担当ウマ娘に、恋をした。   作:宮川 宗介

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第十六話

駆けつけた俺が目の当たりにしたのは、大量の脂汗を流し、声も出せずに右の膝を抱え込むフラッシュの姿だった。

 

「フラッシュ、フラッシュ!どうした、膝をやったのか!?頼む、返事してくれ!!」

 

砂にまみれて悶え苦しむフラッシュをすぐに抱き起こしてやりたかったが、動かしていい状態なのか、判断がつかない。

 

と、とりあえず担架を……。

 

「落ち着け、若造!」

 

慌てて駆け出そうとする俺に、そんな声が背後から飛んできた。

声の迫力に驚いて後ろを振り返ると、ダービー直前にダル絡みしてきた、あの年配のトレーナーが厳しい形相でこちらを睨んでいる。

 

「どけ」

 

そう言って彼は、フラッシュの顔の近くに座り込んだ。

 

「お前は、この娘の手を握ってやっててくれ。そっちのネーチャンは救急車を」

 

自分の服が汚れるのにも構わずダートに座り込んだ彼は、テキパキとあたりに指示を飛ばす。

 

その指示を受けたスマートファルコンのトレーナーは、承知したとばかりにうなずき、スマホを片手に正門前へと走っていってくれた。

 

一通り指示を終えたであろう彼は、再びフラッシュの方へ顔を向ける。

 

「エイシンフラッシュ、俺が視認できるか?」

 

その質問に、フラッシュは首を小刻みに縦に振る。

よかった、とりあえず意識はあるようだ。

 

「痛いところはどこか、自分で説明できるか?」

「右……脚……のスネから……下が……」

「膝じゃなくて、スネから下なんだな?」

 

彼の言葉に、フラッシュはまた小さく首肯する。

そんなフラッシュを見て、俺はようやく、事の重大さを理解した。

フラッシュは、自分で患部に触れることができないほどの激痛を感じていたのだ。

 

そして彼が、痛がるフラッシュに話しかけ続けている理由もわかった。

患部の確認ももちろんあるだろうが、話しかけることで少しでも痛みから注意を逸らそうとしているのだ。

 

「お前の手を握っているのは、誰か分かるか?」

「トレー、ナーさん……で……すよね……?」

「そうだ。お前のトレーナーだ」

 

彼がそう言うと、フラッシュは……どこか安心したようにうっすらと微笑み、少しばかり力を入れて、俺の手を握り返してくれる。

フラッシュの弱々しい手の感触に、不覚にも涙が零れそうになった。

 

「エイシンフラッシュ、心配するな。すぐに救急車が来て病院に連れて行ってくれる。必ず、よくなるからな」

 

彼はそう言って、フラッシュを力強く励ました。

これが、経験の違いというやつだろうか。

 

そうしているうちに担架を持った救急隊員の人たちが来てくれて、プロの手際でフラッシュを担架に乗せて持ち上げると、救急車を止めているのであろう正門の方向へ、息を合わせて走り出していく。

 

「おい、若造。あの娘はドイツからの留学生で、ご両親と離れて寮暮らしなんだろう?今、あの娘のそばにいて守ってやれるのは、お前さんだけだ。早くついて行ってやれ」

 

シロウトがついて行って良いものか迷っている俺に、彼はあの時と同じように力いっぱい肩を叩いてきた。

 

「わかりました。……その、ありがとうございました」

「何もお前のためにやったんじゃない。ウマ娘のために、俺はトレーナーとして当たり前のことをしただけだ」

 

憎まれ口を叩く大先輩に俺はもう一度深く頭を下げ、急いで救急隊員たちの後を追った。

 

*

 

病院に搬送されたフラッシュはまずレントゲンを撮られ、それからすぐに手術室へと運び込まれた。

 

右足首関節複雑骨折。

 

それがフラッシュに下された診断だった。

 

「……エイシンフラッシュさんは、今シニアのニ年目でしたね?」

 

深刻な表情で、医師が確認を取ってくる。

 

「はい」

「エイシンフラッシュさんはダービーを勝利され、ここまで走り抜いた名ウマ娘です。……もう現役生活をまっとうされた、と言ってもいいのではないでしょうか」

「!!それは……」

「彼女の脚は日常生活に支障のないくらいには、回復すると思います。ただ、怪我を治療して現役を続けたいというのなら、いつターフに戻れるかはお約束できません。最悪、何年も復帰を目指してリハビリに励んでも無駄に終わるということもありえます。というより、その可能性が極めて高い。私は医師として、現役を引退されることを強く勧めます。そのことを、本人やご家族ともよく話し合ってください」

