担当ウマ娘に、恋をした。   作:宮川 宗介

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第二十二話

大陸をまたぐような長距離フライトというと退屈な時間を想像しがちだが、エコノミークラスでも動画は見放題だし、機内食もしっかり出るので、それなりに楽しい時間を過ごすことができる。

 

旅の友がいるならこの時間を利用して、旅の思い出話を振り返ったり、これからのことを話し合ったりする時間に当てるのもいいだろう。

 

もちろん、周囲の迷惑にならない程度の声量で。

 

「フラッシュ。帰国後の予定だけどね」

 

今までフラッシュとドイツでの思い出話を語り合っていたのだが、ふいに訪れた沈黙をきっかけにして、俺は以前から考えていた日本へ戻ったあとのスケジュールを話しておくことにした。

 

「はい」

 

帰国後の予定、と聞くと、フラッシュの表情が引き締まった。

彼女もその話を待っていたのかもしれない。

 

「復帰戦は、秋のシニア三冠緒戦の天皇賞を予定している。10月の頭にある、前哨戦の毎日王冠や京都大賞典でひと叩きすることも考えたけど……。日本へ戻って一月足らずでレベルの高いGⅡを戦えるぐらいに仕上げて、それから天皇賞というのでは、故障明けの君にとって負担が大きすぎると判断した。それなら今から天皇賞までの2ヶ月弱、しっかりトレーニングを積んで本番に望むほうがいいと思ったんだけど、フラッシュの意見はどうかな?」

 

俺の提案に、フラッシュは少し眉をひそめる。

 

「最後に出走したのが3月末のドバイワールドカップですから、それだとおよそ7ヶ月ぶりの実戦になってしまいますね……」

「そうだね」

 

フラッシュは薄く目をつむると、少し考え込んだ。

故障明けの復帰戦に、いきなりGⅠを戦うことに不安を感じているのだろう。

その気持ちは、よく分かる。

俺もこのローテーションに100%の自信を持っているか、と言われれば、決してそうではない。

 

「……わかりました。正直不安は残りますが、トレーナーさんがその方が良いと判断したのなら、信じることにします」

 

それでも彼女は俺の提案を受け入れて、小さく笑ってくれた。

 

「うん、ありがとう。天皇賞という伝統の舞台に君が最高の状態で出走できるよう、俺も精一杯がんばるよ」

「はい。よろしくお願いします」

 

フラッシュは小さく会釈すると、こちらへ乗り出していた体を元の位置に戻す。

 

帰国までにしておかなければならない大切な話は、これで終わりだ。

寝るには少し早いし、また動画でも見るか本でも読むか。

 

「ん、そう言えば……」

 

時間があったら読み直そうと思ってドイツに持っていっていた小説(在独中、結局そんな時間はなかった)を取り出そうとバッグを開けると、出発前にエミーリアさんが持たせてくれた小箱が目に入った。

 

飛行機の中で開けてほしい、って言ってたけど、一体何をお土産にくれたのだろうか。

 

手荷物検査で呼び止められることはなかったので、やばいものでないことは確かだが……。

 

「その小箱は?」

 

フラッシュも気になったのか、俺の取り出した箱を興味ありげに覗き込む。

 

「ああ。エミーリアさんがお土産に、って言ってくれたんだよ。飛行機の中で開けてくれってさ」

「……ラブレター入りのお菓子、とかじゃないでしょうね」

「ハハハ、まさか」

 

なぜか怖い顔をして言うフラッシュに、俺は手を振りながら否定した。

これは俺の勝手な想像だけど、あの(ひと)は恋愛に関しては、そんなまだるっこしいことはしないような気がする。

 

じゃあ一体何をくれたのだろう、と少しワクワクしながら箱を開けると、そこには小瓶の中に袋に包まれた小さな球体が、1ダースほど入っていた。

 

「これは……飴かな?」

「そうですね。ストーク社から販売されている、ヴェルタースオリジナルという飴です。濃厚な甘みがありながらそれがあとに残らない、食べやすくて美味しい飴ですよ。確か、日本のスーパーなどでも普通に売られているはずです」

「ああ、そういや見たことあるような気がする」

 

ヴェルタースオリジナルという名前だけは知っていたが、実際に食べたことはなかった。

俺がその飴の名前を知ったのも、ある動画サイトのMADという体たらくである。

 

「なつかしいですね。小さい頃、私もよく祖父から手渡されて食べたものです」

「それはやっぱり、お祖父さんにとってフラッシュが特別な存在だったから?」

「……祖父にとって孫というのは、そういうものなのではないでしょうか。もちろん、逆もしかりですが」

 

何を当たり前なことを、と言いたげな表情で彼女は苦笑いを浮かべた。

 

う~ん。

フラッシュくらいの年代の子だと、やっぱりあのネタは分かってもらえないか。

 

……あれもう、何年前だ?

 

というか、あのCMはドイツでは放映していなかったのだろうか。

 

エミーリアさん(実は俺と同じ歳だった)は親日家ということもあったのか、一昔前の日本のサブカルチャーに異常なほど詳しく、一緒に飲みに行った際、一度某動画サイトの黎明期にして最盛期の話題でめちゃくちゃ盛り上がったことがある。

 

彼女はなぜかドナルドのモノマネがムチャクチャうまく、中のピエロのバイトをやっていた経験があるんじゃないかと思わせるようなクオリティで、当時のMADを席巻していたドナルドのセリフを繰り出しまくっていた。

 

あの綺麗な顔立ちでドナルドのモノマネをされるとそのギャップがたまらなくおかしく、そのたびに俺は口に含んでいた酒をエミーリアさんにブッかけるはめになったのだ。

 

「飴を眺めてニヤニヤして……何がそんなに面白いんですか?」

「えっ、ああ。そんなつもりはなかったんだけど」

 

つい、思い出し笑いをしてしまっていたらしい。

 

こんなところまで罠を仕掛けてくるとは、さすがいたずら好きのエミーリアさんである。

 

それにしてもエミーリアさんをはじめ、フラッシュのご両親、それにレース学校の先生やトレーナーさんたちに俺が指導したウマ娘たち。

 

今回のドイツ出張では本当に人に恵まれて、それこそふとした拍子に思い出し笑いをしてしまいそうな、楽しかった思い出しか残っていない。

まだまだ訪れてみたい場所もたくさんあったことだし、もしまた機会があればぜひドイツに遊びに行きたいものである。

 

そんなことを考えながら俺は小瓶の蓋を開け、飴玉を2つ取り出した。

 

「よかったら、フラッシュも食べるかい?」

「……ええ、いただきます」

 

怪訝そうな顔をしながらも、特別な存在に贈るとされている伝説の飴玉をフラッシュは受け取ってくれた。

 

俺も金色の袋を外すと出てきた、キャラメル色の飴を口に放り込んでみる。

 

ん……これ、うまいな!

