担当ウマ娘に、恋をした。   作:宮川 宗介

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第十九話

事務室へ足を運ぶと、そこにはいつもと同じようにたずなさんがノートPCと向き合い、手元の伝票をめくりながら(電子化の時代に、この紙の伝票ってのはいつまで存在してるのだろう?)、一心不乱に数字を打ち込んでいるようだった。

 

「お仕事中すみません、たづなさん」

「! トレーナーさん!?」

「驚かせてしまいましたか。一応、ノックはさせていただいたのですが……」

 

入る前には当然ノックをしたのだが、室内に明かりと人の気配があるのに返事がなかったので、仕方なく『入りますよ』と声掛けだけして入室した。

よほど仕事に集中していたのか、たずなさんは全く俺に気づいていなかったらしい。

 

「そ、そうでしたか。気づかないですみません」

「いえいえ」

 

その集中力を目の当たりにして、俺はなぜこの若い女性が理事長の右腕を務めているのか、分かった気がした。

 

「それで、いかがなさいましたか?」

 

こちらが仕事のじゃまをしたにもかかわらず、たずなさんは柔らかい笑顔でそう尋ねてくれる。

 

「こちらの書類にハンコを頂きたくて」

 

そう言って俺は1枚のA4用紙の書類を彼女に差し出した。

 

「5日間の有給休暇ですか。わかりました」

 

彼女はうなずくと、デスクの引き出しから理事長の役職と日付が刻印されたハンコと印肉を取り出した。

 

そんな大事なものを理事長から預かっているあたり、理事長がたずなさんに全幅の信頼をおいていることがうかがえる。

 

もうここで働き始めて5年になるが、有給休暇を使うのは初めてのことだ。

赴任1年目はさすがに気持ち的に使うのが憚れたし、2年目以降はフラッシュを担当することになって、有給休暇どころではなくなってしまった。

 

学園へ来た当初、周りの先輩が誰も有給休暇を使っていなかったので『ひょっとしてトレセン学園って有給を取るのが悪とされているブラック企業体質なのか?』と心配したりもしたけれど、担当を受け持ってみて、なぜそうなるのかがよくわかった。

 

自分で言うのもなんであるが、トレーナーという仕事は多忙である。

 

担当が出走するレース対策に、最新のトレーニング技術に関する勉強。

出走登録の手続きに、そのレースへの付き添い。

それに担当の心身の調子が悪くなれば、それらのケアも必要になる。

こんな調子で仕事に追われていると、有給で休むどころか、定められている週にニ回の休日(レース翌日の月曜日と任意の1日)に休むことも難しくなってしまう。

 

そしてその休日出勤には、手当なんてつかないのだ。

 

それがブラックと感じるような人は、多分トレーナーという仕事を続けられないだろう。

 

でもたずなさんの様子を見ればわかるように、別に有給を取るのが悪とされているわけじゃない。

有給の書類には理由を書く欄もないし、こうして届け出を出せばほぼ100%有給が取れるというのは、周りから聞いていた。

 

「ご希望の有給日は……5月1日から5日までですね。1日2日休むという方は結構いらっしゃいますが、5日というのは珍しいですね。どこか旅行でも?」

 

これは単純に、興味から来た質問だろう。

そう聞いてきたたずなさんの口調は決してイヤミな感じではなく、穏やかなものだった。

 

「ええ。ご存じかもしれませんが、僕が担当しているエイシンフラッシュが故障してしまってますからね。その治療と休養のためにドイツへ一時帰国するので、ちょっと付き添いって感じです」

 

そう。

昨日俺がフラッシュに故郷での休養を提案すると、『トレーナーさんも、一緒にドイツへ来てもらうことはできないでしょうか?』と聞いてきてくれたのだ。

 

フラッシュも怪我で心が弱っているせいで、俺なんかでもそばにいたほうが安心できるのか。

それとも俺のことを憎からず思ってくれているのかも……なんて甘い妄想を膨らませかけたが、フラッシュが言うにはご両親が以前から『機会があればぜひ一度、トレーナーさんにドイツへ来てもらいたい』と言ってくださっているとのことだった。

