まるで森のように自然豊かで広い敷地に建てられたその病院は、清潔な白を基調にした格式高い建物だった。
広くて大きいだけでなく、パッと見、何階建てか分からないぐらい背も高い。
ずいぶん昔に【白い巨塔】という医療ドラマがあったらしいが、なるほど言い得て妙なタイトルだ。
その巨大な建造物の最上部には【日本ウマ娘外科総合医療センター】の大きな文字が掲げられていた。
「立派な病院ですね」
フラッシュのそんな声が、俺の前から聞こえてくる。
「そうだね。思ったより大きな病院でびっくりした」
俺はフラッシュを乗せた車椅子をゆっくり押しながら、その広い病院の構内に足を踏み入れた。
「ご両親にも、ここに転院することはお伝えしておいたよ。より良い治療を受けられるなら、ぜひそうしてあげてほしい、とのことだ」
「そうですか。それにしてもこれだけの設備が整った病院で治療を受けるとなると、医療費はいったいどれぐらいになるのでしょう……」
自分の現役生活が瀬戸際であるにもかかわらず、ご両親への金銭的負担を心配できるのが、フラッシュというウマ娘の優しさなのだ。
「老婆心ながら、そのこともご両親とお話させてもらったんだけどね。ご両親のお答えは『お金のことは心配しないで、最善の治療をフラッシュには受けてほしい』とのことだったよ」
お二人の考えをフラッシュに伝えると、彼女は安心と罪悪感が入り混じった、なんとも言い難い笑顔を浮かべた。
「そうでしたか……。それにしても今回のことでは、両親に心配と迷惑をかけ通しですね……」
「フラッシュはご両親の気持ちを考えられる娘だから、そんなことは気にするな、と言っても難しいかもしれないけどさ。まずはしっかり怪我を治して、ご両親に安心してもらおう。ご両親も、何よりそれを願っているはずだ」
うつむいたフラッシュに俺は意識的に明るい声を出してポン、と優しく肩を叩く。
励ましたつもりだったが、自分の怪我のせいで周りに迷惑をかけていると思いこんでしまっているフラッシュの罪悪感を、軽減させてあげることはできなかったようだ。
「両親ばかりでなく、友人たちやその周りの方々にも手間をかけてしまっているようで……」
「そういうふうに思うことはないよ。困ったときに手を差し伸べてくれる友人がいるのは、君の人徳じゃないか。今度友人が困っていたら、君が力を貸してあげるといい」
ゴルシとメジロマックイーンがお見舞いに来てくれてから3日後のこと。
メジロマックイーンは約束通り、通称【メジロのおばあさま】がしたためた一通の紹介状を病室に持ってきてくれた。
蝋封(異世界アニメ以外で初めて見たよ)してあるその封筒には、毛筆の美しい字で【日本ウマ娘外科総合医療センター 吉田先生 御侍史】と書かれている。
「お祖母様からのお手紙と学園からの紹介状、あとは今の主治医の先生のそれがあれば、間違いなく診察していただけるはずですわ」
そう断言してくれたメジロマックイーンは、とても心強く思えた。
「エイシンフラッシュさん。今はきっと心中お辛いものとお察しいたしますが、止まない雨はない、とも申します。必ず怪我を癒やして、ターフに戻ってきてくださいまし。回復したあなたとレース場で相まみえるのを、楽しみにしておりますわ」
紹介状とともに、メジロマックイーンはフラッシュに激励の言葉を掛けてくれた。
メジロマックイーンの励ましにフラッシュが力強くうなずいたのは、いうまでもない。
さて、学園からの紹介状は俺から秋川やよい理事長にお願いすればいい話だった。
こういうとき、理事長という重役についている方がお話しやすいタイプの、気さくな人柄であるというのは本当にありがたい。
が、ちょっとばかり気を使ったのが、今のフラッシュを見てくれている医師に紹介状をお願いするときだった。
今の主治医もウマ娘外科の医師であり、他の病院のウマ娘外科で診察してもらいたいなんていうと彼女のプライドを傷つけるのではないか、と思ったのだ。