 

濃厚な甘さが口全体を包み込むが、それが嫌な感じがまったくしない。

しばらく口の中で飴を溶かしていると、とろりとしたキャラメル味のクリームが中から流れ出てくる。

これもまた結構甘いのだけど、飴そのものの旨味とうまく混ざり合って、飽きのこない甘味だ。

 

この飴が長年、世界中で愛されているのもわかる気がする。

 

……もし俺が結婚して子供ができて、孫の顔を拝むことができたのなら、その孫にだけでなく、俺の妻(誰になるんだろうね?)、二人の間の子供、その子供の配偶者にもこの飴をプレゼントすることにしよう。

 

孫だけでなく、そこにいる人達はきっと、俺にとって特別な存在だろうから。

 

*

 

成田空港に到着すると、そこには思わぬ面々が出迎えに来てくれていた。

 

「フラッシュさん、おかえりなさい!」

 

大きな声でそう言ってフラッシュに抱きついてきたのは、同室のスマートファルコンだ。

 

「ファルコンさん。お出迎えは嬉しいのですが、たくさんの人がいる空港でそんな大声を出すと、迷惑ですよ」

「空港ってそういう場所だから、別にいいの!」

 

なにやら謎の理論を振りかざしつつも、スマートファルコンは抱きついたフラッシュから離れるつもりはないらしかった。

 

「まったく、困った人です。……みなさんも、秋のシーズンに備えてのトレーニングで忙しいところ、ありがとうございます」

 

フラッシュは困った顔をしながら、出迎えに来てくれていた人たちにお礼をいう。

 

フラッシュの悪友、ゴールドシップ。

フラッシュの復帰のために力を貸してくれたメジロマックイーン。

てんとう虫管理の会の同志、エアグルーヴ。

 

「よう、フラッシュ。久しぶりだな、元気してたか?」

「おかえりなさいませ、エイシンフラッシュさん。お体の加減はいかがですか?」

「よく戻ってきてくれた。脚の調子はどうだ?」

 

それぞれが、フラッシュに『おかえり』の声をかけてくれる。

 

他にもフラッシュのクラスメートや友人の何名かが、この少しでもトレーニングに勤しみたい時期に時間を作って迎えに来てくれていて「おかえりなさい」の声をかけてくれていた。

 

「……ただいま、みなさん」

 

フラッシュは少し涙声で、しかしそれでも微笑を浮かべてみんなに【ただいま】を返す。

 

フラッシュにとってすでにここは単なる留学先と言うだけでなく、【帰ってくる場所】の一つになっていたようだ。

 

エイシンフラッシュというウマ娘が、どれだけたくさんの人たちに愛されているのかがわかる一幕だった。

 

そしてなんと学園からは、わざわざ……。

 

「約四ヶ月の派遣業務、本当にご苦労だった!よく無事に日本へ戻ってきてくれた!」

「秋川理事長。お忙しい中お出迎え、ありがとうございます」

 

理事長自らが、俺とフラッシュをここまで出迎えに来てくれていた。

 

「うむっ!本当はたづなが生徒たちの引率も兼ねて出迎える予定だったのだが、どうしても君を労いたくてな。たづなには無理を言って引率を代わってもらったのだ」

 

そういうと理事長はいつものように、わーっはははは!と豪快に笑った。

 

引率……。

引率ねぇ。

 

周りから見ればきっと、秋川理事長がウマ娘のお姉さんたちについてきた子供のように見えているだろうが、そこは理事長閣下のプライドのためにあえて黙っておくことにしよう。

 

そのあと俺達は土産話がぜひ聞きたいというみんなのリクエストに応えるために、空港近くのレストランに入った。

 

結構な人数になってしまっていたので、俺たちだけで広間を貸し切りである。

 

久しぶりの日本の味に舌鼓を打ちながら、俺達はドイツのレース事情や印象に残った出来事をみんなに聞いてもらい、答えられる質問があれば喜んで答えた。

 

俺以外は食べ盛りのウマ娘というメンツだったレストランでの会計はかなりの額だったと思うのだが、理事長が気前よくブラックカードですべて支払ってくれたのだった。

 

*

 

とにかく、蒸し暑い。

 

ドイツから戻ってきてまず思ったのが、そのことだった。

 

あちらではもう秋の気配を感じられていたのに、日本へ戻ってくるとまるで真夏に逆戻りしたかのような気温と湿度である。

 

フラッシュは決して暑さに弱いウマ娘ではなかったが、このことが体調にどう影響するのか、心配の種の一つだった。

 

その厳しい残暑の中、フラッシュは久しぶりにトレセン学園のダートコースを駆けていた。

 

帰国後のフラッシュのトレーニングだが、今のところは良くも悪くもなく、マイペースでそれなりに走っているという感じだ。

 

実はウマ娘がトレーニングで出すタイムというものは、年を経るごとに悪くなる。

 

単に能力が衰えているというウマ娘ももちろんいるが、競走生活も長くなるとどれぐらいのペースで、どのくらいの強度を掛ければ目標のレースまでに仕上がるかはある程度分かってくる。

 

それならばケガするデメリットを背負ってまで目一杯に追う必要もない、というわけだ。

 