 

海外旅行は何度か経験があるが、ドイツへは行ったことがない。

君の故郷であるドイツへ行きたいのは山々だけど、そんなにまとまった休みは取れないよ……と返事をしかけたところでハタと気づいた。

 

担当のフラッシュが故郷に帰ってしまうとなると、俺も相当暇になる。

それなら貯まっている有給を使って、フラッシュの付き添いと旅行を兼ねてドイツへ行くのもいいかもしれない。

 

そう思った俺は『俺も一度、フラッシュの故郷のドイツを訪れてみたいと思っていたんだ。通るかどうかわからないけど、4泊5日のつもりで学園に有給休暇の申請を出してみるよ』と返事したのだ。

 

「ドイツにですか」

 

俺がそんなわけを話すと、なぜかハンコを持ったままたずなさんは思案顔になる。

 

「トレーナーさん。このドイツ行きについて、少し理事長とお話してみませんか?」

 

*

 

ドイツのレースのレベルは、フランスやイギリスなどの欧州のレース主要国と比べると、少し見劣りしてしまうという現実がある。

 

だから素質に恵まれたドイツ生まれのウマ娘は、自分の適性を鑑みてもっとレベルの高い外国へレース留学することが多い。

 

フラッシュがその典型例だが、彼女が同じ欧州のフランスやイギリスへ行かずに日本へやってきたのは、芝適性の問題があった。

 

フラッシュのフォームやストライドは、どうみたって欧州の重たい芝向きではない。

だから軽い芝の高速バ場でレースが行われる日本へやってきたのだ。

 

当然のことながらドイツのレース関係者も、素質のある娘が外国へ流失してしまっている現状を良しとしているわけではなく、様々な手段を講じている。

 

そのうちのひとつが……。

 

「レース先進国トレーナーの、ドイツレース学校への招聘ですか」

「そう。それで今ちょうど、その学校に派遣するトレーナーを探しているらしいんだ」

 

フラッシュの見舞いに訪れた俺は、さっきあったことを端的に話した。

 

あの後たずなさんと一緒に理事長室に赴き、理事長から聞かされた話がトレセン学園からドイツのレース学校へ派遣する臨時トレーナーを探している、ということだった。

 

赴任期間は5月から8月末までということで、トレーナーを派遣できるのか、派遣するなら誰にするのかをそろそろドイツの学校側へ返事をしなければならなかったが、目をつけていたトレーナーたちは今担当しているウマ娘がいて多忙らしく、なかなか人材探しに苦労していたらしい。

 

残念だが断ろうか……と考えていた矢先、そこにちょうどドイツに行く予定のある暇なトレーナーの俺が現れた。

理事長は『君さえ良ければ臨時トレーナーとしてドイツへぜひ行ってもらいたい。ダービートレーナーが派遣されてくるとなると、先方もきっと大喜びだろう』と言ってくれたのだ。

 

こちらとしては、まさに渡りに船の話だった。

 

「それで、トレーナーさんはなんとお返事なさったのですか?」

「一応、少し考えさせてくださいとは言ったんだ。でも、俺としてはこの話を前向きに考えてるよ。このことがなくても、フラッシュの帰国には付き合うつもりだったってこともあるしね」

「ということは、少なくとも8月が終わるまではドイツに滞在なさるということですよね?」

「もし今回の話を引き受けたら、そういうことになるね」

「そうですか」

 

フラッシュはなにか得心したかのようにうんうん、とうなずく。

 

「あの、ですね。その派遣業務の間に、私の脚の様子を見に来ていただくことはできますか?」

 

遠慮がちにフラッシュがそんなことを聞いてくる。

 

「当たり前じゃないか。臨時トレーナーはそのついで……とまでは言わないけど、近くでフラッシュの様子がわかるなら、それに越したことはないからね。今回の話は本当にありがたいと思っているよ」

 

俺の返事にフラッシュは安心したのか、ぱっと明るい笑顔を浮かべてくれた。

 

