担当ウマ娘に、恋をした。   作:宮川 宗介

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第十八話

『勘当した息子に心配される必要がないぐらいには、元気だ』

 

8年ぶりの親子の電話対談は、そんな返しから始まった。

 

「そ、そうか。元気なら何よりだ」

『で、要件は何だ。俺はお前ほど暇じゃないんだ。何かあるなら、さっさと言え』

 

こっちも暇なわけじゃねーんだよ、と言い返したいところであったが、いかんせん本当に暇なのでそれに対しては何も言い返せない。

 

「いや、そのだな……」

『ふん。今更電話なんてできた義理じゃない俺のところに連絡をよこしたってことは、どうせろくな用事じゃないだろ。さしずめ、カネに困って親に泣きついてきた、ってところか?』

 

……図星である。

 

「その、お金の話ってのは違ってないんだけど。その、なんというか」

『博打か、女か?』

「いや、そのどちらでもなくて……」

 

本当に、どちらでもないのだろうか?

実のことを言えば、女のことなんじゃないか?

いや、この場合オヤジの言う女っていうは、たぶん【プロの女性】のことを意味しているわけであって、まさかウマ娘のこと言っているのではあるまい。

 

「実は俺、今ウマ娘を鍛錬してレースに出すっていう、トレーナーって仕事してるんだよ」

『そうなのか。お前が今何していようが、俺の知ったことではないが』

「……」

 

大ゲンカして、俺の家出の原因になったのがウマ娘トレーナー科に進学するって話だったのに、知らないはずがないと思うのだが、これはオヤジの意地というか、イヤミなんだろう。

 

「それで……今、俺の担当しているウマ娘が大怪我してしまってさ。その娘の治療費をなんとか捻出してやりたいと思っているんだけど、どうしても足りなくて……」

『お前な』

 

オヤジは、明らかな呆れと、ある種の哀れみを込めたため息を電話の向こうで吐いた。

 

『そのトレーナーって仕事がどんなものなのか、俺は知らん。でもな、他のスポーツのコーチで自分の指導している選手が故障したからと言って、いちいちその治療費を工面してやるお人好しがどこにいる?お前がやろうとしていることは、そういうことだ。それは偽善とエゴでしかない』

「いや、違うんだ!」

 

偽善とエゴ。

客観的に見れば、そうなのかもしれない。

でも、俺の中では絶対にそれは違った。

 

「俺が今担当しているウマ娘はエイシンフラッシュっていって……ダービーっていう大きなレースを勝ったウマ娘なんだよ。そう!オヤジの好きな将棋で言えば、名人を獲ったようなウマ娘なんだ。もうこんなすごい娘には、俺の人生の中で二度と巡り会えないかもしれない。それだけ素質のある娘を、治療費さえあれば治せる怪我で引退させるのはあまりにも気の毒だし……トレーナーの俺としても、諦めきれないぐらい惜しいんだ。だから……」

『病気や怪我で選手生命が絶たれる名棋士・名選手というのは古今東西どこにでもいる。それに、そのエイシンフラッシュさんとやらにも、親御さんがいるんだろう?まず、彼らにその金を準備させるのが筋なんじゃないか』

「もちろんそうなんだけど、治療費がご両親の用意できる額を超えていて。ご両親は諦めるって言ったんだけど、俺がなんとかしてみるって言って、決断を待ってもらっているんだ」

『それならお前がなんとかしろ。こういう都合の良いときだけ、親を頼ろうとするな。何の信用も力もないお前みたいな若造に金を無心するあたり、その親御さんもまともな判断能力を失ってるんじゃないか』

 

オヤジの御高説を聞いて、カッと顔が熱くなる。

 

俺のことを信用も力もない若造、と言ったことに怒ったわけじゃない。

娘の夢のために、俺なんかに頭を下げてくれたフラッシュのご両親を侮辱したのが、許せなかったのだ。

 

進学の際、俺の話に耳も貸そうともしなかったオヤジに、子どもの夢を応援する親の何がわかるっていうんだ!