もう少し現実的な話をするなら、ピークを迎えたあとのトレーニングというのは能力を伸ばすためのものではなくなり、いかに今の力を維持し、故障しないようにレースに向けて体調を仕上げていくか、というものになってくる。

 

そういった意味では才能を伸ばすためのスポ根的な厳しいトレーニングというのは、ジュニア級やクラシック級の若いウマ娘たちの特権とも言えた。

 

フラッシュはシニアの2年目のウマ娘であり、大ベテランといっていい。

そのあたりのトレーニングの呼吸は、俺もフラッシュも十分に理解していた。

 

円熟味を感じさせるフラッシュの走りを見ながら、俺は考える。

 

祖父との死別や大きなケガというトラブルがあったとはいえ、フラッシュはウマ娘が一番強くなると言われているシニア1・2年めに、とうとう一つも勝つことができなかった。

 

フラッシュも、能力のピークを迎えて久しい。

 

幸い、今は目立って走力が衰えているということはなさそうだが、彼女が来年も同じ力を維持しているかなんて、誰にもわからない。

 

そのことを現実的に考えると、フラッシュがGⅠを勝てる機会はこの秋のシニア三冠がおそらく最後だろう。

 

チャンスは、最大であと三回。

 

その緒戦の秋の天皇賞に向けて、どのようなトレーニングメニューでフラッシュを最高の状態に持っていくか。

 

いろいろなプランが俺の脳を駆け巡る。

そんなときだった。

 

「すばらしいですね」

 

聞き慣れた、しかし久しく聞いていなかった声と言葉が、俺の耳朶を打った。

 

「乙名史さん」

「お久しぶりですね。なんでも、ドイツの方へ出張されていたとか」

「ええ。いろいろと良い勉強になりました」

 

この人と知り合ったのはフラッシュを担当し始めてすぐのことだから、もう4年以上前のことだ。

彼女の声を聞くたびに胃痛を起こしていたあの時期が、なんだか懐かしく感じる。

 

フラッシュに対するこの人の『すばらしい』も、あと何回聞くことができるのだろう。

 

「エイシンフラッシュさん、とても故障明けとは思えない力強い走りですね。ところで、彼女の次走の予定……ダービーウマ娘の復帰戦をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 

フラッシュの次走に関しては隠すようなことでもないし、最近気づいたのだが、この人の書く文章は大げさなことはあっても嘘はない。

それに、ウマ娘やレース関係者を傷つけるような記事は絶対に書かなかった。

 

そして乙名史さんのウマ娘に対する情熱や知識は本物である。

 

そんな彼女だからこそ、多少大本営発表的で大げさな記事を書いても、ファンや関係者、それにウマ娘たちからも『まぁ、乙名史さんの記事だし』で笑って流してもらえているのである。

 

「フラッシュの復帰戦は、一応秋の天皇賞を予定しています」

「となると、毎日王冠や京都大賞典などの前哨戦には参戦しないということに?」

「そうなりますね。でも、僕たちはぶっつけ本番になることは問題視していません。フラッシュもいくつものレースを戦い抜いた歴戦のウマ娘ですし、天皇賞が行われるのは彼女が最も得意とする東京レース場です。休み明けとはいえ、いい走りを期待できると思いますよ」

 

乙名史さんはいつもの『すばらしいです!』からこちらの発言を大げさに言い換えるでもなく、ふむふむと小さくうなずいてメモを取っている。

 

こういうところも彼女のいいところで、こちらがシリアスに考えているような場面ではあの茶化すような大仰な言い回しを決してしない。

 

「なるほど。エイシンフラッシュさんの経験とレース場適性から休み明けでも問題なし、ということですね。わかりました。それでは、今日のところはこれで失礼します。また、天皇賞が近くなったら取材協力、ぜひよろしくお願いしますね」

 

乙名史さんはまるでまともなレース記者のようなことを言って、次の取材先へと向かっていった。

 

うーむ……。

それはそれできっと良いことなんだろうけど、彼女が大仰な言い方で褒めちぎっているウマ娘は、本当に調子が良いことが多い。

 

実際フラッシュは、京成杯で乙名史さんに絶好調を煽ったような記事を書かれて一番人気になり、あっさりその人気に応えて重賞を初制覇した。

 

ダービーでも乙名史さんは7番人気でしかなかったフラッシュに厚い印を打ち(確か専門誌の記者の中でただ一人◯<対抗>を打っていたはずだ)、フラッシュはその期待に応えるかのように見事に勝利している。

 

ひょっとしたら今のフラッシュは、乙名史さんに大仰な言い回しをさせるほど良い状態ではないのかもしれない。

 

でも、天皇賞まではあと2ヶ月ほどの時間がある。

あせらず、しっかりと目標のレースに向けて仕上げていけばいい。

 

「よーし、フラッシュ。ラストスパートだ!このダートでの走り込みが終わったら、次はもう少し強度を上げて坂路で追い切るよ」

 

俺の檄と指示に、フラッシュは本番さながらの加速力を発揮することで返事してくれた。

 

*

 

いつものようにトレーナー室でフラッシュのトレーニングメニューを練っていると、コンコンとノックが鳴った。

 

「はい?」

「私です。お伝えしたいことがありましてこちらへ伺いました」

 

フラッシュが練習前に、トレーナー室へ来ることは珍しかった。

普段はフラッシュが授業が終わったあとに、事前に決めておいたトレーニングコースで待ち合わせをしているからだ。

 

「了解。とりあえず、入ってきて」

 

俺の返事を確かめてから、制服姿のフラッシュが入室してくる。

 

「突然すみません。早急にお伝えしたいことがありまして」

「それはいいんだけど、一体どうしたの?」

 

まさか、ケガが再発してしまったとか?