「ありがとうございます。トレーナーさんがいれば、ドイツで診てもらうお医者さんに私の脚の状態を的確に伝えることができますし、お医者さんもトレーナーさんの意見を聞いたほうが、より効率的なリハビリが行えると思うんです。慣れないドイツでのお仕事に加えて、私の面倒まで見ていただくとなると本当に大変だと思いますが、どうかよろしくお願いします」

「そんなことないよ。ドイツでの生活っていうのも、ちょっと楽しみだしね」

「もちろん私も父も母も、快適に過ごしてもらえるよう精一杯サポートしますよ。さっそくトレーナーさんに過ごしてもらう部屋の準備を、両親に整えてもらわなければ……」

「えっ、いやいや。物件探しまでしてもらわなくても大丈夫だよ。さすがにそのへんは学園か、あちらのレース学校が世話してくれると思うからさ」

 

学園の仕事として彼の地へ行くのだから、不動産関係は学園かあちらの学校が用意してくれるというのが、筋ってものだろう。

 

俺がそんなことを説明すると、フラッシュはちょっと不思議そうな表情を浮かべた。

 

「? トレーナーさんが赴任するドイツのレース学校って、おそらくですが【Sportgesamtschule für Pferde-Mädchen Düsseldorf】ですよね?」

「ん……ああ、俺は日本語でデュッセルドルフウマ娘総合レース学校って聞いたけど、ドイツ語だとそう言うのか?」

 

フラッシュの発したドイツ語で理解できたのはデュッセルドルフという地名だけだったが、デュッセルドルフにレース学校は2つもなかったはずだから、そこであっているはずだ。

 

「そこなら、実家から車で20分ぐらいのところにありますから。日本へ留学しなかったら、おそらく私もそこに通っていたでしょうね。ですので、わざわざ下宿先を探さなくても我が家から通ってくださればいいですよ」

「えっ!?あっ、いや……」

「嫌なんですか?」

 

なんでフラッシュがそんな悲しそうな顔をするんだ……。

 

「いや、そうじゃなくてね!さすがにそれは迷惑なんじゃないかと思ってね!」

 

で、俺はなんでこんなに慌てて言い訳をしているのだろうか。

 

「私は全然構いませんし、両親もきっと歓迎してくれると思いますよ。ちょっと今からLANEしてみますね」

 

そう言うとフラッシュは光の速さでスマホを取り出し、ものすごい脚……じゃなくて、ものすごい指使いでLANEを打ち始めた。

 

そんなフラッシュを、俺はただ呆然と見守っていることしかできなかった。

 

*

 

フラッシュが退院できたのは、それから1週間後のことだった。

外出時にはまだ車椅子が必要だが、室内だったら松葉杖を突きながらの移動でも大丈夫、とのことだ。

 

故郷のドイツでの療養に、主治医の吉田先生も賛成してくださった。

 

『フラッシュさんにとって慣れ親しんだ環境で休養されたほうが、メンタル的にも怪我の治りにも良いと思います。帰郷後に診てくれそうな病院については、こちらで探しておきますね』

 

こういうところはさすがに世界中のウマ娘外科とのコネクションがある病院の強みで、すぐにフラッシュの実家近くにある総合病院に連絡を取ってくれて、紹介状も書いてくださった。

 

退院後の休学手続きも、スムーズに済んだ。

 

『休学は残念だが、ダービーウマ娘である君の復帰を心から待ち望んでいるぞ!』

 

休学の書類を受け取った秋川理事長は、フラッシュをそう激励してくれたのだった。

 

*

 

俺が外国を訪れたのは、韓国、アメリカ、ドバイに次いで4カ国めである。

 

どの国の空港もたくさんのひとが行き交い、喧騒に満ちている。

そして、これからの道程や出来事にワクワクさせられる。

そんな空港が、俺は好きだった。

 

特に今回利用したデュッセルドルフ空港は、ドイツで3番めに大きな空港ということもあるのか、活気と人に満ち溢れていた。

 

『トレーナーさん。ドイツへようこそ!』

 

日本語で俺を歓迎してくれたのは、フラッシュのご両親だ。

お二人もご自分のお店を経営されていてお忙しいだろうに、わざわざ迎えに来てくださったのだ。

 

