、これは?」
俺が差し出した書類を見て、フラッシュは怪訝な表情を浮かべる。
今俺たちは、学園から二駅ほど離れた駅前の喫茶店の店内で向き合っていた。
『話があるから、9時ぐらいに◯◯駅近くのある喫茶店に来てくれ』
昨夜はとりあえず◯◯駅近くのビジネスホテルで夜をしのいだ俺は、目を覚ましてすぐフラッシュのLANEにそんなメッセージを送った。
これが、俺からフラッシュに送る最後のメッセージになるだろう。
はたしてフラッシュはいつもどおり、1分の遅刻も早着もすることなく待ち合わせの喫茶店に来てくれた。
「おはようございます」
フラッシュは俺を見つけるとまるで何事もなかったかのように挨拶して、注文を取りに来てくれた店員さんにホットコーヒーを注文する。
そのコーヒーが届く前に、俺は一枚の書類をフラッシュの前に差し出した、というわけである。
「見ての通り、契約解除の書類だ」
俺は担当ウマ娘に対して、絶対にやってはいけないことをやってしまった。
そのけじめだけは、きちんとつけなければならない。
「……?確かURAの規則で、トレーナーからの一方的な契約破棄は禁じられているはずですよね」
「それはそうだが、昨夜俺は君に対して、許されないことをしてしまった。その責任は取らないといけない」
「……おかしなことをおっしゃいますね。担当ウマ娘に酔っているところを見られるのが、そんなにいけないことなのですか?」
覚悟を決めて契約破棄を提案する俺に、フラッシュは首を傾げる。
……フラッシュはきっと、昨夜のことをなかったことにしてくれようとしているのだろう。
俺との契約を破棄するとなれば、また新しいトレーナーを探し直して契約を結び直さないといけなくなる。
そうでなくても自分の調子が上がらなくてしんどい時期に、そんな負担の大きいことはできれば避けたい、という気持ちはよく分かる。
だが、これだけ重大な事項をうっちゃるわけにもいくまい。
それにフラッシュはいくら今は不調とはいえ、昨年のダービーウマ娘なのである。
いくらでも『ぜひあなたを担当したい!』というトレーナーはいるに違いない。
「君が精神的に厳しい時に、新しいトレーナー探しという負担を押し付けてしまうことは本当に申し訳ないと思う。しかし俺は君に対して本当に許されないことをしてしまったんだ。あんなマネをしておいて、ウマ娘のトレーナーを続けることはできない」
「……トレーナーさんはなにか思い違いというか、酔っていて記憶が混濁しているのではありませんか?私は昨夜、酔っているトレーナーさんにお水を渡しして、すぐに寮へ戻りましたよ。お会いしていたのは数十秒、といったところじゃないでしょうか。その数十秒で、一体何があったというのです」
「フラッシュ。そうやって俺をかばってくれる気持ちはありがたいんだが……」
「だいたい、先ほどから許されないことをした、とかあんなマネをしておいて、とおっしゃっていますが、トレーナーさんはいったい私になにをしたというのです?」
「それは……」
俺はフラッシュの質問の意図が、わからなかった。
普通に考えるなら、加害者である俺にしっかりと罪を思い出させて反省させたい、ということなのだろう。
でもフラッシュがそういうことをしないタイプだということは、長い付き合いで分かっている。
分からないなら分からないなりに、正直に言うのが誠実というものだろうか。
「俺は……君にいきなり抱きついて……」
「ふむ」
なにやらうなずいて、フラッシュはあごに右手を当てた。
「本当にそんなことをされたのなら、きっと思い切りトレーナーさんを突き飛ばしていることでしょう。そうなるとトレーナーさんが無事でいるはずがありません。ウマ娘が本気を出せば、男性一人あしらうことぐらいなんてことないのですから」
「フラッシュ……」
昨夜フラッシュがそれをしなかったのは、いきなりの俺の暴挙に驚いて体が動かなかっただけのことだろう。
でもフラッシュは一度だけ、俺を信用して許してくれることにしたようだ。
まともな大人の男なら、この恩赦を受け入れるようなことはしないのだと思う。
本来ならここは断固として、トレーナーを辞任すべきだ。
ここで年下の女の子の情にすがる、というのはあまりにも恥ずかしいことである。
でも俺はその恥をかなぐり捨てて、フラッシュのためにもう一度がんばろうと決意した。
「ありがとう。そして、本当にすまなかった。今回の失態を取り戻せるよう、精一杯君のために力を尽くすよ」
「トレーナーさんが私のためにいつも精一杯してくださっていることを、私は理解しているつもりですよ」
昨夜言ったことを、フラッシュはもう一度口にしてくれる。
「残念ながら今年は思わしい結果が出せませんでしたが……来年は、来年こそはダービーウマ娘にふさわしい成績を収めたいものです」
「そうだな。来年の今頃は『去年のこの時期は、本当にしんどかったね』と言って笑い合えるような、いい一年にしよう」
「そうですね。それならもう、この紙切れは必要ありませんね?」
「ああ」
俺の返事を聞くと、フラッシュはそれを手に取ってビリビリに破ってしまう。
そしてその紙片をテーブルに備え付けてあった紙ナプキンに包んで丸めてしまった。
「これはあとでお店のゴミ箱に捨ててしまいましょう。トレーナーさん。コーヒーを飲み終わったら、学園に戻って今年最後のトレーニングです。今がどんなに厳しい状況でも、私にできることはそれだけなのですから」
「そうだな」
現実問題として、俺たちがスランプに対してできることは限られている。
来年へ向けて良いスタートが切れるよう、俺ができることは今のフラッシュの状態に合わせて最善のトレーニングを組み立てることだけだった。