嫌な想像が脳内を駆け巡っている俺の思いとは裏腹に、フラッシュは笑顔でその要件を伝えてくれた。

 

「今度の天皇賞、なんと両親が日本まで見に来てくれるそうです。たまたま、その日はスケジュールが空いているらしくて」

「そうなのか!よかったなぁ」

 

フラッシュは定期的に、ドイツにいるご両親と連絡を取り合っている。

その時にきっと、10月末に行われる天皇賞で復帰することを伝えたのだろう。

 

ドイツに滞在中、フラッシュが席を外している時にたびたびご両親から『一度でいいから、娘のレースをライブで見てみたいものです』と聞かされていた。

 

フラッシュの前でそのことを言わなかったのは、きっとその言葉を娘の重荷にしたくなかったからだろう。

 

それにご両親は口にこそ出さなかったものの、自分の娘が現役でいられる時間はそう長くないことを承知していらっしゃるようだった。

 

ひょっとしたら、今回の天皇賞が娘の最後のレースになるかもしれない。

 

フラッシュから連絡を受けた時、ご両親はそう思ったのではないだろうか。

 

だからこそスケジュール的に多少無理してでも、遠路はるばる日本まで天皇賞を見に行こうという気になられたのだと思う。

 

「両親の前で、不格好なレースをするわけには行きませんね。当然私も最善の努力を尽くすつもりでいますが……最高の状態で天皇賞に挑めるよう、トレーナーさん、どうかよろしくお願いします」

「もちろんだ。任せておいてくれ」

 

フラッシュの覚悟をしっかり受け止めて返事した俺の脳裏に、一つのアイデアが湧き上がってきた。

 

「そうだ。それなら、俺の両親にも天皇賞見に来てもらおうかな」

「えっ!?トレーナーさんのご両親にも、ですか?」

「ああ。俺がこの仕事を始めてから、実は一度もレース場に招待したことがないんだ」

 

普通の企業に就職すれば自分の両親を職場に招く、なんてことはまずないと思う。

その辺トレーナーという商売はちょっと変わっていて、自分が初めて挑むレースや、大レースなどに担当を出走させる際に家族や親戚をレース場に招待する、ということはごく当たり前に行われている。

 

俺の場合、この仕事のせいで親父との関係が険悪だったこともあり、なかなかレース場に両親を誘うということができなかった。

 

だがあの一件以降かなり関係は改善していて、ドイツに行く前は実家に報告に行ったし、お土産にフラッシュの実家で作ってもらったバームクーヘンを持っていくと、それなりに喜んでくれていた。

 

GⅠという大舞台に愛バを出走させるなんてチャンスは、フラッシュが引退してしまえばもう巡ってこないかもしれない。

 

きっと今が、俺の【職場】を両親に見てもらう良い機会なのだろう。

 

「そうなんですか。それなら普段お世話になっているトレーナーさんのご両親には、しっかりご挨拶させていただかないと……」

 

俺の両親を呼ぶという話になると、なぜかフラッシュは落ち着かない様子でソワソワし始めた。

 

「と言っても、あっちにはあっちの都合もあるだろうから、来てくれるかはわからないけどね。もし会うことになっても、そう気を使うこともないよ」

「いえ、そういうわけにもまいりません。トレーナーさんのご両親に、挨拶もろくにできない娘だと思われるのは絶対嫌ですから」

 

緊張の面持ちで、そんなことを言うフラッシュ。

 

しまった。

トレーナーの親に会う、というのはウマ娘にとってそんなに緊張することなのだろうか。

他のトレーナーが親や家族をレース場に呼んで自分の担当を紹介しているのを当たり前のように見ていたものから、俺もフラッシュに両親と顔合わせぐらいはしてもらっておくか、と気軽に考えていた。

しかし大切なレースの前によけいな気をフラッシュに使わせるぐらいなら、彼女には何も言わずに両親を招いたほうが良かったかもしれない。

 

「そんなに気合い入れなくても大丈夫だよ。俺の両親なだけあって、二人ともふつーのおっちゃんとおばちゃんって感じだよ。会ったときはこんにちわ、とだけでも挨拶してやってくれ」

「そんなぞんざいな挨拶をして、私がトレーナーさんのご両親に悪印象を持たられたどうするんですか?」

 

そう言ってフラッシュは険しい表情を崩そうとしない。

 

そんなにしょっちゅう俺の親と会うわけでなし、そこまで気合い入れなくてもいいと思うんだけど……。

 

「ま、まぁ俺の両親は特別、作法やマナーにうるさいってことはないから……。普通に挨拶してくれれば、それで十分だよ」

 

俺がそう言っても、しばらくフラッシュはまるで本命企業の最終面接に挑む就活生のような真剣な顔のままだった。

 

*

 

両家の顔合わせは、レース当日の控室で行うことになった。

その後、両親たちをスタンドの6階にある広めの個室(通称樫の間)に案内し、天皇賞を観戦してもらう予定になっている。

 

「もうすぐ、トレーナーさんのご両親がやってこられるのですね。緊張します」

 

そう言ってすでに勝負服に着替えているフラッシュは胸に手を当て、ふぅっと大きく息を吐きだした。

 

フラッシュのご両親は飛行機の都合で、俺の両親のあとに控室へ来ることになっている。

 

にしたって初めてGⅠに挑戦したときでさえ、こんなに緊張していなかったと思うんだけど……。

 

「前も言ったけど、うちの両親は別に変わり者とかうるさ型とかいう感じじゃないから大丈夫。普通に挨拶してくれればそれでいいよ」

「それは、そうなんでしょうけど……」

 

俺の両親をレース場に招待すると言った日以降、なぜかフラッシュはどうにも落ち着かない様子だった。

トレーニング中のフォームやタイムを見る限り、そのことが走りに影響しているということはなさそうだが、やはり少し気になってしまう。

 

もう一言二言、なにか緊張を和らげることを言ったほうがいいかな……と悩んでいると、コンコンとノックが鳴ってしまった。

 

「はい?」

「俺と母さんだ。入っていいのか?」

 

聞こえてきた親父の声にフラッシュとアイコンタクトを取ると、彼女は緊張の面持ちでうなずいてくれる。

両親をレース場に呼ぶ、というのはちょっとした思いつきだったんだけど、なんだかフラッシュに申し訳ないことをしてしまったな……。

 