Und willkommen zurück. Blitzlicht.(そして、おかえり。フラッシュ)

 

俺はドイツ語は理解できなかったが、きっとおかえりなさい、のようなことをおっしゃったのだろう。

 

「Ich bin zu Hause. Dad, Mum.」

 

車椅子に乗ったフラッシュは、涙声で挨拶を返す。

そしてご両親はそんなフラッシュを、少しかがんで交互に抱きしめた。

 

「さぁ、トレーナーさん。長旅でさぞお疲れでしょう。自宅に歓迎会の用意がしてあります。早速向かいましょう」

「気を使わせてしまって、申し訳ありません」

 

そうおっしゃってくださるお父様に、俺は恐縮するしかなかった。

 

「ところで、トレーナーさんはお酒のほうは大丈夫ですか?」

「ええ、嗜む程度ですが」

「それはいい。美味しいビールとそれに合うとびっきりのソーセージを用意していますから、ぜひご堪能ください」

「ありがとうございます。それは楽しみですね」

 

日本人がドイツの名物グルメを想像して真っ先に浮かんでくるのが、ビールとソーセージだろう。

 

海外の方を日本にお招きした時、日本人がなにはともあれ寿司屋か天ぷら屋に連れていくように、そのへんはご両親も気を使ってくださったのだと思う。

 

「父と母が作る料理は絶品ですから、トレーナーさんも楽しみにしていてくださいね」

「そうなのか。それは今から楽しみだ」

 

両親の料理の腕を誇らしげに語るフラッシュに、俺が相槌を打っていると。

 

「フラッシュ、あんまりハードルを上げないでちょうだい。そんなこと言って、うちの料理がトレーナーさんのお口に合わなかったらどうするの」

 

フラッシュの車椅子を押しているお母様が冗談っぽくそう言って、娘の頭を優しく撫でた。

そんな様子を、お父様が楽しげに眺めていらっしゃる。

 

その光景を見て、俺はやっぱりフラッシュを故郷に帰したのは正解だったな、と確信した。

 

*

 

フラッシュの実家はライン河畔の緑地帯と広大な自然公園が近くにある、立派な店構えのお菓子屋さんだった。

 

3階建ての建物で1階がお店になっており、2階3階が家族の住居スペースになっているようだった。

 

お店の出入り口の前を通ると、甘くて美味しそうな香りが鼻腔をつく。

この香りをかぐだけで、甘味が欲しくなるような香ばしい香りだ。

 

お店の中にはたくさんのお客さんがいて、奥ではおしゃれな調理服に身を包んだ従業員さんが忙しそうに動き回っていた。

 

今まで意識しないようにしていたのだが、これからフラッシュとひとつ屋根の下で一緒に暮らすことになるんだよな……。

 

そんなふらちなことを考えながら、お店の出入り口の裏側(ドイツでも裏口とか勝手口とかいうのだろうか?)からご自宅の中へお邪魔する。

 

欧米では靴のまま家に入るのが常識、みたいなことは聞いたことがあるけど、お父様とお母様は普通に玄関先で靴を脱いで、スリッパよりももうちょっと靴っぽい履物に履き替えられた。

 

「トレーナーさんも、よかったらこちらのルームシューズをお使いください」

 

そう言うとお父様は、ルームシューズと呼ぶものをこちらに差し出してくださった。

 

「ありがとうございます」

 

俺はお礼を述べながら靴を脱いでそのルームシューズに履き替え、失礼にならない程度にあたりを見回す。

 

日本と大きく違うのは玄関に【ここからは土足禁止ですよ】みたいな明確な線引がなく、入口からそのまま住居スペースにつながっているように見えることだ。

 

「昔は土足のまま家に入るのが普通だったらしいですけどね。ここ数十年で『土足のままよりも、靴を脱いだほうが衛生的』って考え方になってきたそうです。私が物心ついたときには、すでに土足のまま自宅に入るってことはなくなっていましたね」

 