しかしこちらの心配とは裏腹に、少し遠慮気味にその話を切り出したときの先生は飄々としたものだった。
「そうですね。うちの病院だとできることも限られますから、医療センターの方で診てもらえるならそちらのほうがいいでしょう。早速お手紙書きますね」
先生はそう言って、あっさりと紹介状を書いてくれた。
セカンドオピニオンなどでもそうだが、俺たち患者側が他の病院で違った知見を得たいときや、やってほしい治療法などを提案するときに『こんなこと言ったら先生のプライドを傷つけるかも、怒るかも』などと心配することは、きっと気の使いすぎなのだろう。
医師もたくさんの患者を抱えているわけだから、一人の患者のことばかりを気にかけているわけにもいかないだろうし、別に自分が担当しなくても患者が良くなる可能性があって、それで患者が納得するならその方法でいい、と考える医師も多いのかもしれない。
正面玄関から病院に入ると、すぐに受付のカウンターがあった。
俺は脚が不自由なフラッシュの代わりにそこで紹介状を手渡して受付を済ませると、3階にある【ウマ娘外科 第23診察室】へ行くように案内された。
院内を見回すと、ここでは様々な人が働いていて、そして様々な患者がいた。
患者で一番多かったのはやはり脚を怪我したウマ娘だったが、他にも頭に包帯を巻いた娘や、外傷こそ見当たらないものの、やつれた様子で点滴スタンドを押しながら歩いている娘もいる。
少し驚いたのは、もう中年と言っていいウマ娘や、年老いたウマ娘が現役の年齢ぐらいの娘より多くいたことだ。
しかし、少し考えてみれば当たり前のことなのだが、ウマ娘も普通の人が罹るような風邪やインフルエンザ、食中毒といったわりと身近な病気から、がんや脳卒中、心臓病という重大な病気にも罹患するのである。
そしてそれらの病気を発症するリスクが歳を追うごとに上がっていくのも、普通の人と変わらない。
実は【ウマ娘がなぜこれほどまでに人間離れした走力や腕力を持っているか】は、医学的にも科学的にも、ほとんど解明されていない。
つまり、普通の人間に行っている治療をそのままウマ娘に当てはめてよいのか、実のところ手探り状態なのだ。
今のところは普通の人間の女性と変わらない身長や体重であるウマ娘が多いことから、それを基準にして治療を行っているが、その治療法が本当に最善なのか、実は誰にもわからないのである。
近年では様々なデータやAIを活用した研究で、普通の人より強力な薬剤を使って効果的な治療ができるのではないか、という話もあるそうなのだが、臨床で使えるレベルには至っていないというが現状のようだ。
院内を見学しながらそんなことを考えているうちに、案内された診察室23番の前に到着する。
「ここのようだね。昨日少し話したけど、こういう大病院だと待ち時間が長いことが多いんだ。なにか時間を潰せるものは、持ってきたかい?」
最近は病院側も工夫していて、さすがに『待ち時間3時間、診察3分』なんてことは少なくなったらしいが、それでもある程度の待ち時間は想定しておかなければならない。
スマホがあれば時間はいくらでも潰せるように思えるが、こういう大きな病院だと、電波が悪くてネット自体が繋がらないということが結構あるということは、フラッシュに伝えてある。
「ええ。一応本を何冊か、持ってきました」
「そうか。じゃあ呼ばれるまでの時間は退屈せずに済みそうだね」
「では、少し失礼して……」
フラッシュは律儀に俺に断りを入れてから、膝の上に乗せていたバッグからお菓子のレシピ本を取り出した。
フラッシュはわりと何でも読むタイプのようで、今のようなレシピ本からライトノベル、日本の文学の名作やドイツから持ってきたのであろう、ドイツ語で書かれた小説などを読んでいることが多い。