 

俺がブチギレて通話を切ってしまうのは簡単だったが、それをしてしまってはすべてが台無しになる。

 

俺はオヤジの言い分にショックを受けているようなふりをして、自分の気持ちを落ち着かせる時間を作った。

 

電話口に呼吸音が漏れないよう、ゆっくりと深呼吸をする。

深呼吸はどのような状況にあっても、感情をニュートラルに戻す最良の手段だ。

 

ふぅっ……。

 

言い方は腹が立つが、オヤジは正論を言っている。

競技者が怪我や病気で引退を余儀なくされるという事態は、別に珍しいことではないだろう。

後ろ足で砂をかけるような真似をしでかして家出したくせに、カネに困った時だけ親を頼ろうとする息子は、確かにロクデナシである。

正論を言っているときのオヤジはとにかく頑固で、こちらの話なんか聞きやしない。

そりゃ正しいことを言ってるわけだから折れる理由もないのだろうけど、こちらもこちらで正論だけで引き下がるわけにはいかない想いがある。

 

こうなったら、かくしごとや駆け引きはいっさいナシだ。

俺は、本当の本心を、自分の父親に全部ぶつけてみることにした。

 

「オヤジ。今まで言ったことも嘘じゃないんだけどな。あれは建前と言うか、オヤジの言う通り綺麗事の偽善で、本音は別にあるんだよ。本音ってのは変か。どちらかというと、俺の本当のエゴなのかもしれない」

『……』

 

電話の向こうでオヤジは黙り込んでしまったが、なぜか電話を切るようなことはしなかった。

それに甘えて、俺は続けた。

 

「俺、そのフラッシュって娘のことが好きでさ。もう少しだけでも、一緒にいたいんだ。トレーナーとそのウマ娘って関係の間は、少なくとも一緒に夢を追うことができる。一緒の時間を共有できる。その時間が、ほしいんだ」

『……』

「女々しいことを言っているのは、自覚してる。ほとんど絶縁状態だったオヤジに借金を申し込むのが、情けないってこともわかってる。でも、その娘のためにできることがあるなら、俺は情けない男でもいい。頼む、お金は今の仕事の他にバイトしてでも絶対に返す。このバカ息子を、一度だけ信じてくれないか」

 

俺はそう言って、電話の向こうにいるであろうオヤジに頭を深く下げた。

 

『……いくらだ』

「えっ!?」

『その必要な金はいくらだ、って聞いている』

「か、貸してくれるのか……?」

『額による。早く必要な金額を言え。俺も暇じゃないんだ』

 

人間、急に自分の思うようにコトが進むと混乱してしまうものらしい。

 

「12000ほど……」

『12000円でいいのか?……お前もエイシンフラッシュさんの親御さんも、色々苦労しているんだな……』

「あ、違う違う!」

 

しまった、焦りすぎてついユーロで伝えてしまった。

 

「ごめん、フラッシュのご両親がドイツの人でさ。ついついユーロで言ってしまった。それで……」

『12000ユーロってことは、だいたい200万ぐらいか』

 

オヤジの会社は確か欧米との取引もそれなりにあったはずなので、為替レートは頭の中に入っているのだろう。

 

『大金だな』

「……そうだね」

 

そう。

200万円は、大金である。

世の中にはこれぐらいの年収で生活している人も、たくさんいるのだ。

俺はそれだけの金を、借金しようとしている。

片思いの好きな女の子と、もう少しだけ一緒に夢を見続けたいというわがままだけで。

 

「返済が大変になるのは、わかってる。でも石に齧りついても、必ず返し切るよ。そこは絶対に、甘えるつもりはないから」

『その覚悟があるなら、いい』

 

重々しくオヤジは言う。

オヤジが会社を経営していることもあり、ウチの家計は多少は余裕があったはずだが、オヤジの金銭感覚は堅実そのものだった。

俺に対しても、誕生日とクリスマスぐらいは周りの子と同じぐらいのことはしてもらったが、それ以上の贅沢はしてもらったことがない。

 

「と言っても50万は手元にあるから、借りたい金額は150万円なんだ。……お願いできそう?」

『口座番号は、子供の時のお年玉貯金のものから変えてないな?』

「……うん」

『わかった。今日中に振り込んでおいてやる。来月からいくらかずつでもいいから、返せよ』

 

そう言ってオヤジは電話を切った。

 

「ふぅ……」

 

無意識のうちに、大きなため息が出た。

久しぶりに苦手意識のあるオヤジと話したことの気疲れや、お金を借りられたことへの安堵感、それにあれだけ反抗意識を抱いていた父親に甘えてしまったという羞恥心が入り混じった、複雑なため息だった。

 

それにしても無事お金を借りられたのは良かったのだが……俺はなんだか狐につままれたような気分にもなっていた。

故障した競技者を助けたいと言った時は断固として治療費を出すことに反対したのに、好きな娘のために、といった途端オヤジが意見を翻したのは、どうしたことだろう?