そんなことを思いながら、俺は「ああ、大丈夫だよ。入ってきて」と返事した。

きぃ、と扉をきしませて入ってきたのは中肉中背の中年男と、男よりかなり若くて、そして俺が言うのもなんであるが、キレイ目に見える女性の二人組。

 

ちょっと不釣り合いにみえるこの二人が、俺の両親だった。

 

「ここがトレーナーとウマ娘さんの控室なのか。清潔で、なかなか居心地が良さそうな部屋だな」

 

インフォーマルスーツ姿の親父は、そう言って室内に視線を巡らせる。

 

ドレスコードを気にして来てくれるあたり、レースというものに敬意を払ってくれているのが感じられて嬉しかった。

 

夫のスーツに合わせるようにスマートエレガンスの装いで来てくれた母さんは、そんな親父の後ろに立って何を言うでもなく、ただ黙って静かに微笑んでいる。

 

そして、親父の視線は一点で静止した。

 

「ということは、こちらのお嬢さんが……」

「うん。俺が担当しているウマ娘のエイシンフラッシュだよ」

 

俺が軽くフラッシュの肩に触れると、彼女はいつもより少しばかり固い微笑を浮かべて一歩前に出た。

 

「トレーナーさんのお父様、お母様。はじめまして。御子息に担当していただいている、エイシンフラッシュと申します。どうぞお見知りおきくださいますよう、よろしくお願いいたします」

 

フラッシュは普段から丁寧な言葉使いをする女の子だが、それに輪をかけたような敬語で俺の両親に深くお辞儀し、挨拶してくれた。

 

「や、丁寧な挨拶、痛み入ります。こちらこそ愚息がお世話になってます」

「しっかりした挨拶ができる娘さんねぇ。うちの息子、ちゃんとお仕事してるかしら?」

 

俺がフラッシュのことをどう思っているか二人は知っているはずだが、二人はあくまで普通の初対面の挨拶のように振る舞ってくれる。

 

そういえば、うちの両親は昔から恋愛や性的なことなどのセンシティブな部分で、冗談半分でもからかうようなことはしなかった。

 

「ええ、もちろんです。トレーナーさんのご指導のおかげで私はダービーという大レースを勝つことができましたし……少し前に私の不注意で大きなケガをしてしまったのですが、トレーナーさんという存在があったからこそ、それを乗り越えてまたこうしてレースに復帰できるまでになりました。トレーナーさんにはどれほど感謝してもしきれません」

「そうですか。子供のころはちょっと頼りない男の子だな、と思っていたものですが、あいつも社会に出てそれなりにやれているようで一安心です」

 

そういう親父に、母さんもうんうん、と頷く。

 

……。

もちろん社交辞令の意味もあったのだろうけど、そんな二人の様子を見て俺はようやく両親に一人前の社会人として認められたような気がした。

 

挨拶を交わしているうちにフラッシュの緊張が解け、両親も彼女のことをすっかり気に入ったようだ。

それからは他愛もない世間話でしばらく盛り上がっていると、ふたたびノックが鳴った。

 

「はい」

「フラッシュの父です。入室してもよろしいでしょうか?」

 

扉の向こうから聞こえるフラッシュのお父様の声を聞いて、うちの親父が怪訝そうな顔をする。

 

「……? エイシンフラッシュさんのお父さんは、ひょっとして日本人なんですか?」

「いえ。父は確か、東ドイツ時代のドレスデン出身だと両親からは聞いていますが……」

「それは失礼。あまりに完璧な日本語だったからつい、勘違いしてしまいました」

 

うん。

フラッシュのお父様と初めてお会いしたとき、俺もそう思った。

一体どこでそれだけの日本語を身につけたのか、一度聞いてみたいとは思っている。

 

そのやり取りが終わったのを確認してから、俺は「どうぞ。うちの両親ももう来ています」と返事して入室をお願いした。

 

お二人は入室すると、俺とフラッシュに軽く会釈してから俺の両親に笑顔で向き直った。

 

「はじめまして。娘がいつもお世話になっております」

 

ドイツでも、こういう初対面での場は夫が先に挨拶するのが習慣なのだろう。

フラッシュのお父様がご挨拶なさると、それを受けて親父が一歩前に出て握手を求める。

 

「こちらこそ、息子がお世話になっております。息子がおみやげに持ってきてくれた、あなたのお作りになったバームクーヘンは絶品でしたよ」

 

親父も笑顔で挨拶しながら、変に相手の日本語の流暢さを褒めることはせず、フラッシュのお父様の仕事の素晴らしさを称える。

 

俺の友人知人にもバイリンガルが何人かいるけど、母国語以外の流暢さをネイティブに褒められても、正直、微妙な気持ちになるという人のほうが多い。

 

自分もそれなりに学んできたので、という自尊心がそう感じさせるのかもしれないし、さすがにネイティブに褒められるほどの発音じゃないし……というコンプレックスもあるのかもしれない。

 

それにしても初対面の外国の人とでも、そのように人の機微を考えて動けるというのは、普段社長としていろいろな人とのコミュニケーションを取っているからなのだろうか。

 

少しばかり、自分の父親を見直した瞬間である。

 

「ありがとうございます。お口にあったようなら、何よりです」

 

フラッシュのお父様も親父の言葉に好印象を持ったようで、朗らかな笑みで握手を交わしていらっしゃっていた。

 

母親同士も女性らしいお話で盛り上がっているらしく、お互いの両親の顔合わせは、どうやらうまくいったようだ。

 

そんな両親たちの様子を見て、俺とフラッシュは視線を合わせて小さく頷きあった。

 

*

 

かつて、秋の天皇賞は最強のシニアウマ娘を決める頂上決戦、という色合いが強かった。

昔からルール上はクラシック級のウマ娘でも出走できたのだが、実際に秋天へ挑むクラシックの娘はほとんどいなかったのである。

 

秋のクラシック級のウマ娘たちには菊花賞という大目標があるし、一昔前までは【クラシックのウマ娘が経験豊富なシニア級、それも最強クラスのウマ娘たちと戦っても勝負になるわけがない】というのが常識だったからだ。

 