ちなみにフラッシュは紙の本派のようで、電子書籍で何かを読んでいるというのはあまり見たことがない。
俺も読書は嫌いではない方なので、いつかフラッシュと本談義を楽しみたいと思ってはいたが、それを病院の待合室でペチャクチャやるのは、あまりに非常識というものだろう。
俺もカバンから月刊トゥインクルの最新号を取り出し、ペラペラとページをめくり始める。
怪我したフラッシュの前でレース関係の本を読むのもどうかと思ったが、俺もスポーツ経験者で、結構大きな怪我をしたことがあった。
そういう時、周りにあまり気を使われすぎても、気遣われている方がかえって気疲れしてしまうものなのだ。
だいたいそんなことを言い出せば、トレーナーの俺が近くにいること自体が彼女のストレスになってしまう、ということになりかねないではないか。
そうして二人で静かに読書をしていると、『エイシンフラッシュさん。診察室23へお入りください』という女性の声が聞こえてきた。
「呼ばれたみたいだ。行こうか、フラッシュ。動かすよ」
「はい。お願いします」
フラッシュに声掛けしてから俺は車椅子のブレーキを外してゆっくりと押し、呼ばれた番号の診察室の扉を開けた。
「はじめまして、エイシンフラッシュさん。あなたの担当をさせていただく、吉田です。よろしくね」
笑顔でそう初対面の挨拶をしてくれたのは、髪を肩口で切りそろえ、黒縁のメガネを掛けて白衣を着こなしている、三十代半ばくらいの女性医師だった。
「はじめまして、先生。エイシンフラッシュと申します。どうぞよろしくお願いします」
フラッシュも車椅子に座ったままではあったが、両手を膝の上に置き、ていねいにお辞儀をして初対面の医師へのご挨拶を済ませた。
「ええと、こちらの付き添いの方は……エイシンフラッシュさんのお兄さんかしら?」
ちょっと不思議そうな顔をして、彼女は俺の方を見る。
まぁこういった場合は普通、親族が付き添うものだからな……。
「いえ、僕はフラッシュのトレーナーです。フラッシュはドイツから留学生としてやってきて日本で走っているものですから、ご両親が付き添うのが難しくて」
「ああ、なるほど。了解しました」
それだけいうと、吉田先生は机の上にニ面あるモニターのひとつに、1枚のレントゲン写真を表示させた。
「ひどい怪我をしたようだけど、手術してくれた先生の腕が良かったのね。現状は決して悪くないわ」
医師のその言葉に、俺とフラッシュは安堵と不安が入り混じった表情を浮かべた。
……ひょっとしたら、先生はこれ以上は手の施しようがないとおっしゃるのではないか。
そんな予感が脳裏によぎったからだ。
「でも、もう少しばかり良くなる余地がありそうね。まだ患部が不安定だから今すぐというわけにはいかないけど、もう少し落ち着いたら再手術という手段も取れると思います」
ウマ娘外科専門医のその言葉に、俺もフラッシュも、こぼれ出る微笑を我慢できなかった。
「では……!」
「早とちりなさらないでくださいね。再手術をしたからと言って、100%ターフに戻れる保証ができるわけではありません。私達ができるのは、その可能性を少しでも引き上げることだけです。もし再手術を希望されるのであれば、そのことだけはご留意ください」
前のめり気味の俺たちに、先生は厳しい表情でそう釘を刺す。
「しかしそれでも再手術に可能性を賭けてみたい、とおっしゃるのであれば、我々は最善を尽くすつもりで……」
「もちろん、ぜひよろしくお願いいたします」
言葉を遮ってそう頭を下げるフラッシュに、吉田先生は苦笑いを浮かべた。
「エイシンフラッシュさん。焦る気持ちはわかるけどね。今すぐ手術できるわけじゃないし、少し考える時間も必要だと思うわ。もし手術をするとしてもご両親の同意が必要になるから、ご両親ともしっかり話し合わないとね」
「そ、そうですね……失礼しました」
