担当ウマ娘に、恋をした。   作:宮川 宗介

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第三話

今年の夏も、酷い暑さだった。

 

高校生の頃オヤジと一緒に車に乗っていると(この時はまだオヤジとの仲は悪くなかった)、カーオーディオから【三十九度の とろけそうな日】という歌詞が軽快なリズムとともに流れてきたことがあった。

 

その時オヤジが『懐かしい曲が流れてきたな。この歌を最初聞いたとき、三十九度って一体日本のどこで野球やってるんだよ、と思わずツッコんだもんだけど、今じゃ三十九度なんて気温、珍しくもなんともないもんなあ』とつぶやいていたのを思い出す。

 

さすがに東京に住んでいて摂氏三十九度を経験することはなかったが、猛暑日超えの気温は当たり前で、俺の担当しているエイシンフラッシュも、少し食欲が落ち込んだりしたようだ。

 

なぜそうなのか、理由はよくわかっていないがウマ娘は寒さには強いが、高い気温を苦手にしている娘が多い。

 

しかもフラッシュは留学生で、今年初めて迎える高温多湿の日本の夏に体が慣れていないはずである。

 

余談だが野球などのスポーツで一流の外国人選手が鳴り物入りで来日しても、期待したほどの成績が残せないというケースは、その選手が日本の夏に適応できなかったのも大きな一因になっているという。

 

俺は少しでも日本の夏に適応してもらおう、なんなら楽しんでもらおうと、トレーニングの間に差し入れる間食をすいかや水ようかんなどの涼を感じられるものにしてみたり、『友だちとでも行っておいで』と言って花火大会や野外プールのチケットを手渡したりした。

 

本当は『俺と一緒に……』と誘いたかったが、それはなんだかずるい気がしたし、トレーナーと一緒では純粋にイベントを楽しむことは難しいだろうと思ってやめておいた。

 

クラシック級になれば夏は合宿に入ってしまうので、トレセン学園の生徒が夏休みらしい夏休みを楽しめるのは、実質ジュニア級の間だけだ。

 

そんな貴重な時間を、トレーナーの自分と気を使いながらわざわざ過ごす必要はないだろう。

 

それに……あまり考えたくもないが、フラッシュは時が来たらいずれドイツに帰ってしまう。

それまでに少しでも、日本での楽しい思い出を作って欲しいと思う。

 

その思いが通じたのか、彼女は日本の夏をそれなりにエンジョイしてくれたようだ。

特に花火大会は同室のスマートファルコンと行って楽しんでくれたらしく、提灯や電飾できらめく屋台をバックに浴衣姿で一緒に撮った写真を、後日スマホで見せてくれた。

 

俺は平静を装って『楽しんでくれたのなら、何よりだよ』とか言っていたのだが、浴衣姿のフラッシュにむちゃくちゃテンションがあがっていたし、本当はプールに遊びに行った時の写真も見たかったが、それを要求するのはさすがに自重した。

 

そんな夏が過ぎ、月が綺麗な時期を過ぎると秋の足音が聞こえてくる。

もうすぐそこに、エイシンフラッシュがメイクデビューを戦う日が迫っていた。

 

*

 

ここ一週間で、練習場に吹きつける風もすっかり秋のものに衣替えしたようだ。

 

薄手の長袖だと、少しばかり肌寒さを感じる。

じきにジャージも、上着が必要になることだろう。

 

俺が小学校低学年のころは、季節の移り変わりももう少し緩やかだった気がするが、ここ数年は本当に春と秋が短くなってしまった。

 

「よーし、フラッシュ!もう少しだ、ガンバレ!!」

 

そんな秋の匂いが交じる風を感じながら、懸命に坂路を駆けるフラッシュに俺は檄を飛ばした。

彼女はそれに応えるよう、ラストスパートを掛けて脚をトップスピードに乗せる。

 

うん、いい感じに脚を使えているようだ。

この分なら……。

 

「ゴールっ!」

 

眼の前を駆け抜けていったフラッシュに声を飛ばし、手元のストップウオッチを押した。

 

「うーむ……」

「はぁっ……ふうぅっ……トレーナーさん。タイムは、どうでしたか?」

 

唸り声を上げている俺に、息を整えながら期待半分、不安半分といった感じでフラッシュが聞いてくる。

 

「なんとタイムは65・2だ!ジュニアのこの時期としては、相当なものだぞ」

 

