担当のいるトレーナーにとって、日曜日というのは愛バをレースという戦場に送り出す日であり、そのライバルたちを現地やテレビで研究する日である。
そのせいだろうか、ドイツに来てしばらくは仕事のない日曜日が来るたびに、なにかもやもやしたものだった。
しかし今日に限って言えば久しぶりに、学園での日曜日に感じていた、あの緊張した仕事の感覚を取り戻していた。
『日本ダービーもいよいよ最後の直線を迎えました。さぁ一番人気のオルフェーヴル抜け出した、あの狭いところから力強く抜け出した!先頭はオルフェーヴル、オルフェーヴル先頭!ウインバリアシオンが迫るが、内に切り込んでオルフェーヴル譲らない!オルフェーヴル今一着でゴールイン!なんという力強さか!圧倒的な強さで二冠達成です。オルフェーヴル、ガッツポーズ、今日は派手なガッツポーズを見せました!』
「強いですね……」
リビングで一緒にテレビを見ていたフラッシュが、あごに指を添えてつぶやいた。
「ああ。ゴルシや去年のトリプルティアラウマ娘のジェンティルドンナとは、また違った質の強さを感じさせるな」
ダービーウマ娘になったオルフェーヴルの走りはゴルシやジェンティルドンナと同様、力強くも荒々しいものであったが、二人と比べてオルフェーヴルはもう一段、上のギアを持っているような雰囲気がある。
ひょっとしたら彼女は秋の菊花賞もあっさり制して、三冠ウマ娘になってしまうかもしれない。
今のオルフェーヴルからは、それだけの力を感じさせた。
「私が復帰したら当然、彼女は手強いライバルになることでしょう。全盛期ならともかく、今のオルフェーヴルさんを負かすのは、今の私では難しいかもしれませんね」
そんなことはない、と否定してやりたかったが、これだけの強さを見せつけられた以上、それは気休めにしかならないだろう。
「力だけで言えば、確かにそうかもしれない。でも君には冷静にレースを運ぶ知性と、彼女にはない豊富な経験があるじゃないか。レースの結果は単純な走力だけで決まるわけじゃない。戦うとなれば、フラッシュの持っているものすべてを尽くして若き天才に立ち向かおう。君がいつも、そうしてきたように」
「そうですね。ええ、その通りです」
俺の言葉に、フラッシュは力強くうなずいてくれる。
そうだ。
フラッシュはどんなレースにも、どんな強敵にも、全身全霊を尽くして戦い抜いてきた。
もうフラッシュのレースを間近で見続けて4年になるが、彼女が勝利を、ひとつでも上の順位を諦めてゴール板を通過したシーンを俺は一度も見たことがない。
二桁順位の屈辱に甘んじたときでさえ、一人でも前にいるウマ娘を抜き去ろうと、最後まで全力でターフを駆け抜けていた。
大丈夫。
どんな強敵を相手にしても、きっと君は君らしくレースを戦える。
そして、ファンのみんなや俺はそんな君を見ていたいんだ。
だから、今は……。
「今はしっかりと怪我を治すことだけを考えよう。復帰した際、どんな強敵を相手にしても全力を出せるように」
「はい」
フラッシュは芯の強さを感じさせる笑顔で、返事してくれた。
*
フラッシュは毎日リハビリと診察のために病院に通い、予想よりかなり早い回復を見せているようだった。
怪我の回復スピードというのは、ウマ娘の性格によってかなり左右される。
持って生まれた回復力というものももちろんあるが、医師の指示通りにリハビリをしなかったり、復帰を焦るばかりに治りきっていない箇所に負担をかけるようなトレーニングをしてしまうようなウマ娘は、当然怪我の治りも遅くなる。
その点フラッシュは模範的な患者のようで、医師や理学療法士に指導されたリハビリは完ぺきにこなしているし、オーバーワークになりかねないトレーニングを自己判断で行ったりもしない。
彼女の生真面目さが、怪我の回復に確実にプラスの方向へ働いていた。
故郷に戻ってレースと距離をおいたことも、スランプに打ちのめされていたメンタルに良かったのだろう。
日本にいる時に感じていた、どこか影がさしているような様子が、日に日に薄れていっているのがわかった。
ここには、厳しいトレーニングも食事制限もない。
マスコミが大挙して訪れることもない。
その落ち着いた環境でフラッシュはリハビリに励み、本を読み、両親の作る食事やお菓子を楽しんで、確実に心身を回復させていった。
そんな故郷での日々に、フラッシュは久しぶりに心からの安らぎを感じていたのではないだろうか。
のんびりとした日常に変化があるとすれば、里帰りしてきたフラッシュに、アルベルトさんのような旧友たちが尋ねて来るくらいものだった。
懐かしい友人たちと会話も、長い競走生活で疲れ果てていたフラッシュの心を癒やしてくれたようだ。
7月の終わりには、フラッシュはギプスを外せるところまでの回復を見せる。
医師が言うにはこれは驚くべき回復力で、今の段階でも軽いジョギングやプールトレーニングぐらいなら、むしろ積極的にやったほうが脚に良い、とのことだった。
『この調子ならひょっとしたら、早ければ年内に復帰できるかもしれませんね』
その医師の言葉に、俺達は心を弾ませた。
厳しいトレーニングも激しいレースもない落ち着いた日々は、確かに悪くないものだった。
だがフラッシュは現役のウマ娘であり、俺は彼女を支えるトレーナーなのである。
怪我が癒えればまた、勝利への栄光を二人で追い求めることができる。
それ以上の朗報は、今の俺達にあり得なかった。
*
8月に入り、俺のドイツでの赴任期間もいよいよ一ヶ月を切った。
幸いなことに俺の仕事ぶりは評価され、赴任してきてから15人ほどの、まだ専属トレーナーのついていない新人ウマ娘たちの指導を任せてもらえた。