先走って話を遮ってしまった自分を恥じるようにフラッシュは少し赤面し、視線を床に這わせながら先生に謝罪する。
その逸る気持ちは、俺もまったく同じだったけど。
「もう少しくわしく患部の様子を知りたいので、エイシンフラッシュさんには今から看護師さんといっしょにCTを撮ってきてもらいますね。その間にトレーナーさんには、ご両親への連絡先や故障した時のことなどを聞かせてもらえますか?」
「わかりました」
俺が返事すると同時に看護師さんがやってきて、車椅子のフラッシュを検査へ連れて行ってくれる。
その後は確かにフラッシュの両親への緊急連絡先や故障発生時の様子などを先生から聞かれはしたものの、それは前座というか、言いにくい話をするためのステップのように感じられた。
そしてその予感は、間違っていなかったらしい。
「普通こんな話はご家族以外にはしないのですが、故障したウマ娘の、それもトレセン学園付の担当トレーナーさんにならむしろお話しておくべきでしょう」
「……はい」
俺は固唾をのんで、医師の次の言葉を待つ。
「お話というのは、ずばり治療費のことです」
「お金のこと……ですか」
そう。
実はこの日本ウマ娘外科総合医療センターは、自由診療の病院なのだ。
つまり健康保険が使えず、治療費はすべて自己負担となる。
ウマ娘がその命とも言うべき脚を怪我してしまった場合、保険適用内の治療ではどうしてもできることが限られてしまう。
そのため、特にフラッシュのような大きな故障の治療を行う際には、自由診療の病院にかかることが多くなるのだ。
余談だがここに限らず、自由診療の病院での多額の医療費が用意できずに、治療を諦めて泣く泣く怪我で引退を決意するウマ娘も少なくない。
このことは転院する際にご両親にもお伝えしており、それでもできるだけのことはしてあげてほしい、とのお返事をもらっているのは、先ほどフラッシュにも話したとおりだ。
「ご承知だと思いますが、当院は自由診療の病院です。もし当院での手術、入院となればそれなりの治療費が発生します。CTなどを診てみなければ確定的なことは言えませんが、このようなケースですとだいたい……」
「そんなにですか!」
その金額の大きさに驚いて、ここが病院だということも忘れて思わず大きな声を出してしまった。
しかし医師はこのような反応には慣れているのか、軽く頷いただけで話を先に進める。
「このことも含めて、エイシンフラッシュさんのご両親とよくご相談ください」
その言い方は俺にはずいぶんとビジネスライクに聞こえてしまったが、医師にしてもそれは仕方のないことなのだろう。
金額が金額なだけに、彼女も『自分の担当した患者が治療費を支払えませんでした』だけでは済まされない責任を負っているはずだ。
「承知しました。今日診察していただいておおよその治療費の目安が出たら、僕の方に連絡頂けますか?」
「わかりました。ではこちらの書類の連絡先に、トレーナーさんといつでも連絡が取れる電話番号を書いてください」
俺が書類にスマホの番号を記入しているうちに、フラッシュが検査から戻ってきた。
「エイシンフラッシュさん、お疲れさま。では画像がこちらへ送られてくるまで、診察室前で少しお待ち下さいね」
そんな医師の指示を受け、俺は看護師さんからフラッシュの車椅子のハンドルを受け取った。
*
「良かったなぁ、フラッシュ」
「はい。少し復帰への希望が見えてきましたね」
俺たちは久しぶりに笑顔で、そんな会話を交わしていた。
病院から帰りの車の中は、少し明るい雰囲気に満ちていた。
学生時代、多少無理してでも免許を取っておいて本当に良かった。
公共交通機関が網の目のごとく張り巡らされた東京に住んでいても、やっぱり車があると便利である。
と言っても、奨学金を返しながら生活している社会人生活5年めの俺に、車のローンを組む余裕があるわけもなく、この車はレンタカーなのであるが。