手放しで喜ぶ俺に、フラッシュも安堵の表情を浮かべてくれた。

このタイムは坂路の千メートルを測ったものだ。

クラシック級やシニア級のオープンクラスのタイムが平均65秒と言われているから、まだ体の出来上がっていないジュニア級のウマ娘が叩き出したタイムとしては、世辞抜きで相当に優秀である。

 

「ありがとうございます。日々、トレーナーさんが的確な指導をしてくださっているおかげですね」

「いやいや、君の努力の賜物だよ。メイクデビューが楽しみになってきたな」

 

メイクデビュー、という言葉が出ると、途端にフラッシュの端正な顔が引き締まった。

 

「いよいよ、デビュー戦を戦うのですね」

「緊張する?」

「いえ。私は、私のなすべきことをするだけです」

 

これが強がりでもなんでもないところが、エイシンフラッシュのエイシンフラッシュたるところなのである。

 

「うん、その意気だ。じゃあもう一本坂路走り込んで、トレーニングルームに行って筋トレするか」

 

フラッシュははい、と控えめに返事すると、坂路のスタート地点へと再び駆けていった。

 

*

 

京都レース場は、前期開催の土曜日であるにも関わらずなんとも言えない熱気に満ちていた。

 

10月の後期にはトリプルティアラの最終戦の秋華賞、三冠レースの最終戦の菊花賞が控えているということがあるのだろう。

 

そう、この京都レース場は三冠ウマ娘が誕生するレース場でもあるのだ。

 

「そんな偉大なる先達に少しでも近づけるよう、精進を重ねなければなりませんね」

 

メイクデビューの前日、フラッシュはトレーナーの俺と一緒に、京都レース場の施設の一つ【メモリアルロード】を歩いていた。

このメモリアルロードには、京都レース場で三冠を成し遂げたウマ娘の銅像が建っている。

 

長い日本のレース史の中で、その偉業を成し遂げたのは三冠・トリプルティアラ合わせてもたった十四人しかいない。

 

「明日は、その第一歩とも言えるね。体調の方はどうだい?」

「絶好調、と言って差し障りないと思います。これだけの状態に持ってきてくださったトレーナーさんには感謝しています」

「そう言ってくれるのは嬉しいが、フラッシュのコンディションに関して俺のしていることはほとんどないよ。体調がいいのは君が普段からちゃんとセルフコントロールして、完璧な体調管理をしてくれているからだよ」

 

そういう俺にフラッシュは小さく照れ笑いを浮かべるが、これは本当のことでセルフコントロールがままならないウマ娘を担当すると、その娘のトレーナーの気苦労は大変なものになる。

 

夜更かしが日常になっているような娘は体調を戻すために想定外の休養を取らせざるを得なくなるし、食べるのが好きで食事制限が苦手な娘は、予定以上のトレーニングを課して体重を絞らなくてはいけない。

 

これがウマ娘の成長や脚の負担に良いことではないことは、説明するまでもないだろう。

 

「逆に言えば、これだけ良い状態で負けるわけにはいきませんね。気を引き締めないと」

「相手関係を見ても、よほど不利な展開にならない限り負けないと思うけどね。その証拠に、専門誌は君に厚い印を打っている。もちろん、油断は禁物だけど」

 

俺の励ましと忠告を聞いて、フラッシュは神妙な面持ちでうなずいてくれたのだった。

 

*

 

京都レース場前期第二週、第二レース・メイクデビュー。

俺の担当するウマ娘、エイシンフラッシュは体操着姿でデビュー戦のパドックの舞台に立っていた。

 

「追い切りのタイムがよかったのもあるけど、体のキレもすげぇ仕上がりだな。一番人気も納得だわ」

「エイシンフラッシュっていうのか。注目だな」

「肌のハリ感も髪の艶感も、体調の良さを示しているわね……というか、普通に羨ましい!」

 

そんな声が、あちこちから聞こえてくる。

ファンの目から見ても、彼女の仕上がりは完璧らしかった。

 

本契約前にフラッシュのお父様から聞いた話によると、彼女はドイツにいた幼い頃から【グッドルッキングウマ娘】として注目を集める存在だったそうだ。

 

それは単に彼女のビジュアルが美しいから、愛らしいからというだけではない。

 

フラッシュは内臓機能のバロメータと言われる肌ツヤが抜群に美しいうえに、体幹のバランスが非常によく、典型的な【走るウマ娘】の体型をしているからである。

 

