担当ウマ娘に、恋をした。   作:宮川 宗介

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ラストラン

秋の天皇賞が終わると、季節の歩みがぐっと早くなる。

 

ついこの前まで半袖を着てトレーニングコースに出ていた気がするが、今では長袖を着ていないととてもじゃないがここにいられない。

 

朝の早い時間だと、なおさらだ。

 

それにしたって、俺が中高生のころは秋から冬への季節の変化がもう少し緩やかだった気がする。

この急な寒暖差が、フラッシュの体調に悪影響を与えなければいいのだが……。

 

そんなことを考えながら、俺はダートコースを走り込むフラッシュを眺めていた。

 

「はっ、はっ、はっ……!」

 

迫力ある爪音(つまおと)を響かせ、激しく息を切らせながらフラッシュがコーナーを曲がって俺が待つゴールへ向かってくる。

 

「よし、フラッシュ!ラストスパート!」

「はいっ!」

 

俺の檄に応え、フラッシュは体を沈み込ませると力強くダートを踏み込んだ。

そして彼女らしい加速力で脚をトップスピードに乗せると、その勢いのままゴールを駆け抜ける。

 

「ふぅっ、はぁっ……はあぁっ……。タイムは、どうでしょうか?」

 

息を整えながら戻ってきたフラッシュに、俺は苦笑いを浮かべた。

 

「う~ん。まぁ先週の天皇賞で激しいレースを戦ったってこともあるし、今はこんなもんじゃないかな」

 

そう言って俺は、平凡なタイムが表示されたストップウオッチを彼女に見せた。

 

「……正直、あまりいいタイムではないですね」

 

フラッシュはタイムを確認すると、険しい顔つきで用意しておいたスポーツドリンクを一口飲み、ふぅっ、と大きくため息をついた。

 

「言い訳に聞こえるかもしれないのですが、天皇賞後の疲労がなかなか抜けないのです。もちろん過酷なレースを走り抜いたあとなわけですから、多少の疲れが残るということはあるでしょう。それにしても、こんなに疲労感が続くなんてことは今までなかったんですけどね……」

「……うん。まぁでも、それもある程度は仕方ないかな……」

 

フラッシュの今の状態に、俺達はお互いため息を交換した。

 

あの感動的な天皇賞から、もう1週間が経っている。

にもかかわらず、フラッシュの体の回復がレースの消耗に追いついていない。

 

確かに、消耗が激しすぎてレース後数日はトレーニングすらおぼつかない、レースの間隔を2ヶ月以上は空けないと走れない、という娘もいる。

 

しかしフラッシュはリカバリーが早いタイプだったので、クラシック級やシニア一年目の時にはそんなことはありえなかった。

 

実際、シニアの1年目は春シニア三冠すべてに出走するというタイトなローテーションをこなしているし、優勝こそできなかったものの、まずまずの成績を残している。

しかもそのレースの合間に、それなりに負荷の高いトレーニングも積んでいた。

 

それでもフラッシュがレースやトレーニングの後に疲労感を訴えてきたことは、一度もなかったのである。

 

なのに、たとえGⅠとはいえ、1つのレースを走っただけで疲労感が残ってしまうということは……。

 

それだけ、フラッシュは【老いてしまった】ということなのだ。

 

フラッシュももう、シニア2年目を迎えるベテランウマ娘である。

ウマ娘が現役でいられる期間は、他のスポーツと比べても著しく短い。

 

選手が早熟で競技生命が短いスポーツといえば、シングル競技の女子フィギュアスケートが思い浮かぶが、それでも20代中頃でトップクラスの実力を維持している選手はそれなりにいる。

 

だがレースの世界では、消耗が比較的ゆるやかと言われているダートを主戦場にしているウマ娘でも、20歳を超えて走っている娘は本当に稀だ。

 

その現役生活の短さを、口の悪いファンは『クラシックはお嬢ちゃん、シニア1年目はお姉ちゃん、それ以上はおばさんウマ娘』なんて揶揄したりするが、選手生命の寿命や消耗度という視点から見れば、(まことに遺憾ではあるが)やつらの言い分に若干の理があったりする。

 

実はラストランの有マ記念の前に、フラッシュが2度の栄光を掴んだ東京レース場、それもダービーと同じ2400Mという距離で行われるジャパンカップへ出走する、というプランもあった。

 

しかし今日のトレーニングを見ての通り、以前のように彼女の体は回復せず、相談の結果、その計画は白紙にせざるを得なかった。

 

「焦っても仕方ない。ラストランの有マまでにはまだ時間はある。それまでに完璧に仕上がるよう、トレーニングを進めよう。この時期ならプールも温水になってるし、あとはストレッチ代わりに軽く泳いで今日はおしまいにしようか」

 

俺の指示に、フラッシュは力なくうなずく。

 

まだ高等部という年齢にもかかわらず、【老い】と戦っているフラッシュにどんな言葉をかけてあげればいいのだろう。

担当ウマ娘の引退を経験したことのない俺には、それがまるでわからなかった。

 

*

 

暦はいよいよ12月に入った。

 

それは今年の残りももう1ヶ月を切ったということであり、フラッシュのラストラン、有マ記念が近づいてきているということでもある。

 

フラッシュの疲労がようやく癒えてきたのは、有マに向けてそろそろ本格的なトレーニングを行いたいと思っていた12月の2週目ぐらいだった。

 

その有マ記念に向けて、一つ素晴らしい出来事があった。

 

「フラッシュ!今日配信された月刊トゥインクル特別号は見たかい?」

 

朝から興奮してそんなことを聞く俺に、コースの入口ですでに待機してくれていたフラッシュは、はにかみながら頷いた。

 

「はい。ありがたいことに、私が有マ記念ファン投票1位に選ばれたようですね」

 

そう!

今回の有マ記念ファン投票は、今年三冠ウマ娘に輝いたオルフェーヴルやジャパンカップを制したジェンティルドンナ、春のグランプリの宝塚記念を優勝したゴールドシップなどの名ウマ娘を抑えてフラッシュが見事1位に輝いた。

 

大きなケガを乗り越え、長い長いスランプの果てに復活を果たした秋の天皇賞優勝が、ファンの琴線に大きく触れたのだ。

 

すでにマスコミを通じて、この有マがフラッシュのラストランになるということをファンたちに伝えているということもあるだろう。

 

「判官びいきで票を集めたようで、素直に喜べないところもあるのですが……」

「フラッシュ。謙遜は美徳だけど、それも行き過ぎるとただの自虐になってしまうよ。ファンは、君の努力と実力を認めてくれたんだ。今はそのことに感謝しよう」

 

自嘲気味に苦笑するフラッシュを、俺はたしなめる。

 

確かに、ファン投票の結果は完全な実力を反映したものではない。

フラッシュの最後のレースだから今回は票を入れてあげよう、と考えて投票したファンも、それなりにいるとは思う。

 

だがたくさんのファンがエイシンフラッシュというウマ娘を愛し、有マ記念という檜舞台で彼女の走りが見たいと思って投票してくれたのは、紛れもない事実なのだ。

 