そしてその全員が、信頼できるトレーナーたちにスカウトされていった。
俺としては、彼女たちの幸多いレース人生を祈るばかりだ。
今、俺が担当しているスカウト待ちのウマ娘は3人いる。
彼女たちは晩成型のウマ娘で、本格化が訪れるのが早熟型や普通型の娘達と比べると、少し遅い。
それですでにmeiden(日本でいうメイクデビュー・未勝利戦)が始まっているこの時期まで、調整がずれ込んでいるのだ。
晩成型のウマ娘は確かにデビューが少し遅くなってしまうが、その分長期間ピークが持続できて、長く現役生活が送れる娘が多い。
日本のウマ娘で有名どころだと、クラシック級でデビューして菊花賞や天皇賞を勝ったメジロマックイーンや、同じくクラシックになってからメイクデビューを戦い、いまだ現役バリバリのワンダーアキュートなどが晩成型のウマ娘の好例だろう。
そうはいっても、もうデビュー戦に出走している同期の子達を見て、焦りを覚えてしまう娘も当然いる。
そういう娘には晩成型のウマ娘が持っているメリットを伝え、早急な成果を求めず、今はとにかくじっくりとデビューに向けて体を作っていくことが大切なんだ、ということを納得するまで何度でも説明する。
そのあたりのメンタルケアも、初期教育を受け持ったトレーナーの大切な役割なのだ。
おそらく今受け持っているこの娘たちが、俺がドイツで担当する最後のウマ娘たちになると思う。
俺にとって後悔のないよう、そしてなにより彼女たちに『専属トレーナーがつくまで、この人に指導してもらえてよかった』と思ってもらえるよう、最善のトレーニングメニューを組んでやりたい。
そう意気込んで下宿先であるフラッシュの実家へ戻り、フラッシュ一家とともに夕食を頂いている時にその話は出た。
「そうだ、トレーナーさん。トレーナーさんは水泳はお嫌いではないですか?」
そう聞いてくださったのは、フラッシュのお母様だった。
ちなみにこうして俺を含めて食事をする時は、俺が気まずい思いをしないよう、みんな日本語で話してくれている。
俺も赴任中、まったくドイツ語を勉強しなかったわけではないが、さすがにわずか3ヶ月ほどでネイティヴと日常会話を軽く交わせるようになるほどは、語学の才能に恵まれていなかったようだ。
「水泳ですか。ええ、どちらかというと泳ぐのは好きな方ですよ」
学生時代、部活の合宿では遠泳をさせられたものだし、恋人とプールや海に行くとき、男が泳げないというのではちょっとカッコがつかないだろうということもあって、中学時代に少しスイミングスクールに通っていた時期もある。
「それはよかった。今度の日曜日、せっかくいい季節にトレーナーさんが来てくださっていることだし、みんなで湖水浴に行こうかという話が出ているのですが、よかったらご一緒にどうですか?」
そう。
フラッシュの実家のお店は、日曜日がお休みなのである。
というより、ドイツの日曜日は一部の例外を除いて、スーパーやコンビニなども本当にどこもお店が開いていない。
来独した当初、スーパーなどはともかく、お菓子屋さんが日曜日に休んで大丈夫なのか?と実に日本人的な感覚でよけいな心配をしたものだが、どうやらドイツには閉店法というものがあるらしく、日曜日や祝日は基本的にお店は営業できないらしい。
24時間営業のコンビニや、ほとんど年中無休でやっているスーパーに慣れきっている俺からすると、こちらに来た直後はなんとも不便に感じたものだが、人間何にでも慣れるもので、今では特にそれでなんとも思わなくなってしまった。
消費者としてはもちろん日本のほうが便利だけど、労働者のライフワークバランスという意味ではドイツの方が取れているような気もする。
俺がひとつ言えるとすれば、便利や快適、当たり前の環境というものは、誰かの労働で成り立っているということだけだ。
「湖水浴ですか。いいですねぇ」
日曜日に遊びに行くと聞いて、余計な思考に気を取られそうになったが、なんとかお母様との会話に意識を戻す。
そういえば合宿中、フラッシュからドイツでは海水浴ではなくて湖で泳ぐ湖水浴のほうがポピュラーだ、みたいな話を聞いたことがあったなぁ。
「ドイツの湖水浴場も、日本の海水浴場と同じように売店があってシャワーなども完備しているので、きっと楽しめると思いますよ。私も久しぶりの湖水浴で楽しみにしているんです」
チーズをつまみながら、フラッシュが笑顔で会話に加わってくれる。
フラッシュの脚は順調に回復しており、最近では外を出歩くときも松葉杖も使わなくなっていた。
ちなみにドイツの夕食はカルテスエッセンと呼ばれ、火を使わない簡単なおかずがメインになることが多い。
夕食の準備に時間や手間を掛けない分、家族との時間や自分の時間を楽しもうという考え方らしい。
「……。確かに日本だと、湖で泳ぐ機会ってあんまりないからなぁ」
思わず『泳ぎだったら脚元に負担がかからないし、復帰前のトレーニングとしてはちょうどいいね』なんてつまらないことを言いかけてしまった。
みんなで遊びに行こうというときにまでこういう発想が出てくるあたり、俺の職業病もかなり深刻である。
「父も泳ぎが得意なんですよ。学生時代に学校代表で大会に出て優勝したこともあるそうです」
「そうなんですか?すごいですね!」
俺が驚きと尊敬の眼差しをお父様に向けると、彼はちょっと困ったような笑みを浮かべた。
「もう昔のことです。今は水に浮いているのが精一杯だと思いますよ」
そう謙遜するお父様だったが、今でも仕事終わりに週3回ジムに通われて体を作っていらっしゃるのを俺は知っている。