「再手術をして順調に回復すれば、来年の初頭にはトレーニングを再開できるかもしれない、とお医者さんにいっていただけたことは本当に嬉しいです。あとは私が手術とリハビリにがんばるだけですね」
「そうだな」
「ただ、両親に経済的な負担をかけてしまうのは心苦しいのですが……」
「ま、それはフラッシュがまた元気な姿を見せることで、恩返しすればいいじゃないか。独身の俺が言うのもなんだけど、子どもの健康は何物にも代えがたいものがあるんだと思うよ」
俺はわざとらしいぐらいに明るくそんなことを言ったが、内心はうしろめたさでいっぱいだった。
本当であれば、フラッシュには検査から戻ってきた時にすぐにでもすべきカネの話を、まだきちんとしていなかったから。
そうはいっても、フラッシュの性格的にお金の話をしてしまうと、彼女はきっと『両親にこれ以上、迷惑はかけられませんから』と言って、あっさり治療を諦めてしまうことだろう。
そのことを考えると、俺はどうしても莫大な治療費のことを、フラッシュに伝えることができなかった。
あともうひとつ、お金のことはやっぱり伝えたほうがいいのでは、と思う訳は、治療費のことをフラッシュのご両親と相談して、もしその金額を用意できずに手術ができないとなったときのことだ。
一度希望を与えられ、それを取り上げられてしまった時にフラッシュが負ってしまうであろう心の傷の深さは、察するに余りある。
それを少しでも軽減するためにも、やはり『カネが用意できなかったら、この手術は受けられないんだよ』ときちんと伝えたほうが良かったのか、という後悔もわいてくる。
でもお金のことを話してしまったら、フラッシュはきっと現役続行を諦めてしまうだろうし……と、さっきから頭の中が堂々巡りしてしまっていた。
それに、余計な心配だと思いつつも抑えられないのが――フラッシュに限ってそんなことはないと信じたいが――金銭的な問題で治療が受けられないとなった時、『あの時両親がお金を出してくれなかったせいで、私は引退せざるを得なかったのだ』などと言い出して、あの仲の良い家族に要らぬ軋轢を生んでしまうのではないか、という不安だ。
もちろんこれは可能性と言うか、俺の脳が生み出している、勝手な妄想のようなものだ。
そんなことまで考えはじめると、医師が手術や治療の話を始める前にお金の話をしなかったことが正しかったのか、ますますわからなくなってくる。
もう俺にできることは『どうか治療費がご両親の負担にならない金額に収まりますように』と、三女神様に祈るぐらいのことだった。
三女神様はいろんな願い事をされる立場であろうが、カネのことまでお祈りされては、きっと困惑なされたことだろう。
*
フラッシュを病院に連れて行った次の日の朝。
病院の事務から俺のスマホに電話がかかってきた。
その電話で伝えられた、今までの自分の人生で扱ったことのないような巨大な金額を耳にして、思わず大声でその額で間違いないのか聞き返しそうになったが、努めて冷静に『わかりました。患者の両親とも相談して、またご連絡差し上げます』とだけ言って、電話を切った。
それから俺ができたことは、その金額の大きさに恐れおののき、頭を抱えることぐらいだった。
そんな暇があるのならすぐにでもフラッシュのご両親に連絡を差し上げるべきなのだろうが、時差を考えるとあちらはまだ真夜中のはずである。
日本時間の午後3時を回った頃に電話をかければあちらも朝になっていて、時間的に少々早いかもしれないが、事情を考えると非常識でもない時刻にご連絡できることだろう。
しかし、その時間まで一体何をして過ごそうか……。
とりあえず抱えていた頭を上げて、俺はこれからすべきことを模索し始めた。
担当が怪我をした、となるとトレーナーはとたんに仕事がなくなってしまう。