「そうですね。なにげに私がGⅠで主役級に注目される、ということはこれが初めてですしね」

「そうなんだよな……」

 

フラッシュはGⅠを2勝している実力者なのにも関わらず、GⅠで一番人気に推されたことが一度もない。

ダービーでは7番人気の伏兵扱いだったし、先日の天皇賞でも5番人気で、あくまで【有力ウマ娘の一人】という扱いだった。

 

そんなフラッシュがラストランの有マ記念でファン投票1位に選ばれ、主役として出走する。

トレーナーとして、こんなに嬉しいことはなかった。

 

「ファン投票で1位というのは光栄なことなのですが、やっぱりプレッシャーも感じてしまいますね。ラストランでもあることですし、悔いのない準備をしておきたいものです」

「フラッシュならそういうと思って、今日はちょっと負荷の大きいトレーニングを考えておいたよ。朝練はウッドチップ2本に筋トレ、放課後は坂路2本にプールトレーニングだ」

「ん……それだけの練習量の指示は久しぶりですね。がんばります」

 

そう言ってフラッシュは強気に微笑むと、その場でウォーミングアップを始めた。

 

本来であればシニア2年目のフラッシュに、これほどハードな練習は不要だ。

 

だが、次の有マ記念はフラッシュが挑む最後のレースになる。

 

もう【次のレース】のことを考える必要はない。

ラストランに向けて、目一杯仕上げてしまっていい。

 

有マ記念で有終の美を飾るウマ娘が多いのは、案外こういった事情もあるのかもしれない。

 

準備運動を終えると、フラッシュは勢いよくウッドチップのコースへ駆け出してゆく。

 

たとえトレーニングだとしても、彼女が走りに手を抜かないのはジュニア時代から変わっていない。

 

思い返せば、フラッシュは本当にトレーナーの手を煩わせない模範的なウマ娘だった。

 

トレーニングをサボったことは一度もないし、こちらの指示はきちっと遵守してくれる。

体は丈夫で、クラシックに進級したばかりの頃にナイラになったのと、ドバイ帰国後の、あの故障以外にフラッシュの体調不良でレースやトレーニングに支障が出た、ということもなかった。

 

このことには彼女の真面目な性格が、一役買っている。

 

フラッシュの私生活は優等生そのもので、俺が彼女に普段の生活態度を注意したことは一回もない。

フラッシュが夜ふかししてるとか、ドカ食いしてるとか、そんなことは噂ですら聞いたことがなかった。

 

むしろ、息抜きにもう少し友人たちと遊びに行ってほしいとすら思っていたぐらいである。

 

食事についても健啖家というわけはないが、どこに行ってもメンタルが安定していて食が細くなるということもなく、ほとんどのレースには理想的な状態で出走することができた。

 

そして俺にダービートレーナーの称号と、天皇賞の盾をプレゼントしてくれたのだ。

 

俺が何歳までトレーナーという仕事を続けるのかはわからないが、もうこんなウマ娘には出会えないかもしれない。

 

そんなフラッシュが今度の有マ記念を最後に、俺の担当ウマ娘でなくなってしまう。

フラッシュとのその後の関係がどうなるかはわからないが、少なくともこうして毎日顔を合わせ、同じ視線に立って同じ目標を追いかけるということは、なくなってしまうのだ。

 

さみしくなるなぁ……。

 

そんな思いに囚われながら、俺はフラッシュの走る姿を見つめていた。

 

*

 

師走は師匠も走り回るぐらい忙しい月、なんて言われたりするが、実際に走り去っていくのは時間のほうで、毎年レコードを更新してるんじゃないか、というスピードで今年も暮れてゆく。

 

「両親も『毎年一年があっという間に過ぎてゆく』みたいなことを言っていました。お菓子屋さんの12月はクリスマスがあって寝る間もないほど忙しいのも、その原因かもしれませんね」

 

かわいらしいもこもこのコートを羽織ったフラッシュが、そう言って隣で微笑む。

 

「ああ、やっぱりドイツにもクリスマス商戦みたいなのがあるんだ」

「ええ。ケーキだけでなくクッキーやマルチパン菓子のベートメエンヒェンなどもよく売れますよ。クリスマス前の厨房やお店はまさに戦場ですね」

 

フラッシュが道路を挟んだ向こう側に視線を向けると、そこにはイルミネーションで飾られた、行列ができているお菓子屋さんがあった。

並んでいるほとんどの客は若い女性かカップルで、確かあの店はウマスタで取り上げられることも多い人気店だったはずだ。

 

「気になるなら、俺たちも並ぶ?」

 

俺の提案に、フラッシュは静かに首を振る。

 

「魅力的なお誘いですが、止めておきましょう。今日は美味しいクリスマスディナーをごちそうになったことですし、これ以上食べてしまっては、明日のレースに支障が出そうです」

「それもそうか」

 

確かに、せっかく現状でこれ以上ないほど最高の状態にまで仕上げたのに、最後の最後で昨日食い過ぎたせいで力が出せず惨敗しました、では笑い話にもならない。

 

今日は、クリスマスイブ。

カップルが愛を語り合い、子どもたちがもらえるプレゼントに胸を高鳴らせ、サンタクロースが苦労してリサーチしたその贈り物を子どもたちの枕元に置いてあげる日である。

 

そんな日に俺たちはファン投票1位のお祝いと有マ記念の前祝いと称して、ごちそうをほどほどに食べてイルミネーションに彩られた街を歩き、雰囲気だけでもクリスマス気分を味わっているというわけだ。

 

それから俺たちは何を話すでもなく、街中をブラブラした。

クリスマスソング流れる聖夜の夜の街には、忘年会で浮かれているサラリーマンや親子連れもいないわけではなかったが、やはりこの日の街の主役は手をつなぎ、時折意味もなく視線を交わしては微笑みを交換しているカップルで、どうにも居心地が悪い。

 

「……トレーナーさん。もう少し、静かな場所へ移動しませんか?」

 

フラッシュの少し困ったような微笑を見るに、それは彼女も同じだったのかもしれない。

 

「そうだね。もうちょっと歩いたら小さな公園があったはずだから、そこへ行こうか」

「そうしましょう」

 

意見が一致した俺たちは大通りから路地に入り、おぼろげな記憶を辿って公園へ向かう。

さすがに裏通りに来るとカップルの姿は見えなくなり、そのかわりに忘年会の二次会にぴったりそうな赤暖簾の店に出入りする、いい感じに出来上がっていそうなサラリーマンの姿がチラホラと見られた。

 

そんな酔っ払いたちをひょいひょい避けながら、俺たちは目的の公園へとたどり着く。

 

「さすがに、こんなところには誰もいませんね」

 

フラッシュはベンチに腰掛け、なにげなしに空を見上げる。

俺もそれに習ってフラッシュの隣に座り、彼女の視線を追いかけると……。

 

冬の澄んだ空気の中に、青白く輝く美しい月が浮かんでいた。

 

「空気が澄んでいるせいか、冬は月が特に綺麗に見えるね」

「そうですね……。夏の満天の星空も良いものですが、冬の空に浮かぶ月には孤高の美しさみたいなものを感じます」

 