本人は健康維持のためにちょっと体を動かしてきているだけですよ、とおっしゃるが、職業柄甘いものを味見することも多いだろうに、お腹が出ているということもなく、男性らしい均整の取れた体型をしていらっしゃる。
きっとそれなりに、負荷の高い運動を心がけていらっしゃるのだろう。
お母様も朝晩のランニングを日課にしていらっしゃるようだし、お互いの努力を見て高めあえる夫婦というのは、本当に素敵だと思う。
「トレーナーさんも来てくださるなら、今度の日曜日は湖水浴ツアーに決定ね。当日は腕によりをかけてお弁当を作るので、楽しみにしていてくださいね!」
お母様はそういいながら、トン、と自信ありげに胸を叩く。
お母様のお料理もお父様に負けず劣らず、素晴らしい腕前だ。
「お母様のお料理は本当に美味しいですから、楽しみにしていますね。お手数おかけしますが、よろしくお願いします」
「あらあら。嬉しいこと言ってくれるわね。任せてちょうだい!」
そういってお母様は、明るく笑った。
フラッシュが真っ直ぐすぎるぐらいにいい子に育っているのは、素晴らしい両親に恵まれ、良い環境で育ってきたからなのだな、とここに居候させてもらって、改めて感じることができた。
こうして週末の楽しみが一つ増えた俺は、これを励みに一層仕事をがんばろうと心に決めて、皿の上に残っていた枝豆を口に放り込んだ。
*
日本の高温多湿の夏に比べると、ドイツの夏は過ごしやすく感じる日が多い。
日本よりかなり湿度が低いことも、その一因だろう。
しかしそれでも近年はかなり気温が上がっているらしく、一昔前は夏でも冷房がいらなかったそうだ。
そんなドイツの夏は短く、9月に入るともう肌寒さを感じる日も増えるという。
俺達が出かけたのはまだ8月も始まって間もない時期だったが、そのような季節柄、湖水浴シーズン的にはもう終盤なんだそうだ。
お父様の運転する車で連れてきていただいたのは、フラッシュの実家から20分ぐらい行ったところにある湖水浴場だった。
夏らしい強い日差しの反射する、澄んだ湖面にはボートやヨットなども浮かんでいて、ちょっと瀟洒な雰囲気が漂っている。
「おお……素敵なところですね」
「でしょう?この辺に住んでいる者は、夏はここで湖水浴を楽しむんですよ」
ビーチパラソルやレジャーシートなどを抱えたお父様が、得意げに視線を湖へ向ける。
地元の景勝地を誇りに思うのは、どこの国の人も同じようだ。
そういう場所なのか、湖畔には人の姿も思ったほどは見られず、俺達は良い場所にレジャーシートを広げることができた。
「思っていたより人がいなくて、騒がしくなくていいですね」
「日本のこういう場所では、もっと混み合っているものなのですか?」
お父様とそんな会話を交わしながら、俺達は男二人で場所取りとその陣地の設営に勤しんでいた。
国は変われど、こういうことはやっぱり男の仕事らしい。
で、女性陣の二人はというと、今水着にお着替え中だったりする。
「ええ。シーズン真っ盛りの時だと、泳ぐのも大変なぐらい混んでいることもありますよ」
「それはそれで、賑やかで楽しそうですね」
「ははは。楽しいんですけど、帰りは遊びに行ったのか疲れに行ったのか、わからないぐらい疲労困憊になっていますよ。帰りの車の中で、運転している人以外はみんな寝てしまってたりしますし」
「ああ、それは我が家も同じですね。でも遊び疲れて眠っている妻と娘を見ていると、これも幸せのひとつなのかなと思ったりもしますよ。おっ、ふたりとも着替えてきたようですね」
別にお父様の着替えてきた、の一言に反応したわけでもないんだけれども、俺もお父様と同じ方向へ視線を向ける。
お母様の水着はオールワンタイプの、大人の女性を感じさせる清楚な水着だったのだが……フラッシュのそれは、片側がオフショルダーになっている、ビキニタイプの結構大胆な水着だった。
「湖水浴なんて久しぶりだから水着を新調したんだけど、どうかしら?」
お母様はそういうと、照れくさそうに水着の裾をちょっとつまんでみせる。
「うん、素敵だよ。君によく似合ってる」
すらっとそういうことを言えるあたり、お父様も欧州の男性なんだなと思う。
……で、俺は教え子の母親の水着姿を見て、どう反応するのが正解なんだ?
「……ええ。お父様のおっしゃるとおり、本当によくお似合いですよ」
とりあえずお父様に同調しておけば失礼はないだろうと思った俺は、無難な笑顔を浮かべてお父様の言葉に追随することにした。
「トレーナーさん、私も母の買い物に付き合って水着を買い替えたんです。いかがでしょうか?」
ああ、難題というのは時に連続して襲いかかってくるものだ。
教え子であり、片思いの女の子のご両親の前で、その娘の水着姿をどう褒めればいいのだろうか。
ギャルゲーならせめて選択肢があるのだが、もちろん現実の世界でそんなものが宙に浮かんでいるわけもない。
率直な第一印象はセクシーだな、というものだったが、ご両親の前でそういう単語を口にするのはなんといいますか、あまり良くない気もする。
かといって『若い娘がそんな露出の高い水着を着ているのはけしからん!』というのも、同じぐらい大ひんしゅくを買いそうだ。
「ああ、うん。よく似合っているよ」
結局俺は、滑稽なまでに陳腐な単語を並べることしかできなかった。
「……。ありがとうございます」
せっかく新しく買い替えた水着を当たり障りのない褒め言葉で済まされたのが残念だったのだろうか、フラッシュは小さく苦笑した。
いや、例えばこれが学園の合宿の自由時間とかだったら、俺だってもう少し気が利いたことが言えたと思うんだけどね?