そんな俺が気になったのだろう。

フラッシュは車椅子を降り、松葉杖をついて左足だけお母様にルームシューズを履かせてもらいながら、そんなことを教えてくれた。

 

「そうなのか」

 

時代を経るにつれて習慣や常識が変わっていくのは、何も我が国のことだけではないらしい。

 

今回の土足のことだけではなく、仕入先も覚えていないような、半端な知識はカルチャーギャップにさらなる隔たりを生むだけになりそうだ。

郷に入れば、郷に従えということわざもある。

わからないことは素直に聞き、過失的な失礼があればしっかり謝罪して、少しでも早くここに馴染めるように頑張りたい。

 

*

 

「狭い部屋ですけど、自分の家だと思ってくつろいでくださいね」

 

そういってフラッシュのお母様が案内してくださった3階の部屋は、我が家であるトレーナー寮の自室よりかなり広いものだった。

 

しかも家具は、新品同様の綺麗なもので揃えられていた。

 

「何をおっしゃいますか。こんな広くてきれいな部屋を用意していただけるなんて、恐縮です。家具もとても綺麗ですね」

「ええ。トレーナーさんがいらっしゃるとのことで、新調させていただきましたのよ。夫がDIYで作ったものもありますけどね」

「えっ!?」

 

これ、俺が来るからって新しく買ってくれたものばかりなのか。

しかも、お父様手ずからお作りになられたものも混じってる……?

 

ベッド、クローゼット、机、本棚、テーブル、どれを見ても店から新品を買ってきたようなものにしか見えず、お父様はかなり手先の器用な方らしい。

 

お菓子職人だからそりゃそうだろ、って話なのかもしれないが、お菓子を作るのと家具を作るのではまた違うスキルが必要だとは思う。

 

「俺なんかのためにそこまで気を使っていただいて……ありがとうございます」

「いえいえ。うちの娘がいつも本当にお世話になっているみたいで。あの娘、連絡をくれる時はいつもトレーナーさんのお話ばかりですのよ」

 

そう言ってほほほ……と上品に笑うお母様だったが、フラッシュは一体、どんなことをご家族に報告していたのだろう。

 

トレーナーとして手を抜いたことは一切していないつもりだが、ご両親が俺のトレーニングメニューや普段の振る舞いを娘から聞いて、どんな感想を持ったのかはすごく気になる。

 

……とくに『あの時』のことを報告されていたら、俺は今すぐクビを言い渡されても文句はいえまい。

 

まぁ、こうして手厚く遇してくださるのを見る限り、俺に対してそれほど悪感情を持っていらっしゃらないのだろうとは信じたい。

 

「さぁそろそろ食事の準備も済んだ頃でしょう。2階へ降りましょうか」

「あ、はい……」

 

フラッシュがご両親にどんなことを言っていたのか、どう聞いたら一番自然だろうか……などと考えながら、俺はお母様の背中についていった。

 

*

 

「ふぅっ……お腹いっぱいになったな」

 

満腹を覚えるまで昼食を食べたのは、久しぶりだった。

フラッシュからドイツは昼食がメイン、みたいな話は聞いたことがあったが、これほどガッツリ食べるものだとは思わなかった。

今日は俺の歓迎会ということもあって、普段より量が多いということはあると思うけど。

 

俺は普段、食事は腹8分目を心がけている。

健康のためということもあるし、自分がウマ娘というアスリートを指導している立場上、あまり締まりのない体をしているのもどうか、という思いもあるからだ。

 

それにちょっとだけ、好きな娘に『だらしのない体をしているな』と思われたくない、という気持ちも多少なりともある。

 

にしてもフラッシュのお父様は料理上手で、何を食べても美味しかった。

ソーセージに豚肉のロースト、リンダーロウラーデンと呼ばれる牛肉の肉巻き料理に、ケーゼシュペッツレというたっぷりのチーズをかけたパスタと、それにクラウトザラートというキャベツと玉ねぎを使った酢の物のようなサラダ。

 

噂には聞いていたが、やはりドイツは肉食大国のようで、肉料理が2品3品と出てくることも珍しくないそうだ。

 