 

医師の【告知】に、俺はすぐに返事できなかった。

沸いてきたのは、冷静に現状を説明してくれている医師に対する、怒りにも似た感情だった。

 

ちょっと待てよ。

そんなことが、あっていいのか。

あまりに、理不尽じゃないか。

フラッシュは、これからのウマ娘なんだ。

ようやく不調から脱して、これからGⅠを戦い、勝利する可能性のあるウマ娘なんだ。

 

ただ、それを彼女にぶつけるほど、俺も冷静さを失っていたわけではなかった。

 

「……わかりました。彼女の家族も含めてよく話し合ってみます」

 

俺は平坦な声で返事し、診察室を辞した。

 

午前診と夕診の間という時間のせいか、病院の中は閑散としている。

薄暗い待合室のイスに座り込み、俺は頭を抱えこんだ。

 

「どうしてこんなことになったんだ……」

 

俺の頭の中に、その原因が駆け巡る。

 

海外遠征に出かけたのが、負担になってこんなことになってしまったのではないか。

いや、あのバレンタインのときの芝のトレーニングがよくなかったのではないか。

 

……そもそも、俺がフラッシュの担当したこと自体が、失敗だったのではないのだろうか。

 

後悔の念と自責の念で俺の脳内は塗りつぶされ、それ以外の思考の余地が消えてゆく。

 

突然フラッシュを襲ったアクシデントに、俺のできることと言えば後悔することと、自分を責めることぐらいだった。

 

フラッシュのご両親には、すでに連絡を入れてある。

電話に出たのはお母様で、すぐに父親と日本へ向かうとのお返事を頂いていた。

 

と言ってもドイツから日本までは飛行時間だけでも13・4時間はかかるから、ご両親がこちらへ着くのは早くとも明日の午前中ぐらいだろう。

 

あと、今の俺にできることと言えば……。

 

なさけないことに、あと俺ができそうなことと言えば、手術室の前でフラッシュの手術の成功を祈ることぐらいだった。

 

俺がそうしたからといって手術の成功率が上がるわけでもないだろうが……俺は手術室の前に足を運ぶよりなかった。

 

*

 

フラッシュが手術室から出てきたのは、午後9時を回ったぐらいだった。

手術を執刀してくれた医師の話によると、手術自体は無事に成功したらしい。

 

ただ、どこまで脚の機能が戻るのかはわからない、とのことだった。

 

そのまま病室へ運び込まれたフラッシュにはまだ麻酔が効いているらしく、長いまつげに縁取られた瞳は閉じられたままだった。

 

「目が覚めたら、声をかけてあげてください」

 

付き添ってくれた看護師さんがそう言って、病室から退室する。

 

「……フラッシュ」

 

俺は看護師さんが用意してくれたパイプ椅子に座ることもせず、ただじっと彼女の端正な顔を見つめ、これからのことを考えた。

 

現実的に考えるなら、彼女を引退させるのが最善なのだろう。

 

これだけの怪我を負ったシニア2年目のウマ娘を、レースへ復帰させるのはどう考えても現実的ではない。

 

フラッシュは重賞を勝ってくれた。

全トレーナーの夢である日本ダービーも、勝ってくれた。

 

普通のトレーナーが一生を掛けても叶えられないような夢を、全部見せてくれたのだ。

 

もう、十分じゃないか。

エイシンフラッシュは、もう十分にがんばってくれた。

 

GⅠを勝ったフラッシュは引退後も特別奨学金の対象者になるため、これからもほぼ無料のような学費でトレセン学園に通い続けることができる。

 

卒業後はもしフラッシュが日本の大学への進学を考えているのなら、私立の大学であればトレセン学園からの推薦状1枚でどこへでも進学できる。

 

それがGⅠウマ娘の待遇なのだ。

 

レースから身を引いても、彼女はきっと幸せになれる。

それに、あれだけのグッドルッキングウマ娘だ。

 

きっと、男子からもモテるに違いない。

 

普通に勉強して、普通に進学して、普通に恋愛して……。

普通に就職してもいいだろうし、ご両親と同じ菓子職人になるという夢を追うのもいいだろう。

 