フラッシュの、そこはかとなく不満げな顔を見ながら、頭の中で言い訳する。
ま、まぁ今日一日ここで遊ぶわけだから、きっと挽回するチャンスもある。
レースでも出遅れたらすべてが終わり、というわけでもないのと同じだ。
「せっかく湖に来たんだから、二人で少し泳いできたらどう?私達はお弁当の支度をしているから、お腹が空いたらいつでも戻っていらっしゃい」
そうおっしゃってくださるお母様に、俺とフラッシュは顔を見合わせてうなずいた。
「じゃあ、お母様のお言葉に甘えようか。水に入る前に、少し体を動かしておこう」
「そうですね。ここの湖は合宿のときの海より少し冷たく感じるでしょうから、しっかり準備運動をして水温に体を慣らしてから泳いだほうがいいと思いますよ」
「そうなのか」
言われて今更気がついたが、俺にとって湖に入るという経験は、これが初めてなのである。
ここはきちんと、経験者の言に従っておいたほうがいいだろう。
で、【しっかり体を動かす】といえば、俺の中ではラジオ体操第一だったりする。
まずはのびのびと、背伸びの運動から……。
う~ん。
久しぶりにやったにもかかわらず、ちゃんとこうして体が覚えているあたり、初等義務教育の偉大さを認めざるを得ない。
俺の親世代などは夏休みの早朝に小学生や近所の人達が公園や神社に集まってラジオ体操をする、なんて習慣もあったらしいが、最近では朝っぱらからラジオの音がうるさいなどの苦情が入るらしく、俺が小学生の時にはすでにその文化は過去のものになっていた。
なんとも世知辛い世の中である。
と日本の過去の風情に思いを馳せながら体を動かしていると、お父様とお母様からの、なんとも言えない視線と表情が目に入ってきた。
そればかりでなく、俺達と同じように遊びに来ている周りの人たちや、道行く通行人も、こころなしかみんな俺に注目しているような気がする。
……ひょっとして、この体操に馴染みのない人から今の俺の動きを見ると、ただただ変な踊りをしている人に見えているのではないだろうか。
今更やめて急に立ち去るのもなんだかバツが悪いような気がした俺は、何も気づかなかったふりをしてラジオ体操第一を続ける。
ドイツの人たちから見れば、ただの不思議な踊りでしかなかったであろうラジオ体操第一に最後まで一緒に付き合ってくれたフラッシュの優しさが、なんとも心に沁みわたった。
と、そんな感じで出だしはいろいろと良好とは言えないお出かけイベントだったが、その後は泳ぎはもちろんのこと、ビーチボールバレーなどをして遊んだり、それにいつか約束していたリフティング勝負をしたり、お母様お手製のお弁当を食べたりして、心ゆくまで湖水浴を楽しんだ。
リフティング勝負は元サッカー部員として負けられない戦いだったが、現役ウマ娘の体幹バランスと持久力に勝てるわけもなく、あっけなく敗退した。
「……ここんとこ忙しくて運動不足だったし、ボールに触ったのも大学3年生の引退試合以来だしね。この結果も仕方ないかな、うん」
惨敗した俺のできることと言えば、なんともカッコつかない言い訳をすることぐらいのものだった。
「そうですね」
そんな俺の言い訳を聞いて、フラッシュは分かってますよ、と言わんばかりの生暖かい視線をくれて微笑むだけだ。
……これじゃどっちが年上か、分かったもんじゃない。
それにしても教え子相手の遊びとはいえ、ホントのところはムチャクチャ悔しかった。
学生時代にはさんざんやりこんだリフティングだったし、もう少しうまくやれると思ったのだが、結果的には日頃体をろくに動かしていないという事実を、嫌と言うほど思い知らされるだけだった。
学園に戻ったら俺もフラッシュと一緒に、少し走り込んだほうがいいのかもしれない。
そんな感じでほぼ半日動き回って、さすがに疲れを覚えていた。
あ~……大学生の時はこれぐらい遊んでも疲れなんか感じなかったものだけどなぁ……。
普段の運動不足ということもあるだろうけど、こうやって人間ってのは老いていくんだろう。
少し、休むか。
人の諸行無常を感じながら、俺は「もうちょっとだけ、泳いできますね」とフラッシュ一家に伝えてから、俺たちのベースキャンプになっているパラソルから離れた。
フラッシュとご両親に疲れた顔を見せたくなかったというのもあるし、こんなときにしか話せない家族での話もきっとあるだろう。
そんなことを考えながら、俺は人気の少ない岩場の影を見つけてそこに腰を落ち着けた。
「ふぅ……」
日差しはそれなりにきついが、湿気があまりないせいだろうか、こうして日陰でじっとしていると、湖の方から吹いてくる風も相まって結構涼しい。
異国の風に吹かれて静かに揺れる湖面を眺めていると、少しずつ現実感を喪失してゆくような感覚に襲われる。
このまま、現実を手放してしまうのも悪くない。
湧き出る思考をそのままにし、その非現実感に身を委ねていると、湖畔の方から伸びた人影か近づいてきた。
「トレーナーさん、大丈夫ですか?」
聞き慣れた声と、いまだ見慣れない水着姿が目に入ってきたことでで、俺の意識は一気に現実に引き戻された。
「! ああ、フラッシュ。ごめん、ちょっと疲れて涼んでいただけだよ。大丈夫」
フラッシュの水着姿に目のやり場に困りながら(結局彼女の、真っ白いデコルテあたりに視線をやった)、俺はゆるりと立ち上がる。
「よかった。湖の方に行ってもトレーナーさんの姿が見えなかったものですから……。トレーナーさんに限ってそんなことはないと思いましたが、万が一水難事故に遭われていたら……と考えると心配になってしまいまして」
「それで探しに来てくれたのか」
「はい。もう少し探して見つからなかったら、両親にもトレーナーさんを探すのを手伝ってもらおうかと考えていました」
しまった。
当然、その可能性は考慮すべきだった。
気を使わせまいと思って余計なことを言わずにあの場所を離れたつもりが、そんな大ごとになっていたらせっかく連れてきてくださったご両親に合わせる顔がない。
「それは申し訳ないことをしたね。もうそろそろ、パラソルの方に戻ろうかと思っていたところだったんだ」
「そうでしたか。ちょっと、私も心配しすぎでしたね」
そうして言葉をかわしながら、俺達はベースキャンプの方へ歩き始めた。
空を見上げると、陽はもう西に傾きかけている。
楽しい時間は本当にあっという間だな……などとたそがれていると、ふと、少し先を歩いているフラッシュの右足首が視線に入ってきた。
怪我自体はもうほとんど完治しているとはいえ、彼女の白くて美しい肌に残る傷痕は、まだ生々しさを感じさせる。
それを見ると、拭いきれない罪悪感が胸の奥からせり上がってくる。
おそらく一生消えないであろうあの傷の責任の一端は、間違いなく俺にあるのだから。
でもフラッシュは俺が今日見ていた限り、少なくとも表面上は傷のことを意識している様子もなく、久しぶりの湖水浴を満喫しているようだった。
そのことは俺にとってちょっとした救いだったが、トレーナーをしている限り、フラッシュを故障させてしまったことは絶対に忘れまい、と彼女の傷痕に誓う。
楽しかった一日の締めとして、このほろ苦い誓いはちょうどよい、と俺は思った。
ふいに俺達の間を吹き抜けた午後の風は、わずかに秋を気配を感じさせた。
フラッシュがトゥインクルにデビューして、おそらくもっとも平穏だったであろう夏も、もう終わりだ。
俺達はこの夏の終わりを惜しむかのように、ゆっくりと砂浜を踏みしめながらご両親のもとへと戻った。
*