『もしお前が先に契約していなかったら、三顧の礼で自分があの娘をスカウトしようと思っていたよ。彼女なら重賞に手が届くかはともかく、一つ二つは必ず勝ってくれるだろうからな』

 

同期や先輩トレーナーから、何度そんなことを言われたかわからない。

 

二勝するようなウマ娘は、トレセン学園に在籍しているウマ娘たちの中でも上位10%の存在だ。

 

エイシンフラッシュというウマ娘は、本来であれば自分のようなルーキーが担当できるようなウマ娘ではないのだ。

それだけの素質を持ったウマ娘の、デビュー戦である。

 

今更ながら猛烈なプレッシャーが襲いかかってきて、それは俺の胃を万力のような力で締め付けてきた。

 

「いつつつつ……」

 

レースを戦うフラッシュが笑みを浮かべてファンに挨拶しているのに、彼女のトレーナーである自分がお腹を抑えてその場にうずくまるわけにもいくまい。

 

俺は平然を装って、舞台上で堂々とお辞儀しているフラッシュを見つめていた。

 

*

 

四番のゼッケンを付けた娘が、どうやらゲート入りを拒んでいるようだった。

ウマ娘がゲート入りを拒む理由は、我々のような普通の人間にはわからない。

 

彼女たちいわく【ゲートインすることに、形容しがたい恐怖に襲われることがある】【自分でも理由はわからないが、どうしてもゲートに入りたくない時がある】とのことらしい。

 

こういう時は係員の人が文字通り背中を押して、ゲートに入ることを促す。

それでもダメな場合は、ゲートに対する恐怖感を乗り越える気合をつけるために、ウマ娘自身に尻尾を引っ張らせたりする。

 

今回後者までは必要なかったようで、係員の人が背中を押すと、その娘はゆっくりとゲートに収まった。

 

これで、全員ゲートイン完了。

 

初秋の淀のレース場に、ゲートが開く音がこだました。

 

スタートしてしばらくは逃げるウマ娘二人がハナを競い合っていたが、スタートから400Mを過ぎたあたりで片方がペースを落とし、二番手に控えて流れが落ち着いた。

 

フラッシュの脚質は後ろから行く【差し】なので、もう少し早い流れになってくれたほうがありがたかったのだが、展開ばかりは自分の思う通りにはならないものだ。

 

今回は二人逃げる娘がいたので、フラッシュにとって明らかに不利なスローペースになりくい流れになったのは幸いだった。

 

道中、大きな順位の変更もなく淡々としたペースでレースは進む。

 

1000M通過時のタイムは一分一秒。

どうやら逃げに出た娘はなかなかのレース巧者のようで(今日の二番人気にもうなずける)、序盤の競り合いがあったにも関わらずうまくペースを落として平均的な流れに持ち込んだようだ。

 

こういう展開になれば、脚質の有利不利はほとんどなくなり、最後の直線は実力勝負になる。

このメンバーならフラッシュの地力は頭一つ抜けているので、バ群さえ捌ければ負けないはずだ。

 

フラッシュは第三コーナー手前にある京都レース場名物の坂を勢いよく駆け上がり、そしてその体幹バランスの良さを活かしてスピードを落とすことなく坂を下りきった。

 

第四コーナーを回ってきて、さあ最後の直線勝負!

 

このレースを作ってきた先頭の娘はレース巧者というだけでなく、スタミナにも相当なものがあったようで、少しずつ後続を引き離しにかかった。

 

二番手集団の娘たちは、そんな彼女との差をなかなか詰められないでいる。

そんな中、中団から鋭い脚でバ群を抜け出してくるウマ娘が一人。

 

フラッシュだった。

 

彼女の末脚に、場内は午前中のメイクデビュー戦のものとは思えないほどの大歓声が上がる。

 

その歓声に応えるかのようなすごい脚でバ群を捌き切り、単独の二番手に躍り出た。

 

残り200M!