今までがんばってきたフラッシュには、そんな普通の女の子としての幸せがあっていい。

 

彼女のトレーナーとして、引退を勧告しよう。

それがフラッシュの幸せなんだ。

 

……フラッシュの幸せの中に、俺が存在しなければならない理由など、ひとつもない。

 

そう決意したと同時に、フラッシュが目を覚ました。

 

「フラッシュ!」

「……トレーナーさん……?」

「うん。手術は無事に成功したよ。気分の方は……」

 

麻酔明けの気持ち悪さなどがないか確認しようとすると、フラッシュが俺の方へ弱々しく手を伸ばした。

 

「フラッシュ、どうした?」

「痛いんです。脚がすごく、痛いんです……トレーナーさん、助けて……」

 

俺の手を握り、フラッシュがそう言ってボロボロと大粒の涙をこぼした。

 

エイシンフラッシュが、俺の前で弱音を吐いたのは、初めてのことだった。

あの凄惨ないじめにあったときも、毎日杯で戦わずして帰京したときも。

一生に一度の夢舞台である菊花賞を怪我で回避したときでさえ、フラッシュは決して俺の前では弱音を吐かなかったのに。

 

そんな強い娘が、涙を流しながら俺なんかに助けを求めている。

 

ウマ娘の脚の感覚は、常人の何倍も敏感だという。

患部に何かが触れただけで、全身に走り抜けるような激痛に見舞われるという。

 

そんな想像を絶する痛みに苦しんでいるフラッシュに、俺のしてやれることは手を握り返すぐらいのことだった。

 

「ちょっと待ってて。先生か看護師さん呼んでくるから」

「嫌です。いかないでください、トレーナーさん。お願いですから……」

 

俺の手をぎゅっと握りしめ、まるで公園でころんだ小さい子供が親にすがりつくように、フラッシュは俺の手を離そうとしなかった。

 

……フラッシュはウマ娘の命ともいえる脚に大怪我を負ったことで、不安になっているのだろう。

そんなフラッシュの手を、とても振りほどく気にはなれなかった。

 

「わかった。大丈夫。俺はどこにもいかないよ、フラッシュ」

 

そういって俺はフラッシュの手から片方だけを離して、ナースコールを押した。

 

*

 

ご両親からタクシーで病院へ到着したと連絡が入ったのは、次の日の午前11時を少し回った頃だった。

 

ドイツから日本へのフライト時間と時差を思えば、渡航費のことなど考えず最速の便を手配してご夫婦は日本へやってきたのだろう。

 

俺はフラッシュにご両親がここへ到着したことを告げて、お二人をタクシー乗り場まで迎えにあがった。

 

「……この度はこのようなことになってしまい、本当に申し訳ありません。今回のフラッシュの怪我は、すべて僕の監督不行き届きのせいです」

 

ご両親のお顔を拝見してすぐに、フラッシュに取り返しのつかない怪我をさせてしまったこと、そして俺を信じて愛娘を預けてくださった信頼に応えることができなかったことを謝罪した。

 

「レースを走る以上、このようなことは覚悟の上です。トレーナーさんが謝られるようなことではありませんよ」

 

お母様はそう言って俺を慰めてくれたが、それで俺の気持ちが晴れるわけもない。

お父様は何も言わず、険しい顔をして俺の方を見据えていらっしゃるだけだ。

 

「……あなた」

「いや。もちろん私も、フラッシュの怪我が彼のせいではないことは重々に承知している。ただ、少し気持ちの整理がつかないんだ。申し訳ない」

 

そういってお父様はひたいに手を当て、頭を振る。

お父様の俺に対する心情も、もっともなものだった。

 

「とりあえず、病院の中へ。医師から詳しい説明があると思いますが、まずはトレーナーとして、僕の方からもフラッシュの今の状態を説明させてください」

 

早くフラッシュと面会したいであろうお二人をそううながして、俺たちは病院の正面玄関から院内に入り、入院患者の関係者のための待合室へ足を運ぶ。

 

お二人が備え付けの簡易ソファーに着席されたのを確認してから、ご両親と向かい合う形で俺もソファーに腰掛けた。

 

「フラッシュの怪我は、幸い命に別状があるものではありませんが……競走能力という観点から見れば、非常に厳しい状況に置かれています」

 

そう前置きして、俺はできるだけわかりやすく、簡潔に今のフラッシュの状態を伝えた。

 