だから本当は長距離に不安のあるウマ娘たちも『シニアのトップレベルのウマ娘たちが集まる天皇賞に挑むよりかは、同じクラシック級のウマ娘が走る3000Mの菊花賞のほうが、まだ勝機があるだろう』と考えて、多少の距離の不向きは承知で菊花賞へ出走していた。

 

だがクラシック級の身でありながら秋天へ挑んだバブルガムフェローが見事勝利し、その常識をぶち壊してみせた。

クラシック級のウマ娘でも、能力があればシニアのトップクラスと互角以上にやれることを彼女は証明したのだ。

 

それ以降、3000Mの菊花賞を無理に走らずとも、より自分の距離適性に合った秋の天皇賞に出走しようか、と考える中距離型のクラシック級のウマ娘が増えてきている。

 

そんな流れを象徴するように、今日の一番人気にはダービー2着、前走のセントライト記念を好タイムで制したクラシック級のフェノーメノが推されていた。

 

2番人気になっているのは今年に入って海外のGⅠを制覇して、とうとうその超良血の真価を発揮させた、フラッシュと同期のルーラーシップ。

以下、春にNHKマイルを制し、ここまで無敗でやってきているクラシック級ウマ娘のカレンブラックヒルに、これまでフラッシュと幾度となく好勝負を繰り広げたダークシャドウが続いている。

 

「そんな彼女たちに続いて、5番人気ですか」

 

お互いの両親を樫の間に案内してから控室に戻ってきた俺たちは、モニターをつけて今日のフラッシュの人気を確認した。

 

この微妙な人気は、揺れるファンの心理状態を現しているようだった。

 

フラッシュは大きなケガからの休養明けで、実戦からは半年以上遠ざかっている。

しかもダービー以降、2年以上も勝ち星を上げていない。

 

それだけを見るなら、今回はちょっと見送りかな、と考えるのが普通だろう。

 

だが今日のレースはフラッシュがダービーを制覇した東京レース場で行われ、2000Mはミドルディスタンスを得意とするフラッシュにとってベストの距離である。

追い切りの時計もシニア級のウマ娘のものにしては相当良く、フラッシュの調子の良さはマスコミを通じてファンたちに伝えられていた。

 

それに、フラッシュはもともとファンの多いウマ娘だ。

得意の舞台で推しに勝ってもらいたい、最高の栄誉を獲得した府中で復活してほしいという【応援投票】もそれなりに入っていることだろう。

 

「今の私の状況を踏まえるなら、この人気はちょっと背負い過ぎかもしれませんね」

 

フラッシュは普段、レースの前にネガティブなことはあまり言わないウマ娘である。

やはり久しぶりの実戦、それも大きな故障明けということもあって少し緊張しているのだろう。

 

「そうか? 俺はこれぐらいの人気は集めるだろうな、とは思っていたけどね。追い切りの時計も良かったし……なんていったって、君はこの日本一のレース場でダービーという栄冠を掴んだウマ娘なんだから」

 

そう。

 

やっぱり、ファンは忘れられないのだ。

 

ダービーで見せた、府中にきらめくエイシンフラッシュの閃光を。

 

ファンも、そして俺も、あの豪脚をもう一度見たいと願っているのだ。

 

「そうですね……今日はトレーナーさんと私の両親も見に来てくれていることですし、恥ずかしいレースはできませんね」

 

そう言って微笑むフラッシュからは少しよけいな肩の力が抜けて、しっかりと闘志が入ったように感じられた。

 

ウマ娘とトレーナーとのレース前の会話は、これから臨むレースに対するモチベーションやテンションの調整に関して、非常に大きな役割を持っている。

 

俺は決して口達者なトレーナーというわけではなかったが、それでもフラッシュを最高の精神状態でレースに送り出せるよう、できる限りの言葉を紡いているつもりだ。

 

トレーナーがこれから戦いに赴くウマ娘にしてやれることなんて、それぐらいのものだから。

 

「君ならきっと、大丈夫だ。伝統ある天皇賞という舞台を、楽しんできてほしい。そして無事にご両親の……俺たちのもとへ帰ってきてくれ」

 

そろそろ、パドックに出なければいけない時間が迫ってきている。

ありきたりだが一番伝えたかった言葉を伝えて、俺はフラッシュを檜舞台へ送り出した。

 

*

 

レース界の移り変わりは、早い。

 

フラッシュがこの府中でダービーウマ娘の栄冠を掴んでから、わずか2年ほどしか経っていない。

 

だが、ふたたび同じ舞台である今日の天皇賞にエントリーしてきたのは、あのダービーで世代最強を競った同期のうち、フラッシュを含めてたったの3人だけだ。

 

このことは長期間トゥインクルシリーズのトップクラスで戦い続けることが、いかに難しいのかを物語っている。

 

歴戦の猛者に、才能あふれる新進気鋭の若駒たち。

そんな18人が、一人ひとりゲートに収まってゆく。

12番の出走番号が与えられたフラッシュは、久しぶりのターフの感触を蹄鉄で確かめるように、ゆっくりとした歩調でゲートに入っていった。

 

「イレこんだり緊張している様子はなさそうですし、調子もよさそうですね」

 

ゲートインするフラッシュを見て、この中で唯一の実戦経験者である彼女のお母様が言う。

フラッシュのご両親、それに俺の両親と俺はスタンドの6階にある樫の間から、フラッシュが戦う伝統の一戦を見守っていた。

 

「ええ。休み明けとはいえフラッシュはもうベテランのウマ娘ですし、久しぶりの実戦でもメンタル面に不安はありません。それに、レース直前の追い切りでは本当にいい動きを見せてくれていました。きっといいレースをしてくれると思います」

 

それは決して世辞だったり、遠くドイツから来てくださったご両親への社交辞令で言ったわけではない。

フラッシュの最終追い切りの動きは、他のトップクラスのウマ娘のそれとくらべても遜色ないものだった。

 

全員、ゲートイン完了。

乾いたゲートの開く音とともに、一帖の盾と最高の名誉を懸けて18人の戦士たちがターフに飛び出してゆく。

 