時期的に春休みということもあり、春のGⅠ戦線に参戦するような超一流のウマ娘以外は、リフレッシュも兼ねて実家へ帰ったり、休養に入ったりしていることが多い。
そして少し残念な話ではあるが、春休みに入る前に自分の才能の見切りをつけ、4月からの新生活を見据えてトレセン学園を去っていくウマ娘もたくさんいる。
そんな事情もあってこの時期の練習場は閑散としており、今の俺のようなノラトレーナーの指導を受けたい、という娘も少なくなるわけだ。
ウマ娘から必要とされないトレーナーなんて、実質ニートみたいなものである。
季節はちょうど桜が見頃であるが、とても花見に出かける気分になれない。
それ以上に、みなが楽しそうにワイワイ集まって花見をしている中を、一人で闊歩する勇気が持てなかった。
どこかで見聞きした、『春だと言うのに桜が咲いて』という一文が海馬の奥から蘇ってきて、それが妙に心に沁みた。
「……なんか面白そうなソシャゲでも漁るか」
時間を潰すだけなら、いくらでも手段があるのが今という時代である。
そう思いついた俺はスマホを手に取り、リンゴストアのアプリをタップして色々と物色してみたが、興味を惹かれるようなゲームが何一つ見当たらない。
仕方がないので久しぶりにウマチューブのアプリを起動させ、スワイプすると無限に出てくる毒にも薬にもなりそうにないショート動画を、時間が来るまで延々と何時間も見続けた。
*
ドイツと東京。
その距離を挟んだ電話での会話は、重苦しい沈黙に沈んでいた。
『フラッシュの脚に掛けていた保険金と我が家の貯金の全額を合わせても、フラッシュの治療に必要な金額にはあと12000ユーロほど足りませんね……』
フラッシュのお父様はしばらくの沈黙のあと、そう結論付ける。
円安ユーロ高の経済状況を持ってしても、ご両親が用意できるとおっしゃった金額は、フラッシュの脚にかかる治療費には届かなかった。
『トレーナーさん。フラッシュには、我々夫婦から経済状況を話して治療を諦めてもらうことにします。……父親として、自分は情けない……』
涙声でそうおっしゃるお父様に、俺はほとんど出任せのような言葉を止めることができなかった。
「少しお待ちください、お父様。その足りない12000ユーロ、今だとだいたい200万円くらいですか。僕がなんとかできるかもしれません」
『……どんな方法でお金をご用意するおつもりかはわかりませんが、そこまでトレーナーさんに甘えることはできませんよ。それになぜ、トレーナーのあなたが、娘にそこまでしてくださるのです?これからもあなたは、担当が怪我をするたびにその治療費をご自分でご用意するつもりですか?』
俺の提案に、お父様の声にわずかに険がこもった。
俺のその話があまりに無責任に聞こえたのだろうし、200万円という金の価値も分かっていない若造がそれを用意できると軽々しく言ったのが、お父様の癇に障ったのかもしれない。
「フラッシュに俺もできるだけのことをしてやりたいと思うのは、初めて担当させてもらったウマ娘で大きな思い入れがあるから、ということももちろんあります。ですが一番の理由は、彼女が日本ダービーを制した名ウマ娘だからです。これだけのウマ娘を担当できることは、この先の僕のトレーナー人生で、もう二度とないかもしれません。もし叶うのであれば、もう少し彼女と勝利という栄光を追いかけたい。そう僕が考えてしまうのは、そんなにおかしいことでしょうか」
俺がそんな口上を述べても、お父様は何もおっしゃってはくださらない。
そこで俺は、その大金を出せる建前を用意した。
「それとお金のことですけどね。フラッシュがダービーを制した際、URAから優勝報奨金と最年少ダービートレーナー更新のお祝いが出ていまして。奨学金の支払いなどに少しは使ってしまいましたが、ほとんど手つかずで残っているんです。このお金はフラッシュが日本ダービーを優勝していなければ手にしていなかったお金なわけですから、フラッシュのために使えるのなら、それ以上の使い道はありませんよ」