それに、勧めていただいたビールもその肉料理にあっていて大変美味しく、危うく呑みすぎてしまうところだった。

 

……ドイツくんだりまで来て、飲酒で醜態をさらすわけにも行かない。

 

いい呑みっぷりですね、もう一杯どうですか?と勧めてくださるお父様には申し訳なかったが、ほろ酔いを覚える程度で丁重にお断りさせていただいた。

 

そんなお父様はお菓子作りのマイスターで、どこに出しても恥ずかしくない美味しい料理を作れる腕前があり、趣味のDIYも市販のものと遜色ない物が作れる器用さを持っていらっしゃる。

 

あとムチャクチャにイケメンで、それをハナにかけることもせず、誰に対しても紳士的だ。

 

そりゃあフラッシュからすれば、尊敬する自慢の父親なわけである。

……あのお方と比べられると、俺としては結構辛いものがあり、フラッシュの求める理想の男性像がお父様であるなら、ちょっと俺ではどうにもならないかもしれない。

 

ま、まぁ顔はともかくとして俺は仕事には誇りを持って取り組んでいるわけで、フラッシュにはそのへんを評価してほしいなあ、なんて思っている。

 

……なんだか悲しくなってきたから、他のことを考えよう。

 

さて。

出向先の学校に挨拶へ行くのは明後日で、まだ少しばかり時間に余裕があった。

 

今日のうちに荷解きをしておいて、明日はあちこち見回るのもいいかもしれない。

ちょっと車で遠出して、異国の地を散策してみるのも悪くないだろう。

 

ちなみに日本人がドイツで車を運転する場合、日本で取得した免許証のドイツ訳のものがあれば、ドイツで免許を取り直したり、試験を受けたりする必要はないらしい。

 

車が運転できるのとそうでないのでは行動範囲が全然違ってくるので、これはとてもありがたい制度だった。

 

明日はお出かけと決めたとたん、いろんなプランが湧き出てきた。

 

ライン川のほとりをゆっくり歩いてもいいし、ランドマークであるラインタワーまで行くのもいい。

チョコレート博物館なんてものもあるらしく、在独中に一度は見学に行ってみたい。

日本の博物館や工場見学と同じように、そこでしか買えないチョコレートがあったりするのだろうか。

 

ドイツでの生活に、俺は相当ワクワクしているようだ。

 

本当はフラッシュと一緒にあちこち行きたいけれど、脚を怪我して休養しているウマ娘をトレーナーが遊びに連れ回すのもまずいよなぁ……なんて思っていると、ガシャンガシャンという音が部屋の前で停まり、そして扉からノックの音が聞こえてきた。

 

「はい」

「私です。入っても大丈夫ですか?」

 

自分の家なんだから勝手に入ってきても良さそうなものだが、俺のような居候にも気を使ってくれるのが、フラッシュなのである。

 

……万が一、勝手に入ってこられても大丈夫なようにはしておかないと。

 

「うん。大丈夫だよ」

 

俺の返事を確認してから、フラッシュは松葉杖を突きながらゆっくり扉を開けて入ってきた。

 

……フラッシュのこのような姿を見ると、やっぱり少し胸が痛む。

 

ちなみに今のフラッシュの装いはシンプルな長袖のTシャツ着て、ボトムはギプスがあってもすんなり脱着できるよう、ダボッとしたパンツを着用している、という感じだった。

 

「用意させてもらったお部屋の住心地は、いかがですか?」

「すこぶる快適だよ。今荷解きしてるから結構散らかってるけどね」

「それはよかった。私も入寮した当日は、そんな感じでしたよ。少し、失礼しますね」

 

フラッシュは微笑みながらそう言って、扉の近くに移動させておいた椅子に腰掛けた。

 

「父も母も、トレーナーさんのことをすっかり気に入ったようですよ。特に父はトレーナーさんの食べっぷりが好印象だったみたいで……うちにいる間はいろんなものを食べさせてあげたいと張り切っていました」

 

とりあえず、あの食事会でご両親の不興を買うようなことはしなかったらしい。

それを聞いて、一安心である。

 