彼女は右足首に複雑骨折という重症を負っていること。

その怪我はダートでのトレーニング中に発症したこと。

 

脚の機能については、日常生活に支障ないぐらいまでは回復する見込みがあるということ。

 

そのことを口にすると、こころなしかお父様の表情が緩んだような気がした。

 

だが医師からは現役からの引退を強く推奨されていることをお話すると、彼の表情は再びもとの厳しいものへと戻ってしまう。

 

「そうですか……」

 

俺の説明を聞き終えたお母様は、難しい顔をして天井を仰いだ。

お父様の方は相変わらず険しい表情のまま、テーブルの一点をじっと凝視している。

 

「連絡を頂いたときから、そういったこともありえるだろうと、想定していました」

 

お母様はフラッシュによく似た蒼い瞳に強い意志を湛えて、俺にふたたび視線を向けた。

 

「飛行機の中で、夫とよく話し合いました。レースに関することは、あくまで当事者たちに決定権があるべきだ、というのが私たち夫婦の結論です。もし現役の進退に関わるような事態になったときは、トレーナーさんとフラッシュにその判断を委ねようと私たちは決めていました」

 

彼女たちは、決して判断を俺たちに丸投げしたわけではない。

フラッシュのご両親は自分の愛娘と、僭越ながら娘のトレーナーである俺を信じてくださることにしたのだろう。

 

「わかりました。フラッシュの進退については、二人でしっかり話し合いたいと思います。それでは、病室へ向かいましょう。幸い術後の経過は良好で、お二人とお話することはなんの問題もありませんから」

「……。そうですか、それを聞いて安心しました」

 

フラッシュが入院している病室へ案内するために俺が先に席を立つと、お父様はそう言ってようやく少しだけ表情を緩めてくださった。

 

*

 

『フラッシュ!』

 

とりもなおさずベッドへ駆け寄ったのは、お父様だった。

それから二人は、ドイツ語で言葉をかわし始めた。

 

瞳に涙をためながら真っ赤な顔をして娘を心配しているお父様を見ていると、胸の奥から猛烈な罪悪感がせり上がってくる。

 

「……僕は待合室の方にいますので、何かありましたら声をかけてください」

 

いたたまれなくなった俺は、逃げるように病室から出ていこうとする。

そんなときだった。

 

「トレーナーさん。どうかあまりご自身をお責めにならないようにお願いします。娘も、私も、そして夫も、トレーナーさんがどれだけ普段からウマ娘に……私たちの娘に情熱と愛情を注いでくださっているか、十分に理解しています。今回のことも私たちは決して、あなたを責めてなどいませんから」

 

お母様がそう言ってくださり……お父様も、フラッシュとの会話を中断してこちらの方を振り向き、わずかではあるものの、首を縦に振ってくださった。

 

そしてベッドに横たわっているフラッシュも、母の言葉に大きく首肯する。

 

「……恐縮です。それでは、いったん失礼します」

 

男が人前で泣くもんじゃない。

そうオヤジに怒鳴られたのは、いつだっただろうか。

別にそれを思い出したわけでもないのだが、俺は顔を伏せるように一家にお辞儀をして、病室から静かに退出した。

 

*

 

フラッシュのご両親は、その日のうちに日本を発った。

 

娘のことはもちろん心配ではあろうが、洋菓子職人であり、お店のオーナーでもあるご両親も長く店を閉めているわけにもいかない。

 

『どうか、娘をよろしくお願いします』

 

お二人はそう言い、俺にフラッシュを託して、たくさんのお客さんが待つドイツへと帰国なさった。

 

「今回のことでは、両親に余計な心配と多大な迷惑をかけてしまいましたね……」

 

ご両親の前では努めて明るく振る舞っていたフラッシュだったが、お二人を空港までお送りして病室へ戻ってきた俺に、彼女はやるせない表情でそうつぶやいた。

 

そんなことはないよ、と言ってやりたかったが、子育てどころか結婚もしていない俺がそれを言っても、まったく説得力を持たないだろう。

 

「フラッシュ。俺は子供を育てたこともないから、いい加減なことは言えないけどさ。ご両親は心配はなさっただろうけど、たぶん迷惑だ、なんて思ってないんじゃないかな」

「そうでしょうか……」

「もし俺に娘がいたとしてだな。その娘が怪我したとか、病気したとかで仕事を抜け出さざるを得なくなったとしても、心配こそすれ、きっと迷惑だなんて感じないと思うんだ」

「……」

 