 

先頭の娘との差はまだ三バ身ほどあったが、その娘とフラッシュの脚色の差は歴然としていて、かわすのは時間の問題かと思われた。

しかし、当然のことながらあちらさんも簡単には譲ってくれない。

 

先頭の娘もフラッシュを突き放さんと、最後の力を振り絞って脚を伸ばす。

 

だがそれも、しょせん延命処置にしか過ぎなかった。

 

フラッシュは一完歩ごとに相手を追い詰め、ゴール手前できっちりと捉え切った。

 

わずかにフラッシュが前に出て二人がゴール板を通り抜けると、観客は彼女たちを歓声と拍手で二人を迎える。

 

フラッシュはその声援に、彼女らしく小さく控えめに手を振って応えていた。

 

*

 

フラッシュと二着の娘との差はわずかにクビ差であったが、逃げる相手を追い詰め、キチンと差し切ったレースであったことを考えると、これは着差以上に強い勝ち方だったと言っていいと思う。

 

「フラッシュ、メイクデビュー優勝おめでとう!いいレースだったな」

 

俺は控室に戻ってきた担当ウマ娘の初勝利を、我がことのように喜んでいた。

 

「ありがとうございます。トレーナーさんにトゥインクル初勝利をプレゼントできて、私も嬉しく思っています」

 

あ、そうか。

俺にとっても今日の勝利は、トレーナーとして初めての勝ち星になったわけか。

 

フラッシュの担当になってからこっち、(色んな意味で)フラッシュのことしか考えていなかったからか、そんなことはすっかり自分の意識から消え去っていた。

 

「そうだな……フラッシュ。俺に初めての勝利をプレゼントしてくれて、ありがとう」

「いえいえ、そんな。今日の私の勝利はトレーナーさんの的確な指導があってからこそですから。改めてトレーナーとして初勝利、おめでとうございます」

 

笑顔で俺を祝福してくれているフラッシュを見ていると、トレーナーになるまでの苦労がそれだけで全て報われたような気がした。

 

俺はきっと、エイシンフラッシュというウマ娘を担当するためにトレーナーになったのだ。

 

そんなバカげたことを考えていると。

 

「さて、次はウイニングライブですね。メイクデビューでのライブとはいえ、今日私を応援してくださったファンの方々に精一杯の感謝をお届けしないと」

「そうだな。じゃあ俺は外に出ておくから、しっかりお色直しするといい」

「あ、そうだ。トレーナーさん」

 

控室から出ようとした俺を、フラッシュは呼び止める。

 

「どうした?」

「その……お手間を掛けてしまうのですが、よろしければ今日のウイニングライブをスマホで撮影していただくわけには行きませんか?」

「そりゃ構わないけど。一体どうして?」

 

俺の疑問に、フラッシュは少し照れたような微笑を浮かべる。

 

「今日のレースと一緒に、ウイニングライブというものも両親に見てもらいたくて……」

 

ああ、なるほど。

実はウイニングライブというのは海外にはない、日本のレース独特の文化なのである。

 

フラッシュのルームメイトであるスマートファルコンが教えてくれたところによると、なんでもウイニングライブは昔トレセン学園に通っていた一人のウマ娘が、ファンへの感謝を伝えるためにレース後歌を歌ったのがルーツなんだそうだ。

 

今はちょっとニュアンスが変わって、ウイニングライブは文字通り【勝者を称えるための舞台】になっているが、応援してくれた人たちに感謝を伝える機会という根本的な部分は変わってない。

 

そういう文化に触れているということを両親に伝えるというのは、彼女にとって大切なことなのだろう。

 

「オッケー、わかった。録画した動画をあとで君に送っておくよ」

 

俺が気軽に引き受けると、フラッシュは「お願いします」と俺に頭を下げて鏡に向かい合い、ブラシを手に取った。

 

「フラッシュ」

「どうしました?」

「その。俺もそのウイニングライブの動画、もらってもいいか?」

「えっ」

 

俺の要望に、フラッシュは少し驚いたような表情を浮かべた。

 

「それは構いませんが……一体どうして?」

 

俺のお願いに俺とまったく同じ疑問形を返してきて思わず吹き出しそうになったが、俺はなんとかそれを自重する。

 

「いや、俺が初めて担当した娘の、初めてのウイニングライブだからな。フラッシュさえ良ければ、記念に残しておきたいなと思って」

「そういうことですか。私の拙いパフォーマンスで良ければ、全然構いませんよ」

 

フラッシュはそう言って謙遜したが、彼女が【ウマドル】を自称するスマートファルコンに教わりながら、懸命に歌とダンスの練習に取り組んでいたことを俺は知っていた。

 

「そうか。じゃあ君のご両親のためにも、俺の想い出のためにも、しっかり撮影しないとな」

「トレーナーさんの、想い出……」

「ん?俺何か、変なこと言ったか?」

 