「それは嬉しいけど、食べすぎて太らないようにしなくちゃな」

「ふふっ。トレーナーさんはレースに出るわけじゃありませんから、多少体重が増えてもいいじゃないですか」

 

これはフラッシュ自身がレースに出られないことへの、一種の自虐的な冗談なのかもな、と思ってしまったのは、少し神経質になりすぎだろうか。

 

「そりゃそうなんだけどね」

「両親は人に料理を振る舞うのが趣味みたいなところがありますから、ぜひいっぱい食べてあげてくださいね」

「もちろん。お父様の料理はめっちゃ美味しかったし、お母様も負けず劣らずの腕って聞いてるからこれからの食生活が楽しみだよ」

 

そんなことを言う俺に、フラッシュは静かに微笑む。

 

「ところでトレーナーさん。明日はなにか予定が入っていますか?」

「ん、いや。学校に顔を出すのは明後日だし、明日は近所をぶらぶらしようかな、なんて考えていただけだよ」

「そうなんですか。もしよかったら、車で一緒に連れて行っていただきたい場所があるのですが……」

 

遠慮気味に、フラッシュはそう切り出した。

どうやらフラッシュは、雑談がてらに俺をお出かけに誘いに来てくれたらしい。

 

それは全然構わないのだけど、帰郷してすぐに俺なんかと一体どこへ行きたいのだろうか?

そんな疑問が沸いてきたが、一人での散策はいつでもできるわけだし、フラッシュとお出かけできるのなら是非もない。

 

「フラッシュの脚に負担がかからない範囲なら、俺はどこでも付き合うよ。どこへ行きたいんだい?」

 

俺が聞くと、フラッシュは少し苦い笑みを浮かべる。

 

「お別れに立ち会えなかった、祖父のお墓参りに行きたいなと思いまして」

「……。そうか」

 

フラッシュが祖父の訃報に接した時、彼女は大阪杯というGⅠの大舞台を控えていた。

本当ならフラッシュも、いの一番に駆けつけてとてもかわいがってくれたという祖父にお別れの言葉を捧げたかったに違いない。

しかしフラッシュはそうはせず予定通り大阪杯に出走し、ダービーウマ娘としての責任を果たした。

 

それが本当に正しいことだったのか、今になっても俺にはわからない。

 

「祖父のお墓は、家から車で1時間ぐらいのところにあるそうです。車は両親のものがありますので、トレーナーさんさえ良ければ、連れて行っていただけないでしょうか?」

「もちろん、大丈夫だよ。俺も君のお祖父さんに、謝りたいと思っていたから」

「……トレーナーさんは、なにも謝るようなことはしていないと思いますけどね。出発は明日の朝9時ごろでお願いしたいのですが……」

「OK、わかった。それまでには出かける準備をしておくよ」

 

俺の返事を聞くとフラッシュはゆっくりと立ち上がり、それではよろしくお願いしますね、と言い残して、松葉杖を突きながら部屋から退出した。

 

*

 

日本人が墓地、お墓と聞くとどうしても陰鬱なものを想像しがちだが、フラッシュのお祖父さんが眠る墓地は緑豊かで、まるで庭園や公園のような佇まいだった。

 

「私たちの国では、お墓の中に死者が眠っているとは考えません。死者の霊は亡くなってすぐに天国へ召されているので、お墓というのはそのことに感謝する場所、亡くなった人との思い出を振り返る場所なんです。だからこそ墓地に訪れる人の心が落ち着くよう、美しく整えられているのだと思います」

「なるほどなぁ。日本でも墓地は綺麗にされているけど、それは死者が安らかに眠れるように、って意味合いが強いもんな。それに、お墓参りはそのお墓に眠っている人との対面、対話って考える人も多い」

 

墓地の通路に差す優しい木洩れ陽のなか、俺はフラッシュの乗る車椅子をゆっくりと押し進めていた。

平日の午前中ということもあるのか、ここに来るまでに他の墓参者とすれ違うこともなかった。

 

「確か、このへんのはずですが……」

 