 

*

 

その疑問が解けたのは、晩飯のカップ麺をすすっている時にかかってきた、母さんからの電話だった。

 

『お父さんから聞いたわよ。久しぶりに連絡してあげたんですって?』

「うん、まぁ……」

 

連絡というか、金の無心をしただけなのであるが、電話越しの母さんはなぜかご機嫌だった。

 

『「あのバカ野郎。久しぶりに俺に電話をよこしたと思ったら、金の話だった」とかブーたれてたけど、それでもちょっと嬉しそうだったのは、やっぱり心配していたからかしらねえ』

「あんまり心配とかはしてなさそうだったけど……」

『あんたの前じゃそう振る舞ったかもしれないけどね。ウチじゃたま~に「あいつ、母親のお前ぐらいには連絡入れているのか?」って聞いたりしてるのよ。なんだかんだ言っても一人息子のことが気になるんだわね』

「ふ~ん」

 

そんなに気になっていたのなら電話ぐらいしてくればいいのに、なんというか、意地っ張りなオヤジである。

 

『で、お父さんからお金を借りた理由が好きな娘のためですって?あんたもスミに置けないわねえ』

「……息子が父親に、それも女の子に使うための金を無心したってのに、なんでちょっと嬉しそうなんだよ」

 

子供がそんな金の使い方をしようものなら、小言やイヤミの一言でも言いたくなるのが、普通の母親の心理というものではないだろうか。

 

『あんたも立派な大人で、一人の社会人じゃないの。それにもう、一人前の男のはずよ。その一人前の男がお金をどう動かそうが、私の知ったことじゃないわ』

 

こんな感じで俺の母親は昔から適当というか、わりと放任主義なひとだった。

 

【警察の世話になるようなことと、男を下げるような真似だけはしないように。あとは自由にしなさい】

 

それが少し変わり者の母の口癖だった。

ついでにいうなら進路でオヤジと揉めていたときも、母さんはどっちに加勢するでもなく静観していた。

 

「それにしたって、よくオヤジもお金を貸してくれたもんだよ。本当に助かったんだけど、なんで競技者としての彼女を救いたいと言った時は断って、好きな娘のためにお金を使うって言った途端に意見を変えて貸してくれたのが謎なんだよな……」

『ああ、それはね』

 

それこそ母さんは、こっそり秘密を暴露するような感じの声で教えてくれた。

 

『私が大学3年のときにね。私のお父さん、つまりあんたのお祖父さんが病気で倒れてしまったの。その病気に治療費なんかもだいぶかかるし、経済的に大学に通うのが難しくなってしまってね』

「それはなんか、じいちゃんから聞いたことがあるような気がする」

 

いつだったか、母方の祖父さん(今は元気だ)に『お前の母さんと父さんには苦労させてしまった』みたいな話を聞いたことがあるのを思い出した。

その話を聞いた時、まだ幼かった俺は『なんだか難しい話だなあ』ぐらいにしか思わなかったけど。

 

『もちろん私としては残念ではあったけど、3年生まで通わせてもらったわけだし、大学は中退して働くつもりでいたんだけどね。当時付き合っていたお父さんにそのことをポロリともらしたら、次の日に「卒業までなら、これで行けるだろ」っていってポンと200万、持ってきてくれて』

「は~、200万も」

 

当時の日本は景気が良かったといえ、今の俺と変わらない歳のオヤジにとって、その金額は決して小さくはなかったはずである。

 

『もちろん私はそこまでのことはしてもらえないって断ったんだけど、お父さんは「独身貴族なんてやってたら、カネなんか貯まるばかりで使うとこないから」って言って押し付けてきてね。キャンパスライフは諦めたようなフリはしていたけど、私も本当は大学は卒業しておきたかったなって思ってたし、このお金はすごくありがたかった。必ず返すからって言ったら「じゃあ卒業したあと、どこかに就職できたらぼちぼち返してくれ」って』

 

状況こそ違うが、オヤジも恋愛中に恋人の金銭問題というセンシティブな問題と向き合っていたらしかった。

まぁ、俺は別にフラッシュと恋人関係ってわけじゃないけど……(今のところは)。

 

母さん自身にもそんな経験があったから、俺の金の使い道にお小言を言わなかったのかもしれない。

 

「そんなことがあったんだ。で、結局そのお金はどうしたの?」

『お父さん、私の卒業直前にプロポーズしてくれてね。それからしばらくして借りてるお金のことを言ったら「夫婦で金の貸し借りもないだろう」って言ってくれて。就職先は決まっていたから、お給料もらい始めたら必ず返すって言っても聞いてくれなかったのよ。実際渡そうとしても絶対に受け取ってくれなかったしね』