まず先手を取ったのは、シルポートだった。

彼女はフラッシュよりもベテランのウマ娘で、今まで数多くの大レースに出場し、大きく逃げて観客を沸かせてきた名物ウマ娘である。

 

そんな彼女に続いたのは、クラシック級のカレンブラックヒルだ。

大先輩に臆することもなく、堂々とシルポートを追いかける。

 

そのあとはクラシック級ながら今日の一番人気を背負っているフェノーメノ、宝塚記念を勝っているアーネストリー、フラッシュと同じ年にデビューしたダイワファルコンなどが先行集団を形成し、その少し後ろに去年衝撃的な日本レコードでこのレースを制しているトーセンジョーダン、それに今日は4番人気にまで推されているダークシャドウが中団に位置していた。

 

フラッシュはそんな彼女たちを見るような位置取りで、先行集団の少し後ろを追走している。

 

有力ウマ娘の一人、ルーラーシップは後方に控えて末脚勝負に専念する構えのようだ。

 

シルポートが飛ばしているせいもあるのか、バ群はずいぶんと縦長の展開になった。

大きな順位の入れ替わりこそ見られなかったが、どうもペースがずいぶん早いように感じる。

 

先頭のシルポートが、1000Mを通過した。

スマートウォッチに目をやると、そのタイムなんと57秒3!

 

GⅠということを加味しても、相当なハイペースである。

 

基本的に、ハイペースになれば後ろから行く娘が有利になり、スローペースになれば前の娘が残る展開になりやすい。

 

そういった意味ではこの展開はフラッシュにとってありがたいとも言えるのだが……これだけ早い流れが休み明けの彼女の末脚にどう影響するかは、正直なところわからない。

 

それからもシルポートはペースをまったく落とすことなく、さらに後ろとの差を10バ身、15バ身と広げていく。

 

「あの先頭の娘、すごいな。どんどん後ろとの差を広げていくぞ。後ろの娘は追いつけるのか?」

 

となりで観戦している親父が、少し高揚したようにつぶやく。

俺が知る限り、親父はレース場での観戦はおろか、テレビでのレース中継もほとんど見たことがないはずだ。

 

大逃げのウマ娘が道中これぐらいのリードを取ることはたまにあるのだが、普段レースを見ない人からすると、このような展開は結構エキサイティングに感じるのだろう。

 

「わからない。このまま逃げ切るかもしれないし、後ろで力をためている娘に追いつかれるかもしれない。GⅠに出てくるような、一流の娘たちの力の差なんて本当に紙一重だから。そんなウマ娘たちの熱戦を、見守ってあげてほしい」

 

俺の言葉に親父はコースから目を離さず、静かにうなずいてくれた。

 

各ウマ娘が大ケヤキを超えて、第四コーナーへ向かう。

 

先頭は変わらず大きなリードを保っているシルポート、二番手にはカレンブラックヒル、それにアーネストリーが続いて、一番人気のフェノーメノもこの集団の中にいる。

 

17人の優駿を引き連れて、シルポートが最後の直線で立ち上がる。

まだ、その差は15バ身ある!

 

しかし、二番手のカレンブラックヒルが少しずつ差を詰めてゆく。

それを見て、ダイワファルコンも一つギアを上げたようだ。

 

さらに外からはフェノーメノもやってきている。

 

残り、400Mを切った。

 

ここまで恐ろしいほどのハイペースでレースを引っ張ってきたシルポートだが、さすがに脚が鈍ってきた。

二番手集団との差が、みるみるうちに縮まってくる。

 

後ろから彼女に迫るカレンブラックヒル、ダイワファルコンとの脚色は歴然で、追いつかれるのも時間の問題だろう。

このレースでの優勝を、3年連続で追いかけたシルポートの夢もここまでだった。

 

そしてフェノーメノが、大外からものすごい脚で前3人に襲いかかる。

一番人気のラストスパートに、スタンドからは大きな歓声が上がった。

 

その時だ。

 

そんなフェノーメノの脚が霞んでしまうほどの脚で、最内を突いて一人のウマ娘が猛烈な勢いで追い込んできている。

 

まさか、と思った。

だが、俺が彼女を見間違えるはずもない。

 

鬼神も避けよの末脚でやってきているのは、間違いなくエイシンフラッシュだった。

 

まさに閃光のような豪脚で、前にいたフェノーメノたちを一瞬にして差し切ると、フラッシュが先頭に立った。

 

その光景に、フラッシュのご両親の、声にならない叫び声が聞こえてくる。

 

フラッシュが。

 

ダービー以降2年以上勝ちから見放され、大きな怪我も経験し、もう終わったウマ娘だとまで言われたエイシンフラッシュが、府中の最後の直線で、先頭に立った。

 

「行け……フラッシュ、そのまま、行けっ!!」

 

*

 

『先頭はシルポート、だがさすがに苦しくなってきたか。外からはフェノーメノ、カレンブラックヒル、そしてダイワファルコンがやってくる!……!内からエイシンフラッシュ、内を突いて凄い脚でやってきたのは、エイシンフラッシュです!エイシンフラッシュが、先頭に立った!!』

 

『残り200Mを切った!外からはフェノーメノが、カレンブラックヒルが、そしてダークシャドウが突っ込んでくる!だが、最内のエイシンフラッシュ譲らない、エイシンフラッシュ先頭!』

 

『エイシンフラッシュ、フェノーメノが二番手、エイシンフラッシュ今一着でゴールイン!!』

 

『伝統の天皇賞を制したのは、なんとエイシンフラッシュです!』

 

『ダービーウマ娘、エイシンフラッシュ!長い長い暗闇をくぐり抜け、再びこの府中で輝きました!!』

 

*

 

エイシンフラッシュは、秋の天皇賞で鮮やかに復活した。

 

2年以上のスランプを乗り越え、大きな故障も乗り越えて彼女が輝きを取り戻したのは、やはり日本一の檜舞台、東京レース場であった。

 