俺は少しばかりフラッシュに気を回して暗に『君が親の立場だったら、どう思う?』と聞いたわけだが、その意図はしっかり伝わったようだった。

 

「そうかも、しれませんね」

「だろ?それに、本当に迷惑だと思っているんならドイツからわざわざその日のうちに、君のもとへ飛んできたりはしないと思う。君はしっかりご両親に愛されているし、迷惑だなんて思ってないに決まってるよ」

「そうですね。私はたしかに不肖の娘かもしれませんが、両親に愛されている自覚はあります」

 

そう言ってフラッシュは、柔らかく微笑んでくれた。

……このほほ笑みを絶やしてしまうような話を今からしなければならなかったのは、少しばかり、いや、かなり気が重たかった。

 

「ところでフラッシュ。大事な話がある」

「……私の、進退についてですよね?」

 

彼女も察していたのだろう。

ひょっとしたら、ご両親とも色々お話をしたのかもしれない。

 

「そうだ。ご両親と一緒に医師から話を聞いたと思うが、医師は現役からの引退を強く推奨している」

「そうですね。そのことは両親の前で、はっきりと伝えられました」

 

医師から引退勧告を受けたのにもかかわらず、フラッシュは恬淡としているようにみえる。

そんなフラッシュの口調から、今の彼女の感情を読み取ることは難しかった。

 

「言いにくいのだが、俺もトレーナーして医師の考えに同調している。シニア2年目の今からそれだけの大きな故障を治して現役復帰を目指すというのは、あまり現実的じゃない。君は今まで、本当によくやってくれた。君はGⅠを勝った。それも日本ダービーという最高の栄誉を手にした。もう十分じゃないか?」

 

俺は本心と現状を、包み隠さず伝えた。

フラッシュはそんな俺を感情を感じさせない無表情で、じっと見つめている。

俺も、そんなフラッシュから決して目をそらさなかった。

 

どのぐらいの時間が流れただろう。

 

彼女は首を小さく横に振りながら、ようやく口を開いてくれた。

 

「お医者様の言うことも、トレーナーさんの言うことも、よくわかります。ですが、もう少しだけ私に時間をいただけないでしょうか。今は色々と混乱してしまっているので……」

 

それがきっと、彼女の偽りのない今の気持ちなのだろう。

フラッシュの人生を左右する、重要な決断だ。

むやみに答えを急かすべきではない。

 

「わかった。時間をかけてもいい、よく考えてみてくれ。もしフラッシュが必要だと思うなら、人に相談するのもいいだろう。もちろん、俺もいつでも相談に乗るよ」

 

そういう俺に、フラッシュはうなずいてくれた。

気分転換になにか少し雑談でもしようか、と思っていると看護師さんがフラッシュの夕食を持ってきてくれた。

 

思った以上に、話し込んでしまったようだ。

 

俺はフラッシュに「そろそろ、俺も帰るよ。お大事に」とだけ伝え、そのまま病室からおいとますることにした。

 

*

 

ダービーウマ娘の故障の話は、あっという間にレース界に広まった。

話を聞きつけたマスコミがそれを記事にし、フラッシュの大怪我はファンも知るところとなった。

 

マスコミたちは、俺のところにも大挙して取材に訪れた。

彼らも仕事だから仕方ないと言えば仕方ないのだが、遠慮も呵責もなく『フラッシュさんの今回の怪我の原因は何だと思われますか?』『エイシンフラッシュさんはもうシニアの2年目ですよね?彼女の進退を、トレーナーさんはどうお考えでしょうか?』などのデリカシーのない質問をぶつけてくるのにはまいった。

 

俺としては『故障の原因は正直、不明です』『フラッシュの進退については、今のところお答えできることはありません』などと玉虫色の返事をして自分とフラッシュを守るよりなかった。

 

正直そんなマスコミ連中には辟易とさせられたが、ファンの人達の反応は温かいものだった。

 

広報部には毎日のようにフラッシュ宛の見舞い状が届き、彼女の回復を祈って、全国から何本もの千羽鶴が贈られてくる。

 

昨今何かと迷惑がられる千羽鶴であるが、状況を踏まえて贈ってくれる祈りの気持ちにはありがたいものがあった。

 