「へぇ」

 

正直金に渋い印象があったオヤジだったが、その話を聞いて、ちょっとイメージが変わってしまった。

 

でも思い起こしてみれば、必要なお金を出す時にオヤジが恩着せがましいことを言ったり、渋ったりしたことは一度もなかった。

誕生日プレゼントなどのお祝いの時も、気分良くおもちゃやゲームを買ってくれていた。

 

オヤジにケチくさいイメージがあったのは、子供らしいわがままやおねだりには絶対に応じることがなかったからだろう。

 

それに、俺の行きたかった大学の学費が決して安いものじゃなかったことも、その印象に拍車をかけているだと思う。

 

口にこそ出さなかったが、『高い学費を出すのが嫌で、授業料が安くて就職に強い国公立に行けって言ってるんだろうな』と当時思っていたことは、確かである。

 

『そのときのことを思い出したから、あんたにお金を貸す気になったんじゃないかしら。それに、あんたのことだからお父さんに借金断られてたら、多少無理してでもお金をかき集めるつもりだったんでしょ。なんせ大学生活の学費も生活費も、自分でなんとかしてしまうぐらいの根性はあったんだから。それをさせたくない、って親心もあったんじゃない?』

「……」

 

図星だったので俺は沈黙を守ったが、オヤジに断られていたら消費者金融で借りてでも、友人に頭を下げてでもお金は用意するつもりだった。

 

「オヤジの心の内まではわからないよ。しかしあのオヤジが母さんのためにねぇ。かっこいいところあったんじゃん」

 

これ以上金に関して気まずい話をしたくなかった俺は、話を無理やり両親の昔話に戻す。

 

『でしょ?さすが私の選んだ男よね』

 

それは母さんも同様だったのか、あっさりと俺の話に乗っかり直してくれた。

 

『男女の関係ってお金がすべてってわけじゃないけど、やっぱり男にそういうところを見せられると、女って「この(ひと)頼もしいな、頼りになるな」って思ってしまうものよ』

「そうだよなあ……」

 

SNSでのおごり・おごられ論争や専業主婦希望の婚活スレッドの荒れ具合を見ているとわかるように、昨今では男性の経済力を当てにする女性は忌避される傾向にある。

しかし社会的に課せられる役目や出産というハンデキャップがある以上、どれだけ男女平等の考え方が浸透しても、それは仕方のないことだと思う。

 

それに男の方だって、男尊女卑の思想の持ち主だと思われるのが嫌だから言わないだけで、家事が得意で自分を立ててくれるような【昔ながらの大和撫子】が嫌いだ、というヤツはレアなはずである。

 

結局どんな時代になっても男らしさ、女らしさというものに魅力を感じる人は残ってしまう、ということなんだろう。

 

『かと言って「俺が金を出してやってるんだぞ」ってイバる男も褒められたもんじゃないけどね。あんたも好きな女の子にお金を出してあげるのはいいけど、その後はスマートに振る舞うようにするのよ』

「……わかってるよ」

 

俺だって恋愛経験がゼロってわけじゃないし、アイいわく俺はどうやら一言多い男らしいが、最低限の言っていいこととと悪いことの区別はつけているつもりである。

 

『ところであんたが惚れたエイシンフラッシュって娘、動画で見たわよ。すっごく綺麗な娘ね』

「だろ?自慢の担当なんだ」

 

もうこのあたりで話を終えて電話を切っても良かったのだが、フラッシュのことを褒められて気分が良くなったせいで、つい話に乗ってしまった。

 

『にしても、女性の好みってのは親子で似るのかしらねえ。若くてキレイでおっぱいが大きい女が好きってのは、あんたも父さんと変わらないわね』

「……」

 

そう。

実はうちの両親も、父と母の年齢が8歳ぐらい離れていたりする。

なんでも友人の紹介とやらで知り合ったらしいが、詳しいことはさすがに知らない。

 

それに息子の俺が言うのもなんだが、確かに母親はフツメンの父親にはもったいないぐらいスタイルの良い美人だったんだろうな、という面影を今も残している。

 

若い頃の母さんは間違いなく男を選べる立場にあったはずで、その気になれば相当のイケメンでもお金持ちでも、交際相手や結婚相手は選び放題だったはずだ。

 