まだ8月の下旬だというのに、デュッセルドルフにあるこの学校に吹く風は、少しばかり冷気を感じる。
そんな秋の混じった風を受けながら、手入れされたポリトラックの上をエイシンフラッシュは全力で駆け抜けていた。
あれだけの怪我をし、一時は再起も諦めていたフラッシュが、今全速力でコースを駆け巡っている。
その光景を見ているだけで、俺は不覚にも目から汗をかきそうになる。
「おお~、さすが日本のダービーウマ娘。迫力が違いますな~」
そんな俺の感傷など気に掛ける様子もなく、どこか間延びした感じでフラッシュの走りを称賛したのは、正門の方からテクテク歩いてやってきた通訳を務めてくれているエミーリアさんだった。
彼女は放課後のトレーニングの時間になると学園にやってきて俺の通訳を務めてくれて、それが終われば俺と呑みに行く時以外は、さっそうとそのまま夜の街へ消えてゆく。
エミーリアさんのそのワークスタイルは、一貫して変わることはなかった。
かようにドイツ人らしい時間厳守の精神を持っている彼女の服装は、意外にもいつもかっちりとした女性用のビジネススーツだったりする。
エミーリアさんとの契約も俺がこの学校に赴任している8月いっぱいまでなので、彼女と顔を合わせるのも、もう数日を残すのみだ。
そのことに寂しさを覚えないかと言えば、それは嘘になるだろう。
「そうでしょう。ダービーを勝った頃と同じ、とまではいいませんけど、結構いい感じに走れていると思いますよ」
そんな一抹の寂しさはとりあえず心の奥にしまい込んで、俺は彼女の言葉に満足気にうなずく。
フラッシュは今、この学校のトレーニングコースを間借りして走り込みを行っている。
フラッシュの故障は彼女の努力もあって驚異的な回復を見せ、8月の中ばには医師から『もうトレーニングを再開しても大丈夫』というお墨付きを頂いていた。
5月の頭に医療センターで手術した直後は最悪、復帰レースは来年の大阪杯あたりになるかもしれないと考えていたのだが、今のフラッシュの状態なら、仕上がり次第で年内のレースをいくつか戦えそうであった。
そう判断した俺達は、早速トレーニングを再開することにしたのだ。
シニア二年目のフラッシュは、現役のウマ娘として決して若くない。
レースやトレーニングから遠ざかれば、それだけ肉体は衰え、走り方を忘れてゆく。
それならばできるだけ体が走りを覚えているうちにトレーニングを再開し、レースへ復帰したいというのが俺達二人の共通認識だった。
そんな決断を下した俺たちが頭を悩ませたのが、フラッシュがトレーニングを行う場所だ。
レース学校の練習場を借りられればそれが一番良いに決まっているが、学校側からするとフラッシュは臨時雇いであるトレーナーの俺が担当しているウマ娘というだけで、彼女は学校とは何の関係もない部外者なのである。
その部外者のために、臨時トレーナーがmeidenも盛りの時期に練習場を貸してくれ、というのも迷惑な話なのではないか、と思ったのだ。
まぁ、断られたらまた他の練習場所を探せばいいか。
そう開き直ってダメ元で校長先生にこちらの事情を説明すると、思ったより好意的に俺の無理な願いを聞き届けてくださった。
『そういうことなら、ぜひ学校の練習場を使ってください。日本ダービーウマ娘の走りは、きっと我が校の生徒たちにとって良い刺激になることでしょう』
そう言って校長先生は、フラッシュへの練習場所の使用許可を出してくださったのだ。
そのあたりはフラッシュがドイツ出身ってことも多少配慮があったのかもな……などと大人の事情を勘ぐっていると、フラッシュが最後までスピードを落とすことなく、ゴール地点と定めておいた俺とエミーリアさんの前を駆け抜けていった。
「ふぅっ……。トレーナーさん、いかがでしたか?」
ゴール地点から数メートル過ぎたところで立ち止まったフラッシュが、息を整えながらこちらへ向かってクールダウンするように歩いてくる。
「うん、いい走りだったよ。体の疲れの方はどうだい?」
「ええ、トレーニングを再開した当初ほどのものはありませんね。もう一本、走り込んできてもよろしいでしょうか?」
「そうだね……」
息の戻りを見ても、フラッシュは故障前とほぼ変わらない体力を取り戻しつつあるようだ。
本当のことを言えば、ここまで体が戻っているのなら闘争心を呼び戻す意味でも、マッチレース形式の併走トレーニングを行いたいところではあった。
だがそこはアウェーの悲しさ、トレセン学園にいるときのように、いつでもその相手が見つかるわけではない。
「本当なら併走トレーニングをやりたいところだけど、環境が環境なだけに仕方ない。もう一本、一杯に追って……」
「トレーナーさん、トレーナーさん」
俺とフラッシュがトレーニングの議論を交わしている最中だというのに、いきなりエミーリアさんが間に割って入ってくる。
「あ~、エミーリアさん。呑みの誘いなら後でにしてもらえますか?今仕事中なので」
この人はこちらが勤務中にもかかわらず、たまにこうして遊びに誘ってくるのだ。
ウマ娘のトレーニング中にお願いする通訳に関して、彼女は間違いなく信頼できるプロだったが、仕事の合間にこうしてちょくちょく呑みやら遊びやらに誘ってくるのは本当に勘弁してほしいと思う。
「違いますよ!トレーナーさんの中の私、一体どんな奴になっているんです?」
「勤務中に仕事と関係ない話を振ってくる、ちょっと困った人ですかね……」
「まさかの火の玉ストレート!?」
ストレートもカーブもなく、俺は事実を告げただけである。
フラッシュもこちらをみて、困ったような顔をしてるじゃないか。
「くっ、もうすぐトレーナーさんとの契約期間も終わるのに、このままでは低評価をつけられて私の給料の査定に響いてしまう!ここは良い提案を献上して、評価を回復しないと」
彼女はさっきも言ったとおり、俺がドイツにいる8月末までの契約で人材会社から派遣されてきている。
エミーリアさんは俺の担当したウマ娘たちにうまく指導内容を伝えてくれていたし、彼女の明るさと、口にこそ出さなかったがそのあけすけな性格に、慣れない職場でメンタル的に助けられていた部分も大きかった。
なので低評価をつけるつもりなど微塵もなかったが、彼女の勤務態度に釘を刺す意味も込めて、俺はわざと険しい顔を作ってその提案とやらを待つことにする。
エミーリアさんはああ見えてドイツレース界に精通した重賞を勝っている元ステークスウィナーで、ウマ娘たちの指導中にドイツの習慣や風習に合わせたトレーニング方法や、より適切な指導方法などを提案してくれることが時々あった。
そのおかげで指導していたウマ娘たちとのすれ違いや軋轢が、ずいぶん軽減されたものだ。
そのことを考えると、今回通訳に就いてくれたのがエミーリアさんで本当に良かったと思っている。
「実はですね……」
「ふむふむ、実は?」
「アルベルトさんから『今日の4時半ぐらいからフラッシュさんと併走をしたいと思っているのだけど、どうだろうか』と伝えてほしいと伝言を承っていまして」
「そういうことは早く言ってくださいますか!?」
それは提言でも意見でもなんでもなく、本人の言った通り単なる伝言であった。
しかも、きわめて重要な伝言である。
「なぜそんな大事なことを、今日俺と顔を合わせてすぐに伝えてくれなかったんです?」
「いや。私が伝えようとする前に、トレーナーさんが勝手に呑みの誘いと決めつけたんじゃないですか……」
うっ……。
確かにそうであるが、それは彼女の普段からの勤務態度にも問題があるから仕方ないのではないだろうか?