少し硬い表情でつぶやくフラッシュに、俺はちょっとギクッとしてしまった。

俺の想い出、というのはちょっと気持ち悪かったかもしれない。

 

……まぁ、これも俺の自意識過剰だと思うんだけど。

 

相手が好意を抱いている人だと、ちょっと神経質になりすぎるのは俺の修正すべきスキーマである。

 

「いえ、そうですね。ウマ娘が現役でいられる時間は限られています。その間に、二人で良い思い出をたくさん残すことができれば、それはとても素敵なことですね」

 

*

 

ライブシアターの客入りを見ると、メイクデビューのライブにしてはそれなりに観客は入っているようだった。

 

それはフラッシュがいいレースを見せたからかもしれないし、単にビジュアルの良い彼女のパフォーマンスが見たいといった理由からかもしれない。

 

【ひびけファンファーレ 届けゴールまで】

 

Make debut!をセンターで歌うフラッシュをスマホで録画しながら、俺は先ほどの彼女の言葉を思い出していた。

 

【ウマ娘が現役でいられる時間は限られています】

 

確かに、その通りだ。

芝を主戦場にしているウマ娘は、クラシックの終わり頃には能力の限界を感じて引退してしまう、という娘も少なくない。

 

フラッシュの成長型は俺が見る限り普通寄りの早めだから、さすがにクラシックが終わった頃にはすでにピークアウトしてしまっている、ということはないと思うが、それでも五年も六年も走り続けられるわけじゃない。

 

そう遠くない未来に、フラッシュとの別れは必ずやってくる。

 

俺は、その時までに自分の気持ちに決着がつけられているだろうか?

 

……いや、今日だけはそんなことを考えるのをやめよう。

今日は記念すべき、フラッシュと俺が初勝利を挙げた日なのだから。

 

フラッシュが今日勝ってくれたことによって、彼女を勝たせられずに失ってしまうということだけは避けられたことを、素直に喜ぼう。

 

俺は手にしたスマホで、レースの疲れを一切見せずに笑顔で歌い踊るフラッシュだけを、追い続けた。

 

*

 

『乾杯』

 

俺は自分が持っていたグラスを、フラッシュの持つそれに小さく当てた。

 

カチン、と二人の持つグラスが軽快な音を奏でる。

 

俺たちは今日のお互いの勝利を祝って、京都のホテルの中にあるちょっとお高い鉄板焼き屋で祝勝会を行うことにしたのだ。

 

「素敵な雰囲気のお店ですね」

 

フラッシュはにんじんジュースを口づけながら、目の前にある大きな鉄板や、京都の夜景を一望できる窓に視線を向けてそう言ってくれた。

 

「気に入ってくれたのなら、何よりだ。今日はフラッシュのメイクデビュー勝利のお祝いと、一応俺の初白星を祝してのパーティみたいなものだから。好きなものを、好きなだけ食べてくれ」

「ありがとうございます。いつも気を使っていただいて、申し訳ありません」

「……担当するウマ娘に喜んでもらって、モチベーションを高い状態に保つのもトレーナーの大切な役目だからな。気にしないでくれ」

 

もし本当に100%、レースを走るウマ娘としてのことだけを考えられるトレーナーなら、もう少しうまいこと言えたのかもしれない。

 

しかし、彼女への好意を隠しながら言葉を紡ごうと思えば、今の俺にはこれが精一杯だった。

 

「そうおっしゃってくださるなら、今日は食事制限を気にせずに好きなものを、お腹いっぱい食べさせていただきますね。まず……」

 

そう言いつつも、フラッシュは前菜から注文し、スープ、魚介類、肉料理……と、コース料理に出てくるような順番で、上品に適量を食していく。

 

フラッシュと食事に来るたびに、いつも思う。

 

「君は本当に食事を綺麗に食べるね。食べ残しがない、とかそういう意味じゃなくて、食事に対する敬愛を感じる食べ方というか」

 

俺がそんなことを言うと、フラッシュは少しはにかんだような微笑を浮かべた。

 

「恐縮です。うちはお菓子屋さんで、食べ物をお客様に購入していただくことによって生計を立てていますから。食材に敬意を払うのは当然のことです。それと……」

「それと?」

 

なぜかフラッシュは少し言い淀んだが、口元をナプキンで拭いてから、その後を続けてくれた。

 

「私の両親は、東ドイツの出身なんです」

 

彼女のその告白に、思わず俺は息を呑む。

 

……なるほど。

彼女が少し言葉をつまらせた理由が、それでわかった。

 