孤高の美しさ、か。

俺は透きとおるような美しさを見せる月から、隣に座るフラッシュの横顔へと視線を移す。

 

出会ったときにはその整った顔立ちの中にもまだ少女の面影を残していたものだが、ここ一年でフラッシュはぐっと大人の女性になった。

 

彼女の美貌はますます洗練され、俺なんかが隣りにいるとフラッシュの品位や美しさを損なってしまうのではないか、とおかしな心配をしてしまうことがある。

 

俺は彼女のトレーナーというだけで、別に恋人というわけでもないのに……。

 

「トレーナーさん」

 

そんなことを考えていると不意にフラッシュがこちらへ振り向き、彼女の長いまつげに縁取られた大きな瞳と至近距離で目を合わせることになった。

 

「ん……ああ。どうしたの?」

 

なんとか平静を装ったが、見慣れているはずのフラッシュの青い瞳に吸い込まれそうな感覚に陥ってしまって、胸の脈動が爆発的に早くなる。

 

フラッシュの瞳は淡い月の光を反射して、幽世(かくりよ)の美しさをたたえていた。

 

……月の光には古来より妖しげな魔力が潜むという。

フラッシュの美しい瞳にそのまま吸い込まれてしまいたい、なんて思ってしまったのはきっとそのせいだ。

 

「前にもお話させてもらったかもしれませんが、私の母の名前はレディームーンっていうんです」

 

月を見て思い出したのだろうか、フラッシュは合宿の時に話してくれたお母様の名前のことを語り始めた。

 

「うん、覚えているよ。合宿の時に教えてくれたね」

「そういえば、あのときもふたりで海面に映る月を眺めていましたね」

 

フラッシュの言うように、合宿所近くで行われていた祭の喧騒を遠くに聞きながら、海を眺めていたように思う。

たった1年ほど前のことなのに、フラッシュはまるでそれが遠い過去のことのように語る。

いや、彼女の過ごしてきた濃密な競走生活を思えば、そう感じるのは当然なのかもしれない。

 

「月といえば……月と私の両親に関して、ちょっとした小話があるんです」

「ほうほう」

 

フラッシュがこんなふうに話を切り出すのは珍しい。

俺は思わず身を乗り出して、フラッシュの話に耳を傾けた。

 

「父と母は同じ菓子工房に務める同僚で、父が言うには、母の美しさと明るい笑顔に一目惚れだったそうです。どうにか母と付き合いたいと考えた父は、母が親日家であることを知り、一計を案じました」

「それは、どんな作戦だったんだい?」

「母を口説き落とす時、父は母の名前から着想を得て『月が綺麗ですね』という、有名な日本人作家の一文を用いたそうですよ」

「……へぇ、そうだったんだ」

 

月の魔力とフラッシュの瞳の魅力に飲み込まれていた俺は、まるで恋を知らない中学生男子のような返事しかできなかった。

 

「母はそんな父の口説き文句に『100年ぐらい貴方と一緒に月を見たあとなら、死んでもいいわ』と返事したそうですよ」

「それもまた、粋な返しだね」

 

その返答なら、もし相手が『死んでもいいわ』の言葉の背景を知らなくても『貴方の気持ち、確かに受け取りました』と伝えることができただろう。

 

「私も、そう思います。それにしても愛するひとと100年もの時を一緒に過ごす人生というのは、どのようなものになるのでしょう?」

 

100年。

それは、気の遠くなるような年月だ。

 

「まだまだ小僧の俺には想像するしかできないけど、ラブラブなことばかりじゃないだろう。いいことも悪いことも、辛いことも嬉しいことも、その長い長い時の中できっと山のように起こる。苦難も歓喜もふたりで分かち合えるのなら、それは幸せな人生なんじゃないかな」

「そうかも、しれませんね」

 

フラッシュは俺の言葉に静かに頷くと、ベンチから立ち上がった。

 

「帰りましょうか、トレーナーさん。そろそろ、門限が近いはずです」

「そうだね」

 

フラッシュと俺の二人三脚でやってきた競走生活にも、苦難と栄光があった。

約4年に及ぶ俺達の挑戦も、明日が最後の戦いになる。

 

結果がどうであれ、フラッシュが無事に走り切り、最後にふたりで『いい競走人生だった』と笑い合えるレースになるといい。

 

心の奥底でそんなことを願いながら、俺もベンチから腰を上げた。

 

*

 

年の瀬の中山レース場で行われる有マ記念には、次世代を担う優駿たちが顔を揃えていた。

 

今年の宝塚記念を圧勝し、春秋グランプリ制覇を目指す二冠ウマ娘ゴールドシップ。

 

去年トリプルティアラを圧倒的な実力差を見せつけて制圧し、今年のジャパンカップを制してこの大舞台に乗り込んできた【鬼婦人】ジェンティルドンナ。

 

そして暴力的なまでの豪脚で今年の三冠を統べ、トゥインクルシリーズに覇を唱えんとする【金色の暴君】オルフェーヴル。

 

近年稀に見る好メンバーが揃った世紀の一戦を目の当たりにしようと、朝からたくさんのレースファンが中山レース場に詰めかけている。

 

今日の観客動員数はおそらく過去最高を更新することだろう。

 

「きっとすごい数の人たちが見に来てくださっているのでしょうね。ここまでスタンドからの声が聞こえてきます」

「この豪華メンバーが走る有マ記念だからね。レースファンなら絶対に見届けたいレースだよ」

 

控室にいても聞こえてくる喧騒を耳にしながら、俺達はレースの展開や特にマークすべきウマ娘などの最終確認を行っていた。

 

フラッシュのメイクデビュー以降、レースのたびに幾度となく繰り返してきたこの作業もこれが最後だ。

 

「今日の一番人気には当然と言えば当然ですが、オルフェーヴルさんが推されていますね。僅差の二番人気でジェンティルドンナさん、続いてゴルシさんですか」

「そんな強豪たちの中で、フラッシュは4番人気にまで推されている。……せっかくファン投票一位で出走するんだから、レースでも一番人気に推して欲しかったね」

「それは仕方ありません。勝ち負けを予想するとなると、ファンの方たちもシビアになるでしょうから」

 

少しさみしげに、フラッシュは苦笑した。

有マや宝塚などの人気投票はあくまで【グランプリに出走してほしいウマ娘】に投票するもので、当日の【勝ちウマ投票券】の人気はまた別物だったりする。

 

「その人気が実力通りかはともかく、今日のレースにおいて注意すべきはその3人なのは間違いない。ただその中でもレースの鍵を握るのは、ジェンティルドンナかもしれない。君を含めて有力ウマ娘はみんな後ろから行くタイプだから、前の方でもレースができる彼女に仕掛けの自由を与えると厳しい戦いになると思う」

「そうですね……展開的にも多分彼女を前に見てレースすることになるでしょうから、ジェンティルドンナさんの動向にはしっかり気を配っておいたほうが良さそうです」

 

専門誌やファンの間ではこの豪華メンバーの中でも実力はオルフェーヴルが一枚上手、などと言われているが、彼女はシニア級のウマ娘とは初対戦なのである。

 