まさかお父様相手に『僕はフラッシュのことが好きだからお金を出すんです』とは言えなかったが、お金を拠出する理由付けとしてはそれほどひどいものではなかっただろう。
その説得が功を奏したのか、お父様はようやく口を開いてくださった。
『……さすがにそのお金を受け取るわけにはいきませんが、そうおっしゃってくださるのなら、私達にそのお金を借り入れさせていただけませんか?もちろん、それ相応の利息をつけてお返しするつもりです』
お父様の重々しい口調から察するに、それは苦渋の決断だったのだろう。
誰だって、俺みたいな若造から大金を借りたいだなんて思わないに決まっている。
しかしお父様は娘の夢の継続のために、この提案を受け入れてくださった。
「わかりました。それと、利息なんてとんでもない。急ぐお金でもないので、お返しいただける時はお声掛けいただけると幸いです」
『……そういうわけにはいきません。いつか必ず、利息をつけてお返しさせてください』
「僕は僕のしたいようにしただけですから、どうかそんなことをおっしゃらないでください」
利息を固辞する俺に何もおっしゃらなかったのは、こちらの気持ちが伝わったのか、どうあっても利息込みの金額を返済なさるおつもりなのか。
もし後者なら、その利息は受け取らなければよいだけの話か。
そんなことよりも、お父様とお話しておかなければならない大切なことがある。
「……ひとつだけ。お借り入れしていただく際の、条件をつけさせてもらってもよろしいでしょうか?」
いきなりそんなことを言い出した俺に、お父様は怪訝な様子を隠せないようだった。
『……? ええ、何なりとおっしゃってください』
「今回のお借り入れの件は、絶対にフラッシュに伝えないでください。このことだけは必ず、守っていただきますようお願いいたします」
『ですが、それではあまりに……』
俺の『条件』に、お父様は困惑の声を上げた。
「どうかお願いします。フラッシュは気遣いのできる娘ですから、自分の治療費にトレーナーも関わっていたとなると、これから先、きっと変に僕に対して気を使ってしまうことでしょう。でも僕は、担当するウマ娘とそんな関係にはなりたくないんです」
それにもし俺がフラッシュに告白した時、オーケーしてもらった理由が『金を出してもらった相手だから仕方なく』では、あまりに虚しいではないか。
『わかりました。そのお約束は、必ずお守りします』
「ありがとうございます。お金はフラッシュの手術が終わって請求がそちらに回ってから、指定の口座へお振込させていただきますね」
『はい。その折にはどうか、よろしくお願いいたします。それでは、失礼いたします』
一回り以上年下の俺に丁寧にそういうと、お父様は電話をお切りになられた。
「……200万か」
さて。
大きいことを言ったのは良かったが、実は今、俺の銀行残高は50万円ほどしかない。
ダービーの報奨金や最年少ダービートレーナーの祝い金、それに祝勝会を開いてくださったあの社長さんから頂いたご祝儀などは、ほとんど奨学金の返済に当ててしまっていて手元に残っていない。
しかし、金策のあてがまったくないわけではなかった。
さすがにお金が用意できる算段が全然立っていないのに、お金をお貸しする約束をフラッシュのお父上とするわけにはいかない。
俺は手にしていたスマホをスワイプして長らく掛けていなかった番号を呼び出し、少しばかり震える指でそれを押した。
発信音だけが長く続いたので、ひょっとしたら着信拒否されているかもな……と思い始めた瞬間、相手はようやく電話に出た。
『何だ、急に』
散々待たされた挙げ句、聞こえてきたのはそんなぶっきらぼうな声だった。
しかし、それも仕方なかったかもしれない。
「突然すまん、オヤジ。……元気か?」