思わず本音が喉の奥から飛び出しそうであったが、まさかそんな他責思考をフラッシュの前でエミーリアさんに押し付けるわけにもいくまい。
「それはすみませんでした……」
「わかってくれればいいですけどね」
俺の謝罪に、なぜか得意げなエミーリアさん。
こういうところが憎めないのも、彼女の人徳であろうか。
「フラッシュ。アルベルトさんとの併走の件、君さえ良ければ受けて立ちたいと思うんだけど、どうだろう?」
「望むところです。ぜひ、よろしくお願いします」
力強く、フラッシュはうなずいてくれた。
「エミーリアさん。フラッシュもこう言ってくれていますし、お手数ですけどアルベルトさんに『併走の件、了解しました。よろしくお願いします』とお伝え願えますか?」
「わっかりました!日独ダービーウマ娘対決、私も楽しみです」
そう元気に返事してくれると、エミーリアさんは小走りに校舎の方へ駆けていった。
*
いみじくもエミーリアさんが言ったように、期せずして日独ダービーウマ娘のマッチレースが行われることになった。
コースと距離は、もちろん芝の2400M。
二人が最高の栄誉を勝ち取った、ダービーと同じ距離である。
この学校ではめったに使われない、芝のトレーニングコースに日独のダービーウマ娘が姿を現したことで、どうやらなにかやるみたいだぞ、という空気が伝播したらしい。
なんと校長先生も含め、ざっと見たところ100人近いウマ娘たちがこのトレーニングコースを取り囲んでいた。
「
「
二人は笑顔で、しかし確かな闘志を発しながら短い言葉を交換する。
勝負の前の二人の間に、それ以上のやり取りは不要のようだった。
「ふたりとも、準備はいいかい?レースはマッチレース形式で、距離は芝の2400M。シンプルに先にゴールしたほうが勝ち。いいね?」
フラッシュは即座に、アルベルトさんはエミーリアさんに翻訳されたドイツ語を耳打ちされて、うなずいてくれた。
「
俺はエミーリアさんに教えてもらったばかりの、下手なドイツ語で二人にスタート準備を促し、手に持っていた競技用ピストルを打ち鳴らした。
素晴らしいスタートを切ったのは、アルベルトさんの方だった。
彼女の脚質は基本的に先行だが、展開が向けば逃げるのも辞さないという、自在性の高い先行タイプのようだ。
一方フラッシュは中団以降で脚をため、最後の直線で一瞬の切れ味を発揮したいタイプであるため、スタートは大きく出遅れさえしなければ、それほどこだわらなくてもよい。
そんな脚質の違いもあって、先行したのはアルベルトさんだ。
さすがにドイツのダービーウマ娘なだけあって、フォームは完成されていて美しく、完璧にコントロールされた一定のピッチでターフの上を駆けてゆく。
体内時計の正確さも、相当なものがあるのだろう。
フラッシュもそんなアルベルトさんを見ながら、自分のペースでレースを運んでいる。
お互い先行と差し脚質の距離を保ったまま、最初の1000Mを通過した。
マッチレースなので通常のレースのタイムをそのまま参考にはできないが、手元のストップウオッチと二人の様子を見ている限り、レースは平均ペースで流れていそうだ。
二人ともお互いを意識しすぎることもなく、自分のレースをしているという感じだろうか。
最初は静かに二人のレースを見守っていた観客たちも、レースの熱に中てられたのか、声援を送るものも現れ始めた。
声援の中身は二人共がんばれー的なものが3割、残りが負けるなアルベルト!的なものだった。
まぁこれはある程度仕方のないことだったし、このような【アウェーな雰囲気】でのレースは、フラッシュもドバイで経験している。
この空気感が二人のレースの結果に何らかの影響を及ぼす、ということはないだろう。
レースは淡々と進み、残り1000Mを切った。
しかし、二人に大きな動きは見られない。
お互いに手の内を知り尽くした同士の対戦、仕掛けどころ、勝負どころは十分にわかっているはず。
あとはそれを承知したうえで、どれだけ相手の裏をかけるか、思惑を外せるか、そしてそれらの駆け引きの果てに、実力で叩き潰せるかの勝負になる。
アルベルトさんが、600Mのハロン棒に差し掛かった。
先に動いたのは、フラッシュだった。
少しずつギアを上げ、前を征くアルベルトさんとの距離を詰めにゆく。
その気配を感じたのか、アルベルトさんはちらっと後ろを振り返り、彼女もエンジンの出力を一つ上げたようだ。
縮まった二人の距離が、また先ほどと同じぐらいの間隔に戻る。
このあたりが二人の勝負の呼吸なのだろう。
お互いを牽制するような小さな駆け引きがあって、さぁ最後の直線勝負!