三冠ウマ娘をあなどるわけではないが、世間が考えているほど先輩たち相手に楽なレースはさせてもらえないだろう。

 

「よし。作戦としてはレース序盤はジェンティルドンナをペースメーカーにして走りつつ、後ろにいるオルフェーヴルとゴルシの位置取りも少し意識しよう。ラストスパートはジェンティルドンナのギアの入れ具合を見て、君の判断で仕掛けてくれ。おそらくジェンティルドンナも、オルフェーヴルを意識してラストスパートを掛けるはずだから、彼女の仕掛けるタイミングが君にとっても勝負どころになるはずだ」

「わかりました」

 

俺の指示に頷いてくれると、フラッシュはゆっくりと立ち上がった。

時計を見ると、そろそろパドックへ向かわなければいけない時間になっていた。

 

「それでは、行ってきます」

 

退出しようとするフラッシュの背中に、俺はトレーナーとして思いの丈を伝えることにする。

 

「フラッシュ。君との競走生活はデビュー前に話したような、完璧な計画通りとはいかなかったけど……トレーナーとして最後まで現役生活を並走できたことを、心から嬉しく思うよ」

「それは、私もです。貴方が私のトレーナーで、本当に良かった」

 

それだけいうとフラッシュはこちらを振り向くことはせず、そっと扉を閉じて最後の戦場へ赴いていった。

 

*

 

シニア級のみならず、クラシック級のトップウマ娘も集う有マ記念は、今年の中長距離レースの真のチャンピオンを決めるレースとも言える。

 

毎年豪華メンバーが集うこのレースであるが、今年は過去最高レベルとも言える強者たちが顔を揃えた。

 

人気上位のオルフェーヴル、ジェンティルドンナ、ゴールドシップ、エイシンフラッシュは言うに及ばず。

 

少しゲート前を見渡しただけでも、宝塚記念ウマ娘アーネストリー、去年歴史的レコードで天皇賞・秋を制したトーセンジョーダン、フラッシュがダービーを勝利した年の皐月賞ウマ娘・ヴィクトワールピサといった、シニアを代表する強豪たちがウォームアップを行っている。

 

ヴィクトワールピサ以外のフラッシュの同期だと、ここ数戦は少し調子を落としているものの、海外GⅠ勝ちの経験がある超良血ウマ娘のルーラーシップや春の天皇賞ウマ娘・ヒルノダムールなども出走してきていた。

 

そんな歴戦の戦士たちが思い思いに、グランプリのゲートの中へ収まってゆく。

 

ファンの夢を乗せ、そしてそれぞれのウマ娘の誇りと矜持を懸けて、有マ記念がスタートした。

 

きれいなスタートだった。

 

まず飛び出していったのは、出足に定評あるアーネストリーだ。

 

対照的に、三冠ウマ娘オルフェーヴルは少し脚を抑えて後ろに控えた。

春冬グランプリ連覇を目指すゴールドシップも、後ろからのレースを選択する。

 

俺達がキーウマ娘と見定めているジェンティルドンナはスローペースを見越したのか、やはり前の方でレースを進めるようだ。

アーネストリーを追いかける2番手ヴィクトワールピサの後をつけるように、ジェンティルドンナが追走する。

 

そんな先行勢を見るように、フラッシュは中団よりやや前方の位置にポジショニングした。

 

一回目のホームストレッチ前。

 

勢いよく飛び出していったアーネストリーが、少しペースを落ち着かせたようだ。

 

2500Mもある長丁場のレース。

うまく単騎の逃げに持ち込んだアーネストリーは、このままスローペースで逃げ続けたいはずだ。

 

ヴィクトワールピサは少し外側に持ち出して馬場状態の悪い最内を避け、二番手につけた。

 

それから少し後ろに、トリプルティアラのジェンティルドンナが位置している。

 

そのジェンティルドンナを見るようにトーセンジョーダンがいて、彼女の少し外側にフラッシュがいた。

 

フラッシュはラストランということを気負っている様子も掛かるようなこともなく、いつものように冷静にレースを進めている。

 

オルフェーヴルを始めとしたルーラーシップ、ローズキングダム、ゴールドシップの後方勢は勝負どころはまだまだ先と見て、前を行くウマ娘たちを静観していた。

 

一人逃げているアーネストリーの思惑もあるのか、ゆったりとしたペースでレースは流れている。

 

そんな中一番人気の三冠ウマ娘・オルフェーヴルは、その位置取りを最後方まで下げていた。

 

レースもそろそろ中盤に差し掛かろうとしている。

 

何人かのウマ娘が、徐々に順位を上げていく。

それに呼応するように、一番人気のオルフェーヴルも後方4番手ほどに位置を回復した。

 

そんな中、フラッシュはじっと脚をためて前方5番手の位置から大きく動いていない。

後ろが動いた気配を少し気にしたようだが、目の前を走るジェンティルドンナにすぐ視線を戻す。

 

残り800Mを切った。

ここで、脚を使ってオルフェーヴルが少しずつ順位を上げてゆく。

 

金色の暴君の進軍に、スタンドが大きくざわめき始めた。

一番人気の仕掛けに、他のウマ娘たちも遅れを取るまいとペースを上げる。

 

大きな順位変動こそないものの、レースの流れが大きく変わり始めた。

 

400Mのハロン棒をアーネストリーが先頭で通過し、そのまま最後の直線に突入する。

 

ホームストレッチを見守る18万人以上の観衆が、最後の戦いに赴く16人の戦乙女を、大歓声で迎え入れた。

 

中山の直線は、短い。

先頭のアーネストリーめがけて、各ウマ娘が一斉にスパートを掛け始めた。

 

まず、外からヴィクトワールピサが先頭に並びかけにゆく。

さらに被せるように、ジェンティルドンナが猛然と前に競りかける。

 

そんなふたりの仕掛けを見て、作戦通りフラッシュもラストスパートを掛けた。

 

ここまでレースを引っ張ってきた宝塚記念ウマ娘もさすがにそのプレッシャーには耐えきれなかったのか、アーネストリーは少しずつ順位を下げてゆく。

 

代わりに内からはスルスルと、まるでワープしてきたかのようにゴールドシップがいつの間にか先頭争いに加わってきた。

 

中山名物の坂の手前、この4人が入れ代わり立ち代わり先頭を奪い合う激しい攻防戦になる。

 

しかしまるでその争いを嘲笑うかのように、大外から金色の暴風が吹き荒れた。

 

三冠ウマ娘・オルフェーヴルがひとり次元の違う末脚で一気に4人を切り捨てると、その勢いのまま先頭を奪取する。

 

だが、レースはまだ終わっていない。

 

横並びになった4人は、暴君への最後の挑戦権をかけて激しく叩き合う。

 

ジェンティルドンナが全盛期の力で、ひとつ歳下の、トリプルクラウンを制したウマ娘に牙を剥く。

クラシック時にこのレースを制したヴィクトワールピサが、オルフェーヴルに追いすがる。

ゴールドシップが、無尽蔵のスタミナにモノを言わせて金色の暴君を捕らえにかかる。

 