フラッシュのお母様が、肩を震わせて泣いている。

そんなお母様を抱きしめるお父様の薄いブラウンの瞳にも、うっすらと光るものが見える。

 

その二人に感化されたのか、俺の母さんもそっと目元にハンカチを当てているのがわかった。

 

「……父さん、ごめん……」

 

俺は、声をしゃくりあげながら父に謝った。

 

「男は泣くもんじゃないって、怒られたことがあるのに……でも、今日だけは、許してくれ……」

 

俺の謝罪に、親父は黙って頷く。

 

「お前ももう一人前の社会人で、立派な男になった。その一人の男が泣いているんだ。その涙にどうこう言うのは無粋ってもんだろう」

 

ああ、そうか。

 

今まで父親とはいろいろな局面でさんざん衝突してきたけど、俺は結局、親父からその言葉を聞きたかっただけなのかもしれない。

 

長い長い反抗期が、たった今終わりを迎えたことを、俺ははっきり自覚した。

 

そして俺は、改めてコースの方へ視線をやった。

 

天皇賞制覇という偉業を成し遂げたフラッシュは、いつもと変わらない笑顔をスタンドに向け、ファンたちに小さく手を振ってウイニングランを披露している。

 

そうしてスタンドの中央――俺達がいる樫の間の、ちょうど真下だ――にやってくると、彼女は静かに立ち止まった。

 

そしてフラッシュは静かにターフに膝をつくと、その姿勢でスタンドに向かって深く(こうべ)を垂れた。

 

天皇賞ウマ娘が見せた最敬礼に、スタンドが再び大きく湧く。

 

その最敬礼はきっと。

 

フラッシュの亡き祖父に。

大スランプの間も、見捨てずに応援してくれたファンたちに。

今日のレースを見に来た俺の両親に。

 

そして自分をここまで育て、どんなときでも見守っていてくれたフラッシュのご両親へ捧げられたものだった。

 

レース史に残るであろう美しいその一幕を、俺は滲む(まなこ)にしっかりと焼き付けた。

 

*

 

晩秋に吹く夜の風には、もう冬の匂いが入り混じっていた。

短い紅葉の季節が終われば、すぐに年末がやってくる。

 

お互いの両親を交えた天皇賞制覇の祝勝会を終え、俺とフラッシュは最寄り駅から学園への帰路をゆっくりと歩いていた。

 

祝勝会の会計は、若輩ながら俺がすべて出させてもらった。

フラッシュの優勝を俺が一番お祝いしたかったという思いもあったし、初任給で両親を食事にも連れて行ってあげられなかったことへの、ちょっとした罪滅ぼしのつもりでもあった。

 

祝勝会は和やかに行われ、フラッシュのご両親も、俺の父さんと母さんもきっと楽しんでくれたことだろう。

 

楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、フラッシュのご両親は会場のレストランからその足でドイツに帰国し、俺の両親もタクシーに乗って自宅へ帰っていった。

 

タクシーに乗り込む際、親父が「いい仕事を見つけたな。がんばれよ」と言ってくれたのが嬉しかった。

 

「トレーナーさんのご両親、素敵なご両親ですね」

 

こちらを覗き込みながら、フラッシュがそんなことを言う。

 

「そうかな」

「ええ。優しいお母様に、寡黙ながら責任感を持ってしっかりと息子を見守っていらっしゃったお父様。このようなご両親だからこそ、貴方は立派な仕事をなさるトレーナーになれたのだと思います。そんなトレーナーさんに担当してもらえて、私は本当に幸せなウマ娘です」

 

そう言って立ち止まると、フラッシュは胸に手を当てて丁寧なお辞儀をしてくれた。

 

「俺の方こそ、君のような……美しくて才能あるウマ娘を担当できて、本当に幸せだよ。改めて、天皇賞優勝、おめでとう」

「ありがとうございます。ですが今日の天皇賞制覇は、トレーナーさんの献身的な支えがあってこそのものです。ですから、今日の勝利は私一人のものではなく、『私たち二人の勝利』ですよ」

「……フラッシュ」

 

俺はレースでの勝利というものは、あくまでウマ娘のものだと考えている。

トレーナーというのは、その手助けをしているだけに過ぎない。

 

でも、自分の担当がそう言ってくれるのなら。

 

「そうだね。君がそう言ってくれるのなら、俺も天皇賞を勝ったトレーナーとして胸を張ることにするよ」

「はい。そうしてくださると、私も嬉しいです。それから……」

 

優しい微笑みでそう言ってくれたフラッシュは、なにかを決意するように一瞬、目を閉じる。

 

そしてそっとつぶらな瞳を開き、真剣な眼差しを俺の目に向けた。

 

「次走は、年末の有マ記念への出走を考えています。そして、その有マ記念を私のラストランにしたいのです」

 

ラストラン。

 

いずれ来る、必ずその時はやって来ると思っていた瞬間が、とうとう訪れたのだ。

 

「そうか」

 

フラッシュの決意に、俺は小さく頷く。

彼女からはっきりと伝えられたラストランという言葉に、心中でいろいろな感情が渦巻いた。

 

でも、その気持ちの整理はあと回しにしよう。

俺はエイシンフラッシュのトレーナーとして、今彼女に伝えるべきことがあった。

 

「わかった。ラストランに向けて、後悔のないトレーニングメニューを考えるよ。……3年以上もの間、フラッシュは本当によくがんばってくれたね」

「トレーナーさん。そう言ってもらえるのは嬉しいんですけど、その言葉をかけてもらうには、少しばかり気が早いと思いますよ」

 

俺の労いを聞いたフラッシュは、ちょっと困ったような苦笑を浮かべた。

 

実は俺もそう思ったのだが、エイシンフラッシュを担当してきたトレーナーとして、長い間厳しいトレーニングに励み、戦い続けた彼女を労うのは今が一番いいと思ったのだ。

 

フラッシュが、現役ウマ娘としてラストランの有マ記念を走り終えたあと。

 

俺はエイシンフラッシュのトレーナーとしてではなく、一人の男として、どうしても彼女に伝えたい気持ちがあるのだから。

 

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