お父様に書いてもらったメモを手元に広げ、フラッシュは祖父のお墓を探して左右を見渡す。

 

「あっ。おそらくあのあたりですね。トレーナーさん。申し訳ありませんが、松葉杖を貸してもらえますか?」

「ああ。大丈夫かい?」

「ええ。だいぶ松葉杖の扱い方も、慣れてきました」

 

フラッシュは二本の松葉杖を受け取ると、それを支えに立ち上がる。

そこから30歩ほど歩いただろうか、彼女は一つの墓石の前で立ち止まった。

まだ新しさを感じさせるそのお墓が、フラッシュのお祖父さんのものなのだろう。

 

フラッシュが墓石と向き合って、数秒後のことだった。

 

フラッシュはまるで松葉杖のことなど忘れたかのように右手のそれを手放すと、そっと祖父の墓標に触れた。

 

その蒼い瞳からは、とめどなく涙が溢れ流れている。

 

墓石にはフラッシュのお祖父さんの名前、それに誕生日と命日、そしてその下に短い文章が彫り込まれていた。

 

ドイツ語で刻印されたその文章で俺がかろうじて分かったのは、【Japan-Derby】という単語だけだった。

 

「フラッシュ。墓石にはなんと……?」

「【腕の良い菓子職人にして日本ダービーウマ娘の祖父、それらを誇りに天国へ】です。Großvater. Über mich, bis zum Ende ......bis zum Ende über mich, Großvater. Es tut mir leid... Danke...(おじいちゃん、ごめんね。ありがとう…)

 

フラッシュの形の良いくちびるからこぼれたドイツ語は、小さな声で震えていた。

 

日本ではあまり馴染みがないが、海外ではこのように、墓石にその人の功績や歩んだ人生などを刻印されていることは珍しくない。

 

後世の墓参者はその刻印を見て、故人の人生に思いを馳せる。

 

生前のフラッシュのお祖父さんは、親しい人たちがこうして墓誌に書き残したいと考えるくらい、孫のフラッシュのことを誇らしく思って暮らしていらっしゃったのだ。

 

様々な想いや思い出が、彼女の心の中を交差しているのだろう。

フラッシュは墓石に手を添え、顔を伏せて静かに涙を流している。

 

俺はそんなフラッシュを、黙って見守ることぐらいしかできなかった。

 

どれぐらい、時間が流れただろうか。

 

「トレーナーさん。私は、必ず怪我を治して復帰します。そしてもう一度、GⅠの大舞台で勝利して、その栄光を祖父へ捧げたいと思います」

 

顔を上げ、そう力強く宣言するフラッシュの瞳からは、もう涙は流れていない。

担当するウマ娘が目標を立てたのなら、それを実現するためにできる限りのサポートをするのがトレーナーの仕事であり、使命なのだ。

 

よけいな言葉は不要だろうと思った俺は、彼女の誓いに静かに頷く。

 

フラッシュはそっと墓石から手を離すと、松葉杖を俺に預けてゆっくりと車椅子に腰掛けた。

 

「もう、いいのかい?」

「はい。きっとこれからも、祖父は天国から私を見守っていてくれることでしょう」

 

そう応えてくれたフラッシュの顔は、晴れやかだった。

 

「いきましょうか。トレーナーさん、車の方までお願いします」

「わかった」

「トレーナーさん」

「うん?」

「今日は、本当にありがとうございました」

 

こちらに振り向いて薄く目を閉じ、お辞儀して礼を言ってくれるフラッシュを見て、俺はなぜか泣きそうになる。

 

「ううん。俺の方こそ大切な時間をフラッシュと共有できて、良かった」

 

車椅子のハンドルに手を掛けて押し進める前に、俺はもう一度フラッシュのお祖父さんのお墓に振り向き、深く一礼した。

 

俺は必ず、あなたの自慢のお孫さんをターフに復帰させてみせます。

 

そしてもう一度、GⅠ勝利の栄光をフラッシュに。

 

俺たち二人は同じ誓いを【腕の良い菓子職人にして、ダービーウマ娘の祖父】に立て、決意を新たに閑静な墓地をあとにした。

 

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