「こうして応援してくださっているファンの方々のためにも、早く怪我を治したいですね」

 

持ってきた見舞い状やトレーナー室で写した千羽鶴の写真などを、フラッシュは嬉しそうに手にとって眺めている。

 

千羽鶴はできることならここの病室に飾りたかったのだが、さすがに何束もある千羽鶴をすべてをここへ運び込むわけにもいかなかった。

 

「そうだな」

 

負ってしまった怪我を治したい、というのはアスリートに限らず誰もが感じることだ。

その言葉だけで彼女が現役を続けたいと思っている、と結論づけるのはさすがに早計だろう。

 

「私の怪我を心配してくださっているのは、ファンの方々だけはないようで……。ありがたいことに昨日はトレーニングを休んでまで、ファルコンさんがお見舞いに来てくれました。それに夜にはエアグルーヴさんと一緒に会長さんまでお見舞いに来てくださったんですよ」

「シンボリルドルフも?」

 

エアグルーヴとフラッシュは同好の士というか、二人はテントウムシを守ろうの会というものに所属しており(俺も一応、そのメンバーだったりする)、その縁もあって見舞いに来てくれたのだろう。

 

シンボリルドルフは生徒会副会長のエアグルーヴに付き添って来ただけだとは思うが、生徒会長がわざわざお見舞いに訪れるあたり、ダービーウマ娘というものの価値を今更ながらに感じられた。

 

「そうか。学園に戻ったらお礼を言っておかないとなぁ」

「他にもクラスメートや先生方からもお見舞いのお手紙やメールを頂いています。早く元気になって、皆さんに退院のご報告をしたいものですね」

「そうだね」

 

なんて話をしていると、こんこんと病室のノックが鳴った。

 

「はい」

「おう、フラッシュ。アタシだ。入っていいか?」

「ゴルシさん。ええ、どうぞ」

 

どうやら、友人のゴールドシップがお見舞いに来てくれたらしい。

ゴルシといえば扉を壊して入ってくるというイメージがあったので、わざわざノックをしたのが意外だった。

 

こうして色々な友人知人が見舞いに来てくれるというのは、フラッシュが単にダービーウマ娘というだけでなく、彼女の誠実な人柄が周りにも伝わっているからだろう。

 

フラッシュの許可を得ると、ゴールドシップは意外な人物を引き連れて病室に入ってきた。

 

「メジロマックイーン?」

「メジロマックイーンさん?」

 

思わず、俺とフラッシュの声がハモる。

 

「エイシンフラッシュさんに、そのトレーナーさんですわね?お初にお目にかかりますわ。メジロマックイーンと申します」

 

メジロのご令嬢であるメジロマックイーンは気品あふれるカーテシーでお辞儀をし、自己紹介をしてくれた。

 

名門・メジロ家の中にあって【メジロの至宝】とまで言われるメジロマックイーンの名前ぐらいはもちろん聞いたことがあったし、あちらもフラッシュの名前ぐらいは知っているだろうが、こうして彼女と顔を合わせるのは初めてのことだった。

 

「ご丁寧な挨拶、ありがとうございます。はじめまして、エイシンフラッシュです」

 

意外な見舞客に驚きながらも、フラッシュは笑顔で初対面の挨拶を返した。

 

「はじめまして。それにしても、よく来てくれたね」

 

俺もそんな挨拶をしながら、とりあえず二人にパイプ椅子を用意する。

 

「ええ。ゴールドシップさんに『フラッシュの見舞いに行くから、オマエもついてこい』と腕をひっぱられたものでして」

 

メジロマックイーンはパイプ椅子に上品に腰掛けながら、苦笑いを浮かべた。

ちなみになぜか、ゴルシは立ったままパイプ椅子に腰掛けようとしない。

 

ゴールドシップとメジロマックイーンのコンビは学園内でも有名で、話を聞いてる限りゴルシがマックイーンを引っ張り回しているという関係らしい。

 

そしてマックイーンも、ゴルシが運んでくるドタバタ劇場をなんだかんだで楽しんでいるようだ。

 

「ゴルシさんも、よく来てくださいました。ところで、なぜ椅子に座らないのです?」

 

俺はゴールドシップの行動にいちいちツッコんでも仕方ないと思って黙っていたのだが、それを見逃さないのが、エイシンフラッシュというウマ娘なのだ。

 