今でこそオヤジはそれなりの会社の創業者として社長をやっていて、母さんに何不自由ない生活をさせているが、結婚当初はふつーのサラリーマンだったと聞いている。

結果論になるが、父さんを選んだ母さんには男を見る目があったってことなんだろう。

 

「ごめん、夕飯の途中だからそろそろ切るよ。またこちらからも連絡する」

 

なんとなく居心地の悪くなった俺は、食っている最中だった、もう伸びつつあるカップラーメンを話を打ち切るダシに使うことにした。

 

『はいはい、あまり手軽なものばかり食べてちゃダメよ。それじゃ切るわね。健康には気をつけてね』

「あいよ」

 

久しぶりの母子の会話は、それで終わった。

 

しかしなんで、ジャンクなものを食べていることが分かったんだろう。

そういや昔から万事がテキトーな母さんではあったが、俺の隠しごとや悩みごと、困りごとはすべて見破るような母親だったように思う。

 

そして余計なお世話だよ!と言いたくなるぐらい、俺の世話を焼いてくれたり、悩みごとを解決する糸口をくれたりするのだ。

 

今回もきっと数日後には、ママゾンから冷凍のお惣菜が届いたりするのだと思う。

 

*

 

治療費の心配もなくなり、フラッシュは無事手術を受けられることになった。

 

「今週の皐月賞は、どんなレースになるんでしょうね」

 

フラッシュの手術日は、皐月賞が行われる週の木曜日に決まった。

ニ回目ということもあるのか、ウマ娘の命と言っていい脚の手術が明後日に迫っているとは思えないぐらい、フラッシュはリラックスしているように見えた。

 

「ジュニア期から高い素質が評価されているサダムパテックや、ゴールドシップと同じ共同通信杯から皐月賞へ直行のナカヤマナイトなんかがファンの間では人気になっているね。でも俺は前走のスプリングステークスで強い勝ち方を見せた、オルフェーヴルが面白いと思っているんだ」

「トレーナーさんもですか。実は私もなんです。スプリングステークスでの末脚の切れ味は、お姉さんのドリームジャーニーを彷彿をさせるものでした。きっとオルフェーヴルさんはクラシック路線での台風の目になるのでは、と思っています」

 

話に出てきたオルフェーヴルは現在のところ4番人気にとどまっているようだが、レース界隈の評価はそれ以上に高く、まともに走れば勝ち負けまである、という人もいるぐらいだった。

 

そんな話をしていると、不意にフラッシュがふふっ、と笑った。

 

「どうしたんだい?」

「いえ。なんだか外野からレースを俯瞰するのも、久しぶりな気がしましてね。レースというのは自分が走るのは大変ですが、見てるだけだとこんなにワクワクして楽しいものだったんですね」

「ははっ、確かに」

 

そう答えた俺の顔には、フラッシュと同じようなちょっとビターな笑顔が浮かんでいたことだろう。

 

フラッシュを担当するようになってから、レースというものは研究対象であり、勝ち負けを争う場であって、純粋に楽しむものではなくなっていたような気がする。

 

「それでも、私は戻りたい。大変で、負けたら泣くほど悔しくて、すべてを燃やし尽くせるあのターフへ」

「……そのための、今回の手術じゃないか。本当は安易に大丈夫、なんて言うべきじゃないけど、ウマ娘外科の最高の先生が執刀医で、医療器具も最高のものが用意されている。だからきっと、大丈夫だ」

 

こんな言葉で励ますことが、今の俺ができる精一杯だった。

 

「そうですね。それにしても、今回私を手術してくださる先生は、自信に満ちていらっしゃいましたね。頼りがいがあります」

 

俺の気休めに安心できたわけでもないだろうけど、フラッシュはそんなことをいいながら笑顔を浮かべてくれた。

フラッシュの主治医は吉田先生であるが、執刀してくださる先生はまた別で、お医者さんの世界も細分化・分業化が進んでいるらしい。

 

「今回の手術でレースに復帰できそうか、先生に聞いたら『ここをどこだと思っていらっしゃるんです。ここはウマ娘外科総合医療センターで、私が手術するんですよ。必ず、あなたをターフへ戻してみせます』って言ってもらえたもんな。でも、あれぐらい自信のある先生に手術してもらったほうがよくないか?」

「確かに。『成功するかわかりませんが、まぁなんとかやれるだけやってみます』って先生だとちょっと不安かもしれません」

「俺だったら、そんな先生にはあんまり手術してほしくないかもなぁ……」

 