先に立ち上がったのは、もちろん先行タイプのアルベルトさんだ。
二人ともラストスパートのタイミングを見計らっているのか、お互いの距離はまだ一定のままだ。
残り450M。
その状況にしびれを切らしたわけでもあるまいが、先に仕掛けたのはアルベルトさんの方だった。
わずかに、フラッシュとの差が開く。
そしてそれを見たフラッシュが、体をぐっとターフに沈めた。
「はぁぁっ!」
フラッシュがいよいよ、ラストスパートを仕掛けた。
持ち前の加速力を一気に開放し、前を走る宿敵を仕留めにかかる。
日本のダービーウマ娘の爆発力を目の当たりにしたギャラリーからは、白熱したGⅠレースの最終盤にも負けないような大歓声が上がった。
スタンドのボルテージも、いよいよ最高潮に達したようだ。
「
スタンドの大歓声より大きな声で、そんなドイツ語がターフから聞こえてくる。
俺にはアルベルトさんがなんと言ったかは、わからない。
しかし彼女の美しい顔には、見ているだけのこちらが震えを覚えるほどの闘争心と、一種の狂気じみた笑顔が浮かんでいた。
ドイツが誇るダービーウマ娘が、先をゆく。
日本が誇るダービーウマ娘が【閃光の切れ味】とまで称された末脚で、それを追い詰める。
フラッシュの一完歩ごとに、アルベルトさんとの距離が縮まってゆく!
残り50M!!
ついに、日独のダービーウマ娘が並んだ。
「
二人が並んだかに見えた瞬間、アルベルトさんが学校全体に響き渡るような咆哮を上げる。
そしてわずか半歩ばかり、フラッシュの前に出た。
フラッシュも己に必死に鞭を入れ、最後の力を振り絞ってそのアタマほどの差を詰めにかかるが、どうあってもアルベルトさんは譲らない。
そしてそのまま、二人はゴール板へ飛び込む。
勝ったのはわずかにアルベルトさんか。
白熱のマッチレースを見届けた生徒や先生方、そしていつの間にか集まっていたトレーナーたちからは、自国が誇る英雄の勝利に大喝采が上がる。
ゴールを駆け抜けた二人は徐々にスピードを落としていき、同じタイミングでゆっくりと立ち止まった。
二人はわずかな時間だけ言葉をかわし、パン、と軽くハイタッチをすると、アルベルトさんはトレーニングコースの方へ向かい、そしてフラッシュはこちらへとやってきてくれた。
「お疲れさま。いいマッチレースだった」
激しく息を切らし、頬を紅潮させているフラッシュに俺はスポーツドリンクを手渡して、激戦を走り抜いたフラッシュをねぎらった。
「ありがとう、ございます。最後は彼女の、勝負根性に屈してしまいましたが、日本のダービーウマ娘として、恥ずかしくない走りを、披露できたと思います」
本当に本気で、全力を出し切ったのだろう。
フラッシュの息はまだ整わず、俺と話しながらも荒い呼吸を繰り返している。
「彼女とはレースのあと、どんな話を?」
水分を取り込んで少し落ち着いたのか、一度大きく息を吐きだすと、フラッシュはその内容を教えてくれた。
「悔しいですが今回ばかりは力負けですね、と伝えるとアルベルトさんは『君は故障明けだったし、このレース場のようなヨーロピアンスタイルの重い芝は私の方が有利だからね。今回は拾わせてもらっただけだよ』と言ってくださいました。謙虚なところは昔から変わっていませんね」
フラッシュはそういうと、悔しさを隠しきれていない苦笑いを浮かべた。
アルベルトさんが言ったように、確かに怪我の休み明けであったことと重たい芝でのレースはフラッシュにとって好条件とは言えなかったであろうが、それを差し引いてもやはり、負けたことは悔しいのだろう。
どんな相手でもどんな条件下でも敗戦を悔しく思わないウマ娘なんていないし、レースに負けてまったく悔しくなくなったら、それはもう現役のウマ娘として致命的な何かを喪失しているということなのである。
「アルベルトさんもきっと、フラッシュをライバルと認めているからこそ、謙虚に振る舞えるんだと思うよ。ライバルを前にして居丈高に出たり、悪態をついたりする醜態はさらしたくないだろうからね」
「……そうですね。そうなのかもしれません」
ライバルの話をしながら、フラッシュはそろそろ陽が暮れそうな東の空へ視線を向けた。
彼女の視線のはるかはるか先の極東には、日本があり、東京があり、トレセン学園がある。
幼馴染の宿敵と全力で戦ったことで、今も日本でレースを走っているであろう良きライバルたちとの激闘を思い出し、彼女たちに思いを馳せているのだろうか。
「フラッシュ。今日はマッチレースで脚に大きな負荷を掛けたことだし、以後のトレーニングは中止にして家に帰ろうか。それにしても今日のレース、負けはしたものの収穫できたものは大きかったね」
俺がそう言うと、フラッシュは明るい笑顔で力強く首肯してくれた。
「はい。私の脚は、私の全力に応えてくれました。私はきっとまた、日本へ戻ってレースを……GⅠを戦うことができる」
引退さえ覚悟したあの故障から約5ヶ月。
エイシンフラッシュの怪我はようやく、ターフへ戻れるところまで回復した。
今日の走りを見ている限り、メンタル面も故郷での穏やかな日々に癒やされ、泥沼のスランプからは完全に立ち直っている。
それは本人の努力の結果であり、家族や友人たちの支えのおかげであり、ライバルの激励のおかげであった。
どれか一つでも足りなかったらきっと、フラッシュがこれほど早く復帰できることはなかったはずだ。
そのことだけでも飛び上がって喜びたいところであったが、それはフラッシュがふたたび栄光を掴むときまで、取っておくことにしよう。
「日本ではそろそろ、夏合宿が終わる頃だね」
「そうですね。皆さんきっと、秋のGⅠ戦線に向けて厳しいトレーニングをこなしてきたはずです。そんな彼女たちと、また競い合える。胸が高鳴りますね」
大きな怪我を経験した長期休養明けのウマ娘は心身ともに不安定になってしまいがちで、たとえレースに復帰できたとしても、本調子に戻るまで時間を要する娘も少なくない。
だが、今のフラッシュからはそんな恐れや不安を一切感じさせなかった。
彼女の担当トレーナーとして、俺はそのことがとても心強かった。
*
デュッセルドルフ国際空港は、初めてここへ来たときと変わらぬ賑わいを見せている。
故障を抱えたフラッシュとともにこの国にやってきたときは、完全回復を果たした彼女と一緒に帰国できるなどとは、つゆも思ってもいなかった。
『フラッシュ。体調には十分に気をつけるんだよ』