「ふっ。フラッシュ。窓際の椅子になんぞ座っていたら、そんなものスナイパーに『狙撃してくれ』と言ってるようなもんだ。壁を背にして窓の外に気を配る。基本中の基本だぜ」

 

なんだろう。

こいつは誰かに狙撃されるようなことを、普段からしているのだろうか。

まぁこれもゴルシ劇場の一幕なのだろう。

 

「それなら心配いりませんよ。ここの窓から見える限り、あまり有効な狙撃ポイントはありませんから。安心して座ってください」

「そうか。フラッシュがそう言うなら、安心だな」

 

そんなやりとりがあって、ようやくゴルシは椅子に腰掛けた。

 

……なんでフラッシュも、そんなことに詳しいんだよ。

で、なぜゴルシは狙撃について、そんなにもフラッシュのことを信頼しているんだ。

 

二人の妙な会話に、俺はふと昔読んだラノベに登場していたドイツ人の凄腕スナイパーを思い出していた。

 

メジロマックイーンの方を見ると、呆れたような顔をして二人の方を眺めている。

俺も心境的には、全くの同意だ。

 

……ただ、この妙な小芝居が病室の空気を和らげてくれたのも、また確かなことだった。

 

「でもよ、意外と元気そうで安心したぜ。オマエが怪我したときに周りにいた奴らの話聞いてたら、結構ヤバそうだった、みたいなことをみんな言ってたからな」

 

割と気楽にいうゴルシに、フラッシュも苦笑いをこらえきれないようだ。

 

「処置してくださった先生の腕が良かったのか、痛みはだいぶマシなんですよ。ただ、いつレースに復帰できるのか、まったくわからないというのが現状ですね……」

「そうか」

 

ゴルシはそれだけ言うと、腕を組んで黙りこくってしまった。

そして、なにか意味ありげな視線をなぜかメジロマックイーンに向ける。

 

「……わかりましたわ。エイシンフラッシュさん。実は今日、ゴールドシップさんに連れられてきたのは、お見舞いともう一つ、お話したいことがあったからなのです」

 

そのアイコンタクトを受けて、今までふたりのやりとりをちょっと困ったように見ていたメジロマックイーンが、神妙な表情でそう切り出した。

 

「お話したいこと、ですか?」

「はい。外部者で初対面の(わたくし)がこんなことまでお聞きするのはどうかと思うのですが……エイシンフラッシュさんのお怪我は、実のところ相当深刻なものなのではございませんか?」

「えっ?ええと……」

 

メジロマックイーンの突っ込んだ質問に正直に答えていいものか戸惑ったのだろう、フラッシュは困惑の視線を俺に向けてくる。

 

実は俺もほとんど初対面のようなものなのに、聞きにくいことをそこまで聞いてくるメジロマックイーンに当惑していたのが、マックイーンもメジロ家の娘。

そんなことを単刀直入に聞いてきたのには何か意図があるのだろうし、彼女もフラッシュを悪いようにはしないだろうと、メジロマックイーンを信頼して俺は首を縦に振った。

 

「……はい。実は今私を担当してくださっているお医者様からは、引退勧告を受けておりまして……」

「そうでしたの。それは大変失礼いたしました。ですがもし、治療方針で悩まれているのであれば、私もなにかお力添えができるかもしれないと思いまして」

「というと?」

「エイシンフラッシュさんは、日本ウマ娘総合外科医療センターという病院をご存じですか?」

「ええ。名前ぐらいは、聞いたことがあります」

 

俺もその病院名ぐらいは知っていた。

ウマ娘外科を専門とする医師の中でもトップクラスの名医が集結し、最新の治療機材を取り揃えている、世界的に見てもウマ娘の怪我の治療で最先端を行く病院である。

 

ウマ娘の治療に関する【病院力】は世界最高と言われていて、ここには日本のみならず、世界中から最後の望みを託して故障を抱えたウマ娘がやってくる。

 

ただそれだけの設備が整った病院で、名医に治療を受けられるとなると予約を取るのも大変だ。

まず初診の際、最低でもしかるべき組織の長の紹介状と、医師の紹介状の二通がいる。

つまり、どうしてもこの病院でないと治療できない故障や病気であると診断されたウマ娘でないと、診察を受けることができない仕組みになっているわけだ。

 

しかもよほどの緊急性がない限り、診察の予約だけでも早くて数ヶ月待ち、ひどい場合は1年待たされるということもザラだという。

 