エイシンフラッシュもダービーウマ娘の意地を見せて、最強のウマ娘を追いかける。

 

そして激しい鍔迫り合いを制して抜け出したのは、なんとフラッシュであった。

 

ジェンティルドンナやゴールドシップと言った、当代を代表する最強クラスのウマ娘を、ロートルのフラッシュが力でねじ伏せたのだ。

 

いや、純粋なパワーやスピートといった面では【若い】ウマ娘たちに、今のフラッシュは到底敵うまい。

 

エイシンフラッシュにあったのは、ただただ負けまいとする精神力だけだったのかもしれない。

 

ダービーウマ娘が魅せた勝負根性に、スタンドからは大歓声が湧く。

 

「フラッシュ……」

 

フラッシュの実力を、勝利を信じていないわけでは決してない。

それでも、俺は目の前の光景がにわかには信じられなかった。

 

長いスランプがあった。

大きなケガも、経験した。

走力も全盛期の力を失って久しい。

 

フラッシュもきっと、分かっている。

自分が戦うウマ娘として、全盛期を過ぎてしまっていることを。

伸び盛りの年下の娘には、もう力では勝てないということを。

 

そのフラッシュが、グランプリでこのメンツを相手に優勝争いを繰り広げている。

 

大したウマ娘だ。

 

俺があの時一目惚れしたウマ娘は、やっぱりすごいウマ娘だったのだ。

 

3人の強敵を競り潰したフラッシュは残された最後の力を振り絞って、若き王者を追い詰める。

 

だが、三冠ウマ娘は強かった。

 

フラッシュの猛追を振り切り、オルフェーヴルはグランプリのゴールを真っ先に駆け抜けた。

 

彼女は世代の壁を乗り越え、グランプリを勝利したのだ。

 

その瞬間、オルフェーヴルは冬の中山の空に天高く拳を突き上げる。

 

今年の最強ウマ娘は誰であったのか。

そして、これからは誰の時代であるのか。

 

彼女のパフォーマンスは、そのことを世界に知らしめる号砲のようであった。

 

それを見た中山に(つど)った大観衆は、若き王が支配する新時代を歓迎するかのように、万雷の拍手でオルフェーヴルの勝利を祝福している。

 

半バ身ほど遅れて2着でゴールしたフラッシュは、いつものようにギャロップからキャンター、ウォークへと走りを切り替え、そしてゆっくりと立ち止まった。

 

エイシンフラッシュは、走りきった。

 

有マ記念というラストランを。

 

トゥインクルシリーズという、レース人生を。

 

立ち止まり、振り返って中山のターフを見つめる彼女は、何を思ったのか。

 

グランプリを戦い終えた優駿たちも、ラストランを走り終えたフラッシュを見て思うところがあったのだろうか。

 

そんなフラッシュに声をかけるようなことはせず、ひとり、またひとりと地下バ道へと戻ってゆく。

 

大レースのあとの喧騒と余韻が残る中、フラッシュは最後の一人になるまで陽が沈みゆく冬枯れのホームストレッチを見つめていた。

 

*

 

「お疲れ様、フラッシュ。本当にいいレースだった」

 

もう誰もいなくなった地下バ道に引き上げてきたフラッシュを、俺は出迎えた。

 

こうしてレースで戦ったフラッシュを労うのも、今日が最後だ。

 

「ありがとうございます。今日のオルフェーヴルさんは、本当に強かった。全盛期の私でも、太刀打ちできたかわかりませんね」

 

それが今日のレースを通じて彼女が肌身で感じた、三冠ウマ娘の実力なのだろう。

一流は一流を知る。

近いレベルの者同士でなければ、その実力を図ることすらできないものだ。

 

「オルフェーヴルが強かったのは確かだけど、フラッシュのレースも素晴らしいものだった。結果が伴わなかったのは残念だったけど、ラストランにふさわしい内容だったと思う」

「そうですね。今日の彼女の二着に食い込めたのなら、私が今まで培ってきたレース観もそれほどひどいものではなかったのでしょう」

 

そう言って、フラッシュは笑った。

負けはしたものの、彼女は今の自分のベストを出し尽くすことができたのだろう。

担当がラストランで悔いの残らない走りができたことは、トレーナーとして本当に嬉しく思う。

 

「それにしても……」

 

そこでフラッシュは一旦言葉を切った。

今までの道のりを、振り返っているのだろうか。

フラッシュは目を閉じ、しばし沈黙する。

 

「……約4年ですか。思い返せば、長いようで短く感じた現役生活でしたね」

「俺も、君を担当したこの4年は、本当にあっという間だった気がするよ」

「嬉しいことも悲しいことも、楽しかったことも辛かったことも、山のようにありました」

「そうだね」

 

本当に、いろいろなことがあった。

初対面では俺が余計な心配をして彼女の時間を奪ったことで、露骨に迷惑がられた。

それから紆余曲折はあったものの、フラッシュの両親に紹介されて、正式に彼女の専属トレーナーになることができた。

 

初勝利があり、重賞勝利があり、悔しい敗戦もあった。

突発的な病や、陰湿な人間関係に苦しめられたこともあった。

 

ダービーでは初めてのG1勝利の喜びを、ふたりで分かち合った。

 

栄光のあとに長い挫折の季節があり、絶望的な故障も経験した。

 

だが、フラッシュの努力と彼女を愛するすべての人々が支えがあって、フラッシュはその試練を乗り越えることができた。

 

そして天皇賞の奇跡があり、彼女は東京レース場に、日本のレース史にその名を刻んだ。

 

「そんな競走生活も、今日の有マ記念でおしまいです。私はもうレースを戦う現役のウマ娘ではなく、一人の普通の女の子なんですね……」

 

そうだ。

フラッシュは今日、現役生活最後のレースを走り終え、一人の普通の女の子に戻った。

 

俺もいよいよ、エイシンフラッシュのトレーナーとしてではなく、一人の男として好きな女性に向き合う時が来たようだ。

 

「フラッシュ」

「はい」

 

俺は、自分が口下手であることを自覚している。

それに、不器用な男だ。

だから――

 

「俺は、君のことが好きだ。これからは君のトレーナーとしてじゃなく、一人の男として俺と付き合ってくれないか」

 

だから伝えたいことを、ただストレートに伝えることにした。

 

「トレーナーさん」

「うん」

「ドイツでは、このような告白から恋人関係が始まるというケースはあまりないんですよ」

「らしいね」

「でも、私は待っていました。トレーナーさんからの愛の告白を」

 

そう言ってフラッシュは、優しく微笑んでくれる。

 

「トレーナーさんもよくご存じのように、私は融通の効かない面倒な女かもしれません。それでも良ければ、どうぞよろしくお願いします」

「フラッシュ……!」

 

最愛の女性から最高の返事をもらった俺は、その情熱のままにフラッシュを抱きしめた。

ここがレース場の地下バ道だとか、そんなことは知ったことではなかった。

誰に見られても、はばかることはない。

 

俺の腕の中にいるのは、俺が愛している女性なのだ。

 