お父様はフラッシュを抱き寄せるとドイツ語で娘の健康を祈り、別れの言葉を送ったようだ。
フラッシュはお母様とも別れの挨拶を交換し、軽くチークキスを交わす。
もちろん俺も、半年近いあいだ快くステイホームさせてくださったご両親への別れの挨拶は、すでにさせていただいていた。
俺達を見送りに来てくれたのは、フラッシュのご両親だけではなかった。
校長先生をはじめとした、レース学校の先生やお世話になったトレーナーさんたち。
そして、アルベルトさんやフラッシュの地元の友だちも、日本へ戻るフラッシュとのしばしの別れを惜しみに来てくれていた。
「
「
日独のダービーウマ娘はエールを交換し合し、力強く握手を交わした。
「いやー、若い人の熱血ライバル物語はいつ見てもいいものですねぇ」
と、軽い調子で声をかけてきたのは、通訳としてお世話になったエミーリアさんだ。
一応レース学校で通訳をお願いする最後の日に挨拶は済ませておいたし、結構ビジネスライクな人だから見送りなんかには来ないだろうと思っていたのだが、意外というかなんというか、なぜかこうして依頼人の帰国を見届けるつもりになったらしい。
「エミーリアさんには、本当にお世話になりました。あなたのおかげで、たくさんのウマ娘たちに良いトレーニングを指導できたと思います。慣れない土地での仕事は決して楽ではありませんでしたが、あなたの明るい性格にずいぶん助けられたものですよ」
「あっはっは。私の仕事がお役に立ったようで、なによりです」
「あとは呑みの誘いがもうちょっと少なければ、完璧なガイド兼通訳だったと思います」
小さな親切余計なお世話かとも思ったが(これは俺の得意技だ)、俺は彼女の今後のためを思い、心を鬼にして苦言を呈することにする。
「トレーナーさんもなかなか手厳しいことをおっしゃいますね!?」
俺の諫言をどう受け止めたのか、彼女は苦笑を浮かべるとひらひらと手を振る。
そして何を思ったのか、すっと静かにこちらに近づいてくる。
「……トレーナーさんを飲みに誘っていたのは、あなたのことを憎からず想っていたからですよ」
「えっ!?」
エミーリアさんは俺の耳元に綺麗な顔を寄せ、小声でそんなことをささやく。
……立場上できるだけ意識しないようにしていたが、実は芦毛のプラチナブロンドを持つ彼女は超のつくほどの美人で、スタイルもあのお硬い(生地的にもTPO的にも)スーツの上から色々と想像させられるぐらい、素晴らしいものを持っていた。
「美貌とスタイルでは、私も負けてないと思うのですがね。ですが私は、GⅢ勝ちしかないしがない退役ウマ娘。相手がうら若き現役ダービーウマ娘ではさすがに分が悪いので、身を引いておくことにします」
そう言って彼女は、意味深長ないたずらっぽい笑みを浮かべた。
これは多分……。
「ちょ、あなたはいつ、俺がフラッシュのことを……」
「そうそう。これは私からのドイツ土産です。飛行機の中ででも開けてくださいな」
俺が余計なことを口走る前に、エミーリアさんは手のひらの収まるサイズの箱を俺に手渡してくれる。
「あ、ありがとうございます……」
「GⅢしか勝てなかった私にいわれても、って感じかもですが、トレーナーさんはきっとたくさんのウマ娘に慕われる、もっと素晴らしいトレーナーになっていくと思いますよ。これからもお仕事、がんばってくださいね。影ながら応援していますよ」
「はい……」
「さて。私は次の仕事がありますので、このへんで失礼します。トレーナーさん、エイシンフラッシュさん、どうかこれからもお元気でお過ごしくださいね。それではアデュー!」
俺を最後まで困惑させた美貌の通訳ウマ娘は、どういう意図なのかフランス語で我々に別れを告げると、ウインク一つ残してこの場を去っていった。
「……ずいぶんと親しげに、通訳の方とお話されていましたね?」
一通り家族や友人知人たちとの別れの挨拶を済ませたらしいフラッシュは、なぜかうっすらと額に怒筋を浮かべて、怖い笑顔をその美貌に湛えている。
「え、あ、いや。まあ4ヶ月間ずっと通訳としてお世話になったわけだからね。多少は仲良くもなるものだよ」
「さようでございますか。それにしても、綺麗な方でしたね。あの通訳さんといい、大学の同期の店長さんといい……トレーナーさんの周りには、なにげに美しい女性がたくさんいるように感じるのですが、気のせいでしょうか?」
君がそれを言うのか。
確かに、ウマ娘界隈はどういうわけか美女(桐生院さんとかたづなさんとか……)がいる確率が高い気がするが……。
その中でも君が一番美しいんだ、とはさすがに言えなかったが、ここはうまいこといって話題をすり替えることにしよう。
「フラッシュ。女性というのは、どこかしら必ず美しい部分を持っているものなのさ」
「……私がトレセン学園に入るまでお世話になっていた、イタリア人トレーナーさんと同じようなことを言うのですね」
はぁ、と呆れたため息をつき、長い付き合いで初めて見るようなジト目でこちらを見つめる。
俺みたいな朴念仁がイタリアの伊達男と同じようなことが言えたのなら、その場しのぎとしては上出来だろう。
「そ、そうか。フラッシュは学園に入学するまではイタリアのトレーナーさんに指導してもらっていたのか。その興味深い話は飛行機の中で聞かせてもらうとして……もう、皆さんにお別れの挨拶は済ませたの?」
フラッシュの機嫌を損ねてしまった話題をすり替えたい、という気持ちは多分にあったものの、もうすぐ飛行機に乗る時間が迫っているというのもまた事実だった。
「はい。……今回のお別れは、それほど長いものにはならないでしょうから」
フラッシュはそう言って、少し切なさを含んだ苦笑を浮かべる。
今回はなんとか、大きな故障という試練を乗り越えることができたが……フラッシュ自身も俺も、彼女に残された現役のウマ娘としての時間が少ないであろうことは自覚していた。
「じゃあ、そろそろ行こうか。搭乗時間が迫ってる」
お互いにわかりきっていることをわざわざ口に出して、テンションを下げることもあるまい。
俺が搭乗口を指差すと、フラッシュは静かにうなずいてくれる。
俺達は最後にもう一度見送りに来てくれていた人たちに振り返り、さよならと精一杯の感謝の意を込めて、笑顔で手を振った。
30分後にはきっともう、俺達は機上の人になっている。
今回のフライトがフラッシュにとって、日本への最後の空の旅になるかもしれなかった。