今回手術する箇所は、ウマ娘の命ともいうべき脚なのである。

医療ドラマに出てくるような、『私、失敗しないので』ぐらい自分の腕に絶対の自信を持っている医師に手術してもらいたいものだ。

 

「さて。俺はそろそろお暇するとしよう。今度は手術の日の朝に来るよ。と言っても、俺ができることと言えば君の手術の成功を祈ることぐらいだけどね」

「すみません、お時間を取らせてしまって……」

「なぁに。俺が来たいから、来てるだけだから。そんなことは気にしないで」

 

手をひらひら振りながら、俺は席を立つ。

 

「トレーナーさん」

「うん?」

「ありがとうございます。あなたがトレーナーでなければ、私もう諦めていたかもしれません。あなたがトレーナーだったからこそ、もう一度あなたと栄光を追いかけたい。そう思えたんだと思います」

「そうか」

 

少し冷淡だったかとも思ったが、これ以上喋ると涙声なのがバレてしまいそうだった。

 

「それから」

「うん」

「春休みが終わると、新入生が入ってきますよね。私より素質があって、私より綺麗な娘を見つけても、私を見捨ててそちらをスカウトしたりしないでくださいね?」

 

それは、フラッシュらしからぬジョークだった。

平然としているように見えても、やはり手術が不安なのだろう。

だから、こんな慣れない冗談も出てくるのだと思う。

そんなフラッシュジョークに、俺としては苦笑いをしながら本心を返すよりなかった。

 

「ダービーウマ娘の君より素質があって、グッドルッキングウマ娘の君より綺麗なウマ娘となると、探すことすら難しそうだ。そんな心配は無用だよ」

「そうですか。それなら、安心して手術を受けられそうですね」

 

気をつけてお帰りになってくださいね、とベッドの上で手を振ってくれるフラッシュに、俺は別れの会釈をして、病室をあとにした。

 

*

 

手術が終わったのは、フラッシュが手術室に入室してから3時間後のことだった。

 

「終わりましたよ」

 

まず手術室から出てきたのは、フラッシュの執刀医だった。

 

「ありがとうございます。それで、フラッシュの脚の状態は……」

 

なにはともあれ、俺はまずフラッシュの手術の成否を確かめたかった。

 

「考えうる限りの、最善の処置を尽くしたと思います。あとは本人の回復力次第というところもありますが、またレース場に戻れる可能性は比較的高いでしょう」

「本当ですか!」

 

自分にとってあまりに嬉しい知らせを聞いた時、それが多少失礼に感じられても『それは本当のことなのか?』と思わず聞いてしまうのは、自分にとっての良いニュースが勘違いだったり、聞き間違いだったりしないことを確認したい、という気持ちがあるからなのだろう。

 

「ええ。復帰の目処の時期はまた詳しくお話しますが、過去の症例を見る限り、エイシンフラッシュさんはきっとレースに復帰できると思います」

 

医師のその言葉を聞いて、俺は胸をなでおろした。

手術は100%、成功したのだ。

 

医師とそんな会話を交わしていると、手術室からベッドに横たわったフラッシュが運び出されてきて、病室へ向かうためにベッド専用のエレベーターに乗せられる。

 

俺と医師も、そのベッドと一緒にエレベーターへ乗り込んだ。

 

「まだ麻酔が効いて眠っていらっしゃいますが、声をかけてあげてください」

 

医師にうながされた俺はそっとベッドに近づき、酸素マスクをつけたフラッシュの顔をそっと覗き込む。

 

「フラッシュ、お疲れさま。手術は無事成功したそうだ。これから二人で、復帰目指してがんばろう」

「……はい、トレーナーさん」

 

声をかけたからだろうか、目を覚ましたフラッシュは酸素マスクのせいで声こそくぐもっていたが、力強く返事をしてくれた。

 

「フラッシュ!大丈夫か?痛みはひどくないか?」

 

俺の問いかけに、フラッシュはゆっくりと首を縦に振ってくれる。

 

「私、ターフに戻れるんですね……」

「ああ。手術してくださった先生のお墨付きだ。だから、絶対に大丈夫だ」

 

そんな会話を交わす俺達を見て、日本が誇るウマ娘外科総合医療センターの執刀医は、笑みを浮かべて満足気にうなずいていた。

 

*

 

俺は術後のフラッシュと少しばかり会話をしてからすぐに、彼女のご両親へ手術の成功を知らせるメールを送付した。

 

電話でも良かったが、ドイツは今頃早朝の時間帯である。

にもかかわらず、メールを送ってすぐにフラッシュのお母様から電話が返ってきた。

 