「トレーナーさん」

「うん?」

「ドイツでは、キスを持ってお互いがLiebhaber(恋人)だと自認することが多いんですよ」

 

フラッシュはそう言って、ゆっくりとその蒼い瞳を閉じた。

学生時代からさんざん朴念仁だのクソボケだのと言われてきた俺であるが、さすがにここまで言われてフラッシュの求めているものがわからないほどバ鹿ではない。

 

俺はフラッシュの形の良い顎に指を添えると、そっと彼女のくちびるに口づけする。

 

レース後の熱が残っていた彼女のくちびるは、わずかに震えていた。

 

「ふふっ」

「あっ、俺なんか変なことした?」

 

……ひょっとして、フラッシュは俺とのキスがお気に召さなかったのだろうか。

 

「いえ」

 

フラッシュは頬を赤らめ、少し潤んだ大きな瞳を俺の方に向けた。

 

「小さい頃から、ファーストキスはレース場でするんじゃないかな、となんとなく予感していたものですから。不思議なものですね」

「そうか」

 

そして俺たちは、どちらからでもなくもう一度くちびるを重ね合う。

 

俺たちはトレーナーと担当ウマ娘という関係を卒業して、feste Beziehung(恋人関係)になったのだ。

 

*

 

電車を降りると、冬の暗がりの中を雪が舞っていた。

どうりて、冷えるはずだ。

 

「ずいぶん寒いな、と思っていましたが、雪が降っていたんですね」

「みたいだね。東京でホワイトクリスマスは珍しいな」

 

お互いの手の暖かさを感じ合いながら、俺達は粉雪舞い散る夜空を見上げた。

 

「ドイツも積雪状況は地域によってかなり違うんですが、私の住んでいる街はあまり雪は降りませんでしたね」

「そうなのか。ドイツの冬って結構厳しいイメージがあったから、それは意外だ」

「雪が降るのは、ミュンヘンなどのアルプスに近い南の方ですね。ちなみに東京と同じで、いきなりたくさんの雪が首都圏に降ると交通網が混乱したりしますよ」

「そういうことはどこの国も変わらないんだな」

 

そんなたわいない話をしながら、俺たちは学園へ向かって歩き出した。

 

「トレーナーさん」

「どうしたの?」

「今日の有マ記念を持って、私は日本ですべきことをすべてやり終えました。……そうであるなら、次のステップに進まなければいけません」

「……そうだろうね」

 

フラッシュの人生の、次のステップ。

もちろん俺も、それは承知していた。

 

「年が明けて落ち着いたら、学園の方には退学届を、URAの方には引退届を提出してドイツに戻ろうと考えています。そして、両親のもとでお菓子職人としての本格的な修行を始めたいのです」

「……そうか」

 

フラッシュがいずれドイツに帰ってしまうことは、彼女を担当した時点で分かっていたことだ。

だがこうして恋人同士になってみると、日本とドイツとの距離があまりに遠いことを、改めて思い知らされる。

 

「ところでトレーナーさん」

「ん?」

「実は、私はとても寂しがり屋なんです。日本へ留学するときも、家族や友人と離れるのが嫌で最後の最後まで悩んだんですよ」

 

それは、初めて聞く話だった。

フラッシュがホームシックになっているところなんて少なくとも俺は見たことがなかったし、学園でも友人に囲まれて楽しくやっていそうだったので、そんな彼女の性格を想像したこともなかった。

 

「そうだったのか。何だが意外だな……」

「そんなところを周りの人に見せたくなかった、ということもありましたしね。でも、愛する人と数千キロも離れた場所で生活する、なんてことは私にはとても耐えられそうにありません」

 

フラッシュがそう言ってくれるのは、本当に嬉しかった。

そしてそれは俺も……。

 

「それは、俺も同じ思いだよ」

 

でも、現実的にそれを解決することは難しそうだった。

俺は日本でトレーナーとしての仕事があるし、フラッシュにはドイツで菓子職人、それもお父様と同じように国に認められるマイスターになりたいという夢がある。

 

これが国内での長距離恋愛なら、普段はビデオ通話である程度コミュニケーションも図れるかもしれないし、連休などに予定を合わせてどちらかの土地でデートする、なんて方法もあるだろう。

 

しかし時差が7時間もある日本とドイツでは、ビデオ通話で話すことすらかなり厳しいかもしれない。

 

「フラッシュがドイツに戻るまでに、少し時間はある。これからのことについては、ふたりでよく話し合おう。なにかいい方法が浮かぶかもしれない」

「……そうだと、いいのですが……」

 

不安げに呟くフラッシュの手に、力が入ったのがわかった。

俺はその不安を少しでもやわらげてあげたくて、そっと優しくその手を握り返す。

 

「あ、あとそれから」

「うん?」

「少し前まで自分でも知らなかったのですが、私はどうやら結構嫉妬しやすい性格みたいなんです。ですので……」

 

それまで少し不安げだったフラッシュの表情が、突如真顔になる。

……なにはともあれ、不安がやらわいだのなら何よりだ。

 

「浮気は、絶対に許しません。もし浮気したら……」

「したら……?」

 

俺はつばを飲み込み、フラッシュの次の言葉を待つ。

 

「ま、それもその時考えましょう。でも、笑って済ませるということだけはありえない、ということだけは覚えておいてくださいね」

 

ほがらかに笑っている風のフラッシュだったが、目がまったく笑っていなかった。

 

「は、はは……フラッシュみたいな美しい恋人がいて、浮気なんかするわけないじゃないか……」

「もちろん、私はトレーナーさんを心から信頼しています。でも、男性ってどうしても信用しきれない部分を持っていますからね。たとえば去年の今頃……」

 

そういってフラッシュはジト目でこちらを睨みつけてくる。

 

うっ……。

あのときは優しくとぼけてくれたが、恋人となったからにはああいった【男の部分】に不信感を抱くのは当然と言えば当然か。

 

「いや、去年のあれ(・・)はだな、俺も精神的につらい時期だったし……その、フラッシュだからちょっと甘えたくなったっていうか、暴走したというか……」

「ふむ。そうおっしゃるなら、そこは信じておいてあげます。……では、私だけを愛し続けるという誓いのキスをお願いします」

 

そう言うとフラッシュは、その美しい容貌をわずかに傾けた。

 

フラッシュは清楚な見た目に反して、意外と情熱的な女の子なのかもしれない。

 

ひょっとしたら俺はフラッシュの尻に敷かれてしまうのかもな、なんて心のなかで苦笑しながら、彼女の瑞々しいくちびるに自分のそれを重ねる。

 

それからは無言で少し歩き、学園が見えてきたところで名残惜しかったが俺たちは繋いでいた手をそっとほどいた。

 

もう誰に遠慮することもない関係だとはいえ、わざわざ学園内で俺達の間柄をアピールする必要もない。

 

ラストランを走り終えたといっても、引退届と退学届を提出するまでは厳密にはフラッシュは現役のウマ娘であり、トレセン学園の生徒なのだから。

 

二人の関係をオープンにするのは、やっぱりフラッシュが各書類を然るべきところに提出してからのほうがいいだろうな、とそんなことを考えながら俺達はトレセン学園の正門をくぐった。