フラッシュのご両親はベルリン壁崩壊前の、あの厳しい時代の東ドイツを知っていらっしゃるのだ。

お二人の年齢を考えれば、まだそれは食べざかりの小さい頃だったことだろう。

 

「両親の幼い頃は、食べるのに精一杯……というほどではなかったようですが、それでもあまり思い出したくないぐらい、食糧事情は厳しかったそうです。そんなこともあってか、両親には食事のマナーや食材への感謝に関しては、かなり厳しく躾けられました。たまにトレーナーさんのように褒めてくださる方がいらっしゃるのは、きっと両親の教えのおかげですね」

「……そうだったのか」

 

生まれた時からネットがあった俺は言うに及ばず、うちの両親は俗に【団塊ジュニア世代】と言われる(バブルが崩壊するまでは)相当に恵まれた年代の生まれで、当然食うに困るなんて経験があるはずがない。

 

俺ももちろん『食べ物は大切にしなさい』ぐらいは言われて育ってきたが、フラッシュの両親の言葉に比べると、その言葉のなんと軽いことか。

 

「食べる量より廃棄している量が多いような、食余りの日本に住んでいたらつい忘れがちだけど、お腹いっぱいに、それも美味しいものが食べられるということは、当たり前のことじゃないんだな……」

 

俺はA5ランクの肉を箸でつまみ、それをじっと見つめながら自分のような若輩者でも、これだけのご馳走を食べられるという環境に感謝することができた。

 

「すみません。せっかくのお祝いの席なのに、ちょっと雰囲気暗くしてしまいましたね……」

 

フラッシュはそう言って箸を置くと、申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「いやいや、大切なことを思い出した気がするよ。美味しいもの、必要なものがしっかり食べられる環境に感謝して、明日からまたトレーニングに励もう。それもきっと【食べ物に感謝する】ということにつながると思うから」

 

言うまでもなく、アスリートにとって食はパフォーマンスを左右する重要なファクターだ。

俺の言い分に納得してくれたのか、彼女は「そうですね」と言ってうなずいてくれる。

 

そしてフラッシュは締めのデザートとしてだろう、スイートキャロットのシャーベットを笑顔で注文した。

 

*

 

その三週間後。

 

フラッシュはメイクデビューと同じ距離のプレオープンを圧倒的な一番人気に応えて勝利し、早くも二勝目をあげてくれた。

 

デビュー戦の勝ちっぷりやトレーニング中のタイムから相当な素質を持った娘だとは感じていたが、こうもあっさり二勝目を上げてくれるとは、思いもしなかった。

 

嬉しい誤算というやつである。

 

次走はいよいよ、重賞・京成杯(GⅢ)に参戦する予定だ。

 

もちろん、フラッシュも俺も初めての重賞への挑戦になる。

重賞ともなると、相手も強豪揃いになってくるだろう。

 

それでもここで勝ち負けすることができれば、出走ポイント的にフラッシュは確実にクラシック戦線で戦うことができる。

 

次のレースはフラッシュの競技人生を大きく左右する、重要なターニングポイントになるに違いなかった。

 




読了、お疲れさまでした。

最近、あとがきって書くかどうか迷っているんですよ。

いや、もし私がプロとかネットでも有名な文士とかなら、
普通に書けばいいかな、とは思うんです。

きっとそれを読んでみたい、というファンがたくさんいるでしょうから。

ただ、私はそうでないわけで、それなら作品の読後感を大事にしていただいて、
わざわざ私の自分語りで読み終わってすぐに現実に読者さんを引き戻す必要って
ないんじゃないかなあ、と思ったりするわけです。

たまーにですが、面白い小説を読み終わったあとにすぐあとがきを読んで
「ああ、なんだか現実に戻ってきてしまったなー」と感じることがあって、
その感覚があまり私は好きでなかったりするんですよね……。

昔は【あとがきは先に読む派】の感覚がどうにも理解できなかったのですが、
最近はこういう事態を避けるためにあとがきを先に読むのかもしれないな、と
考えられるようになりました。

あとがきを先に読んでいれば、本編を読み終わってすぐに本を閉じて、
読後の余韻に浸る、ということができるでしょうから。

とまあ、こんなことで悩めるのもアマチュアのいいところでありまして、
色々と試行錯誤しながら、一番良い自分の執筆スタイルを見つけていきたいと
考えています。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

次回作もよろしくお願い致します。
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