ただ予約に関しては、相当な金額だとされる【予約料】を支払えば、待つ日数を短縮することができるとも聞いている。

他には【相応の影響力を持つ組織や人物の紹介状】がある場合も、優先して診察してもらえるらしい。

 

だからこの病院で早期のうちに診察・治療を受けられるのはウマ娘は、その娘の所属している組織がどうしても治療したいと考えている実績を持っていることに加え、かなりの額と噂されるその予約料を収められる娘か……あるいは、この病院に強いコネクションを持つウマ娘だけなのである。

 

こう聞くとなんだか金満主義的なひどい病院に思えてしまうが……これぐらいのルールがないと、本当に最先端の治療が必要なウマ娘に、十分な医療的リソースをあてられないという現実がある。

 

それと、診察を受ける前から心配しても仕方ないが、この病院の制度でもうひとつ気になることもあった。

 

「それでなんですが、エイシンフラッシュさんさえ良ければ、メジロ家からこの病院の先生への紹介状を書かせていただきたいと思っておりますの」

「! それは、願ってもないお話ですが……どうして私のために、メジロ家のご令嬢であるあなたがそこまで?」

 

思っても見ないメジロマックイーンからの申し出に、フラッシュも驚きの様子を隠しきれないようだ。

つぶらな瞳を大きく見開き、じっとメジロマックイーンの返事を待っている。

これだけ熱心にメジロマックイーンの話に耳を傾けているあたり、本音ではやはりフラッシュは現役を続行したかったのだろう。

 

俺だって本当は、フラッシュが再びターフを駆ける姿を見たかった。

 

「ダービーウマ娘の深刻な怪我の診察ともなれば理由としても十分ですし、エイシンフラッシュさんはたくさんのファンや、学園の皆様に愛されているということもございます。それに……」

「それに?」

「ゴールドシップさんに頭を下げられては、私としてもむげにできませんから」

 

メジロマックイーンはいたずらっぽく微笑むと、明後日の方を向いて口笛を吹いているゴールドシップの方を見る。

 

「余計なこというんじゃねーよ」

「いえいえ、大切なことですわ。私はあなたの親友を思う気持ちに動かされて、お祖母様に一筆書いていただくようお願いするつもりになったのですから」

「あー、もう。話はこれで終わりだな?じゃあマックちゃん、帰るぞ」

 

ゴールドシップはそう言ってメジロマックイーンの首元を掴むと、ひょいっといとも簡単に彼女を立ち上がらせた。

そしてそのまま、ずるずると病室の出入り口へ引っ張ってゆく。

 

「ちょ、ちょっと、ゴールドシップさん!?」

「というわけだ、フラッシュ。悪い話じゃねーだろうから、よかったら検討してみてくれ。それじゃ、お大事に。じゃ~な~」

 

メジロマックイーンを引きずりながら、ゴールドシップは手をひらひらと振って病室から出ていった。

 

「……なんとも、騒がしいお見舞いでしたね」

 

そう言って苦笑いしたフラッシュだったが、こみ上げる親友への感謝の気持ちと、現役続行への希望が見えた喜びを隠しきれない様子だ。

 

「そうだね。ゴールドシップらしいというかなんというか」

「このような形で【お見舞いの品】を持ってきてくださったのも、実にゴルシさんらしいと思います。トレーナーさん、それで……」

「わかってる」

 

俺はフラッシュの言葉を遮って、力強くうなずく。

 

「俺だって本当は、フラッシュに現役続行してほしいと思っていた。ただ、それが君の幸せになるのか、自信がなかったんだ。でも、フラッシュがターフへ戻ることを望んでくれるのなら、俺はいつもどおり精一杯君を支えるだけだよ」

「……あなたならきっと、そうおっしゃってくださると信じていました」

 

フラッシュは蒼い目の端に涙をためて、そう言ってくれた。

 

「私は、ターフへ戻りたい。たとえそれが、か細く厳しい道のりであってもです。トレーナーさん。私のわがままに……私のレース人生に、もうしばらく付き合ってくださいますか?」

「もちろん!」

 

俺はつい、ここが病院であることも忘れて大きな声で返事をしてしまった。

 

「ありがとうございます。……本当に、嬉しい。これから改めて、よろしくお願いします」

 

フラッシュが差し出してきた白い手を、俺はしっかりと握り返したのだった。

 

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