 

*

 

1月5日。

 

空は雲がほとんどないような晴天だったが、吹きつけてくる風はひたすら冷たく、厚手のコートを着ていても冷気が貫通してくるような寒さだ。

 

そんな寒さの中、今日はここでレースの開催がないにもかかわらず、東京レース場には10万にも届こうかという人たちが一人のウマ娘のために集まっていた。

 

「今日は私の引退式のために、こんなにたくさんの方々にお集まりいただいたことを本当に嬉しく思います。ありがとうございます」

 

勝負服姿のフラッシュの挨拶に、スタンドからはGⅠのゴール前にも負けない大きな拍手が沸く。

 

今日はURAがフラッシュのために開催してくれた引退式だ。

 

最初URAが引退式を提案してくれた際、フラッシュは丁重にそれをお断りした。

 

自分は引退届と退学届を出したあと、すぐにドイツに戻ってしまう。

もう日本のレース界とトレセン学園に貢献することもできないのに、引退式をしてもらうのは申し訳ない。

 

それがフラッシュの言い分だったが、URA側の『エイシンフラッシュさん、あなたは非常に多くのファンに愛されたウマ娘です。あなたを応援してくれたファンたちへの挨拶を日本レース界への最後の貢献だと思って、どうか引退式をしてもらえませんか?』という殺し文句には反論することもできず、『そういうことでしたらよろしくお願いします』という流れになったわけだ。

 

「ここ東京レース場はダービーと天皇賞という日本を代表するGⅠを勝利することができた、私にとっても非常に想い出深い場所です。と言いましても、皆様方の中には私がダービーを勝った時に『何か知らんウマ娘キタ!』と驚かれた方もたくさんいたとは思いますが」

 

URAが作った某CMを想起させるそんなジョークを交えて、フラッシュは会場を笑わせた。

ちなみにドイツ出身ということもあるのかそのCMに出演をお願いされ、フラッシュ本人が声楽家に混じってあの第九の替え歌を歌っていたりする。

このことにもちょっとしたエピソードがあるのだが、それはまた機会があれば語ることにしよう。

 

「正直、苦しい時期もありました。一部のファンの方々からは、厳しい言葉を頂戴したこともありました。しかしそれもきっと、私への愛の鞭だったのだと思います。そんな試練の最中でも、ファンの皆様は私を見捨てることなく応援し、支えてくださった。ファンの皆様の声援がなくては、今日(こんにち)の私はいなかったことでしょう。4年もの間私を見守り、応援してくださり、本当にありがとうございました」

 

フラッシュが深くお辞儀をすると、場内からは割れんばかりの拍手が再度起き、ねぎらいの言葉が飛び交った。

 

「お疲れ様、フラッシュ!」

「ダービーで魅せてくれたあなたの輝き、一生忘れないわ!」

 

そんな中でもひときわ大きな声を上げている男性がいた。

彼は腕いっぱいに横断幕を掲げ、涙声を張り上げている。

横断幕には、こう書かれていた。

 

【語り継ごう 君の強さを 美しさを 君の放った閃光を】

 

「ごめん、フラッシュ、あのときは本当にごめん。君は日本一のウマ娘だ!」

 

あいつは確か……連敗中のフラッシュに、心無い言葉を浴びせかけてきた男だ。

 

あの時は俺も頭に血が上って、掴みかかろうとしたところをフラッシュに止められたものだったが、今なら少し彼の心情が理解できる。

 

彼もきっとエイシンフラッシュというウマ娘に心から期待し、彼女を愛していた。

 

それゆえにあの心の叫びを止められなかったのだろう。

 

今思い出しても彼の言動には複雑な気持ちを覚えるが、彼の涙と謝罪、それに潤んだ瞳で観衆に手を振るフラッシュを見ていると、怒りのような感情は少しずつ消えていった。

 

ファンたちへの別れの挨拶を終えたフラッシュは、設営された壇上から彼女が日本レース史に大きな二つの蹄跡を残した、東京レース場のターフに脚を降ろす。

 

そしてゆっくりと、笑顔でスタンドに手を振りながら走り出した。

その笑顔からは、長年応援してくれたファンへの感謝と惜別の気持ちが、溢れて出ている。

 

これがエイシンフラッシュの、本当のラストランだ。

 

それを見たファンたちから、『フラッシュ!フラッシュ!』と大コールが巻き起こった。

 

去り行く英雄との別れを惜しむかのようにそのコールは東京レース場全体に響き渡り、しばらく止む気配を見せなかった。

 

*

 

『響けファンファーレ 届けゴールまで 輝く未来を君と見たいから』

 

ライブ会場に、フラッシュの澄んだ歌声が響き渡る。

 

彼女がファイナルライブに選んだ曲は【Make debut!】だった。

 

それは今から菓子職人として新たなスタートを切る自分へのエールであったのかもしれないし、これからも走り続けるウマ娘たちへの応援歌であったかもしれない。

 

『I believe 夢の先まで』

 

歌い終えたフラッシュに、観客席からは大きな、大きな拍手が送られた。

 

こうして、エイシンフラッシュというウマ娘の一つの夢は終わった。

彼女を支え続けた、俺の夢も。

 

そして、次の夢の先が始まる。

 

*

 

空港という場所は、いつ来ても活気に満ち溢れている。

 

新たな旅路に、心躍らせている人。

まだ見ぬ新天地への期待と不安に、胸を膨らませている人。

長い旅路から無事戻ってきて、安堵している人。

 

そんな人々が、たくさん行き交っていた。

 

「本当によろしかったのですか?」

 

隣りに座って一緒にフライトの時間を待っているフラッシュが、少し困惑したような表情で聞いてくる。

 

「ああ。俺の仕事は、夢を追うウマ娘をサポートすること。それがどこの国であっても変わらないよ」

 

引退式のあと、俺とフラッシュはふたりの将来と付き合い方について、何日にも渡って話し合った。

 

時には衝突し、その日はお互いに口を利かない、なんてこともあった。

 

だが、その甲斐もあって俺たちは一つの結論を得ることができた。

 

俺がフラッシュとともに渡独し、彼女が一人前の菓子職人になるのをサポートする。

 

と言っても俺はお菓子については何もわからないので、とりあえずフラッシュについていって、彼女の成長を見守るというだけの話である。

 

そうすると俺は少なくともトレセン学園を辞めざるを得なくなるわけだが、幸いなことに以前臨時トレーナーとして赴任したデュッセルドルフウマ娘総合レース学校が、4月から俺を正規トレーナーとして迎え入れてくれることになった。

 

もちろんこれには、秋川理事長の口添えが大きかった。

言ってしまえば今回のことは俺の勝手な理由で退職するのだから、そうかお疲れさん、で叩き出されても文句は言えない立場だったのだが……。

小柄な秋川理事長の大きな器のおかげでドイツでの就職先や就労ビザの取得に苦労する、ということだけはなくなったわけだ。

 

「結局は私のわがままで、あなたにご迷惑をかけることになってしまいましたね……」

「俺としては、そんなふうに思ってほしくないな。フラッシュについていくって決めたのは、あくまで俺自身なんだから」

 