『フラッシュの手術が無事に済んで、それも大成功だったということで……。主人と一緒に、胸をなでおろして喜んでおります。本当にありがとうございます』

「いえいえ、僕は何もしていませんよ。手術をしてくださった先生と、フラッシュのがんばりがあったからこその成功です」

『夫もお礼を言いたいとのことでして。夫に代わりますね』

「はい」

 

少しの静寂のあと、渋い男性の声が聞こえてくる。

 

『娘の手術は無事に成功した、と聞きました。トレーナーさん。今回のことで、あなたにはなんとお礼を言って良いのか……』

「そんな。まずこの病院で手術を受けられたのは、フラッシュを助けたい!という彼女の友人たちの思いがあったからです。フラッシュの高潔な人柄がなければ、友人たちもこの事態を静観しているだけだったと思います。それに、ご両親のレースへのご理解がなければ、フラッシュは現役を諦めなければならなかった。お礼を言うのはこちらの方です。本当にありがとうございます」

『そう言っていただけると、こちらも心が救われます。どうか、フラッシュのことをよろしくお願いします』

「はい」

 

それから俺たちは少し世間話を交わして、通話を終えた。

もう少しフラッシュとも話をしたかったが、なんせ手術直後である。

無理をさせて、体に障ってはいけない。

長居は無用だろう。

 

あとは挨拶だけして学園に戻ろうと、フラッシュの病室へ足を向けた。

 

*

 

手術の翌日。

フラッシュと俺は病室で現状と今後について、主治医の吉田先生から話を聞いた。

 

術後の経過は良好で、執刀医の先生が言ったとおり、おそらくはレースに復帰できるであろうこと。

復帰時期については回復力に個人差があるので断言はできないが、今までの例から、来年の頭ぐらいにはレース場に戻れる可能性が高いということ。

 

退院後はよほどの異変がない限りはもうここに通う必要性が薄くなることから、復帰まで診察してくれる、近場で通いやすい病院に紹介状を書いてくれるということ。

もしそんな病院に心当たりがあるのなら、そこの院長宛にお手紙を書いてくださるそうだ。

 

その話を聞いた帰りの電車の中で、俺は一つの結論を出していた。

 

フラッシュを、故郷のドイツへ一時帰国させよう。

 

フラッシュは日本に来てから3年以上、レースにトレーニングに学園生活にと、全力疾走で走り続けてきた。

 

まだ10代の女の子が、異国の地で必死に戦い続けてきたのだ。

 

楽しいことももちろんあっただろうが、辛いこと、きついこともたくさん経験させてしまった。

 

グッドルッキングであるがゆえの、陰湿ないじめ。

思うようにいかなかったローテーション。

長期に渡るスランプ。

 

現役生活を続ける以上ついて回る、厳しいトレーニングに食事制限もそうだ。

 

そして今回の、競走人生を絶たれかねなかった大怪我。

 

フラッシュは気丈な娘であるから顔に出すようなことはしなかったが、今の彼女は心身ともに疲弊しきっているはずである。

 

日本のトレセン学園でゆっくり療養するのも悪くないだろうが……懸命にトレーニングに励む他のウマ娘たちを見ながら、自分はレースのことを忘れて長期休養を取るというのは、気持ち的に難しいものがあるだろう。

 

もちろん最終的にはフラッシュの気持ち次第だが、それならいっそ、日本から、そしてレースから完全に離れて、故郷のドイツで治療に専念するというのは、なかなかいいアイデアのように思えた。

 

そうなると、3年以上毎日のように顔を合わせていたフラッシュとはしばらくの間、会えなくなってしまうが……。

 

そんなエゴと寂しさは俺だけのものであり、胸の奥にしまっておけばよいだけの話だ。

 

「よし」

 

俺の気持ちが変な方向に傾いてしまわないうちにフラッシュにこのことを伝えておこうと、俺はスマホを取り出して、『大事な話があるから、明日もお見舞いに行くよ』とLANEを送信した。

 

*

 

翌日。

俺はフラッシュの病室を尋ね、挨拶もそこそこに早速、退院後に休養のための一時帰国を考えてみてはどうだろうかと提案してみた。

 

「そうですね。それも悪くないかもしれません」

 

俺の話を聞いて、フラッシュは静かにうなずいてくれた。

 

「トレセン学園で親しい友人たちに囲まれながら療養するのも悪くないと思うんだけど、レースやトレーニングに勤しむ周りを見ながら自分はゆっくり休養、というのは難しいんじゃないかと思ってね」

「……確かにレースに挑む同室のファルコンさんや、これから始まる春のシニア三冠などを見ていると、色々と余計なことを考えてしまいそうではありますね」

 

さもありなん、とばかりにフラッシュは苦笑した。

彼女も自分が融通がきかず、生真面目で思い悩んでしまう性格であることを自覚しているのだろう。

 

「しかしもし帰国するとなると、学園の授業のほうが気になりますね。復帰の目処が立つまでの数カ月間実家に戻った場合、単位はどうなってしまうのでしょう?」

「ああ、それもちょっと調べてみたんだけど」

 

トレセン学園は一応、20歳まで通えるシステムになっている。

制度のイメージで言えば、高専のようなものに近い。

20歳まで現役を続けたウマ娘が大学へ進学したいと考えた場合、大学2年ないし大学3年に編入することになるわけだ。

 

で、在学中、フラッシュのようにやむを得ない事情で長期休学を強いられた場合は……。

 

「1年は休学することができて、なにか特別な事情がある場合は、それ以上の休学も認めているらしい。休学すると単位が足りなくなるから、基本的には留年してしまうことになるね。でも、フラッシュは3年間トレセン学園の授業にも真面目に出て単位も足りてるだろうから、高校卒業の資格と学歴は保証されている。だから単位については、あまり気にしないでもいいと思うよ」

 

ここが高専との大きな違いで、高専は4年生時に退学すると、基本的には【高卒認定】の扱いになる。

普通の高卒との違いは【高卒認定】はあくまで高校卒業程度の学力を保証しているだけで、学歴ではないということだ。

 

だから高専を中退した人に限らず、高校に進学・卒業しないで高卒認定を受けた人の最終学歴は、高校に入り直して卒業したり、大学に行ったりしない限り、厳密に言えば【高卒認定を持っている中卒】になる。

 

高卒認定は一種の資格のようなもので、実際履歴書には資格欄に【〇年〇月高等学校卒業程度認定試験合格】と書くそうだ。

 

しかし、トレセン学園に3年間通った場合はきちんと【高校卒業】の学歴が与えられるので、そこは安心して通うことができる。

履歴書の学歴欄に【日本ウマ娘トレーニングセンター学園卒業】と書くことができるのだ。

 

4年5年と現役を続けて大学進学を考えたときのパターンは、さっき言った通りとおりである。

 

余談だが、そのような特殊な事情があり、トレセン学園には名ウマ娘の【引退式】はあっても、学園生の【卒業式】というものは存在しない。

 

現役生活の長短は個々人に差があるため、ある学年の娘たちが同時に卒業、ということが基本的にないからだ。

 

トレセン学園に通うウマ娘の【卒業】は、GⅠ勝利などの華々しい実績を上げて【引退式】をしてもらうか、3年以上学園に通って卒業証書(と高卒の学歴)をもらって、ひっそり学園を去るかのどちらかになるケースが多い。

 

もちろん3年生(シニア級)になる前に、自分の才能に見切りをつけて転校したり、退学していく娘もたくさんいる。

 

「単位の心配がないのでしたら、休学届を提出して実家で治療とリハビリに専念するという選択肢も、有力になってきますね」

「今までフラッシュは、本当にがんばってくれた。帰郷については最終的に君が決めることだけど、学園から遠く離れた故郷に一度里帰りして、心身ともにリフレッシュするっていうが、今のフラッシュにとって一番いいんじゃないかって俺は思うんだ」

「そうですね……」

 

そう言ってフラッシュは、形の良いあごに手を当ててしばし思案する。

 

「確かに、一度ドイツに帰って色々と振り返ってみるのも悪くないかもしれませんね。お手数おかけしてしまいますが、学園の休学手続きの方、お願いしてもいいですか?」

 

フラッシュの出したその結論にいささかの寂しさも覚えなかった、といえば、それは嘘になるだろう。

 

「オッケー、分かった。そのあたりは任せておいてくれ」

 

もちろんそんなことを顔に出すわけもなく、俺は気軽にうなずいて手続きの旨を了承する。

 

「それと……」

「うん」

 

フラッシュにしては珍しく、なにか気恥ずかしさを隠すような微笑を浮かべる。

そしてしばらく逡巡したあと、少し言いにくそうに口を開いた。

 

「その、できれば、なんですけど……。トレーナーさんも、一緒にドイツへ来てもらうことはできないでしょうか?」

 

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