フラッシュは優しいからそう感じてしまうのは仕方ないかもしれないけど、恋人と一緒にいるために渡独すると決断したのは俺なのだから、迷惑だなんて思っているはずがない。

 

「そうですよね……ごめんなさい。でも少し滞在していたことがあるとはいえ、慣れないドイツでの生活はやはり大変だと思います。私もあなたが早く馴染めるよう精一杯サポートしますので、困ったことがあればなんでも相談してくださいね」

「そうだね。特にドイツ語の勉強については君の力がどうして必要になってくるから、教師役をお願いしたい」

 

レース学校への就職は決まっているのだが、その条件が『最低限の日常会話ができる程度のドイツ語を身につけておくこと』だった。

 

平均的な日本人が日常会話に困らない程度のドイツ語を身につけるのに、だいたい700時間から750時間の勉強が必要と言われている。

 

今1月の最終週なので普通で考えればかなり厳しい条件ではあるのだが、幸いなことにフラッシュが修行するご両親のお店で、俺もパートタイムとして雇ってもらえることになった。

 

週5日8時間現地で働いて、その後にフラッシュからしっかりドイツ語を教われば、4月までにはその学習時間はなんとか超えることができそうだ。

 

ここまで恵まれた語学学習環境を与えられているのだから、あとは俺の努力次第ということになる。

 

「ドイツ語学習については私もできる限りのことはするつもりですし、両親も協力してくれるそうですから、きっと心配いりませんよ。それにしても」

 

フラッシュは空港の高い天井を見上げてから、俺の方へ視線を向けた。

 

「日本へやってきたときには、まさか恋人ができて……その(ひと)と一緒にドイツへ帰るだなんて想像もしていませんでした。まさに想定外の出来事です」

「それは俺も同じだよ。というか、つい一ヶ月ぐらい前まではフラッシュと一緒にドイツに行くなんて、思ってもみなかった」

「まったく、『予定は未定』とはよく言ったものです。もちろん、そのことが予定を立てることが無意味であるということにはなりませんが」

 

真面目な顔でそんなことを言うフラッシュを見ていると、彼女と出会ってすぐのときのことをふと思い出した。

 

「そういえばフラッシュは、10年先までの計画を手帳に書いているんだっけ?」

 

そういう俺に、フラッシュは苦笑を浮かべる。

 

「あの手帳はもう、不要になってしまいました」

「えっ、どうして?」

「あれはあくまで、私一人だけの計画だったわけですから。今の私には、あなたという最愛のパートナーがいますからね。スケジュールは、また最初から作り直しです。もちろんあなたと一緒に、ですよ」

「……俺と一緒に、か」

 

ふたりで紡いでゆくスケジュール。

一体、どんなものになるんだろう。

 

それはきっと手帳1冊分では収まりきらないほど長期的で、イベントいっぱいなスケジュールになるに違いない。

 

「フラッシュ、そろそろ行こうか。ドイツまでは遠いけど、フライト中にふたりでそのスケジュールを考えていれば、きっとあっという間だよ」

「そうですね」

 

俺達はどちらからでもなく手を差し出し、そしてお互いの手をしっかりと握りあった。

 

フラッシュは生まれ故郷に戻って、これから菓子職人として社会人生活のスタートを切る。

俺はフラッシュを支え、同じ時間を過ごすために、新天地へ移住する。

 

ドイツでの新しい生活は楽しみではあったけど、楽しいこと、面白いことばかりではないだろう。

 

大変なこと、困難なことは必ず起こる。

 

ときにはお互いのことがわからなくなって、ぶつかり合うことだって、きっとある。

 

でも、俺たちふたりなら乗り越えていける。

ふたりだから、乗り越えていける。

 

だって俺たちはトゥインクルシリーズを最後まで駆け抜けた、最高のパートナーなのだから。

 




読了お疲れさまでした。
【担当ウマ娘に、恋をした】の最終話をお届けさせていただきました。

10ヶ月以上の長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。

書き始めた時は10話5万文字ぐらいで終わるかなあ、なんて思っていたのですが、気がついたら文字数30万字超えというなかなかの長編になってしまっていました。

稚拙ながらも、最推しのエイシンフラッシュというウマ娘について、書きたいことは全部書けたかな、という思いがあり、また途中で投げ出すこともなく最後まで書き上げ、最終話を読者の皆様にお届けできたことに安堵しています。

それもひとえに最後まで読んでくださった方、お気に入り登録をしてくださった方、評価をつけてくださった方、感想をつけてくださった方のおかげです。

確かに私は文章が書くのが好きで、ウマ娘というゲームが好きで二次創作を書いているわけですけど、読んでいただけている!という実感がなければ完結まで書くことはできなかったことでしょう。

本当にありがとうございます。

こういったネット小説のあとがきでは執筆時に大変だったことやエピソードなどを書くのが定石なのですが、大変だったことは別になかったので(笑)、ちょっとした小話を書かせていただこうと思います。

本作ではヒロインがドイツ出身ということもあり、ドイツでの習慣や風習などは意識的に書き込んだつもりです。

残念なことに私はドイツへ行ったことがないので、ほとんどのことはネットで調べることになりました。
その中でも特にお世話になったのが、実際に日本から現地へ移住し、暮らしていらっしゃる方々のブログやHPなどです。

やはりその国に根を下ろし、実際に生活していらっしゃるひとの『生の声』というのは臨場感があり、本作で描写させていただくにあたり、とても参考になりました。

それに興味のある国のことを調べて『こう思ってたけど、実際はそんな感じなのか』『同じイベントでも、日本とドイツじゃぜんぜん取り組み方が違うなあ』と知ることは、それだけでも結構楽しい体験でした。

本作を読んでくださった方々に、少しでも旅行気分みたいなものを味わっていただけていたのなら、それはとても嬉しいことですね。

さて、長い長い本編を読んだあとに、長いあとがきまで読まされてはたまったものではないでしょうから(笑)、あとがきはこのへんで終わりにしたいと思います。

次回作なのですが、ネタは結構あるんですよね。
サイレンススズカの娘の話とか、トランセンドとトレーナーの間に子どもができてしまって…みたいな話とか。

他にはミラ子の娘が障害競走で活躍する話とか、お母さんがウマ娘でないのにウマ娘として生まれてきた娘のストーリーとかネタ……というか話の種みたいなものはたくさんあるんですけど、どれを書くか迷ってしまいますね。

書き始めたからには最後まで書きたいと思いますし、最後まで書ききるためには、俗な話になってしまいますが、ある程度読者様の支持がないと、メンタル的に難しくなってしまいますからね…。

今は一つの物語を書き終えたばかりですし、しばらくじっくり考えてまたここへ戻ってきたいと思います。

重ね重ねになりますが、長いお話を最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

また次回作で、お会いいたしましょう!

あ、あとちょっとだけ宣伝させてください。

フラッシュアデリナ「で、あたしが産まれたってわけ」

【挿絵表示】

こちらハーメルン様に掲載中の拙著【エイシンフラッシュの娘。】もよろしくお願いいたします!
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